第二十八話 一つの決着と一つの問題
「シュウイチロウ・ヤスキ君。先日の申請に対し、市長からの認可が降りた。
よって、君の知識或いは提言によって作られた物品や機巧、技術的概念に伴って発生する利益の百五十分の一は、アルタスリーア王国商人組合を通して君に還元されることとなる。
残りに関しては、従来の物品や機巧と同様に製作者・生産者、販売者、商人組合にそれぞれ分配される。また、君の保証人となるマリボー・ワットに対しても、一定額が商人組合から手渡されることになる。
なお、機巧や技術的概念を国が“買い取った”場合は、商人組合からではなく、国から直接君に対価が支払われる」
「はい」
「君がもたらす知識に則って作られる物品や機巧及び技術的概念は、国が占有する場合を除き、商人組合と君の許可を以って、他の商人や職人、組合にも提供することができる。
既に製作・販売されている物品及び現在開発中の機巧についても、遡って適用される。
国が占有する機巧や技術的概念に関しては、国が指定する者に対してのみ製造若しくは運用を許可される。
これも異論はないね?」
「はい」
組合長の座る机を挟んで直立不動の姿勢を保ったまま、修一郎は短く応えた。
アーセナクト商人組合の組合長執務室でのことである。
執務室はロントラール(商館)ではなく、市庁舎の中にある。一般市民が立ち入りを許されることのない三階部分に位置し、同階には市庁舎上級職員の中でも要職にある者の執務室や、市政に携わる貴族の私室が並ぶ。
組合長が一人で使うには広すぎるように思える執務室は、落ち着いた色調の家具や絨毯で統一されており、隣室には組合長専属の使用人の部屋まで用意されているらしい。
商人組合を束ねる目の前の初老の人間族は、アーセナクトでも最大級の規模と長い歴史を持つ大店の店主でありながら、爵位を持つ貴族でもある。それを考えれば、この広さの部屋を所有していても何ら問題ないのだろう。
尤も、組合長に授けられる爵位は世襲制ではなく一代限りのものであり、現組合長もその立場から退けば、表向きは一般市民に戻ることになる。
このあたりは、商人が必要以上の力を持つことを恐れた国側と、アルタスリーア王国の発展に大きな功績を残し、今も尚大きな影響力を持つ商人側との駆け引きの結果だ、とは店を出る際に教えてくれたマリボーの言である。
六百年以上前に制定された“大陸憲章”には、アルベロテス大陸に住まう者たち……特に最大個体数を誇る人間族は、国と国の戦を回避することに注力すべしと記されている。
無論、そんなものは建前であり、“大戦”後にも種族対種族、部族対部族、国対国の戦が幾度も起きていた。
しかし、“大戦”の忌まわしい記憶が大陸の住人を動かすこととなり、当事者以外の第三者の介入によって戦火が広まる前に沈静化させられるのが常であった。
そして“大陸憲章”制定後、三百年が経過する頃には、各国の王や種族長、部族長は『鉄での争いではなく、金での争い』で問題を解決する術を選ぶようになっていた。
言うまでもなく、鉄とは武器とそれを手にする兵士のことであり、金とはカネを遣り取りする商取引のことだ。
こうして表立って兵を動かす戦争は、この大陸から姿を消すこととなったのだが、裏面での駆け引きは以前に増して激化していった。
そんな中、技術及び人的資源の確保について最も貪欲に立ち回っているのが、国家指導者とその周辺の者たちである。
固有の能力や技術を持つ獣人族・妖精族は勿論のこと、原因不明ながらも数十年から百年に最低一人は現れる異世界人がもたらす、この世界には存在しない或いは未だ発明・発見されていない知識や技術は、軽視できるものではなかった。
本来であれば、それほど貴重な存在の異世界人を各国は拘束なり監禁なりをしてでも確保するのであろうが、それを縛るのが大陸憲章に記された一文だった。
曰く、『異世界より来たりし者については、いずれの種族もその行動を制限してはならない。ただし、その者がこの大陸に住まう種族に対し、明らかな害意を持っていると判明せし時は、その限りではない』。
この文言が、当時どういった意図で書かれたのかは、今となってはそれこそ国王や種族の長でもなければ知る者などいないだろう。
だが、憲章に記されているのならば、この大陸の住人はそれに従う義務がある。
その一文があるからこそ、修一郎は今も表向きは自由に行動できているのだ。当然の如く、陰から監視の目が張り付いてはいるのだが。
