余話・其の二 とある冒険者の闘い
このお話は、フォーンロシェに纏わるエピソードです。
余話・其の一同様に、二十四話で詰まったために、気分転換に書いたものです。現実逃避其の二とも言えます。ごめんなさい。
そのため、作者の息抜き的な側面の強い内容となっておりますので、悪しからずご了承ください。
それでも宜しければ、お付き合いいただけると幸いです。
修一郎は、後悔することになる。己の不用意な発言を。
季節は、秋の三の月(十月)。
場所は、商業都市アーセナクトにある修一郎の自宅。
その居間でのこと。
そこには、修一郎とフォーンロシェが居た。ルキーテは、買い物に出かけていて不在。グラナは、ルキーテの荷物持ちとして同行しており、矢張り居ない。
グラナとフォーンロシェが、イレ・マバル諸島から新たなコーヒー豆を携えて戻ってきたのが、二日前。
二人の冒険者が持ち帰ってくれたコーヒー豆も、今回で三度目となる。
今では、生豆の焙煎にも慣れ、自分の好みの加減も掴めてきた。
バランダに頼んで作って貰った専用の金属製手網で豆を炒り、レベック特製のコーヒーミルで挽いた自家製コーヒーは、芳醇な香気と円やかなこくに僅かな酸味が合わさり、修一郎の鼻と舌を愉しませてくれている。
久方ぶりの休日の昼下がり、カップを手にした修一郎が何の気なしに呟いた一言。
「そう言えば、長いことチョコレート食べてないなあ……」
修一郎としては、別段意味を持った言葉ではなかった。
自宅の居間で寛ぎながら、コーヒーを口にしつつ、元の世界のことを思い出していたのだ。
元の世界でも、時間に余裕がある時は1LDKのリビングで、コーヒー片手にぼんやりと過ごすのが修一郎は好きだった。
コーヒーを飲む時は、それ単体で愉しむこともあれば、茶の子として煎餅やクッキーなどと一緒に口にすることもあった。
クッキーはこの世界にも存在するが、煎餅は見たことがない。
煎餅は何から作られていたか……。所謂、醤油味の煎餅は米から作られていたはずだ。米はこの世界にもある。醤油はバラカさんから分けて貰ったものが地下貯蔵庫にあったな……。今度作ってみようか。
茶の子と言えば、チョコレートも偶に買ったりしてたな。コーヒーを飲む時は、ビターチョコレートよりもミルクチョコレートのほうが合う気がして、ミルクチョコを良く食べていたっけ。
チョコレートと言えば…………。
そのような感じで、とりとめのないことを考えていた中で、ぽつりと漏れた言葉だ。
それに興味を示したのが、テーブルを挟んで座っていたフォーンロシェだった。
「その“チョコレート”ってどんな食べ物なの?甘いの?辛いの?酸っぱいの?」
彼女の手にあるカップにもコーヒーは注がれていたが、苦い物が苦手なフォーンロシェは、修一郎の勧めた量以上の砂糖をぶち込んで、それでも尚、幾分顔を歪めながらちびりちびりと舐めている状態であった。
苦手なら飲まなければいいものを、と思わなくもなかったが、一人で飲むよりは同じ物を飲む相手が居たほうが良いと考え直し、言葉にはしていない修一郎だった。
ちなみに、グラナとルキーテは素直に苦手な味であることを早々と表明し、修一郎に付き合う際は、グラナは一般的な茶やハーブティーで、ルキーテは果物の絞り汁を蜂蜜とお湯で割ったもので、それぞれ相手をしてくれている。
「そうですね……。色々と種類はありますが、広く親しまれていた物は、“甘くほろ苦い”味でしょうか」
その時点では、単なる世間話程度の認識しかなかった修一郎は、その会話を続けてしまう。
チョコレートはカカオという植物の種子から作られること、その製法はかなりの手間と技術を要すること、混ぜ込む物によって風味は様々に変化すること、修一郎の世界では特に女性に人気のある菓子の一つであること、等々。
チョコレートに関して思い浮かんだ知識……と言うより単に知っていることを、フォーンロシェに話していた修一郎だったが、次の台詞がまさに致命的失言となった。
「後は、特別な日に女性から男性へと愛情の証としてチョコレートを贈る、なんて習慣もありましたね。
二月の十四日だから……、ええとこちらの世界だと冬の四の月の十四日になるのでしょうかね。
バレンタイン・デーと呼んでいましたが、その日に手作りのチョコレートを渡したりもしてましたよ。
尤も、これは私の国……日本独自の習慣だったようですけどね」
