第二十九話 ソーンリヴの苦悩と修一郎の想い
春の一の月(三月)二十九日。
アーセナクト市庁舎の大鐘が二回鳴る前に、既にソーンリヴは目を覚ましていた。
いや、正確に言えば殆ど寝ていない。
様々な思いが頭の中で勝手に歩き回り、昨晩早々にベッドへ潜り込んだにも関わらず、なかなか寝付けなかったのだ。
また、少しでもうとうととすれば、今最も見たくない光景が夢となって現れ、慌てて目を覚ますといった具合で、寝る前よりも疲れが溜まったように感じられた。
「まったく……。子供の恋愛じゃあるまいに……」
昨晩の有様を自嘲してみるものの、その恋愛自体経験したことがないのだ。
逆に、ソーンリヴがその“子供”に揶揄されてもおかしくない立場なのである。
眠気と陰鬱な気分を晴らそうと、ソーンリヴは部屋の窓を開けた。
朝日に照らされたアーセナクトの街並みから吹き込んでくる風は、涼気の残滓を含んでいて、彼女の深い藍色の髪を優しく揺らす。
「ふぅ……」
幾分か消え去った眠気に安心したのか、ソーンリヴは大きく深呼吸して、着替えるために部屋の奥へと足を向けた。
今日は二十九日。店の月締めが月末の三十日であるから、今日と明日は仕事が忙しくなる。毎月のことだ。
睡眠不足のせいで、事務処理で間違いを犯すなどという醜態を晒すことはできない。
それが先輩事務員としての矜持なのか、修一郎に対する一人の女としての見栄なのか、彼女自身にも分からない。眠気は覚めたが、焦燥にも似た感情は未だに彼女の中で燻ったままである。
そんな気分を切り替えようと、ソーンリヴは勢い良く夜着を脱ぎ始めた。
「ヤスキ、ちょっといいか」
事務室に入ってくるなり、マリボーが修一郎を呼ぶ。
「はい。……っと、すみません。この記帳が済んでからでは駄目でしょうか?」
未だに慣れない羊皮紙製の帳簿と羽ペンに苦戦しつつ、修一郎が応じる。
「うん……?ああ、分かった分かった。
記帳が終わったら、俺の部屋まで来てくれ。昨日の件で話がある。
いいか?待ちはするが、あまりもたもたしているんじゃないぞ?時間は金と等しく尊いものなんだからな」
修一郎の手許を見て一人納得したマリボーは、扉に手をかけたまま用件だけ伝えると、修一郎の返事を待つことなく、扉を閉めて立ち去って行った。
「いいのか?シュウイチロウ。その仕事は急ぎじゃないだろう?
先に、マリボーさんの用件を済ませてきたらどうだ?」
慌しく現れて慌しく去って行ったマリボーに対して苦笑している修一郎に向かい、ソーンリヴが口を開く。
「急ぎではなさそうでしたので。それに、書きかけの帳簿をそのままにしておくのも、落ち着きませんから」
マリボーの用件とは、まず間違いなく組合と魔法院で取り交わされる契約の日程に関することだろう。
マリボーが固有名詞を出さなかったのは、今のところ第三者であるソーンリヴがいたためか。
全てが本決まりになるまでは、店の者であっても口外すべきではないとマリボーが言っており、修一郎もそれに賛成していた。
ともかく、これで契約が締結されれば、修一郎が抱えている用事も全てひと段落付くことになる。
クローフルテの件についても、今夜にでもラローズが直接返事をすることで話が纏まっていて、相談者である彼女にもその旨を伝えてあるのだ。
であれば、明日からは以前のような日常を送ることができるだろう。
そう考えを巡らせ、安堵から口許を僅かに弛ませて修一郎は記帳作業を進める。
そんな修一郎の上司であり、彼に対する己の心情を持て余しているソーンリヴが、その様子を黙って見つめていた。
修一郎が記帳作業を終えて事務室を出て行くと、ソーンリヴは一人となった。
時刻は、もうじき大鐘三つ(正午)が鳴る頃合である。
作業の手を止めて、かけていたメガネを外すと天井を見上げる。
昼間でも薄暗い事務室の天井は、やや煤けた焦げ茶色の板張りだ。彼女にとっては、もう何年も見てきた光景の一つであった。
修一郎がやって来るまでは、仕事中の息抜きにこうして一人天井を見上げていたことが思い出される。
裏を返せば、修一郎が来てからは行われなくなっていたということでもあった。
「静かだな……」
どこを見るとでもなく、ぼんやりと天井を見上げていたソーンリヴがぽつりと呟いた。
実際には、流通部門の搬出入に関する指示や、表通りを行き交う人々の喧騒などが僅かながらも聞こえているのだが、今の彼女にとってそれらは無音に等しかった。
