余話・其の一 とある虎人族の日常
このお話は、修一郎がアーオノシュに出張している間、留守を任されたグラナたちとルキーテのお話です。
ルキーテ(元・ルキドゥ)が自分の素性を明かした後の修一郎の対応や、冒険者二人との遣り取りを書いたものです。
二十話までの本編同様、戦闘や大きな山場となるようなシーンはありません。
二十一話がなかなか思うように進まず、本当であれば本編終了後に書こうと思っていた外伝的お話を気分転換として、先に書かせていただきました。ある意味、現実逃避かも知れません。ごめんなさい。
これを読まなくとも本編を読むのには影響はありませんし、ネタバレ的な内容もありません。
それでも宜しければ、暇つぶしにでも読んでいただけると幸いです。
あの夜、修一郎に自分の正体を明かしたルキドゥは、自分が抱いていた恐怖が杞憂に終わったことに安堵した。
長身の人間族は、ルキドゥの性別がどうであれ、保護者と被保護者の関係に変わりはない、と言い切ったのだ。
「君がここに居たくないと言うのなら、私は引き止めませんけどね」
言葉面だけ見れば、突き放したようにも取れる台詞であったが、その口調はいつもと変わらぬ柔らかなもので、彼の表情も同じく柔らかいものであった。
「シュウイチローを騙してたんだぞ?お、怒らないのか?許してくれるのか?」
それでも念を押さずには居られなかったルキドゥに、修一郎は不思議なモノを見るような顔で、当然のように告げた。
「許すも何も、君が男の子か女の子かというだけでしょう?
この際です。君の本当の名前を教えてくれませんか。
それと、口調も元に戻してもいいんじゃないかと思いますよ」
「……もしかして、気付いてた?」
「なんとなく、ですけどね。
ただ、虎人族に出会ったのが初めてだと言ったのは嘘ではありませんから、自信がなかったのも確かですね」
そもそも、こちらの世界に来て九年経っているとは言え、修一郎の生まれ育った世界では、獣人族という種族は存在していないのだ。
犬や猫の性別を一見してすぐさま判別出来ないように、獣人族の性別も顔を見ただけでは未だに迷うことがあるくらいである。修一郎が一目で判別出来るのは、背中の翼以外は人間族そっくりな鳥人族だけだ。
体格や声、口調などから男性か女性かを判別できていたのも、成人した獣人族に対してであって、それが子供となると直接確かめるか、自己申告に頼るしかない。
しかし、直接確かめるとなると、そういった行為はこの世界でも犯罪にあたるため、結局は相手の言うことを信じるしかなかった。
「オレの……わたしの本当の名前は、ルキーテ。ブランの娘、ルキーテ」
人間族とは違い、獣人族に基本的に姓はない。エルフ族のクローフルテと同様に、氏族名か部族名、または誰々の息子・娘と表現する。
ルキーテの場合は、人間族風に言えば、ルキーテ・ブランということになるのだろう。
「ルキーテ、ですか。可愛らしい良い名前ですね。
では、これからはルキーテと呼ぶことにしましょう。
ああ、口調は直ぐには戻せないようでしたら、以前のままで構いませんよ」
小さく笑って自分の名前を褒めてくれた修一郎に、ルキーテは素直に従うことにした。
「うん。そうする」
風呂から上がったルキーテは、長屋時代に修一郎が買い与えた服のままだったが、服から覗く手足は今までと違い、見事な黄と黒の縞模様であった。
長屋では、精々が盥に湯を張っての湯浴み程度しか出来ていなかったため、体毛に染み付いた汚れを完全に落とすまでは至らなかったのだ。
だが、風呂に浸かり、石鹸を手にしたフォーンロシェに徹底的に体中を洗われたルキーテは、今や虎人族本来の毛並みを取り戻している。
生まれたばかりの時に生えていた産毛は見事に生え変わり、成人の虎人族と変わらない、目にも鮮やかな黄色と黒の、文字通りの虎縞であった。
「狼人族の毛並みもいいけど、虎人族のこの縞模様もいいわねー」
ルキーテと同様に風呂上りのフォーンロシェは、首にかけたタオルで自慢の黒髪についた水気を拭き取りながらも、片手でルキーテの頭を撫でつつ、上機嫌であった。
半袖のシャツに修一郎の世界で俗に言うパンティだけといった、あられもない格好であったが、本人は気にするふうでもなく、修一郎の目の前に立っている。
聞く所によると、この形状の下着も以前に異世界人が持ち込んだものの一つであるらしく、今ではこの大陸の女性にそれなりに受け入れられているようだ。それより前の主流は、所謂ドロワーズのような形状であったらしいが、これも数百年前に存在した異世界人が作った物であると聞いたことがある。
時間軸的に違和感を覚えた修一郎ではあったが、元の世界で女性用下着についてそこまで詳しく調べたことなどなかったため、あまり深くは追求しないことにしたのであった。
それはともかくとして、だ。
修一郎は、出来るだけその姿を見ないようにしながら、女冒険者を窘める。
「ロシェ。ルキーテのことより、貴女はまず何か着てください。
グラナに見つかって、また怒られても知りませんよ」
フォーンロシェのこういった姿は初めてではないものの、修一郎も一応は成人した男性である。
幾分、女性らしさに乏しい体つきとは言え、若い女の下着姿を目にして平然としていられるほど、枯れてもいない。
「“お風呂”から出たばかりで暑いんだもん。素っ裸ってわけでもなし、気にし」
「いいですか、ルキーテ。君は、決してあのようになってはいけませんよ?