苦笑しながら発せられた言葉の最後は、フォーンロシェの耳に届いていたかどうか。今となっては知る由もない。仮に届いていたとしても、意味をなしてはいないだろう。
「ふーん……。そっかそっか。チョコレートにバレンタイン・デーね。ふーん……」
そう言って、何やら考え込む黒髪の冒険者の様子がおかしいことに漸く気付いた修一郎であったが、時間は巻き戻らない。
「……ロシェ?貴女、何を考えているのです?ロシェ?」
不安を、表情と口調に滲ませて問い掛ける修一郎に、フォーンロシェは自らの思考に没入したまま、応じない。
「そっかそっか」
その言葉だけを繰り返しながら、席を立ち、自分とグラナの半ば専用部屋となった二階の客室へと消えていくフォーンロシェ。
「ロシェ!?ちょっと待ってください!ロシェ!」
修一郎の叫びも虚しく、フォーンロシェは買い物から戻ってきたグラナを強引に説き伏せ、翌日には南の港湾都市ダリンへと旅立って行った。
それから三ヵ月後。冬の三の月(一月)の十八日。
アーセナクトに戻ってきたフォーンロシェの手には、甘い香りを振り撒く黒褐色の物体が入った壷があった。
そして、一人悦に入るフォーンロシェの隣では、今まで見たことがない程疲れ果てたグラナの姿もあった。
「……グラナ。貴方たちは、いったいどこまで行っていたのです?」
半ば呆れながら訊ねる修一郎に、
「すまん……。とりあえず、今は休ませてくれ……」
とだけ言い残し、狼人族の冒険者は二階の客室へと引きあげたのだった。
グラナの、やけに小さく見える背中を見送った修一郎は、家に入るなり台所へ直行したフォーンロシェの下へと向かう。
台所では、ルキーテが夕食の下準備をしており、フォーンロシェが持ち帰った物を見て、何やら声を上げていた。
「ロシェ、これ何?なんだかいい匂いがするね」
「これはね、“チョコレート”って言うのよ。ちょっぴり苦いけど甘くて美味しいお菓子なの」
答えるフォーンロシェの言葉は見事なまでに弾んでおり、声が視覚化されるのであれば、端々に音符でも散りばめられていそうなほどであった。
ちなみに、今ではルキーテも修一郎に倣って、フォーンロシェのことを愛称で呼ぶようになっている。フォーンロシェ当人からの強い要望もあったようだ。
「へぇ~。で、どうするの?夕食の後にでも皆で食べる?」
「うーん。本当はそうしたいところなんだけどねー。
ちょっとコレは他のことに使うつもりなのよ。だから、皆で食べるのはまた今度ね」
チョコレートの入った壷に鼻先を近づけて、匂いを嗅いでいるルキーテの頭を撫でながら、フォーンロシェが人差し指を立てて片目を瞑ってみせる。
これは完全に浮かれてるな、と思いつつも、その光景を微笑ましく見守っていた修一郎だったが、不意にフォーンロシェが彼に向き直った。
「と、言うわけで修一郎。“手作りチョコレート”の作り方を教えてちょうだい!」
「ええっ!?ちょ、ちょっと待ってください、ロシェ。
その壷の中には、既に完成品のチョコレートが入ってるのではないのですか!?」
突然の指名に驚いた修一郎が問い返すが、フォーンロシェは涼しい顔で答える。
「うん。一応は、ね。でも、修一郎の言ってたことを話したら、向こうのヒトが教えてくれたのよ。
ここから更に手を加えて贈るのが“ジャポン”の習慣だと聞いたことがある、って。
“ジャポン”って、修一郎の国の別の呼び方らしいじゃない?」
フォーンロシェのその台詞は、修一郎にとって爆弾発言に等しいものであった。
日本のことを“ジャポン”と呼ぶのは、フランスやそれに近しい国であったはずだ。しかも、日本の、決して古いとは言えない習慣について知っているということは、修一郎とほぼ同世代である可能性が高い。
「え…………。ひょっとして、そのヒトとは……」
あっさりと告げられた衝撃の事実に、修一郎の顔色が変わったが、フォーンロシェは気にした様子もなく続ける。
「だから、完璧な完成品じゃなくて、その一つ手前の物を貰ってきたの。
これなら、私にも扱えるだろう、って言ってたわよ」
「い、いえ、そうではなくてですね……。そのヒトとは、もしかして異世界人なのですか!?」
目の前の黒髪の少女はチョコレートに気を取られているようだが、修一郎としては、まずはそちらを確認せずには居られなかった。
「そのヒトはどこに居るのです!?