見慣れた狭い事務室が、何故だかやけに広く感じられる。
「最近、一人で居ることが多いな……」
ソーンリヴの今の心情が思わせているだけなのだが、この時は本当にそう感じられたのである。
仕事中は大抵修一郎と一緒に過ごしているし、家に帰れば母親が居る。
それでもソーンリヴは、王都より戻ってからというもの、一人になる時間が増えたと感じているのであった。
天井から視線を動かして、室内を見回す。
自分以外に誰も居ない事務室は、先輩事務員が辞めた直後に感じた心細さを思い出させた。
それと同時に、彼女の中にある焦燥感とも不安感ともつかない感情が、さらに大きさを増す。
所属部署の従業員として一人になったことと、プライベートで独りであることは、当然のことながら違う。
事務担当がソーンリヴ一人になっても、それは仕事上のことであり、それまでに重ねてきた経験をきちんと活かせば、きつくはあるが対処は可能であったのだ。
しかし、プライベートにおいて女性として独りであることは、彼女の人生において経験してきたことではあるとは言え、それに対処する術は知らないままであった。
今までは仕事でそれを誤魔化せてきたが、余裕ができた今はそうもいかない。
職場の同僚や幼い頃からの友人はそれなりに居るが、相方と呼べる異性が彼女の傍に居たことはない。
修一郎が、その位置を占めつつあったのだが、クローフルテとの一件を見てしまってからというもの、黒髪の異世界人とエルフ族の女性が恋仲にあるのではないかという、疑念がソーンリヴの頭から離れない。
「アイツは、彼女と……付き合って……いるのだろうか」
口にすることが酷く躊躇われたが、それでも言葉にしてしまったソーンリヴであった。
元々、彼女はここまで独り言を言う性格ではない。相手が目の前に居るならその場で言いたいことを言うし、思うことがあれば時間をかけてでも自分の中で噛み砕いて消化し、内に溜め込むことをしないのが、彼女の信条であるのだから。
しかし、こと修一郎とクローフルテの関係に対する疑念については、どうすれば良いのかすら思いつかない。
本当にあの二人は付き合っているのか。
想いを打ち明けたのは修一郎からなのだろうか。
頑なにクローフルテのことを名前で呼ぼうとしていたのは、そのためだったのではないか。
何時の間に付き合っていたのだろうか。
だが、今までにそんな素振りを見せたことはあっただろうか。
自分の気のせいではないのか。
しかしあの日、目撃した光景はどう見ても二人して抱き合っていなかったか。
だとすれば、やはり二人は付き合っているのではないか。
もしかしたら、近いうちに結婚するのかも知れない。
修一郎の言う“野暮用”とは、結婚の段取りについてのことではないのか。
暴走気味の思考を止めることが出来ず、仕舞いには何の根拠もない想像が頭に浮かぶ。
「修一郎が結婚……か」
今までは然して興味もわかず、自分とは縁遠い出来事と思っていた“結婚”という単語が、言葉になって紡がれる。
しかしそれを口にしてしまったことで、想像であったはずの疑問が一層現実味を帯びてきたように感じられた。
そういえば、とソーンリヴは好き勝手に暴れまわる想像を押し留めることなく、さらに加速させる。
アイツは元の世界で誰かと付き合っていた、若しくは結婚していたのであろうか。
修一郎の周りには、ここマリボー商店だけでも、クローフルテとレナヴィルという世間一般的に見ても美しい女性が二人もいる。
修一郎が贔屓にしている靴屋にも、年頃の少女がいると聞いたことがある。
だが、修一郎は今のところ独り身を通している。
これは向こうの世界に、想い人を置いてきたからなのではないだろうか。
ルキーテを引き取ったのも、修一郎の過去から来る思いだけではなく、虎人族の少女に向こうの世界に居る彼の子供の面影を見出したからなのではないだろうか。
ここまで来ては、ソーンリヴの思い過ごしや想像どころの話ではなく、完全に妄想の域である。
実のところ、このような“想像”は、昨夜からベッドの中で幾度となく繰り返されたことであった。
しかし、出口のない迷路のような思考に睡眠不足が加わって、ソーンリヴからいつもの冷静さを奪っており、そのことに彼女自身は気付いていない。
市庁舎の大鐘が三つ鳴り響き、アーセナクトの市民に正午を知らせる。
その音に我に返ったソーンリヴは、漸く“想像”を中断させて、自分の机に目を移した。