「ただし」
そう言って、初老の組合長が修一郎を見る。その視線は、取引をする際の商人のものと言うより、力なき者を睥睨する貴族のそれであった。
「国王の許可なくこの国を離れ、他国に移住若しくは店を構えて商売をしようとした場合、それがいかなる理由であろうとも、先に述べた君が所有する権利は全て消失することになる。
加えて、君の保証人であるマリボー・ワットに対しても相応の処分が下される。
それを忘れないことだ」
「……分かりました」
所詮は体のよい囲い込みか。心の中でそう呟きながらも、蝋で固めたように表情を変えることなく、努めて冷静に修一郎は応じた。アルタスリーアを離れるつもりなど毛頭ないのだが、己が身だけではなくマリボーにまで累を及ぼすとなれば、修一郎が口にすることのできる言葉はそれしか残されていないかった。
ふと、以前、修一郎の提案で作られた品物を巡る騒動で、バンルーガ王国の魔法院相手に遣りあった記憶が思い出される。あの時は、国王の名前こそ出されなかったものの、矢張りバンルーガ魔法院も修一郎を国内に留めようと躍起になっていたことがあったのだ。
コタールを喪った直後であり、半ば自棄になっていた修一郎は自らの身の安全を考えず、魔法院に相対する態度を取った。
結果的には無事開放されたのだが、今思い返すと、事故や病気などの適当な理由をでっち上げられて害されていた可能性もあるのだ。それに比べれば、アルタスリーアの商人組合の対応は紳士的と言っても良いくらいである。
大陸憲章に謳われていると言ったところで、所詮は“決め事”である。その決め事の網目を掻い潜り、自らに都合の良いように解釈して事を運ぶのは、人間の性なのかも知れない。
ふと、獣人族や妖精族はどういった対応をするだろうか、という思いが修一郎の頭に浮かぶ。
人間族に比べ種族全体の個体数こそ及ばないものの、身体的・魔力的能力に優れた者が多い上に、種族固有の能力も有している彼らがこの大陸の国々を統治していたら、どうなっていただろう。
大陸憲章の内容もまた、違っていたのではないだろうか。そうなれば、修一郎のような異世界人の扱いも、多少は変わっていた可能性があるのかも知れない。
そこまで考えて、修一郎は心の中で頭を振った。自分の与り知らぬ所での出来事はともかく、現状でも充分、自由に暮らせているのだ。今さらな、仮定に仮定を重ねたような“もしも”を考えても仕方がない。
修一郎の頭に一瞬湧き上がった反発に似た感情は、「態々釘を刺さずとも、この国から離れるつもりなんぞない」といった子供じみたものであったのだから。
それを自覚しているだけに、内心は別として表面上は従順を装う修一郎だった。
「宜しい。では、王の署名がされた許可証を渡そう」
目の前の異世界人の返事に満足したのか、組合長は一つ頷くと、傍に控えていた人間族の男に視線で合図する。
「これがある限り、君のアルタスリーア国内における地位と自由が、国王と商人組合の名によって保証される。
喜びたまえ。名実ともに、君はアルタスリーア国民となったわけだからね。
ああ、それに無理して働かずとも、一定の収入も保証されるのだったね。なんとも羨ましい限りだよ」
恩着せがましいうえに、棘のあり過ぎる台詞と共に、銀色の金属で作られた許可証を修一郎に手渡したのは、マゴール商店の店主であるマゴール本人であった。
限りなく肥満に近い体躯を上等な絹の衣装で包み、その身体の上には丸い顔が乗っかっている。そこには笑顔が浮かべられているが、その目を見れば心からの笑顔でないことくらいは修一郎でも分かる。
マリボーの話によると、商人組合の会計長に就いているそうだが、本業の商売の強引さと人望のなさはアーセナクト商人の中でも五本の指に入るレベルであるらしい。「はっきり言うと、いけ好かない奴だ」と、思い切り渋い茶を口にしたような表情でマリボーは語っていた。
そんなことを思い返しながらも、修一郎は神妙な表情で許可証を受け取った。
「ありがとうございます」
「我々アーセナクト商人組合は、君の知識に期待しているのだよ。一般市民がより良い生活を送ることができるように、様々な方面で君の知識を活用してくれたまえ。
勿論、それによって得られる利益にも期待はしているがね」
「はい」
この者たちは、自分を発明家か何かと勘違いしているのではないだろうか、と修一郎は思う。
