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街の事務員の日常  作者: 滝田TE
街の事務員の日常
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第二十七話 想いは雨音に消えて


 アーセナクト市庁舎の大鐘が三つ、教会の子鐘が五つ鳴り響く。

 子鐘三つ(午後三時)を過ぎた頃から、薄灰色の雲が広がり始め、今では完全に雨雲が空を覆って夕方とは思えないほど辺りは暗くなっていた。

 このような空模様を見れば、ペイシュヴィルでなくとも、もうじき雨が降り出すことは子供でも分かることである。中央広場を行き交う市民の足は自然と速いものになり、その数も少ない。

 それは、居住地区も同じことで、西の大通りは人影が殆ど見られなくなっている。


 年老いたブラウニー族の夫婦が経営している、木造二階建ての集合住宅……早い話がアパートは、アーセナクト市内北西部にある居住地区の中でも、西の大通りに近い場所にあった。

 クローフルテの部屋は、そのアパートの二階の角部屋である。

 室内には、簡単な装飾は施されてはいるものの、塗料などの一切塗られていない木製のテーブルと椅子が、居間の中央に置かれ、テーブルの上には紅茶が淹れられたティーカップが載っている。

 テーブルの下に敷かれた若草色の絨毯は、生まれ故郷の森に生えている多年草を、クローフルテの母親が編んだものらしい。

 東と南に面した壁には両開きの窓が取り付けられているが、少し前に雨の匂いを含んだ風が吹き込むようになったため、今は閉められていた。

 暗くなった室内には術石製のランプが灯され、テーブルで向かい合ったエルフ族の女性と人間族の男性を照らしている。

 あちらの世界でも、こちらの世界においても、女性の私室へ入った経験は然して多くはない修一郎であったが、クローフルテの部屋は、そんな修一郎でさえ女性の部屋にしてはいささか華やかさに欠けるのではないかと思わせるほどに淡白なものであった。

 普段から淡々としているクローフルテらしいと言えばそれまでなのだが、つい先日パルメルの部屋で半日近く過ごしたため、余計にそう感じるのかも知れない。

 尤も、パルメルの部屋も洒落た飾り付けや小物よりも、医術書や魔法に関する書物の占める割合のほうが高かったのだが。


「なるほど。クローフルテさんの気持ちは分かりました」


 真剣な表情で言葉を発した修一郎の横顔に、ランプが作る影が揺れる。

 普段であれば、呼び名に関してすかさず訂正が入るところなのだが、クローフルテは修一郎の真向かいに座り、その長い耳まで真っ赤にして俯いたままであった。


「少し、時間をいただけますか。

 この世界に来て、こちらの常識にも慣れたつもりではいますが、所詮私は異世界人です。

 種族が異なる者同士の恋愛について、今ひとつ理解できていない、というのが正直なところです」


 表情を変えぬまま、修一郎は続ける。

 事は二人の将来に関係するのだ。気軽に受けられるようなものでもない。


「勿論、両者の気持ちが重要であるのは分かっていますが、クローフルテさんの想いを第一にさせてもらうつもりです。

 私も、クローフルテさんの想いに応えられるように、最善の方法を考えてみますよ」


「……はい」


 エルフ族の女性は、それだけ答えると漸く顔を上げた。相変わらず耳まで赤くし、空色の瞳は潤んでいる。

 相当の決意を以って、修一郎に打ち明けたのだろう。今まで見せたことのない表情で修一郎を見つめるクローフルテは、聞き取れるかどうかぎりぎりなほど小さな声で、お願いします、と続けた。


「では、そろそろ私は帰らせていだきますね。ルキーテがお腹を空かせて待っていることでしょうし」


 椅子から立ち上がると、修一郎はいつもの柔和な笑みで告げる。


「あ……。でしたら、これを彼女に持って行ってあげてください」


 修一郎に続いて立ち上がったクローフルテは、テーブル上の木皿に山のように盛られた菓子を、細い蔓で編んだ篭に移し始めた。

 元々は紅茶の茶の子として用意されていたらしいのだが、とてもではないが菓子を摘みつつ紅茶を楽しむような会話の内容でなかったため、二人とも全く手をつけていなかったのだ。