彼女は特殊なんです。羞恥心だけは失くさないでくださいね」
フォーンロシェが反論しようとするが、それを言い終わるより早く、修一郎がルキーテに向き直り言葉を発する。
「ちょっとぉ!あたしの話を聴きなさいよ!
というか、特殊って何よ!第一、羞恥心くらいあたしにもあるわよ!」
「その格好のどこに羞恥心があるんですか……。
とにかく、いいですねルキーテ。女の子なら慎み深くあるべきです。分かりましたね?」
修一郎の世界では時代遅れと呼ばれかねない発言であったが、幸か不幸かこの世界での女性観は、なんとかぎりぎりで修一郎のそれと合致していたようである。
加えて、いつにない真剣……というより鬼気迫る表情の異世界人に、ルキーテは半ば無意識に頷いていた。
「う、うん。わ、わかった……」
虎人族の少女の答えに、満足げな笑みを浮かべる修一郎の後ろでは、未だフォーンロシェが抗議の声を上げていたが、修一郎は完全に聞き流している。
一度は自分に割り当てられた部屋に引っ込んだグラナが、階下の騒ぎを聞きつけて姿を現したのはその直後のことであった。
半ば本気で頭を叩かれ、涙目になりながらグラナの説教を受けているフォーンロシェに、ルキーテは同情しないではなかったが、保護者である修一郎から寝間着を羽織るように言われたので、二階にある自室へと足を向ける。
階段を上がりきったところで、黒髪の混血者が発した「だってぇ~」という情けない声が聞こえてきたが、
「だっても何もあるか」
「だってではありません」
と、相方の狼人族と旧知の人間族が、異口同音に彼女の反論を封じたことに、ルキーテは小さく笑い声を漏らしたのだった。
修一郎の突然の王都行きが決まり、慌しく準備を終えて、旅立って行ったのが今朝方。
偶然というか運良くというか、グラナとフォーンロシェが暫くの間はアーセナクトに滞在する心積もりであったため、修一郎は寝床を提供する代わりに、ルキーテと家の面倒を二人の冒険者に託した。
旧知の間柄とは言え、二人を拘束することに変わりはなく、修一郎は正式な依頼として報酬の話を切り出したのだが、グラナもフォーンロシェも頑として金銭の受け取りを拒否した。
そこで折衷案として、修一郎が戻ってくるまでの間の食費を、修一郎が負担するという形で話は落ち着いたのだが、今度は誰が調理を担当するかで揉めることとなった。
修一郎の王都行きは、下手をすると一ヶ月近くになるかも知れない。その間、食事の全てを外食で賄うわけにもいかないのだ。
居間におかれたテーブルにグラナ、フォーンロシェ、ルキーテの三人が顔を突き合わせ、正にその議論の真っ最中である。擦り付け合いと言い換えてもいい。
「そりゃあ、あたしも多少は料理できるよ?