修一郎が事務室を出て行ってから、彼女の仕事は全く進んでいなかった。
今朝、自宅を出る際に決意したのに、早速この体たらくである。
「ああ、もう!馬鹿馬鹿しい!」
不意に湧き上がった苛立たしさと自らの失態に、椅子から立ち上がり、声を張り上げるソーンリヴ。
「なんでこんなことで悩まないといけないんだ!本人に直接訊けばいいだけだろうが!」
自分を叱責するようにそう言うと、椅子が微かに悲鳴を上げるほど荒々しく再び腰を下ろす。
大声を出したことで、幾分冷静さを取り戻したのか、ソーンリヴは止まっていた仕事を再開した。
仕事と私事は、分けなくてはならない。今までもそうしてきたのだし、これからもそうでなくては勤め人として失格である。
そのためにはこれからどうすれば良いか、ソーンリヴは作業の手を休めることなく、ささやかな計画を考える。
今日の昼食は修一郎と共にしよう、そして事実を確認しよう、そうすればこれ以上思い悩むこともない。
今のような状態が続けば、いつか大きな失態を犯しかねない。
それならば、良いにしろ悪いにしろ結果が分かったほうが、まだマシだ。
ソーンリヴが心を決めてから程なく、事務室の扉が開く。
「戻りました」
黒髪長身の後輩事務員が軽い足取りで戻ってきて、上司に一言そう告げると、自分の机に向かう。表情も見るからに上機嫌で、余程嬉しいことでもあったのだろう。
「どうした?何か良いことでもあったのか?」
努めて平静を装いながら、ソーンリヴが訊ねる。
自分の席に着いた修一郎は、それに気付くことなく機嫌の良い表情のまま顔を彼女に向けた。
「はい。実は……、ええと、日取りが決まったもので、つい」
浮かれていたためか、うっかりマリボーとの打ち合わせの内容を明かしそうになった修一郎は、途中で気付き、僅かに言いよどんだ後、差し障りのない答えを口にした。
つもりだった。
「……日取り?」
落ち着きつつあったソーンリヴの心に、再びさざ波が立ち始める。
何の日取りなのだろう。
マリボーから呼び出したくらいだから、おそらく仕事に関してのことだろうが、先ほどまでの“想像”が脳裏を過ぎる。
しかし、ソーンリヴは何とか自分を制御して、言葉を続けることに成功した。無論、口調も普段のものと変わっていない、はずだ。
「また、何か新商品でも取り扱うのか?それとも大口の取引でもあるのか?」
「いえ。そういったものとは少しばかり違うのですが……。
すみません、ソーンリヴさん。今はお教えすることができないので、これ以上は……」
申し訳なさそうな表情で言葉を濁す修一郎に、ソーンリヴも引き下がるしかなかった。
「分かった。言えないのなら、もう訊かんさ。
ただ、仕事に関係することだったら、なるべく早めに教えてくれ。事務手続きなどの作業が増えるなら、前もって準備しておきたいからな」
「ええ。おそらく、明日の午後にはお話できると思いますよ」
いつもの柔和な笑みの修一郎に戻ったのを見計らって、ソーンリヴは先ほど立てた計画を早速実行に移すことにした。
「ところで、さっき大鐘が三つ鳴ったんだが、昼食はどうするんだ?
もし、良ければプレルさんの食堂で一緒に食べないか」
これまでは、大抵修一郎から食事に誘ってくる場合が殆どで、ソーンリヴのほうからここまではっきりと誘ったことなど一度もない。
つまりは、“らしくない行動”であるのだが、精神的余裕を欠いている上司は、そこまで思い至っていないようであった。
「すみません。今から、一度自宅に戻らなくてはならないんです。
あ、夜ならお付き合いできますので、仕事が終わってからでどうです?」
「そ、そうか……。いや、気にするな。では夜だな」
諾の返事を期待していたソーンリヴは、その怜悧な顔立ちに失意の色を浮かべそうになったが、ここでも何とか己をコントロールして、些事であるかのように振舞った。
昼が夜に変わっただけのことだ。今日中に問題が解決することに変わりはない。
そう、自分に言い聞かせながら。
「それではちょっと行ってきます。午後の始業までには戻りますので」
「ああ」
淡白な遣り取りを交わした後、修一郎が出て行くと、事務室には再びソーンリヴだけが残された。
「……露店で何か買ってくるか」
気分と同じだけ重くなったように感じられる腰を上げると、深い藍色の髪をした先輩事務員は、後輩から少し遅れて事務室を後にしたのだった。