過去の異世界人がどうであったのかは部分的にしか分かっていないが、少なくとも自分は専門知識など持ち合わせていない。
今までこちらの世界で再現した品々は、継ぎ接ぎの知識や見聞を元に、なんとか“それらしいモノ”を形にしたに過ぎないのだ。
ただ、それでも多少なりとも人々の役に立っているのは事実であるので、ここでも修一郎は素直に頷くことにしたのだった。
組合長の執務室を辞した修一郎は市庁舎を出ると、真っ直ぐにマリボー商店へと戻った。朝一番で市庁舎へと出向いた修一郎は、表向きはマリボーの使いとして行ったことになっているのだ。
事務室には寄らず、マリボーの私室へと直行した修一郎が扉の前に立ち、ノックすると、中から低いが良く透る声が短く返ってくる。
「入れ」
その応えを待って、修一郎は部屋へと入っていった。
「失礼します」
室内に敷かれた濃緑色の絨毯を踏みしめながら、奥にある執務机の前まで歩を進めると、修一郎は一度深々とお辞儀をした後、顔を上げる。
「社長のお蔭で、こちらの要望は殆ど叶えることができました。ありがとうございます」
組合長と同じく、自分の執務机で羊皮紙製の書類に目を落としていたマリボーの視線が修一郎に向けられる。だがその表情は、組合長とは違って、不敵な笑みに僅かな安堵をブレンドしたものであるように修一郎には感じられた。
「なに構わんさ。俺にもちゃんと儲けが入ってくるようになってるからな」
偽悪的とも取れる笑顔で、鷹揚に応えるマリボーが続ける。
「で?どうだった?組合の老人どもは」
自らの所属する組織の首脳部を老人どもと呼ぶあたり、マリボーも色々と腹に溜め込んでいるものがあるのだろう。
「はい。お会いしたのは組合長と補佐役、会計長のお三方でしたが、流石にアーセナクトの商人を束ねる立場の方々だけあって、一筋縄……ええと、簡単に内心を把握することは難しいように思えました。
ですが、会計長は……」
「俺の言ったとおりの奴だったろう?」
浮かべた笑みを崩さぬまま、マリボーが確認するように言葉を発した。
「そうですね。あれが演技なのか、本心なのかは分かりませんが、明らかにこちらを良く思ってはいらっしゃらないようでした」
「本心さ。あいつは底が浅いんだ。
あの地位まで上り詰めたのも、強引な取引と露骨な競争相手の蹴り落し、それに見ているこっちが呆れるくらいのあからさまな根回しの結果だからな。
先代、先々代の店主が上手く立ち回って店を大きくしたのに、それをあいつは自分の実力だと思い込んでいるような奴だ」
ふん、と大きく鼻を鳴らしてマリボーは立ち上がると、部屋の中央に置かれているソファーへと歩いていく。
それに続く修一郎にも座るように勧めて、壮年の商人が再び口を開いた。
「今の組合長は、あと二年でその地位から退くことになる。アーセナクトでは組合長の任期は五年だからな。
それで、次の組合長候補が、一緒に居た補佐役のサンブール・カデューと、会計長のロフォル・マゴールの二人だと言われている。
カデュー商店とマゴール商店。どちらもアーセナクトでは歴史ある古い店であり、大店だ」
アーセナクトに限らず、アルタスリーア国内では店舗の名称に決まりがある。商人組合に認められた大店や、その地で長く商いを営んでいる店……所謂老舗は、家名を店舗名にすることが許されるのだ。
逆に、新規参入者や中堅どころの店は、店主の個人名を店の名前としなければならない。例外は、家名を持たない獣人族と妖精族が経営する店で、これについては大店や老舗であっても店主の名前イコール店の名前となる。
仮に、プレルの食堂が規模を大きくし、何代も続く老舗となったとしても、パノーバやプレルの部族名が店名になることはなく、彼らの子孫の名前が店名となる。
マリボー商店の場合であれば、いつかはワット商店と家名を店の名とすることも許されるのだが。
この辺りは、人間族の治める国の都合によって決められたことであり、修一郎からしてみれば何とも奇妙な規則に思えてならなかった。
アーセナクトでは未だ中堅扱いのマリボー商店の主が、続ける。
「だがな、マゴールの奴が組合長になろうものなら、商人組合は内部から分裂しかねない。
あの野郎のことだ。自分が組織の頂点に立ったら、組合長という立場と貴族という身分を最大限に利用して、自分に都合のいいように規律を変えるのは目に見えている。
一般商人たちへの締め付けが厳しくなるのも容易に想像できる。