「いいのですか?」


「はい。まだ家には買い置きがありますから」


 丁寧にも、木綿の布で一度菓子を包んでから篭に入れるクローフルテは、手を止めることなく答える。

 そんな彼女を見ながら、修一郎は小さな笑いを漏らした。


「クローフルテさんは、お菓子がお好きなようですね」


 それが容易に推測できるほどに、盛られていた菓子の量は多かった。

 世界も種族も違うのに、女性に甘い物好きが多いのは共通したことなのだろうか、と考えると同時に、いつもは表情の変化に乏しいクローフルテが幸せそうに菓子を食べているシーンを想像して、可笑しく思えたのである。


「えっ……。そ、そんなことは……」


 ない、と言おうとしたクローフルテであったが、それが事実である証拠を今まさに自らが篭へ詰めているのだ。

 一度は元に戻った顔を再び上気させながら、口篭るクローフルテであった。


「しゅ、しゅういちろうさんは案外意地の悪い方だったのですね」


 その意地の悪い修一郎と視線を合わせることなく、菓子を篭に詰め終わったクローフルテは、目の前の人間族の男をフルネームではなく、ファーストネームで呼んだ。

 エルフ族が他者の姓名を口にする際に、ファーストネームだけで呼ぶのは、同じ氏族の者や家族、恋人、そして余程信頼のおける者に対してのみである。

 そのことは修一郎も聞き及んでいたので、クローフルテの態度の変化に驚きを覚えつつも喜びを感じていた。

 自分の存在が、クローフルテにとってそれだけの価値があると認められたということなのだから。


「別にからかったわけではありませんよ。私の居たあちらの世界でも、お菓子が好きな女性は大勢いましたからね。

 それを思い出していただけです」


「そうですか」


 口調をいつもの調子に戻して、そう短く答えるクローフルテであったが、幾分まだ薄っすらと頬が赤い。

 修一郎は、改めてクローフルテを見る。

 腰まで伸びた美しい銀色の髪、潤んだ切れ長の目、適度に凹凸があり長身のプロポーション。それらが、ランプが照らす淡い光によって強調され、殊更美しく思えた。

 また、普段はいささか表情の変化に乏しい彼女であるが、決して感情の起伏がないわけではなく、性格もやや頑固なところは見受けられるものの、悪いというわけでもない。

 こんな女性に惚れられるヒトは幸せなのでしょうね、と心の中で呟き、修一郎はエルフ族の女性から菓子の詰められた篭を受け取った。


「ありがとうございます。あの子も喜ぶと思いますよ」


「いえ。折角、二人きりで過ごしていらした休日を邪魔してしまったのは、こちらですから」


「いやぁ、気にしないでください。単にナズ河でぼんやりと釣りをしていただけですし」


 実のところ、クローフルテは釣り道具を持って東門を出て行く修一郎たちを目撃していたらしい。用事があるならば、そのまま二人の後を追えば良かったのだ。

 だが、そうしなかったということは、彼女なりに気を利かせたということなのだろう。

 無論、修一郎もそれを口にするほど野暮ではないし、彼女の心情も理解できたので、努めて明るい口調で些細なことであるかのように答えるのだった。

 階段を下りたところで、家主のブラウニー族老夫婦に出くわしたので軽く挨拶をした後、修一郎は玄関の扉を開けた。


「あぁ、やっぱり降ってましたか……」


 天気は、修一郎の帰宅まで待ってくれなかったようだ。

 低く垂れ込めた雨雲から、銀色の細糸が無数に降り注いで、アーセナクトの街路を濡らしていた。

 共に玄関先まで出てきていたクローフルテも、無表情のまま空を仰いでいる。


「少しばかり走るとしますか」


 土砂降りの一歩手前といった雨足を見つめながら、修一郎が呟いた。

 アーセナクトは東西南北に大通りが走り、街全体を大きく四分割している。

 西の大通りに近いクローフルテのアパートから、北の大通りに近い修一郎の自宅まで、最短距離を選ぶとすれば居住地区を斜めに突っ切ることになる。

 無論、図面を引くように一直線のルートになるわけではないので、住宅の合間を縫いつつ走るか、一度西の大通りに出た後、中央広場を経由して北の大通りに向かうかの、どちらかを選ばねばならない。

