第二十六話 秘密の話は二人きりで
修一郎たちが陣取る大岩の下までやって来ると、白い人物が再び口を開いた。
「其処では、魚は釣れまい。今日は上流を回遊しておる故な」
外見で性別の判断がつかないのと同様に、その声も若い男の声のようでもあり、歳経た女性の声のようでもある。
人間族の男と虎人族の少女を見上げる瞳は、その者が穿いているズボンよりやや濃い水色をしていた。
切れ長の目と高い鼻筋、薄い笑みを湛えた口許。美丈夫と言うには身体の線が細く感じられ、美女と呼ぶには少しばかり肩幅が広いように思われる。
淡色系で統一されたその風貌は、色素が薄いというよりも、存在自体が曖昧な印象を受けた。
「そうですか。この川にお詳しいようですね」
隣で腰を落とし、あからさまな警戒体勢を取っているルキーテの頭に手を置きながら、修一郎が応じる。明らかに怪しい人物ではあるが、とりあえず向こうも会話をするつもりではあるようだ。
ルキーテの能力を信じるなら、相手は一人。離れた茂みの中から、別の者が攻撃を仕掛けてくるようなこともないだろう。それとも、目の前の人物が、それを必要としないほどの実力の持ち主か。
修一郎がそういった思考を巡らせていると、白い人物がくつくつと笑い出した。
「そう警戒せずとも良い。私は別に、お主たちに危害を加えようとして、近づいた訳ではない」
さも楽しげに笑うその者に対し、修一郎は表情を消したまま、ルキーテは睨みつけるようにして、視線を外さないでいる。
「ふむ……。ここは、お主らの流儀に従って、先ずは名乗ったほうが良いのであろうな。
私は、ペイシュヴィルと云う。お主らが定めておる区分だと、一応ピクシー族ということになるか」
なかなか警戒を解こうとしない二人を眺めていた白い人物は、ペイシュヴィルと名乗った。
「シュウイチロウ・ヤスキです。アーセナクトに住んでいる人間族です」
「ルキーテ。シュウイチローと一緒に住んでる」
修一郎は先ほどより幾分、表情を和らげて自らの簡単な素性を名乗る。ルキーテも、渋々ながらごく簡潔に自己紹介を済ませた。虎人族と口にしなかったのは、見て分かるだろうというルキーテなりの挑発であったのかも知れない。
なるほど、水の妖精族と言われるピクシー族であるなら、川の周辺で出会うことも頷ける。しかし、修一郎の記憶にあるピクシー族は、ペイシュヴィルほど身長は高くなかったはずだ。
どちらかと言うと、ノーム族のレベックとほぼ同じ背丈の者が多かったように思える。人間族と変わらぬ身長と体格を持つペイシュヴィルはとてもピクシー族には見えない。それだけに、一言付け加えられた「一応」という言葉が気になり、完全に警戒を解く気にはなれなかった。
「シュウイチロウ?お主、もしやソウジロウの子か孫か?」
それまでは笑みを浮かべたまま、二人の反応を興味深そうに見つめていたペイシュヴィルが、修一郎の名前を聞いた途端に、表情を一変させた。
それは何かを期待しているようでもあり、僅かに追慕の念を含んでいるようにも感じられる。
「いえ、ソウジロウという方の子孫ではありませんし血縁者でもありません。そういった名前の方も存じません」
修一郎が冷静に答えると、ペイシュヴィルはその美しい顔に落胆の色を滲ませた。心なしか、先ほどに増して存在感が薄れたようにも思える。
「そうか……。そうであったな。人間族は短命な種族であることを失念していた。
しかし、その名前……。お主は異世界人か?」
修一郎の全身を、上から下まで一通りまじまじと見つめたペイシュヴィルが、問いを発する。
「はい。九年前にこちらの世界へやって来ました」
本来であれば、気軽に異世界人だと認めるべきではないのだろうが、相手はどうやら別の異世界人を知っているようである。
このピクシー族もアーセナクトに暮らしているならば、今ここで否定してもいずれは分かることだろう、と考えた修一郎は、素直に首肯した。
「矢張りか……。ならば、助言しておかねばな。
魚を釣りたいのであれば、あの林を抜けた先の瀬に行くといい。お主らの、腹を満たす程度の数は釣れるであろうよ」
何かに納得したように一つ頷くと、それがまるで自らの務めであるかのように、性別不明のピクシー族は河畔林を右手で指し示した。
「ありがとうございます。
ですが、今日は釣果に拘っているわけではないので、ここで充分ですよ」
「ふっ……。釣り糸を垂れておるのに、魚が釣れずとも良いと言うのか。
異世界人の考えることは、時が移ろうとも、良く分からぬな」
修一郎の返答に、更に興味を惹かれたのだろう、ペイシュヴィルはまた一つ笑みを漏らす。
「それよりも、お尋ねして宜しいですか?