そうなれば内部だけの話ではなく、世間一般の信用問題にもなりかねないうえに、国側も何かと理由をつけて介入しようとするだろう。
まあ当然、組合の中にはそれを危惧する者も少なくないわけだが。俺もその一人だしな」
ついには、組合の要職にある者を“あの野郎”呼ばわりである。余程、マリボーはロフォル・マゴールのことを嫌っているのだろう。
「しゃ、社長。いいんですか?そんなことを私に喋ってしまっても」
他所の者に聞かれれば、己の立場が危うくなるような発言をするマリボーに、修一郎が慌てて口を挟む。
「構うものか。大体、今回の件でお前と俺は命運を共にすることが決まったようなものなんだ。
仮に今の話をお前が他人に漏らしたとして、だ。お前に何の益がある?」
「いえ、そういう問題ではなくて……」
修一郎にとっては、マリボーも大切なヒトであり、恩人である。裏切るつもりなどさらさらないが、内容が内容だけについ訊いてしまったのだ。
「気にするな。お前が口外しなければ良いだけのことだ。
だいたい、今の話は飽くまでも最悪の予想であって、決まったわけじゃあない。今のところは、次期組合長はサンブールの爺さんが有力視されているしな。
それで?ヤスキの要望が殆ど叶えられたということは、魔法院との調整も上手く行ったわけか?」
それまでソファーの背もたれに身体を預けていたマリボーが、姿勢を変えて身を乗り出すように修一郎に尋ねる。
「あ、はい。メガネ製作に関してのことですね。
そちらもなんとか魔法院を説得して、医術士からの協力を確約していただきました」
いきなり話題が変わったが、修一郎は詰まることなく答えた。
バランダの工房でメガネの本格的な生産が始まった時から、修一郎が考えていたことに、製作にあたって医術士と連携出来ないか、というものがあった。
修一郎の世界では、視力が数値化され、当人がそれを把握していれば専門店で簡単な再検査をするだけで、すぐさまその者に最適のメガネが製作されるようになっていた。
しかし、こちらの世界では視力は曖昧なものであり、メガネを製作する段階で事細かに検査して、初めてその個人の視力がどの程度のものか判明するのだ。
そのせいで、製作現場での作業が煩雑化してしまい、製作ペースは著しく低下しているのが現状であった。
そこで修一郎は、医術士を統括する魔法院に対し、準公的サービスとして極力安価で、概略的ではあるが視力の検査及び数値化に関して協力を得られないかと、商人組合から打診してもらうように請願していたのである。
これが叶えば、医術士によって検査・診断された結果を製作者に伝えれば、現場での作業は一手間も二手間も省けるうえ、医術面のバックアップも期待できるのだ。
医術士を介するため、製作費用の高騰が懸念されたが、視力の数値化という概念の提供と一般市民に対するイメージアップという、旨味のある“二つの餌”と引き換えに、魔法院が一定の額を負担することでそれなりの値段に抑えることに成功したようである。
それでもこれまでの製作費用に比べトータル的に三割増しとなるらしいのだが、製作現場での作業が低減されたことで相殺され、凡そ二割増し程度で落ち着くだろうと予想されていた。
修一郎としては、もっと気軽に買うことのできる値段にしたいと考えてはいるが、このシステムが完全に根付くまでは致し方ないものと半ば諦めている。
「この件に関しては、数日中に商人組合と魔法院との間で、契約が取り交わされるだろうと組合長が仰っていましたよ。
その際には、私と社長も立ち会うことになるようです」
「そりゃあそうだろう。ヤスキは当事者だし、俺はお前の保証人だからな。
……まあ、だいたいのことは分かった。とりあえず、組合の件はこれでひと段落と言ったところか」
再び背もたれに身体を埋めながら、マリボーは大きく息を吐いた。多少は自分のためでもあるが、主に修一郎のために半年近く前から、裏で動いてきたことが実を結んだのである。
目の前の頼りなさそうな異世界人に教えるつもりはないが、何かにつけこの男を気にかけて、そして死んでいった親友のコタールのためにしてやれる、マリボーなりの手向けでもあったのだ。
そんなマリボーの抱える大きな案件が一つ、片付いた。今日くらいは安堵のため息を吐いても、それを咎める者はいないだろう。
「重ねて申し上げますが、今回は色々とご尽力いただき、本当にありがとうございました」