そもそも、ロシェ。貴女たちはどこまで行ってきたのですか!?」
「どこって……、ディムエールだけど……」
フォーンロシェが口にしたのは、イレ・マバル諸島のさらに南にある大陸の、一王国の名であった。
修一郎も名前くらいしか知らず、アルベロテス大陸からどころか、イレ・マバルから何日かかる距離にあるかも分からない国である。
「ディムエール!?ロシェ、貴女たちはディムエール王国まで行ったのですか!
それで、そのヒトとは異世界人なのですか?そのヒトはどこから来たと言っていましたか?歳は?背格好は?」
いつにない修一郎の態度に、当初は気圧されていたフォーンロシェであったが、次々と浴びせられる質問に答えることが面倒になったようである。
「ああもう!うるさいなぁ!今はチョコレートが先!質問は後!」
有無を言わせぬフォーンロシェの声に、修一郎の絶叫が重なった。
「ロシェーーー!」
一人蚊帳の外になったルキーテは、そんな二人の遣り取りを、目を丸くして見つめていた。
その後、なんとかフォーンロシェを説き伏せて経緯を聞きだした修一郎だったが、判明したことと言えば、この世界には今も修一郎以外に生きて生活している異世界人が居るといった程度のものであった。
その人物は、十三年前にこの世界にやって来たこと、金髪碧眼の青年で、ディムエール王国の王都で菓子職人をやっていること、彼が作り出す菓子はディムエール王国のみならず近隣諸国でも評判となっていること、彼と共にこちらの世界にやってきた異世界人も居たのだが、その人物は既に他界したこと、などである。
グラナもフォーンロシェも修一郎の過去を知っているため、その金髪の菓子職人に他の異世界人の情報や、元の世界に戻る方法等も尋ねてみたものの、彼もそれらに関することは殆ど分かっていないようだ。
それでも、同じ世界の、しかも近似の時間軸からやってきた修一郎に興味を持ったようで、一度会って話しをしてみたいと笑っていた、とはフォーンロシェの言である。
一通りの説明を聞き終えて、些か釈然としないものを感じながらも、修一郎はこれ以上の追及を諦めた。
理由としては、グラナたちの得た情報はそれが全てであったということもあるのだが、とにかく今は“手作りチョコレート”作成を優先したがるフォーンロシェに根負けしたという面が強い。
いずれフォーンロシェを通じるなり、自ら赴くなりして、なんとかその人物とコンタクトを取ろうと心に決めた修一郎は、目の前の問題を片付けることにしたのだった。
夕食を終えて、居間のテーブルで食後のコーヒーを啜りながら、修一郎はフォーンロシェと顔を突き合わせている。
ちなみに、グラナは夕食も辞退し、部屋から出てこない。様子を見に行ったルキーテによると、ベッドに突っ伏したまま何やらうなされているらしい。
彼に何が起こったのか、修一郎は相方であるフォーンロシェに説明を求めたが、「疲れてるだけよ」とばっさりと斬り捨てられてしまう。
「そんなことより、チョコレートよ!チョコレート!
