第三十二話 ソーンリヴの絶叫
「シュウイチロー!」
従業員出入口から建物内へと駆け込んだルキーテが、保護者の名を呼ぶ。
狼人族には及ばずとも、気配探知の能力に長けた虎人族の少女には、信頼する異世界人がどこに居るのか分かっていた。
正確に言えば、建物内部には、そこにしか気配が感じられなかったのだ。
薄暗い通路を走って、二階へと続く階段に向かうルキーテの前に、階上から降りてきた人間族の男が立ちはだかった。
「なんだ、奴が面倒見てる虎人族のガキか。見張りは何をやってやがる」
現れたのは、先ほど失態を演じてリバロに叱責された交渉役の男であった。その手には、広刃のナイフが握られている。
リバロに対する不満混じりの恐怖と、薄汚い欲望を叶えられなかった鬱憤が綯い交ぜになり、必要以上に粗暴な言葉遣いになっているようであった。
或いは、これがこの男の本来の喋り方なのかも知れない。
「おい、ガキ。奴のところへ連れて行ってやるから、静かにしてろ。
逃げようとすれば、お前の保護者が死ぬことになるぞ」
相手が子供であることもあってか、男はルキーテを完全に舐めてかかっていた。
ナイフをちらつかせながら、目の前の少女へとゆっくりと近づく。
男がもう少し冷静であったなら、自ら口にした見張りがどうなったのか、ということに思い当たっただろう。
普通に考えれば、いくら獣人族とは言え、子供一人で大の大人をどうにか出来るはずはないのだ。
「静かになるのは、お前のほうだ!」
あと一歩でルキーテに手が届く距離まで男が近づいた次の瞬間、ルキーテの口から虎の咆哮と共に強烈な衝撃波が吐き出された。
虎哮と呼ばれる、虎人族の固有能力である。
以前、修一郎に初めて出会った際に、彼の財布を掏ろうとして使ったものと同じであるが、あの時は空腹と疲労のため本来の力の半分も出せていなかったのだ。
加えて、あの頃のルキーテに比べ、今の彼女は僅かではあるが成長もしている。
そして相手は“普通の”人間族であり、自身の体調も万全であった。
果たして、虎哮の効果は十二分に発揮され、不意に襲ってきた原因不明の恐怖は、先ほどまでのリバロに対する感情をさらに増幅させることとなり、男は混乱してその場で立ち尽くしてしまう。
そんな相手を睨みつける虎人族の後ろから、黒い影が素早い動きで男に近づく。
「なっ、何だ!?……ぐぶぁっ!」
混乱から回復するより早く、男の腹に大きな金槌がめり込んだ。バランダの放った一撃が見事に決まったのだ。
日々、大金槌で灼けた鉄を叩き続けているその逞しい腕から繰り出された一撃は、男を数歩分吹き飛ばし、通路の壁に叩き付けるに充分な威力を持っていた。
奇怪な動物のような叫び声を上げながら、男は壁に貼り付いた後、その場で崩れ落ちる。
「……死んじゃったかな?」
壁際で白目を剥いて倒れている男を、それでも注意深く見下ろしながら、ルキーテが小声で呟く。
「なぁに、ちっとばかし手加減はしてある。あの程度で死にゃあしねぇ」
ルキーテの前に出たバランダは、倒した男には目もくれず、階段へと視線を動かした。
「それより、次が来るぞ。不意討ちは効かねぇだろうから、オメェは下がってな」
これだけ騒ぎを起せば当然の如く、相手も用心してくるはずである。
バランダの言うとおり、出会い頭の虎哮で怯ませるという手はもう使えないと考えるべきだろう。
「わかった」
本格的な戦闘になれば、子供の自分にはほぼ勝ち目がないのは明白であるため、ルキーテは素直に従ってバランダの背中から距離を置いた。
それでも、外部からの増援があるかも知れないと、後方に対して気配を探ることは忘れない虎人族の少女であった。
「良くない予想というものは、何故か当たるものですねぇ。
ヤスキさん、どうやら勇敢なお仲間たちが、貴方がたを救出するためにいらしたようですよ」
階下で響いたルキーテの咆哮と、直後に発せられた交渉役の男の悲鳴を聞いて尚、リバロは修一郎に余裕のある笑みを向ける。
交渉役がやられたということは、外から店内に至るまでの障害を全て突破したのだろうが、リバロたちは六人もの人質を有しており、尚且つリバロの相方らしき男は体を張った荒事を専らにする者のようである。