 いずれにせよ、殆ど濡れずに自宅へ辿り着くのは不可能な状況であった。

 この世界にも傘はあるのだが、未だ王族や貴族といった富裕層の一部が使用するだけで、庶民には普及していない。

 庶民が雨の日に屋外を移動する際には、獣脂や樹脂で防水加工された外套を着込むのが一般的であった。

 或いは、一定以上の魔力と知識を有する者であれば魔法で雨に濡れないようにすることもできる。

 勿論、今の修一郎は傘どころかそのような外套も持ち合わせていないし、魔法にいたっては体質的に論外である。

 仕方ないので、折角貰った菓子を濡らさぬように羽織っていた上着を脱ぎ、篭を覆うようにして抱えた修一郎に、クローフルテが近づく。


「待ってください」


「はい?なんでしょう」


 振り向いた修一郎の目の前に、クローフルテの姿があった。


「外套があればお貸しできるのですが、生憎今は持っていません」


「ああ、構いませんよ。同じ居住地区ですし、走ればそれほどかかりませんしね」


「いえ。しゅういちろうさんをお呼びしたのは私ですから……」


 そう言って、クローフルテが修一郎に向かい左手をかざす。

 次いで、エルフ族の口から聞いたことのない言葉が紡がれる。


「『遍く世界……吹き行く風。一つ処に留まることなく―――』」


 時に高く低く流れる、その旋律のような言葉は、妖精族であるエルフに古来から伝わる種族魔法の呪文であった。

 この世界の人々が魔法を使う場面は幾度か目の当たりにしている修一郎であったが、それらは全て大陸公用語で唱えられるものであり、修一郎にとっては日常会話の延長上に感じられる言葉の組み合わせでしかなかった。

 しかし、クローフルテの口から発せられる“それ”は、初めて耳にする言葉であり、詠唱者の姿と相俟って、元の世界で観たファンタジー映画のワンシーンを思い出させた。


「『―――この者に風の衣を』…………えっ?」


 呪文の全てを唱え終わったクローフルテが、意外そうな声を上げる。


「どうかしましたか?」


 それまで何か言いたそうにしながらも、黙って事の成り行きを見つめていた修一郎が、口を開く。


「しゅういちろうさんの服に、“風の加護”をかけようとしたのですが……。

 既に、何らかの“加護”がかかっているようで、私の呪文がかき消されてしまいました」


 予想外の答えに、今度は修一郎が意外そうな口調で言葉を発した。


「え?私の服に魔法が?」


「はい」


 短く答えて頷くクローフルテに、修一郎は首を傾げながら続ける。


「おかしいですね……。私の着ている服は、この街の店で買った普通の服なのですが」


 事実、修一郎の着ている服は全てアーセナクトの“衣服通り”で揃えたものだ。店先に並んでいる庶民用の服の中から、サイズの合うものを手に取っただけで、特別な加工が施してあるわけでもない。


「そうですか。でしたら、直接しゅういちろうさんに“風の加護”をかけることにします」


 それでも納得いかないのか、相変わらず無表情のまま、クローフルテがさらに修一郎に近づいた。遠目から見れば、殆ど密着していると言っていいほどの至近である。

 クローフルテは修一郎の頭上に手をかざそうとしているのだが、長身の人間族に比べてエルフ族の彼女の背丈は少しばかり低かったため、そこまで近づかなければ手が届かないのであった。


「あ、それは……」

「いえ。私の気が済みませんから」


 何かを言いかけた修一郎に、クローフルテの断固たる意思のこもった声が重なる。

 真剣な顔つきで、必死に爪先立ちしているクローフルテを見た修一郎は、仕方なく僅かに体を屈めた。

 ここは彼女の言うとおり、気の済むまでさせるしかないな、と思いながら。


 そして、そんな二人を、雨のカーテン越しに見つめる一つの人影があった。






「おう、シュー。ちょっとだけ晩飯付き合ってくれねぇか?」


 修一郎が、クローフルテの下を訪れてから四日。

 全ての業務を終えて、店内の点検を済ませて戻ってきた修一郎に、ゼリガが陽気な声をかける。

 どうやらゼリガの妻がまた発情期に入ったようで、ここ数日、修一郎はゼリガから夕食の誘いを受けることとなっていた。


「すみません、ゼリガさん。今日も少しばかり用事がありまして……」


 申し訳なさそうに答える修一郎を見て、犬人族の尻尾が力なく垂れ下がる。


「今日もかよぉ。最近、付き合い悪いぜ?お前さん」


「すみません。この埋め合わせは後日、必ず」


 この世界で生まれたゼリガに通じるはずもないのだが、大袈裟に顔の前で手を合わせて頭を下げるという、修一郎の生まれた国でしばしば見られる仕草で謝った異世界人の男は、帰り支度を済ませて事務室から出てきたソーンリヴに向き直る。