そんなマリボーに向かって、座ったままの修一郎が再度頭を下げた。
それを見たマリボーは、いつもの見慣れた商人の顔になって口を開く。
「言葉での礼よりも、実益で返してくれ。言葉では腹は膨れんからな。
なんでも、事務室では最近お前の持ち込んだ珍しい飲み物が出されているらしいじゃないか。俺には試飲させてくれんのか?」
修一郎の予想していたとおり、既にコーヒーの話はマリボーの耳に入っていたようである。
マリボー商店では、茶や煙草といった嗜好品も取り扱っている。その“珍しい飲み物”が店の新商品に成り得るかも知れないと考えているのが一目で分かるほど、興味津々の店主であった。
午後の来客時に、そのコーヒーなるものを持ってくるように言い渡された後、修一郎は解放された。
朝一番で市庁舎へ呼び出されたため、未だ昼にはなっていない。
通常業務に戻るべく、修一郎が事務室の扉を開けると、彼の上司がちょうどそのコーヒーを堪能している最中であった。
「ソーンリヴさん、戻りました」
そう言って、自分の机へと向かう修一郎を一瞥したソーンリヴは、
「ああ」
とだけ応えた。
元々、お世辞にも愛想の良いソーンリヴではなかったが、ここ数日の彼女は何時にも増して様子がおかしい。
休憩時間でも、会話はめっきり減ってしまい、仕事に関すること以外の他愛のない雑談も殆ど交わされることがなくなっていた。
何か彼女の気に障るようなことでもしただろうか、と考えつつ、修一郎は目の前の仕事に取り掛かった。
昼食の誘いも断られ、仕方なく一人でプレルの食堂で食事を済ませた修一郎は、マリボーの言いつけどおり大鐘三つに子鐘二つ(午後二時)にあった来客に対しコーヒーを持って行き、事務室に戻って来ていた。
「折角、お湯も沸かしたことですし、少し早いですが私たちもお茶の休憩にしましょうか」
来客用に挽いたコーヒーもまだ残っていたので、そのまま支度を始める修一郎。
「いや……。私はまだ仕事が片付いてないんでな。後でいい」
てっきり、またいつものように「ああ」と返ってくると思っていた修一郎は、手を止めてソーンリヴに振り返る。
「そうでしたか。では、手伝いますよ。何の作業が残っているんですか?」
「あ、い、いや。て、手伝ってもらう必要はない。もう少しすれば終わる」
柔和な笑みを浮かべて手伝いを申し出る修一郎を見つめていたソーンリヴは、不意に我に返ったように慌ててそれを断った。
「分かりました。それでは、休憩はソーンリヴさんの作業が片付いてからにしましょう」
やはり、最近の彼女は様子がおかしい。露骨に避けられているわけではないが、変に余所余所しい感じがするのだ。
だが、それを本人に問い質しても、本当の答えは返ってこないだろう。そんな予感が修一郎にはあった。
どこか挙動不審な上司に気付かれぬよう小さくため息を吐いた修一郎は、自分の机に戻ろうとする。
と、何の前触れもなく事務室の扉が勢い良く開けられた。ノックもせずにここに入ってくる者といえば、限られている。
確認するまでもなく、事務室に入ってきたのはゼリガであった。
「ソーンリヴ、ダリンからの荷が届いたぜ。
それから、シュー。イルーがアーラドルの銀食器の在庫について話があるってよ」
言いながら、流通部門の責任者である犬人族のゼリガは、ソーンリヴの机へと大股で歩み寄って納品板を渡す。
「アーラドルの……?ああ、昨日入荷したやつですか。
何か問題でもありましたか?数は多かったですが、発注数との照合に差異はなかったはずですが」
「さあな?詳しいことは俺も聞いてねぇんだ。
悪ぃけど、ちょいとイルーのとこまで行ってお前さんが聞いてきてくれよ」
問いに対して頭を横に振るゼリガに、修一郎は「分かりました」と答えるとソーンリヴに向き直り、右手を差し出した。
「ソーンリヴさん、そういうわけでちょっと倉庫まで行ってきます。
ついでですから、その在庫板をイルーさんに渡してきますよ」
在庫板の書き換えを終えたソーンリヴが、差し出された修一郎の手を凝と見つめる。
「私の手がどうかしましたか?」
その様子を訝しむような修一郎の声に、深い藍色の髪をした上司は彼の顔を見ることなく、いささか乱暴に在庫板を部下へと突き出した。
「いや、なんでもない。それじゃあ、頼む」
「…………」
そんな事務員たちの遣り取りを黙って見ていたゼリガだったが、口にしたのは内心ではなく別のことであった。