未だ、自分たちの優位は揺らいでいないと言わんばかりの態度を見せているリバロであった。
「ルード。下の“お客様”の相手をしてきなさい。
当然、こちらには人質がいることは教えて差し上げるのですよ?それくらいは出来ますね?」
先ほど、兄と呼んだ男からきつい言葉を投げつけられたにも拘らず、内心を感じさせない表情のルードに対し、リバロの顔と声は真冬の風を思わせる冷気を纏っているように感じられた。
「………………」
ちらりとリバロと修一郎を見たルードは、一切言葉を発することなく、リバロの命令に従って応接室を出て行った。
「諦めてはどうですか?ルキーテは聡い子です。来たのはあの子だけではないでしょう。
まず間違いなく、警護団にも連絡は行っています。じきに、貴方たちは包囲されることになりますよ」
部屋を出て行くルードの背中からリバロへと視線を移し、修一郎が説得を試みる。
おそらく無駄であろうが、それでも僅かなりとも時間を稼がねば、今すぐにもソーンリヴたちの命が奪われてしまうのだ。
一度は諦めかけた修一郎であったが、こうして仲間たちが動いてくれていることが分かったからには、最後の最後まで採れる手段の全てを使って抗い、彼らの勇敢な行動に報いねばならない。
「言ったでしょう?こちらには、貴方やマリボーさんを含めて、人質が六人も居るのです。
それに、予定外の問題が起こった際に対して、私が策を用意していないとでもお思いですか?」
案の定、リバロは余裕の笑みを崩さぬまま、修一郎に応じた。
そして、相方の男へ向けて指示を出す。
「さあ、ルードが新しいお客様に対応している間に、貴方は仕事を進めてください。
いつものように、“完璧に”お願いしますよ」
「…………」
頑強な体格の男が無言の内に、腰に挿していた短剣を引き抜き、床に転がされたマリボー商店の従業員たちに向けて歩み寄ろうとした、その時。
表通りに面した応接室の窓ガラスが、けたたましい音を発しながら割れた。
その場に居た意識のある全ての者が、そちらへと目を向けるが、『昏睡』の呪文によって気絶させられているゼリガとソーンリヴは、魔法の効果が今も続いているのか、その大きな音にもぴくりともしない。
「おやおや、これでも陽動のつもりなのですかね。
ですが如何せん、そこは素人故の拙さか、頃合がなっていませんねぇ」
窓を割ったのは、外から投げられた拳大の石であったが、最初の一つ以降、二つめが投げ込まれてくる様子はない。
そのことから、リバロは従業員出入口から侵入した者が少しでも動きやすくするための陽動だと思ったのだろう。
これが手慣れた者ならば、見張りを密かに倒した後、別働隊とも呼ばれる者が陽動をかけて一方に注意を引き付けておいてから、内部へ突入するものだ。
でなければ、陽動が全く効果を発揮しないどころか、突入した者は相手が差し向けた戦力によってさっさと潰されてしまう。
今回のように、タイミングがずれてしまっては意味を成さないのだ。
所謂“汚れ仕事”をいくつもこなしてきたリバロは、修一郎の周囲の者に対しても、確りと事前調査を行っていた。
戦いに慣れた二人の冒険者は、今現在アーセナクトを離れている。
修一郎の被保護者である少女は、戦闘に長けていると言われる虎人族ではあるが、所詮はまだ子供。
マリボー商店の従業員の中でも、身体能力や魔力が高い犬人族やエルフ族といった者たちは、この場に拘束してある。
残るは、ノーム族とドワーフ族の職人たちと食堂を営んでいる猫人族夫婦くらいだが、こちらはその辺の一般市民と変わらぬ戦う術を持たない連中だ。
王都アーオノシュには、修一郎の家族とも呼べる騎士団員のセギュールと警護団員のカーロンといった厄介な相手が居るが、王都とアーセナクトとの距離が文字通りの障害となっているため、今この場に救援に来ることは不可能である。
結論として、踏み込んできたのは虎人族の少女と精々がノーム族かドワーフ族くらいであろうと、リバロは目星をつけていた。
「まあ、いずれにせよ私は私の“仕事”をすることにしましょうか」
窓から視線を外したリバロは、ズボンのポケットから別の指輪を取り出して、今まで填めていたものと交換した。
「この店の主であるマリボーさんには申し訳ないのですが、マリボー商店は“原因不明の出火”によって焼け落ちることになるようですよ。