さぁ、修一郎。ここからどうやって“手作りチョコレート”を作るのか教えなさい」
『そんなこと』の一言で済まされる狼人族の冒険者を不憫に思いながらも、修一郎が口を開く。
「無茶を言わないでください、ロシェ。確かに私は料理が趣味と公言していましたが、お菓子作りは専門外ですよ。
特に、洋菓子は余程作り慣れた者でないと、失敗する場合が多いのです。
だいたい、ここまで作ってあるなら、何故そのヒトから手順を教えてもらわなかったのですか」
言いながら、テーブルに置かれた壷に視線を移す。先ほど、試しに一片を口に放り込んでみたが、香りも口溶けも申し分なく、元の世界でのチョコレートと大差ないように思えた。強いて言うなら、幾分甘みが抑えられ、乳脂肪分が含まれていないことくらいだろうか。
「だって、そのヒトは、渡したい相手の好みに合わせるべきだって言ってたんだもん。
それに、これ以上手を加えた状態で長時間持ち運んだら、味が悪くなるとも言ってたし。
それにそれに、こういうのは手渡す直前に作ったほうが絶対にいいからって!」
言われてみれば、確かに菓子職人の言葉にも一理あると思えたため、修一郎も黙るしかなかった。
何より、修一郎は菓子作りに関しては門外漢なのだ。専門家の言葉には従うべきだろう。
「はぁ……。仕方ありませんね。
いずれにせよ、今この場でどうこう出来るものでもないでしょう。材料も足りませんしね。
日を改めて、プレルさんにも相談してみましょう。もしかしたら、何か良い方法が見つかるかも知れません」
結局、修一郎としてもどうしようもなく、日ごろ世話になっている猫人族の助力を仰ぐことにして、話は落ち着いたのだった。
「……ところでさ」
会話に一区切り着いたところで、フォーンロシェが再び口を開く。
「なんです?」
「“ヨーガシ”って、どういう意味?」
それから四日後の、冬の三の月(一月)の二十二日。
マリボー商店とプレルの食堂の定休日が重なったこの日、フォーンロシェと修一郎、それにルキーテの三人はプレルの店にいた。
グラナは、相方の少女から留守番を言いつけられ、修一郎の家で慣れない家事をしているはずである。
これまでに聞いたところによると、どうやらグラナは本当の目的も教えられずにディムエール王国まで連れ出され、何を入手したかも告げられずにそのままアーセナクトに戻り、フォーンロシェが何をしようとしているのか知ることなく、今に至っているようであった。
あまりと言えばあまりな扱いに、修一郎は何かしら言葉をかけるべきか悩んだが、元々は自分の失言に端を発した騒動であり、フォーンロシェの行動もグラナを想ってのことであったため、口を噤むことにしたのだった。
多分な同情の念と、僅かな罪悪感と共に。
「へぇ~。で、これがその“チョコレート”ってやつかい?
……なるほどねぇ。確かにいい匂いがするね」
プレルの食堂の厨房には、主であり調理長であるパノーバ、その妻のプレル、一人娘のクリュ、フォーンロシェ、修一郎、ルキーテの六人が揃っていた。
小さな鼻を動かして匂いを嗅いでいるプレルの横では、クリュが自分も“チョコレート”なる物を見たいと、飛び跳ねていた。
「それでですね、出来れば皆さんのお知恵をお借りできないかなーと思いまして……。
あ、勿論、修一郎にも手伝わせますけど」
幾分、畏まった口調でフォーンロシェが皆を見渡す。
「そうは言われてもなあ……」
パノーバが困惑した表情と声で修一郎を見遣るが、長身の異世界人は情けなさそうな表情で肩を竦めるに止めた。
「あたしたちも初めて見るモノだしねぇ……。とりあえず、ちょっと味見させてもらっていいかい?」
悩んでいても仕方がないとばかりに、プレルがフォーンロシェの許可を得て壷からチョコレートの小さな欠片を摘み上げる。
それをまた小さな二つの欠片に割って、一つはパノーバへ渡す。
「おかあさん!あたしも!あたしもいるー!」
母親が手にした黒褐色の欠片を見つめて、クリュが声を上げた。
それを見ていた修一郎は、ふとあることに思い当たる。
「あ……。ちょっと待ってください。
クリュちゃんには食べさせないほうが良いかも知れません」
「えー!しゅーちろー、いじわる!」
「どうしてだい?子供が口にするには良くないモノなのかい?」
母娘揃って口を開くが、修一郎が答えたのはプレルの問いに対してである。
「ええと……。そう、ですね。
チョコレートは刺激の強い食べ物ですから、クリュちゃんのような小さい子供はあまり食べないほうが……」
本当は、あちらの世界で言われていた、猫や犬にとってチョコレートは害になるという事実を思い出していたのだが、それには敢えて言及せずに言葉を濁す修一郎であった。