大鐘三つに子鐘五つ(午後五時)を少し過ぎた頃、事務室の扉が控え目にノックされた。
「はい、どうぞ?」
午前中の売上金確認をしていた修一郎が手を止めて、応じる。
「失礼します」
抑揚のない声と共に姿を現したのは、販売部門のエルフ族の女性であった。
「…………」
普段と変わらず、無表情のまま事務室内に入ってくるクローフルテを目にして、またもソーンリヴの心がざわつく。
それに気付き、自分はここまで心の弱い人間だっただろうか、と自嘲しつつも、しっかりしろ、と再度自らを叱責するソーンリヴ。
そんな彼女を他所に修一郎とクローフルテは言葉を交わしている。
「マリボーさんから、お茶を持ってくるようにと言われました。流しを使わせていただけますか」
「ああ。そう言えば、社長が子鐘五つに来客があると仰ってましたね。どうぞ使ってください。
お茶は普通のもので宜しいのですか?」
店の建物内で、湯を沸かすことができる竈があるのは、ここ事務室だけである。
当然、来客時に出す茶はここで淹れて持っていくことになるのだが、その役目は大抵は事務員である修一郎かソーンリヴであった。
今回のように販売員に持ってこさせるということは、滅多にない。
「はい。普通のお茶で構わないそうです。
何でもマゴール商店の方のようで、間違ってもコーヒーは出すな、と言われました」
「なるほど……」
修一郎は、何やら得心がいったとばかりに頷いている。
マリボーがロフォル・マゴールを快く思っていないことは、この店に勤める大半の従業員が知っていることである。
流石に、あの野郎呼ばわりするくらいに嫌悪している事実を知っているのは、息子のブルソーと修一郎だけであったが。
「では、お茶の準備をしましょうか。私は茶葉とカップを用意しますから、クローフルテさんはお湯を沸かしていただけますか」
「はい」
立ち上がって流しへと向かう修一郎に、クローフルテが続く。
その最中に交わされた二人の会話に、ソーンリヴは違和感を覚えた。
遣り取りだけ聞けば、いたって普通の会話である。だが、普段であればすぐさま呼び名に関して訂正されるはずなのに、クローフルテはそれをしなかった。
余程親密な関係にある者を除いて、エルフ族であるクローフルテは名前だけで呼ばれることを嫌っている。
同僚としてかなりの先輩にあたるソーンリヴでさえ、名前に氏族名を付けて呼ばないと、いつもの表情で訂正を求められるのだ。
心臓が一際大きく跳ね上がったような錯覚に囚われる。
クローフルテが聞き逃したのか?
いや、とりわけ急いでいるわけでもない現状で聞き逃すことなど有り得ないだろう。
では、いくら言っても態度の変わらぬ異世界人に、流石のエルフ族も根負けしたのか?
呼び名に関してはクローフルテ個人の拘りではなく、その種族全体の仕来りであったはずだ。
ならば…………。
先ほど自らの弱さを戒めたばかりだというのに、またも嬉しくもない想像が頭を駆け巡る。
以前のソーンリヴであれば、そんな自分を省みて、さぞや盛大に嗤うことだろう。何を思い躊躇っているのかと。
千々に乱れる思いを上手く纏めることができないまま、二人の様子を眺めていたソーンリヴの耳に、クローフルテの発した言葉が飛び込んでくる。
「しゅういちろうさん、ポットはどちらを使えばいいのでしょうか」
「ああ、来客用はですね……」
何?
クローフルテは今、何と言ったのだ?
修一郎の名前“だけ”を呼ばなかったか?
思わず席から腰を浮かしたソーンリヴに、修一郎とクローフルテの視線が集まる。
いきなり立ち上がった上司を不審に思ったのか、修一郎が声をかけようと口を開いた。
と、その時、事務室の扉がノックされ、続いて人間族の男が顔を覗かせた。
「失礼するよ……っと、おお、丁度良かった。ソーンリヴ、ウチの旦那が呼んでるぜ」
現れたのは流通部門のルードである。扉を開けるなり、室内を見渡して目当ての人物を見つけると、用件を告げる。
「ゼリガさんが?ご本人が直接来ないとは珍しいですね」
お疲れ様です、と前置きして、修一郎がルードに対応する。
「ああ、ちょっと今搬入で揉めててな。手が離せないってんで、俺が来たんだ」
「そうでしたか。良ければ、私が伺いますが?」
「どうだろうなあ。ヤスキは魔法が使えないんだろ?旦那は納品板がどうのと言ってたからなあ」
にやりと笑うと、ルードは修一郎からソーンリヴに視線を移して、問い掛けた。
「そういうわけだ。ちょっと来てくれないか?