長年、こつこつと大きくしてきた店を失うのは、商人としては身を斬られるよりも辛いでしょうが、“事故”では仕方ありませんねぇ。
まあ、王都に支店を出されたようですし、今後は息子のブルソーさんの努力に期待するということで、我慢してこの店と運命を共にしてください」
今まで以上に人を食った態度と口調で、マゴール商店の暗部で働く男が、小指の先ほども有難くない未来を語る。
「何が原因不明の出火だ!何が事故だ!貴様らが火を放つんだろうが!」
流石に耐えかねたのか、マリボーが怒声を上げる。
「いえいえ、原因不明の出火事故ですよ。少なくとも、世間の皆様にはそう発表されますからねぇ」
そんなマリボーに対して、不快に粘つくような喋り方のまま、リバロは平然と返した。
それを聞いて、修一郎は悟る。
ロフォル・マゴールは魔法院だけでなく、アルタスリーア王国の警察機構である警護団に対しても影響力を持っている、ということを。
で、あるならば、ルキーテたちが警護団へ駆け込んでいたとしても、まともに動いてはくれないのではないか。
先ほどリバロが言った、“方策”とはこのことであったのか、と。
いよいよもって、自力でこの現状を切り抜けなければ、修一郎たちは不幸な事故で命を落としたものとして片付けられてしまう。
だが、それを否定する声が窓の外から響く。
「そうはさせさいよ!『暗闇』!」
続いて発せられた言葉によって発動した魔法は、壁にかけられた術石製ランプの光まで覆い隠す闇を、応接室内にもたらした。
「なっ……!?」
リバロは既に窓から注意を逸らしており、完全な不意討ちを食らうかたちとなる。また、それは相方の男も同様であった。
なまじ、“そういった仕事”を専門としてきていただけに、窓ガラスを割ったのは稚拙な陽動であると決め付けてしまった、彼らが犯した失態と言えるだろう。
実のところは、ルキーテたちが陽動で、こちらが本命に近いのだ。尤も、救出する側にとってはどちらも本命のようなものだったのだが。
「嬢ちゃん!シュウイチロー!」
猫人族の特徴である物音をたてぬその身軽さと、種族が生まれながらに習得している固有魔法の『暗闇』を使って、この場に混乱をもたらしたのは、プレルであった。
「くそっ!お前は早くそいつらを殺せ!」
顔の前に翳した手の平すら見えない闇の中、僅かに怯んでいたリバロは、何とか状況を把握し相方の男へ指示を出す。
しかし、その声には先ほどまでの余裕は微塵も感じられなかった。
「殺されるわけにはいかない」
男がいた方向から、別の落ち着いた男性の声が聞こえる。続いて、鼓膜を突き刺すような高音が、その場に居た者全員の耳を痛めつけた。
「ぐっ……!」
気を失っているゼリガとソーンリヴはともかく、それ以外の者たちは多少の違いはあったものの、同じような呻きを漏らす。
室内が魔法による暗闇に包まれたと知ったクローフルテが、すぐさま隣に居たイルーの猿轡を口を使って解いたのだ。
そして、鳥人族のイルーは口の戒めがなくなったのを確認すると、自らの固有能力を使用したのである。
彼の遥か遠い祖先は、その声で対象とした者の意識を操ることも出来たらしいが、今では高周波の音……所謂超音波を発することしか出来ない。
「イルー!ちょっとは加減しな!」
堪らずプレルが悲鳴に近い文句を言うが、
「命の危険が差し迫った場面で、能力の加減などできない」
返ってきたのは冷静な言葉であった。
だが、プレルの言うことは尤もであり、人間族に比べて視覚や聴覚といった身体能力が高い者の多い獣人族や妖精族にとっては、彼の使う能力は強力すぎるのだ。
だからこそ、リバロたちはイルーを拘束した際に、声を出させぬように猿轡で塞いでいたのだが。
「鳥風情がっ!」
今や完全に本性を顕わにしたリバロが、罵りながらも己の魔法を発動させようと、指に填めた指輪へと魔力を込める。
「やめなさい!」
その気配を感じとった修一郎は、一か八かの行動に出た。
声のした方向へと、応接用テーブルを越えて体ごとぶつかって行ったのである。
幸運にも暗闇の中で起したその行動は図に当たり、飛び掛った修一郎の体は、リバロともつれ合うようにしてアームチェアごと後ろへと倒れこむ。