よくよく考えてみれば、あちらの世界とこちらの世界では、種族や生態系からして違う点が多々あるのだ。
加えて、今までにも犬人族や猫人族が、あちらの世界では禁忌とされているタマネギや味付けの濃い物などを口にする場面を、数え切れないくらい目にしている。
チョコレートもそうであるとは言い切れないが、仮にあちらの世界と同様の効能があったとしても、体躯の大きさと摂取量から考えれば、成人した獣人族であれば問題ないと思われる。
それに、大陸は違えどもこちらの世界でも商品として流通しているのだ。少なくとも、こちらの世界の住人に適応させた成分になっているのだろう。
ただ、万が一のこともあるので、矢張りクリュのような幼児には与えないほうが良いと結論付けたのだった。
「クリュちゃんには、あとでべつのおかしをつくってあげるから、それでがまんしてくれないかな?」
目尻に涙を浮かべて、こちらを睨み上げているクリュを精一杯の笑顔で宥めながら、修一郎は幼い猫人族の頭を撫でる。
パノーバとプレルの試食が終わったところで、フォーンロシェが再び皆に向かって問い掛けた。
「どうでしょう?」
「ううむ……」
「ちょっとクセがあるけど、悪くない味だねぇ」
考え込む二人を横目に、ルキーテが修一郎に尋ねる。
ルキーテは既に家で試食しているので、今回は口にしていない。
「そういえば、シュウイチロー。前に、材料が足りないとか言ってたけど、何かいいものでもあるの?」
「え?……ああ、それは“生クリーム”のことですよ」
「ナマクリーム?」
初めて聞く単語に、鸚鵡返しに問い掛けるルキーテ。
「“生クリーム”とは、牛乳から作られる物で、牛乳から水分を減らして濃縮させたような味のする食べ物ですね。
チョコレートなどのお菓子だけではなく、普通の料理にも使われたりもしますよ」
「ふぅん。それを入れるとどうなるの?」
「そうですねぇ……。言葉で表すのは難しいですが、口当たりが柔らかくなったり、味にコクが加わったりしますね」
そこまで説明した段階で、フォーンロシェから非難の叫び声が上がった。
「なんでそれを早く言わないのよぅ!」
限りなくご機嫌が斜めになったフォーンロシェに修一郎が謝り倒した後、厨房に揃った面子が生クリーム製作に取り掛かったのは、子鐘一つ(一時間)が経った頃であった。
幸い、パノーバが生クリームの製法を知っていたため、それほど苦労することはなかった。
ちなみに、こちらの世界……少なくともアルベロテス大陸では、生クリームは“乳脂”という名で知られている。
乳脂が出来上がるまでの間に、修一郎はチョコレートの湯煎の方法を皆に伝授する破目になっていた。
ただし、伝授と言っても、修一郎も実践したわけではなく、聞きかじりの知識であったので、それが正しいかは定かではない。
片手鍋にチョコレートの欠片を割り入れ、その鍋よりも一回り大きな鍋に、沸騰しない程度に熱した湯を入れ、チョコレートを溶かす、といった程度である。
フォーンロシェはこの上なく真剣に、パノーバとプレルは面白そうに、ルキーテとクリュは興味深げに、修一郎の示すお手本を見つめていた。
その工程を一通り見せた後、作業は修一郎の手からフォーンロシェの手へ移る。
元々が、フォーンロシェの要望に応えるために集まったのだから、当然だろう。
「こうやって溶けたチョコレートに、砂糖や乳脂を加えて味を調整し、再度冷まして固まらせると、最も簡単な“手作りチョコレート”になるわけです。
慣れれば、そこに干した果物や蒸留酒などを混ぜ込んでも良いのですが、まずはこの辺りから挑戦してみるのが無難だと思いますよ。
と、言うより、私の持っている知識ではこれが限界なんですよ、ロシェ。申し訳ないですが、今回はそれで我慢してください」
申し訳なさそうに話す修一郎の言葉に、フォーンロシェは満面の笑みで応じる。
「ありがとう、修一郎!これならあたしでも何とかなりそうよ!」
喜びながらも、真剣に鍋と向かい合っているフォーンロシェの後ろでは、パノーバとプレルが店のメニューにチョコレートを使えないかと小声で話し合っている姿が見えた。
冬の三の月(一月)の二十九日。
ヤスキ家のルキーテの部屋。
「ロシェ~。またチョコレートぉ?」
夜、自室に引き上げたルキーテを、フォーンロシェが訪れていた。その手には、失敗作のチョコレートが載せられた皿があった。
「い、いいじゃない!ルキーテもチョコレート美味しいって言ってたんだし!」
確かに、当初は甘くて良い香りのするお菓子に喜んでいたのだが、こうも続くと流石に飽きる。
ここ数日、毎日のように持ち込まれるチョコレートに、ルキーテもいい加減うんざりしていた。
「シュウイチローにあげればいいじゃないか。それに、シュウイチローからは寝る前に甘い物を食べるなって言われてるんだよ?