でもね?こういうのって、やっぱりちゃんと教えてもらったヒトがやるべきだと思うのよね」
いささか饒舌気味なのはフォーンロシェである。言い分は尤もであるが、暑くもないのに頬に流れる一筋の汗が彼女の心情を物語っている。
「俺が出来るのは、旅の間にする、“簡単な料理”と呼べるかすら怪しい料理くらいだ」
グラナは至って冷静に、自己の技量を正直に話す。
たしかに干し肉とその辺の食用可能な野草を放り込んだシチューもどきや、小麦粉を塩と水で練った塊を葉に包んで熾火で蒸し焼きにしたものを、まともな料理と呼んで良いのかは意見の分かれるところだろう。
良くも悪くも、フォーンロシェとグラナの習得している調理技術は、旅の道中で野営する際に使われるものであり、飽くまでも手早く作れ且つ適度に腹が膨れ、それで暖を取ることが出来る程度のものであった。
「オレ……わたしだって、まだシュウイチローから簡単な料理しか教わってないし、火を使う料理はシュウイチローが傍に居るときじゃないと出来なかったし……」
ルキーテとしては、別段料理が苦手だとか面倒だとか感じているわけではない。好きか嫌いかで言えば、料理をするのは好きだ。
ただ、自信がないのだ。
修一郎は料理が趣味であると日ごろから口にしているように、こちらの世界の料理は勿論、向こうの世界の料理も何度もルキーテに披露し、教えてもいる。
だが、普段は修一郎の仕事があるため、なかなかまとまった時間が取れず、腰を据えて料理を教わったことは、ルキーテの片手に余る回数しかなかった。
大抵は、夕食を作る際に修一郎の傍で、その手順や味付けのコツなどを口頭で教えてもらうくらいである。
「少しでも修一郎の手ほどきを受けてるんでしょ?だったらルキーテが料理するのがいいんじゃない?
大丈夫よ、あたしたちも手伝ってあげるから。ね、グラナ?」
ここぞとばかりにフォーンロシェが畳み掛け、グラナに同意を求める。
「手伝うのは構わんが、俺は食材の調達と薪の補充くらいしか出来んぞ」
明言こそしなかったものの、グラナもルキーテが調理を担当するのが最良であると判断したようだ。
単に言葉どおりのことしかするつもりがないのかも知れないが。
「うーっ……。分かったよ!
その代わり、味の保証はしないからな!どんな料理が出来上がっても文句言わずに食べろよな!」
どうやっても二対一のこの現状を覆せないと悟ったルキーテは、投げ遣りに応じた。
「りょーかいりょーかい。修一郎も暫くは帰って来れないみたいだし、気楽に行こうよ、ルキーテ。
あたしたちだって別に育ちがいいって訳でもないし、食べられればそれでいいんだからさ」
微妙に慰めになっていない慰めの言葉を口にしながら、フォーンロシェが笑顔で椅子から立ち上がると、虎人族の少女へと歩み寄り、その肩に手を置く。
「……じゃあ、フォーンロシェ。グラナと一緒に食材の買出しに行ってきて」
その手を暫し見つめていたルキーテは、意趣返しとばかりに、悪戯小僧のような笑みを浮かべて黒髪の冒険者を見上げ、口を開いた。
「お金はシュウイチローから預かってるんでしょ?
買い置きの食材じゃ、とてもまともな晩ご飯は作れそうにないし。どうせ買い出しに行くつもりだったし。
今から言うモノを買ってきて。店の場所も教えるから。お肉と野菜と、あと塩もなかったな。お酒が飲みたいなら自腹で買ってね。
大鐘三つに子鐘三つ(午後三時)までに宜しく」
反論する暇を与えないようなテンポの良い口調で指示を出したルキーテは、椅子から立ち上がると、台所へ向かって歩き出す。
もうじき昼になるが、昼食は修一郎直伝のサンドイッチでいいだろう。
夕食はいきなり手の込んだ物を作って失敗なぞしようものなら、初日から立ち直れなくなりそうなので、簡単な煮込み料理とパンにするべきか。
そんなことをぶつぶつと呟きながら、調理台の下にある収納スペースに保存されている食材を確認するルキーテの後姿を見て、一人は感心したように小さく笑い、もう一人は呆気に取られた表情を浮かべる冒険者たちであった。
夕食は、ナズ河で獲れたマスに良く似た川魚と数種類の根菜のスープに、ハーブを練りこんだパン、フォーンロシェの独断で買ってきた干し果物がデザートとしてテーブルに上った。
ちなみに、調理に関しては灰汁取りまで教わっていたルキーテに、フォーンロシェは手伝うどころか、逆に教わる始末であり、グラナを呆れさせた。
食事が終わり、食器の片付けも終えて虎人族の少女が台所から居間に戻ってくると、黒髪の女冒険者が待ち構えていた。
「さぁ、お風呂の時間よ!」
「あ、うん」
ルキーテは返事をしながら女冒険者の相方を探すが、居間にその姿はない。
「ん?ああ、グラナ?アイツは今日も体を拭くだけでいいって。
まったく、狼人族のお湯嫌いも困ったものよね」
ルキーテの表情から察したフォーンロシェが、腰に手を充てて嘆息する。
そう言うフォーンロシェも狼人族の血が混じっているのだが、それも遥か昔の先祖の話で、本人は外見も感性も殆ど人間族と変わらない。
「お風呂から上がってからでいいからさ、アイツ用にお湯を沸かしてやってくれないかな?