「貴様ぁ!」
怒気を孕んだ怨嗟の声を上げるリバロ。
光が一切見えない闇の中で、二人がもみ合う音だけが聞こえる。
「ちっ!」
「ぐぅっ……!」
リバロの短い舌打ちの直後に、修一郎のくぐもった声が発せられた。
それが合図であったかのように、プレルの唱えた『暗闇』の効果が消え、室内に光が戻る。
「ヤスキ!」
「シュウイチロー!」
「しゅういちろうさん!」
マリボーが、プレルが、そしてクローフルテが、人工の明かりに照らし出されたその光景を目の当たりにして、修一郎の名を呼んだ。
「ぐっ……ううっ……」
本来の効果を再び発揮している術石製のランプが、二人の人間族を照らしている。
そこにはナイフを手に片膝をついたリバロと、床に倒れこんだ修一郎の姿があった。
そのナイフには、赤い液体が付着しており、下げた切っ先から、滴が一滴、また一滴と床に敷かれた絨毯に落ちている。
修一郎の腕を縛っていた縄はもみ合った際に偶然解けたのか、彼の傍に落ちており、本人は身体をくの字に曲げ、腹部に手を当てて苦痛の呻きを上げていた。
手を当てている制服の部分は、修一郎の体内から出る血液が黒い染みとなり、しかもそれがかなりの速さで拡がりつつある。
飛び掛られたリバロが、咄嗟に懐から取り出したナイフで修一郎の腹を刺したのだ。
リバロは荒い息を吐きながら、その姿を見下ろしていたが、やがてそこから視線を外すと室内を見渡した。
相方の男は、超音波に怯んだところを、プレルによって縄を解かれたイルー本人に組み伏せられ、その手からは短剣が奪われていた。
クローフルテやゼリガたちを縛っていた縄は、これもプレルが素早く解いており、全員が身体の自由を取り戻している。
そして、そのゼリガだが、イルーの発した超音波で意識を取り戻したのか、ソーンリヴを抱えて立ち上がったところであった。
「シュー!」
「う……ん……。何だ?シュウイチロウがどう……っ!?」
仲間が呼んだ同僚へと遅れて目を向けたゼリガが、彼らと同じく修一郎の名を口にする。
ソーンリヴは未だ『昏睡』の効力が完全に消えていないのか、暫く焦点の合ってない目で辺りを見回していたが、ゼリガの声につられるように床に倒れている部下の姿を見て、息を飲んだ。
「そこまでだ貴様ら。動けば、この男の首にコイツを突き立てる」
乱れた髪もそのままに、リバロはナイフを翳してゆっくりと立ち上がると、つま先で修一郎の肩を蹴る。
「くっ、ぐうぅっ……!」
両手で腹を押さえていた修一郎は、苦痛に顔を歪め、されるがままであった。
「よくもまあ、素人がここまでやってくれたもんだ。少々貴様らを侮りすぎていたようだな」
そう語るリバロの、瞳に宿る青白い炎がさらに激しさを増す。
「得物で直接手を下すのは好きじゃないが、今回は特別だ。
おい、そこの鳥野郎。その男を放せ。一度しか言わんぞ」
既に声も表情も取り繕うことを放棄したリバロは、粗野な態度でイルーに命令する。
「イルー、放すな。こいつの言うとおりにしたところで、結局俺たちは殺されるんだ」
決然とした口調でそう言ったのは、マリボーであった。
彼としても、修一郎の命を軽く見ているわけではない。何より、親友であったコタールの忘れ形見とも呼べる存在なのだ。
しかし、ソーンリヴをはじめとした四人の従業員、それに助けに来てくれたプレルの命と、修一郎一人の命を比べれば、どうしてもそう言わざるを得なかった。
短剣を持った頑強な男はイルーが押さえ込んでおり、現状では相手はリバロただ一人。
この場に居る者が一斉に挑めば、取り押さえることが可能かも知れないのである。この好機を見逃すわけにはいかない。
「マリボーさん、何を!」
しかし、それに異を唱えた者が居た。
それは目下の相手であるリバロではなく、ソーンリヴである。
「このままではシュウイチロウが殺されてしまう!貴方はアイツを見捨てるつもりなのですか!」
ここ最近の懊悩と、前日からの睡眠不足、『昏睡』から強制的に覚まされたことによる正常な思考能力の低下、そして修一郎に対する自身の想いといった様々な要素が重なって、ソーンリヴからはいつもの冷静さが完全に失われていた。
「落ち着け、ソーンリヴ」