……おい、ソーンリヴ?」
クローフルテの言葉に衝撃を受けて呆然としていたソーンリヴが、漸く我に返る。
「あ、ああ?なんだ、ルードじゃないか」
「なんだ、じゃねぇって。ゼリガの旦那が呼んでるんだ。
ぼーっとしてないで、流通まで来てくれよ。じゃないと俺がどやされちまう」
「そ、そうか、悪い。シュウイチロウ、後は頼む」
「分かりました」
急かすルードに引っ張られるようにして、ソーンリヴは荷卸し場へと向かって行った。
その様子を見守っていた修一郎が、上司を案ずる心情を口にした。
「今日のソーンリヴさんは、どこか様子がおかしい気がします。何かあったのですかね……」
それに対して返ってきたクローフルテの言葉は、修一郎の思ってもみないことであった。
「恐らくですが、私が、しゅういちろうさんを名前で呼んだからではないでしょうか」
「え?私の名前……あぁ!」
言われて初めて気付いたように、修一郎は声を上げた。
エルフ族が血縁者以外の者をファーストネームで呼ぶのは、余程信頼している者か恋人しか有り得ないのだ。
それはこの世界の者ならば、誰でも知っていることであり、ソーンリヴも例外ではない。
「もしかして、勘違い……されたんですかね?」
恐る恐るといったふうに、クローフルテに訊ねる修一郎。
「……だと思います」
訊かれたエルフ族の女性が、軽く頷きながら答える。
「拙いなあ。そういうのじゃないんだけど……」
「…………」
収まりの悪い髪を掻きながら呟く修一郎を、黙って見つめていたクローフルテであったが、意を決したように口を開く。
その内容は、修一郎に追い討ちをかけるものであった。
「私がこのようなことを言うのもおかしいのですが、しゅういちろうさんはソーンリヴさんに想いを伝えたのですか?」
「えっ!?」
「違うのですか?」
素っ頓狂な声を出す修一郎に対し、意外そうな表情で尋ね返すクローフルテの声は、落ち着いている。
「い、いえ……。その、ち、違わないのですが……。
ひょっとして、職場の皆さんにバレてたりとか……してます?」
狼狽する異世界の人間族に、エルフ族の女性が悪戯っぽく笑う。それは、修一郎も初めて見る表情であった。
「安心してください。知っているのは、私を含めて販売部門の三人と、ゼリガさんくらいだと思います」
「それだけ居れば充分ですよ!」
照れ隠しとも自棄とも取れる、修一郎の絶叫が事務室に響き渡る。
「大丈夫です。しゅういちろうさんが告白されるまでは他言しないと、皆さん言われてましたから」
何時の間にか、その四人の間で密約らしきものが取り交わされていたらしい。レナヴィルあたりは、単に面白がっているだけかも知れないが。
有難いやら恥ずかしいやらで、修一郎の表情は複雑である。
年齢的には中年の域に突入しているのだが、恋愛事に関しては歳相応に経験を積んだわけではない修一郎だった。
「つまり、告白しない限りは“温かく見守られ”続けるわけですね、私は……」
打って変わって項垂れる修一郎に、クローフルテが慰めるように微笑んだ。
「私の頼みごとを聞いていただいたお礼があります。出来る限りお手伝いしますから、頑張ってください」
「……そうですね。クローフルテさんの時のように上手く行くかは分かりませんが、精々頑張ってみますよ」
今晩は、終業後にプレルの食堂で一大イベントが控えている。
流石に、そのような日に自分の事で皆を混乱させるわけにもいかないが、近いうちに腹を括らねばならないだろう、と修一郎は思い定めた。
職場内恋愛は、向こうの世界で先輩が見事成就させたのを目の当たりにしていた修一郎である。それについての抵抗はない。
だが、相手に受け入れて貰えなかった場合を考えると、どうしても二の足を踏んでしまうのだ。
修一郎としては、告白を断られても、これまでどおり上司と部下という関係が続けばそれで構わないと思うのだが、ソーンリヴもそうだとは限らない。
最悪の場合、ソーンリヴはこの店を辞めてしまうかも知れない。マリボーの店にとっても、ソーンリヴにとっても、それだけは避けねばならない。
自分のせいで他人が不幸になるのは、これ以上見たくなかった。
その考えがあるからこそ、今まで告白を躊躇っていたのだが、そろそろ限界が近づいているようであった。
もし、この場にソーンリヴが居れば、今までの苦悩は何だったのかと怒り出すかも知れない。
だが、生憎とソーンリヴはゼリガに呼ばれて荷卸し場へと出かけていて、ここには居ない。
マリボー商店の先輩事務員が、異世界から来た後輩事務員の想いを知るのは、もう少しだけ先のことである。