あ、面倒ならお風呂のお湯を持って行ってもいいかな」
脱衣所がないため、居間で衣服を脱ぎ、修一郎が用意した脱衣篭へとそれらを放り込んだ二人は、タオルを片手に裸のまま風呂場へと向かう。
この光景を修一郎なりグラナなりが目にしていたら、間違いなく女性陣二人に対して小言が降り注いでいたことだろう。
浴槽の湯は、ルキーテが夕食の準備をしているうちに、グラナが沸かしてくれていたようだ。
風呂場の扉を開けると、僅かな湯気が廊下へと流れ込んでくる。予め、換気用の小窓は開けていたのだが、それでも風呂場の中は一目で分かるほどに湯気が立ち込めていた。
「このさ、“風呂場”に入った瞬間の、お湯の匂いっていうのかな?これ、好きだな」
フォーンロシェに続いてルキーテが風呂場に入り、後ろ手で扉を閉めると、黒髪の少女が湯気を吸い込むように鼻を鳴らした。
「盥に張ったお湯の匂いとも違うし、お湯に浸したタオルの匂いとも違うんだよねー」
湯船の縁に置かれていた木製の片手桶を持ち、中の湯を汲みながらフォーンロシェが言う。
桶に汲んだ湯の温度を空いた手で確認し、肩口から全身に流す。それを三度ほど繰り返してから、フォーンロシェは湯船へと、その小麦色の脚を浸した。所謂かけ湯と言う行為だ。
この辺りの“日本の浴室でのマナー”については、事前に修一郎からしつこいまでに釘を刺されており、奔放な性格のフォーンロシェも律儀にそれを守っている。流石に、修一郎が実地で教えるわけにもいかず、口頭であったが。
フォーンロシェから片手桶を渡されたルキーテも、同じようにかけ湯をした後、湯船に浸かる。
かけ湯をした時点では、濡れて体に張り付いていた虎縞模様の体毛が、湯の中に入るとふわりと広がった。
「ふぅ……」
思わずため息を漏らした虎人族の少女に、混血者の少女が笑いながら問い掛ける。
「ルキーテも“お風呂”が気に入ったようね?」
「うん。元々水浴びとか好きだったし。
でも、寒い時期は“お風呂”のほうがいいね。上がった後で体を拭くのが大変だけど」
「ふふっ。廊下が水浸しになっちゃうからね~。
修一郎が帰ってきたら、着替え用の小部屋を作ってもらうようにお願いしよっか」
現状は風呂場の入口の前に大きめのタオルを敷き、事前にタオルで体を拭いてから風呂場を出るものの、それでも廊下は濡れてしまう。
加えて、入る前に衣服を脱ぐ場所がないため、今回のように居間で脱いで裸で風呂場まで行くか、廊下で脱がなければならないのだ。
いくら大っぴらなフォーンロシェでも、流石に裸で家の中を歩き回って何も感じないほど無神経ではない。
王族や貴族が利用しているというサウナにも、脱衣所と呼ばれる小部屋があると聞いている。
「でも、そんなことしたら、またお金かかるんじゃないかな……」
邸宅とは呼べないまでも、それなりに広く程度の良い家を購入し、それに併せて家具も相当数新たに購入しているのだ。
いくら修一郎が実は裕福であったと言っても、御伽噺に出てくるような無尽蔵にカネが湧き出る壷を持っているわけでもない。
子供心ながらに、修一郎の懐具合を心配するルキーテであった。
「お願いするだけならタダだからね。修一郎だって家の中を水浸しにされたくはないだろうし。
ダメで元々ってヤツよ。少しくらいならあたしもお金出してもいいしね」
湯船の中で綺麗な肢体を伸ばし、寛いでいたフォーンロシェは丸きり他人事のような口調で応える。
ルキーテも風呂は気に入っていたので、気軽に使えるようになるのは嬉しいのだが、なにせ被保護者の身の上である。
自分でカネを稼ぐことが出来るようになれば、また違ってくるのだろうが、現状ではこの女冒険者のように思ったことを口にすることは躊躇われた。
独りになって修一郎に出会うまでは、盗賊紛いのことをして生計を立てていたルキーテであったが、それは生きていくために仕方なくそうしていたのであって、本来はどちらかと言えば大人しい性格である。
修一郎に自分の素性を明かして以降、少女は元の姿に戻りつつあった。
「お金……か……」
耳に湯が入らないように気をつけながら、湯船の中で全身を弛緩させている隣のフォーンロシェのように身体を伸ばして、ルキーテが呟く。
「なに?ルキーテはお金が欲しいの?」