低く良く透る声で優しく諭すように、マリボーが宥めるが、深藍色の髪の事務員は普段よりも高いトーンの声で反論する。
「落ち着いていられるわけがないでしょう!?早くしないと、アイツが死んでしまう!」
「黙れ」
錯乱の一歩手前といった状態のソーンリヴの言葉を遮るように、リバロが口を開いた。
「おい、女。お前にこいつの手当てをさせてやる。
だから、そこの鳥野郎から剣を取り上げてこっちに来い」
邪悪な、という表現が相応しい笑みを浮かべ、修一郎を刺した男がソーンリヴに顔を向ける。
「わ、分かった……」
「おい、ソーンリヴ!」
頷くソーンリヴに、それを押し留めようとするゼリガの声が重なる。
「イルー。すまない、その短剣をこちらに渡してくれ」
リバロの命令に、まるで何の疑問も持たないかの如き態度で、ソーンリヴはイルーに歩み寄る。
男を組み伏せたまま、どうすべきか迷っている様子のイルーへと、ソーンリヴが手を伸ばそうとした時。
「いけ、ません……」
反射的に声のした方向へ振り向くと、修一郎が顔を上げようとしていた。
その額には脂汗が幾筋も流れており、発する声も途切れ途切れである。
「いけません、ソーンリヴ、さん……」
そう繰り返すと、修一郎は更に身体を動かそうとする。
激痛が襲うのか、その度に顔が歪み、新たな脂汗が額を伝った。
「この男の、言いなりに、なっては……いけません」
それでも尚、修一郎はソーンリヴに向かって制止の声を投げかける。
だが。
「死に損ないが喋るんじゃない」
リバロが再び修一郎の体を蹴ると、その長身はいとも簡単に数歩分ほど転がった。
「ぐ……あっ、ううっ」
「どうした?早くしないと、こいつが死んでしまうぞ?」
「分かった!分かったから、やめてくれ!」
ソーンリヴの絶叫に近い声が、室内に響く。
口を閉じたソーンリヴは、再びイルーへと向き直る。
彼女の動きは、やけにゆっくりとしており、まるで夢遊病者のようであった。
「イルー……頼む」
その髪と同じ色の目には、涙が浮かんでいる。
「ソーンリヴ、お前は……」
目の前に立つ人間族の女性の想いに気付いたイルーが、口にしかけた言葉を飲み込んだ。
「早くしろと言っているんだ!」
しかし、そんな遣り取りに焦れたのか、リバロが声を荒げる。
確かに、ルキーテたちが踏み込んできてから、結構な時間が経っていた。裏で手を回しているとは言え、そろそろ警護団がやって来てもおかしくない頃合である。
事後の手筈は整ってはいるが、流石に現行犯で捕まってしまえば、ロフォル・マゴールの力の及ぶ範囲から外れてしまう。
早急に“仕事”を終えねばならない状況に、リバロたちが追い込まれているのは事実であった。
そうして、この場に居る者の殆どがソーンリヴとリバロへと注意を向けていた、その時。
「これ以上は……」
異世界人の男の声が、彼らの耳に聞こえてきた。
「これ以上、私の大切な、人たちを失う……わけには……」
声のした方へと振り向くと、そこには必死の形相で立ち上がろうとする修一郎が居た。
汗にまみれ、腹からは血を流し、激痛に顔を顰めながらも、修一郎は足に力を込める。
体の中で、ぶつりぶつりと何かが千切れるような音がしたが、構わず修一郎は立ち上がった。
よろけそうになる足を一歩踏み出す。
「ほぅ……」
その様子を見たリバロは、凄惨な笑みの形に唇を歪ませながら、修一郎へと体を向けた。
「貴方の、思いどおりには……させま、せん……」
また一歩。
今や修一郎の着ている制服は、腹部から下は流れ出た血によって、ぐっしょりと濡れて黒く変色していた。
「シュウイチロウ、やめろ!」
ソーンリヴが叫ぶ。
それでも修一郎は、足を止めない。
「面白い……。折角だ。
魔法が効かない体質なのは分かったが、“魔法で作られた炎”も効かないのか試してみるか」
覚束ない足取りでこちらへ向かってくる異世界人に対し、リバロは指に填めた指輪を向ける。
それには、一般市民が使うことも学ぶこともない、炎の上位魔法の『猛炎』が封じ込められていた。
『発火』や『火炎』といった可愛らしいものではなく、魔獣との戦いや戦の場においてのみ使用を許された攻撃魔法である。
リバロが言っていた、“原因不明の出火”の“原因”とすべく用意していた物だ。
「よせ!」