わたし、もう寝るつもりなんだけど……」
「修一郎には既に味見してもらったのよ!」
グラナに聞かれないように気を配っているのか、叫ぶフォーンロシェの声は小さい。
あれから毎日、フォーンロシェはプレルの食堂に通っている。
無論、営業中に厨房を借りるわけにもいかないので、店が閉まってからの作業になるのだが、黒髪の少女は真面目に“手作りチョコレート”作りに取り組んでいた。
当初は、何度か試してみれば簡単に作ることが出来るだろうと思っていたのだが、予想に反して作業は難航していた。
湯煎して溶かし、材料を加えて固めたはいいが、まだら模様になって見た目が良くなかったり、口溶けが悪かったり、チョコレートの持つ本来の風味が飛んでしまったりと、失敗の連続であった。
その度に失敗作の処分をしなくてはならないのだが、場所を貸してくれているパノーバ夫妻も、味見役である修一郎も、そして作っているフォーンロシェ本人も、チョコレートの匂いを嗅ぐだけで満腹感が襲ってくるようになっていた。
「分かったよ……。今夜はもう無理だけど、明日食べさせてもらう。
それでいい?」
愛する者……グラナへ渡すために作っていることを、修一郎から聞いていたルキーテは、フォーンロシェの努力の結果を無下に断ることもできず、渋々ながらそれを受け取った。
「ありがと、ルキーテ!今度は頑張るから!」
両手の拳を、起伏の少ない胸の前で握り締めて決意を口にすると、フォーンロシェはルキーテの部屋を出て行った。
その後姿を見送った虎人族の少女は、小さなため息を一つ吐くと、ベッドに潜り込んだのだった。
冬の四の月(二月)の十三日。
プレルの食堂の厨房。
「やったぁー!出来たー!」
フォーンロシェの歓喜の声が厨房内に響く。
「おめでとう、フォーンロシェ」
「いやはや、大した根性だ」
プレルとパノーバが、それぞれの言葉でフォーンロシェを労う。
言葉をかけられた当人は、借りているエプロンは元より、小麦色に焼けた顔にも、自慢の黒髪にもチョコレートや乳脂の飛沫が飛び散り、黒と白の水玉模様を全身に描いているようだ。
厨房内には既に嗅ぎ慣れてしまった甘い匂いが充満し、早々に換気をしなければ周囲の食材に匂いが移ってしまいかねないほどである。
「ありがとう、パノーバさん、プレルさん!なんとか十四日までに間に合いました!」
十四日という日付は、飽くまでも修一郎の世界を基準にしたもので、こちらの世界では何の意味も持たないことは理解していても、矢張り気にはなる。
ディムエールから持ち帰ったチョコレートは既に尽きかけており、正直なところ、今日失敗したら諦めるしかないと覚悟していたフォーンロシェだった。
それだけに、満足のいく出来に仕上がったことが、尚更嬉しい。
「お前さんが持ってきたチョコレートはなくなったが、こっちも色々と参考になった。
またディムエールに行くことがあったら、今度は俺たちからも依頼させてもらおう」
パノーバが、灰色の体毛に包まれた腕を組みながら、笑う。
「シューイチローから話は聞いてるよ。頑張んなさい」
プレルが目を細めながら、フォーンロシェの肩を軽く叩く。
「まかせて!あの鈍感狼人族を今まで以上に惚れさせてみせるから!」
それまでの純粋な笑みを挑戦的なそれに変えて、混血者の少女が笑った。
その手には、修一郎が作ってくれた型枠から取り出された、ハート型のチョコレートがあった。
冬の四の月(二月)の十四日。
「グラナ!ちょっと、グラナ!」
朝食が終わった居間に、フォーンロシェの声が上がる。
修一郎は仕事へ行く準備をするため自室に戻っており、ルキーテは食器の片付けをしている。
グラナは鍛錬を兼ねた薪割りをするべく家の裏へ行こうとしていたところを、フォーンロシェに捕まった。
「なんだ?」
首にタオルを巻いた狼人族が、足を止める。
「今日って、何の日か知ってる?」
黒髪の少女が、傍まで歩み寄り自分の相方を見上げる。
「いや……?何かあったか?」
フォーンロシェの言動に疑問を覚えながらも、グラナは素直に答えた。
「あの……ね?今日って、修一郎の世界だと、その……あ、愛情の……証にね?その……」
呼び止めたまでは良かったが、いざ渡すとなるとやはり恥ずかしいのか、フォーンロシェの顔が見る間に赤く染まる。
「うん……?」
対するグラナは、フォーンロシェが何を言わんとしているのか分からないまま、次の言葉を待つ。
「その……、あ、愛情の証に、チョコレートを贈る日なのっ!