「うん……。あ、もちろん今までのような方法じゃなくて、ちゃんと働いて稼いだお金を、だけどね!」
過去の行いから邪なことを考えていると思われたくなかったのか、虎人族の少女が慌てて身体を起こして弁解する。
そのせいで、撥ねた湯がフォーンロシェの顔にかかってしまったが、相手は気分を害した様子もなく、少女を宥めた。
「うぷっ。お、落ち着きなさいよ、ルキーテ。
あなたが良からぬことを考えてる、なんて思ってないから」
「あ、ご、ごめん……」
しょげ返るルキーテを湯気越しに見遣り、それを微笑ましく思いながらフォーンロシェが言う。
「修一郎に頼りきりになるのが嫌なの?それとも、一日も早くここを出て行きたいとか?」
「出て行きたいとは思ってないよ!
でも、シュウイチローに迷惑をかけるのは……なんか嫌なんだ」
最初こそ語勢は強かったものの、話すうちに次第にそれは弱弱しいものになっていく。
それがルキーテ個人としての思いなのか、虎人族としての矜持なのか、フォーンロシェにはすぐには判断がつかない。
恐らく、その両方なのだろうと、混血者の少女は推察して話を続けた。
「確かに、あなたくらいの歳で既に働いている子がいないわけではないわ。
あたしが冒険者に成り立ての頃に知り合った仲間にも、あなたの年齢と大して違わないくらいの娘がいたしね。
でもね?そんな子の殆どは、そうするしか生きる術がなかったからよ。ルキーテなら分かるでしょ?」
「……うん」
天井から滴り落ちた水滴が湯面に当たり、小さな音をたてる。
その音と同じくらいの、小さな返事がルキーテの口から発せられた。
「だけど、今のあなたには修一郎が居る。これが何を意味してるかも分かるわよね?」
「うん」
発した言葉は先ほどと全く同じであったが、今度はいくらかその声は大きい。
「それを“恩”と思うのはいいけれど、負い目に感じちゃだめ。恩ならいつか返せばいいだけのことなんだから。
焦る必要はないわよ。今は生きるための知識と力をしっかりと身に付ける時だと、あたしは思うけどな」
「生きるための知識と力……」
「そう。今のあなたはどんなに頑張っても所詮は子供。
これまでの生活で、多少は知識や力を身に付けているのかも知れない。でもね、まだまだ足りない。
世間で生きていくためには、様々な知識や知恵、自分の能力や他人を見極める力、そして経験が必要になるわ。
それらを自分のものとして貯えていくには、もう少し時間がかかると思う」
滔々と語るフォーンロシェであったが、彼女自身もまだまだ少女の域から脱しているとは言い難い。
それでも幼いころから冒険者として、様々な経験をしてきた彼女からして見れば、ルキーテの焦りは理解できるだけに、言わずにはいられなかった。
「すぐには無理ってこと……?」
突き出た鼻先を湯の中に沈めるようにして、視線だけをフォーンロシェに向けて問いを発するルキーテ。
「まぁね~。一月や二月でほいほい身に付くくらいなら、誰も苦労なんてしないからね。
偉そうに言っちゃったけど、あたしだってまだまだ経験不足だって思わされることなんていっぱいあるし。
どこかの偉い学者さんの言葉らしいけど、『勉強は一生続くもの』だってさ。
あたしは勉強なんて好きじゃないけど、生きていくことも“勉強”だって言うなら、仕方ないかなって思うよ」
言いながら、フォーンロシェは両手で湯船の湯を掬い、自らの顔にかける。
その顔が赤いのは、湯によって上気したのか、それとも柄じゃないことを口にする自分に対しての照れなのか。
隣で自分の考えに沈みこんでいるルキーテは、そんなフォーンロシェに気付くこともなく、黙ったまま、ゆらゆらと揺れ動く湯面を見つめている。
「……それまでシュウイチローは待っててくれるかな。わたしが傍に居てもいいって言ってくれるかな」
幾許かの時間が経った後、思わず口をついて出てしまった言葉に、当の本人が驚く。
自分はいつの間に、ここまで修一郎を頼りにしていたのか。いつの間に修一郎の存在が自分の中でこれほど大きくなっていたのか。
だが、そんな思いは、不意に頭からかけられた湯と言葉に、一瞬にして中断させられてしまう。
「なぁにバカなこと言ってんのよ。修一郎がただの気まぐれでアンタを保護したとでも思ってんの?