それを見て、ゼリガが制止しようとするより早く、リバロはその言葉を口にした。
「『猛炎』」
直後、指輪が赤い光を発したかと思うと、修一郎の足元から凄まじい勢いの炎が噴き上がる。
「しゅういちろうさん!」
クローフルテが悲鳴を上げる。
「ヤスキ!」
修一郎の体質を知らされていたマリボーが、予想に反して消える気配のない大炎に包まれた者の名を呼ぶ。
「なんだ、ちゃんと効くじゃないか。
まあどの道、焼け死ぬ運命だったんだ。一足先に焼け崩れておけ。ははははは!」
嘲笑を浴びせるリバロの表情が固まったのは、次の瞬間であった。
そのまま倒れこむかと思われた修一郎が、また一歩リバロへと足を踏み出したのだ。
「なっ……!?」
「言った、はずです。貴方の……思いどおりには、させないと……」
燃え盛る炎の中から、再び異世界人の声が聞こえてくる。
そして。
『大切な女性を護れずに、このまま死ねるかぁっ!』
人の形をした炎が、“日本語”でそう叫ぶと、それまでの動きからは予想できない素早さでリバロへと飛び掛った。
たちまちリバロの衣服や頭髪に、炎が燃え移る。
「ひっ、火がぁぁぁ!」
炎に包まれたままの修一郎から少しでも離れようと、音程を外した声を上げながら、床を転げまわるリバロ。
一方、修一郎には、ある変化が起きようとしていた。
リバロが離れたかどうかというタイミングで、燃え盛る衣服の中から青い光が煌き始めたのである。
その光が一際強くなると、それまで修一郎に纏わり付いていた炎が一瞬にして消え失せ、代わりに大量の水蒸気がその身体を包んだ。
元ピクシー族であったオディアーナのペイシュヴィルが渡した、“湧水の青石”がその力を発揮したのだ。
ペイシュヴィルは特別な力などないと言っていたが、元々青石には水の加護が宿っている。水辺の妖精族であったペイシュヴィルにしてみれば、その程度の力はありふれたもので、特別な力と思わなかったのだろう。
だが、この時この場面では、その加護が最大限有効に働いたのであった。
「今だ!奴を押さえつけろ!イルーはそのままそいつを捕まえておけ!」
この機を見逃すマリボーではなく、自らも上着を脱いでゼリガとイルーへ向けて指示を出す。
「おうとも!」
「了解した」
獣のような声を上げて転げまわるリバロへと、ゼリガが向かう。
「エルフの嬢ちゃんとソーンリヴは、シューイチローの容体を看ておくれ!」
すかさず、プレルが女性二人に対し、修一郎の安否を確認するように言うと、自身も倒れた修一郎へと駆け寄った。
「はい!」
猫人族の声に応えたクローフルテも、修一郎の元へと向かう。
しかし、もう一人の人間族は自分の名前が呼ばれたことにも気付かないのか、修一郎を見つめたままその場に立ち尽くしていた。
「ソーンリヴ?……ソーンリヴ!」
怪訝に思ったプレルが、その女性の名を再び呼ぶと、ソーンリヴは一度びくりと身体を震わせて、漸く我に返ったように修一郎へと近づく。
しかし、その足取りは恐る恐るといった様子で、目の前の現実を受け入れたくないと言わんばかりであった。
「シュウ……イチ……ロウ?」
未だ身体のあちこちから煙が立ち上っている想い人から視線を外すことなく、その男の名を呼ぶソーンリヴ。
「シュウイチロウ!いやだ……いやだぁ!」
マリボーたちが、マゴール商店からの凶手連中を取り押さえる中、応接室にソーンリヴの絶叫が響き渡った。
窓の外から、ラローズの声と共に、何人かのヒトの声が近づいてくる。
少し離れた所からは、火に包まれ暴れまわっていたリバロを何とか取り押さえた様子の、マリボーとゼリガの会話が聞こえる。
耳元では、通い慣れた食堂の女将と同僚のエルフ族が何やら言っている。
階下のルキーテたちが気にはなるが、ルードが戻ってこないということは、上手く対処したのだろう。
どうやら、危機は乗り越えたらしい。
先ほどからソーンリヴが自分の名を呼んでいるが、こちらは声帯が機能してくれなくなっているようだ。
何か言って彼女を安心させたかったが、どうも無理そうである。
だが、一応彼女を護れたことには変わりない。
仲間が誰一人死なず、大切に想っている女性も護ることが出来たのだ。
そう結論付けた修一郎は、一言も発することなく、安心して意識を手放した。