だから、これ食べなさいっ!」
途中で吹っ切れたのか、単に思い切りが良いのか、ともかく最後まで言い切って、フォーンロシェは隠し持っていた手の平大の木箱をグラナに押し付けた。
木箱は白っぽい木材から作られており、赤いリボンで飾りつけがされていた。これも、修一郎がフォーンロシェに教えたものだ。
その光景を、着替えを終えて二階から下りてきた修一郎が目撃する。
「ロシェ……。グラナはチョコレートが何なのか、バレンタイン・デーが何なのか、知らないのではないですか……」
頭痛を堪えるように、片手で額を押さえながら漏らした修一郎の独り言は、勿論二人の耳に入ることはなかった。
今まで、グラナに隠れてチョコレート作りをしてきており、しかも、グラナには全くと言っていいほど説明はされていないのである。
その状態で、チョコレートを贈る日だの、愛情の証だのと言われても、グラナに分かろうはずもない。
「良く分からんが、これを食えばいいのか?朝食を摂ったばかりだから、後でな」
そう言うと、狼人族の男は少女の手から木箱を摘み上げて、家の裏へと消えていった。
「言わんこっちゃない……」
修一郎は、盛大なため息と共に言葉を吐き出した。
完全にフォーンロシェの先走りであったのだが、既にチョコレートはグラナの手に渡ってしまった。
本人の意図した雰囲気とはかけ離れているのだろうが、形だけ見れば目的は達したと言える。
しかし、これで終わるはずもないということも、修一郎には理解できていた。
「……あンの鈍感男ぉぉっ!こうなったら意地よ!
来年を見てなさい!絶対にっ、有難く受け取らせてっ、惚れ直させてっ、みせるんだからぁっ!」
朝のヤスキ家に、女冒険者の絶叫が響き渡った。
どうやら、一年も経たないうちに、グラナは再び遠く離れたディムエール王国まで向かうことになりそうである。
「あ、シュウイチロー出かけるの?今日は遅くなる?」
台所から戻ってきたルキーテが、修一郎の姿を見とめて普段どおりの口調で話しかけてくる。
「そうですね。平和祈念式典は、今年はルザル王国ですから、もう暫くはそれほど忙しくはならないでしょう。
いつもの時間には戻って来れると思いますよ」
答える修一郎の口調も、いつもどおりのものであった。
「分かった。いってらっしゃい」
「はい。いってきます」
これまたいつもどおりの挨拶を交わしたルキーテと修一郎は、玄関で別れる。
扉が閉まる直前、再びフォーンロシェの絶叫が聞こえてきた。
「やれやれ……」
修一郎は軽く頭を振る。
彼女の闘いは、当分終わりそうになかった。
思い切り時事ネタです。本来は扱う題材はチョコレートではなかったのですが、時期的に丁度重なったので少し手を加えてバレンタインネタにさせていただきました。
そして書いてみて分かるフォーンロシェの動かし易さ……。
※本作は、2012年 02月14日 00時に投稿したものです。章管理の修正で最新話扱いとなりますが、以前投稿したものと内容等は変わっておりません。