長いか短いかは分かんないけどさ、それでも他人の人生の一部に介入するってことは、そんな軽いものじゃないわよ」
ルキーテに湯をかけた相手の表情は、先日「修一郎を騙そうとしているのか」と、詰問してきた時と同じく険しいものであった。
「…………」
フォーンロシェの発する気勢に気圧されて、黙り込むルキーテ。
「……安心しなさいよ。修一郎はアンタをそんな簡単に放り出したりしないって。
あたしも、グラナも保証したげる」
幾分、口調を和らげて黒髪の冒険者が続けた。
「……うん」
世間一般には、冒険者の口約束などアテにする方がおかしいとまで言われているが、ルキーテは素直に信じることにした。
グラナとフォーンロシェの修一郎に対する態度は、旧知の間とかそういったものを通り越して仲間として振舞っているように見えた。
三人がどうやってその関係を築いたのか、今のルキーテには知る由もないが、そんな彼らが自分を弄ぶようなことはしないと直感的に思えたのだ。
「分かった。今はとにかく色々頑張ってみる。
将来、わたしが何を目指せばいいのか、それも含めて」
漸くいつもの調子に戻って、ルキーテが笑顔を浮かべると、フォーンロシェも彼女に笑顔を向けた。
「ええ。頑張んなさい。応援してあげるから」
「応援するだけならタダだから?」
「言うじゃない。がきんちょのくせに」
湯船から立ち上る湯気に、二人の笑い声が加わった。
フォーンロシェとルキーテが、風呂場でそのような会話を交わして二週間あまり。
相変わらず料理に関してはルキーテが殆ど一人で担当し、冒険者二人は食料や日用雑貨の買出し、家の掃除や洗濯の“手伝い”、冒険者組合や警護団にアーセナクトでの滞在が延びる旨の申し出などを行って過ごしていた。
その間、ルキーテはしばしば何やら考え込んでいる姿が見られ、時間が空いたときは、ハーブティーの買出しを兼ねて修一郎の知り合いである調薬士の家へ行ったり、市庁舎内にある市民向けの図書室などへ足を運ぶようになっていた。
虎人族の少女は、彼女なりに考え、そして行動に移し始めたようである。
フォーンロシェから事情を聞いていたグラナは、そんな虎人族の少女を見て小さく笑うと、何ら声をかけるでもなく、いつものように食材の買出しに行ったり、相方やルキーテの手が届かない場所の掃除を手伝いつつ、外出するルキーテに気付かれることなく見守っていたりと、自分が出来ることを黙々とこなすだけであった。
ある朝、台所で朝食の準備をしていたルキーテの元に、彼女より子鐘一つほど遅く起きたフォーンロシェが姿を現した。
「おはよー、ルキーテ。朝ごはん作るの手伝おっか?」
「ううん。いい。もう出来上がるから」
竈にかけた鍋の中身をかき混ぜながら、背中でルキーテが答える。
「グラナは?」
「裏で薪を割ってくれてるよ」
「そっか」
フォーンロシェは、台所と居間の仕切りとなっているカウンターに寄りかかるようにして、ルキーテの作業を見つめている。
「ねぇ、フォーンロシェ」
鍋を混ぜる手を止め、黒髪の冒険者に向き直ると、ルキーテが口を開く。
「んぁー?はに?」
欠伸を噛み殺しながらフォーンロシェが応じると、虎人族の少女は決意に満ちた目で言葉を続けた。
「決めたよ。
わたし、事務員になる。そのつもりでこれから勉強する」
七年後。
アーセナクトのマリボー商店に、三人目の事務員が雇われることになる。
黄色と黒の見事な縞模様の毛並みを持つ彼女は、他の従業員に対し、ルキーテ・ヤスキ・ブランと名乗った。
日常と言うには、極短期間のお話ですが、ルキーテがどのように自分の将来を考えるようになり、行動する切欠があったのかを書きたかったのです。
あとは、フォーンロシェとの絡みとかフォーンロシェとの絡みとか……。