「そういう訳で、ソーンリヴさん。すみませんが、お先に失礼させていただきます。

 あ、店内の点検は異常ありませんでした」


 そう言うと、修一郎はそそくさと従業員出入口から出て行った。


「…………」


 閉じられた扉を見つめたまま、ソーンリヴは何も言わない。


「マイヤックの嬢ちゃんもさっさと帰っちまうし、シューはあの調子だし。

 おい、ソーンリヴ。あんた、何かアイツから聞いてるか?」


「うん?ああ、いや。何も聞いてないな」


 名前を呼ばれて、我に返ったように答えるソーンリヴ。しかし、相変わらず視線は扉に固定されたままである。


「まあ、こういう日もあるだろうさ。

 ところで、どうせ夕食はプレルさんの店だろう?私で良ければ付き合うぞ?」


 漸く視線をゼリガへと移したソーンリヴが、苦笑と共に同僚の犬人族を宥める。


「おっ、そうか?じゃあ行こうぜ。

 やっぱり飯は一人で食うもんじゃねぇしな!」


 途端に勢い良く尻尾を振りながら、声に喜色を滲ませるゼリガに、「ああ」と応じたソーンリヴは、修一郎の消えた従業員出入口へと足を向けた。




 もうじき大鐘四つに子鐘四つが鳴ろうという時刻。

 家事を済ませたルキーテが自室へ戻り、部屋の明かりが消えたのを確認して、修一郎は家を出た。

 向かう先は、プレルの食堂である。

 アーオノシュでの件が解決していない現状、深夜に一人で出歩くべきではないと分かってはいるのだが、相手がこの時間でないと都合がつかないため仕方ない。

 出来るだけ人目に付き易い街路を選び、北の大通りに出た修一郎は、中央広場から南東の商業地区を目指す。

 プレルの食堂に近づくと、未だ営業中であることを証明するかのように、店の入口からは光が漏れていた。


「こんばんは」


 店内に入ると、ちょうど最後の客が帰った直後だったのだろう、テーブルの上の食器を片付けているプレルの姿があった。


「あら、今夜も来たのねシューイチロー。悪いけど、ちょっと待っててくれる?」


「でしたら、洗い物くらい手伝いますよ」


「助かるわ。じゃあこれ、お願いね。

 今のうちにホールの明かり落としておくから」


 プレルは手に持っていた食器を修一郎に渡し、入口両脇にかけられたランプへと歩いて行く。

 汚れた食器を持って厨房に入ると、そこではパノーバとラローズが未だ忙しく動き回っていた。

 クリュはこの時間もあってか、既に眠っているのだろう、姿は見えなかった。


「お疲れ様です、パノーバさん、ラローズさん」


 上着を脱いで腕まくりをした修一郎は、洗い物が浸け置かれている流しへと向かい、早速作業を開始する。


「シュウイチロウか。今日もラローズに用か?」


「はい」


「す、すいません……。僕のせいで何だか皆さんにご迷惑かけちゃったみたいで……」


 いつだかに聞いたような台詞で謝るラローズに、パノーバのきつい一言が飛ぶ。


「まったくだ。お前がはっきりしねぇから、シュウイチロウが苦労する破目になってんだ!