「じゃあ行くか、シュー。倉庫への搬入はルードたちが始めてるが、俺も一働きしないとな」
「は、はい」
気の良い犬人族に背中を押されながら、長身黒髪の人間族は事務室から出て行った。
広くもない部屋に一人残ったソーンリヴは、かけていたメガネを外すと、両手で顔を覆い大きく息を吐き出した。
「はぁ…………。何をやっているんだ、私は……」
あの雨の日、偶然通りかかった場所で、修一郎とクローフルテが一緒にいるのを見てから、心の中に灰色の靄がかかったようで落ち着かない。
あれ以降、仕事中は何ら普段と変わりなく振舞っている修一郎だが、終業を迎えると途端に慌しく店を後にする。
ゼリガもぼやいていたが、終業後は誰かと連れ立って食事に行くようなこともなく、何処かへ消えていくらしい。
クローフルテも修一郎と同様に淡々としているが、仕事が終われば、どこか落ち着きなく帰途についているようだ。
一度、思い切って修一郎に尋ねてみたが、返ってきたのは「ちょっと野暮用が立て込んでまして……」と、いつもの頼りなさそうな笑顔と曖昧な言葉であった。
修一郎がこの店にやって来た当初は、クローフルテやフォーンロシェとの仲をちくりと刺すことはあっても、こんな気持ちになったことはなかった。
理由は自分でも分かっている。
最初はただの頼りない同僚としか見てなかった異世界人の男が、何時の間にかソーンリヴの中で気になる存在として大きくなってきていたのだ。
特に王都アーオノシュでの一件で、修一郎の過去を知り、全てではなくともその考えを理解した後は、それは更に大きくなっていた。
公言するようなことでもないので他人に明かしたことはないが、ソーンリヴには恋愛経験がなかった。
父親に早くに先立たれ、母と二人でこのアーセナクトで暮らしてきたソーンリヴは、働くことのできる歳になるとすぐさま職を探した。
運よく、マリボーの店で事務員見習いとして雇ってもらえることとなり、当時居た行商人上がりの先輩事務員とマリボーの二人から事務に関することをみっちりと叩き込まれた。
最初は失敗の連続で、指導役の二人を何度も呆れさせたが、必死になって仕事を覚えていったソーンリヴであった。
そして先任の事務員が故郷に帰るために店を辞めると、マリボー商店の事務員はソーンリヴ一人となった。
店は順調に発展し、それに伴って仕事量も増え、家と店を往復するだけの日々が続いた。
母親は仕事漬けの娘の将来を心配したが、娘は娘なりに充実した日常を送っていたので、然程真剣に取り合わなかった。
もう一つには、仕事をこなすことで精一杯で、恋愛について考える余裕がなかったということもある。。
街で異性から声をかけられることもあったが、早くから社会に出て働いていたソーンリヴにとって、彼らの大半は余りに幼く見えた。
やがて年月が過ぎ、世間一般的には既に選り好みをしていられる歳ではなくなったソーンリヴは、半ば恋愛に関して諦めていた。
母と二人で慎ましく暮らして行ければそれで良い、そう思ってすらいたのだ。
そんな時、彼女の目の前に現れたのが修一郎であった。
魔法も使えず、どこか頼りない、ソーンリヴの目から見れば漸く成人した年齢と思しき異世界人の男は、見た目のとおり頼りなかったが、常に柔和な笑みを浮かべて周りの者と接していた。
新参者のくせに、彼は瞬く間に店に打ち解けていった。時たま、天然なのか計算尽くなのか分からない行動を取ったりするが、それらはどういうわけか良い方向へ影響を及ぼすことが多かった。
快活な性格のゼリガとつるむようになり、従業員の間でも取っ付き辛いと言われていたイルーやクローフルテに対しても何ら臆することなく接している修一郎は、最初の印象とは違ってかなりの社会経験を積んでいるように思えた。
性別として異性の認識は当初からであったが、別の意味での異性を意識し始めたのもこの頃からだ。
修一郎の言葉が、行動が、気になる。
恋愛経験はなくとも、それが恋愛感情であることはソーンリヴにも分かる。
ただ、それをどうやって表現するか、もっとはっきり言えばどうやって相手に伝えれば良いのかが、分からない。
結局、自分でもままならない感情を内に溜め込んだまま、ソーンリヴは悶々とした日を送る破目になっているのだ。
「何を、やっているんだ……」
再度呟いた言葉は、やや赤みの増した陽射しが差し込む事務室の中で、誰に聞かれるともなく消えていった。