 いつまでもうじうじしてねぇで、さっさと決めろ!」


「まぁまぁ、パノーバさん。これはラローズさんにとっても、相手の方にとっても一大事ですから。

 いずれの結論を出すにせよ、熟慮していただくべきだと思います」


 食器洗いの手を休めることなく、修一郎は灰色の毛並みを持つ猫人族へと顔を向けた。


「それに、この件は私が自らの意思で決めたことです。

 お世話になっている方の力になれるのですから、苦労とは感じていませんよ」


「ま、事が事だからねぇ。ラローズが悩むのも無理ないよ。

 だけど、シューイチロー。今日もゼリガが零してたよ?付き合い悪いってさ」


 ホールの片付けを終わらせたプレルが、カウンター越しに会話に加わる。


「うーん……そちらは仕方ないですね。

 この件だけなら、ゼリガさんにもお付き合いできるのですが、ロントラール(商館)の一件がまだ終わっていないんですよ。

 まあ、あと二日もすればそちらも片付くとは思いますが」


 はは……と、いつもの頼りなさそうな笑みを浮かべて、修一郎は頭を掻こうとするが、洗い物の最中であったことを思い出し、慌てて腕を下げる。


「よりにもよって、面倒な時に面倒な事が重なるもんだねぇ。マリボーさんも、もう少しシューイチローのことを考えてやればいいのにさ」


 カウンターに頬杖をついて、プレルが嘆息するように言う。厨房内の片付けは男衆三人に任せることにして、プレル自身は今日の仕事は終えたつもりであるようだ。

 その証拠に、店の制服である黄色いエプロンは既に外されて、カウンターの上に置かれていた。


「いえ。あの方は、充分すぎるくらいに私のことを気遣ってくださってますよ。

 今回は偶々、用件が重なっただけです。ロントラールのことも、私がこの街で普通に暮らしていけるように、と思ってのことでしょうから」


「そうだろうな。だが、それだけでもないだろう。

 あの男のことだ。自分にも利益が見込めるからこそ、組合を動かしたんだろうよ」


 明日用の仕込みなのだろう、パノーバが鍋をかき混ぜながら修一郎に同意しつつも、にやりと笑う。


「ま、あのヒトは生粋の商人だからねぇ。

 もしかして、王都での事件もそれが関係してたりしてね」


「王都の件は、まだはっきりと事件だと決まったわけではありませんから。

 あれから王都でも、アーセナクトでもこれといった問題は起きていませんし」


 一通り洗い物を終わらせた修一郎が、プレルから投げ寄越されたタオルで手を拭きながら答える。

 マリボーが王都から戻り、店の従業員に対して注意喚起したおかげもあってか、今のところは確かに事故などは起きていない。


「だからと言って、油断はするんじゃないぞ、シュウイチロウ?

 俺に言われるまでもなく、気をつけてはいるだろうが」


「そうそう。もし、シューイチローが事故に遭って死のうものなら、流石のマリボーさんも悲しむよ。

 尤も、そのうち半分くらいは儲けをもたらしてくれる幸運の異世界人を失ったって意味でだろうけどね」


 夫の言葉に頷きながら、プレルも苦笑を浮かべた。同じアーセナクトに住む商売人同士、頻繁な交流はなくとも、マリボーの人為を知悉している猫人族夫婦であった。


「あはは……。まあ、私もまだ死にたくはありませんからね。

 これからも、当分は周囲に気をつけるようにしますよ」


「ああ、それがいい」


 物騒な例え話をされて、苦笑する修一郎に、真面目な顔で頷くパノーバ。


「だから、お前はシュウイチロウの負担を減らすためにも、さっさと結論を出さねぇといけねぇんだ、よ!」


 そのパノーバの後ろを、食材の入った木箱を抱えたラローズが通り過ぎようとした。

 それに気付いた猫人族の店主は、見事なタイミングで人間族の見習いの後頭部を小突く。


「あ痛っ!は、はいぃっ」


 つい先ほど、修一郎からやんわりと窘められたばかりだというのに、パノーバは再び会話の矛先をラローズに向けたのだった。

 それまで何となくプレルたちの会話に加わることができず、聞き役に徹していたラローズであったが、気の短い猫人族は見逃してくれなかったようだ。

 そんな二人を見て、修一郎は小さく笑う。これが、パノーバとラローズの日常風景なのだろうな、と。


「でもね、ラローズ。さっきはああ言ったけど、実際のところそろそろ結論を出すべきだってのは、あたしも思ってるよ。

 人間族として悩むのは仕方のないことだけど、男としてその態度ってのはどうなんだろうね?」


 それまで寛いだ表情で話していたプレルが、真剣な光を瞳に宿してラローズを見る。


「あんたも、あの嬢ちゃんのことは憎からず想ってるんだろう?

 だったら、応えてやってもいいんじゃないのかい?」


「えっ……!?プレルさん、なんでそれを……」


 予想外の方向からの一言に、ラローズの動きが止まる。


「あんたの態度を見てりゃ、嫌でも分かるさね。

 気付いてないのは、この店じゃクリュだけだよ」


 カウンターに肘を突いたまま、やれやれと言わんばかりにプレルが呆れた口調で答えた。厨房では、パノーバも薄い笑みを浮かべて、鍋をかき混ぜている。


「………………」


 口を閉ざして俯き加減で、暫く考え込んでいたラローズであったが、やおら顔を上げると修一郎へと向き直った。


「分かりました。今、ここで、決めます」


 その決意に満ちた目を見た修一郎は、どうやら彼女と自らの望んだ回答が得られることになりそうだ、と内心安堵するのだった。



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