貴方が仰った、ソウジロウという方はアーセナクトにいらっしゃる、若しくはいらっしゃったのですか?
それは何時ごろのことでしょうか?」
修一郎は、アーセナクトでも異世界人に関する記録について、何度も市庁舎へ出向き調べていた。
その記録には、ここ五十年、アーセナクトに異世界人が住んでいたという事実はなかったはずである。
アルベロテス大陸に存在する四王国は、大陸憲章に従って、この世界に害意を持って混乱をもたらす恐れのある者を除き、異世界人には干渉しない旨の誓約を取り交わしているが、その所在や主な行動、その者の一生についての記録は確りと記録されていた。
修一郎の今までの行動も、修一郎の与り知らぬ所で本人の知らない内に記録されているのだろう。
そういった記録の中に、「ソウジロウ」という異世界人……まず間違いなく日本人だろうが、そのような名前を持つ人物はいなかった。
「なんと、お主はソウジロウを知らぬのか。我らを含む、この国にとって偉大な業績を遺した者であるのにな。
九年もこの世界で暮らしておきながら、いささか無知が過ぎるのではないか?
ソウジロウの名を知らぬとも、お主もあ奴の恩恵を日ごろから受けておるはずだぞ?」
水色の瞳に軽い失望の色を滲ませながら、ペイシュヴィルは言葉を続ける。
「それ、川上に見えるであろう。お主たちの言う、上水道浄化施設と下水処理施設とやらが、ソウジロウの遺したものよ。
より正しく言うならば、その思想であるがな」
上水道浄化施設とは、その名のとおり、ナズ河から一旦引き入れた河水をその内部で浄化し、上水道としてアーセナクトへ供給する施設である。
街中に井戸はあるのだが、市庁舎から一般市民の家で使われている上水道は、その殆どをナズ河の水に頼っている。
下水処理施設とは、アーセナクトから排出される屎尿及び生活雑排水を分解・浄化し、それを再びナズ河へと放流するための施設だ。
多少の運用法は違えども、両者とも『浄化』の魔法を利用したもので、内部では巨大な術石が水中にいくつも設置され、全鐘体制(二十四時間体制)で稼動している。
上水道浄化施設は、街の住人が飲用可能なまでに不純物や有害物質等を取り除き、下水処理施設は、取水時とほぼ変わらぬ状態にまで浄化することが可能であるようだ。
その仕組みの基礎を考案したのが、ソウジロウという異世界人の男であると言う。
「あれらの施設ができるまでは、この河だけではなく、国中の河が酷い有様であったからな。
大きな街の下流では、水は汚染され、そこに暮らす生物に甚大な被害をもたらしておった。
それを変えたのが、ソウジロウであったのだ。あ奴は三十年かけて国王と魔法院を説き伏せ、遂にその成果を形にして見せたのだ。
お蔭で、ピクシー族やネレイド族は、己が力の源を失わずに済んだというわけよ」
ピクシー族は水辺の妖精族、ネレイド族は海の妖精族の別名を持つ。どちらも、水と密接な関わりを持つ種族であった。
かなり掻い摘んだ説明であったのだろうが、短いとは言えないペイシュヴィルの説明を聞き終えて、修一郎は再度同じ問いを口にした。
「なるほど。ソウジロウという方が成し遂げたことは、確かに偉業と呼べるものですね。
事実、私たちも毎日お世話になっていますから。
それで、同じ質問で申し訳ないのですが、その方はいつ頃、この国にいらしたのでしょうか?」
今の修一郎が、料理や風呂に使う水道、水洗式トイレを繋ぐ下水道といったものを、当たり前のように使えることに関しては、確かに感謝の念を抱かずにはいられない。
しかし、異世界人の修一郎としては、どうしてもそのソウジロウという人物の生涯が気になってしまうのであった。
ペイシュヴィルの口調からして、既にこの世にはいないであろう。それでも、ソウジロウの最期はどうなったのか、知っておく必要がある。
「気になるか。それも無理はないか。
そうだな……、時の流れに頓着することない身となって幾久しいが、この国の暦で言えば凡そ三百年前と言ったところであろうか。
ソウジロウは当初、アーセナクトに住んでおったが、国王からの招聘によりアーオノシュに移り住んだ。そこで『浄化』の魔法を用いた研究をしておったようだ。
最期は老いて病に倒れたとされておるが……。果たしてそれが事実であるかな……」
「三百年……」
さすがに修一郎も絶句するしかなかった。そこまで昔の人物となると、一般市民が閲覧できる記録には殆ど名前も出てこなくても不思議ではない。
国の運営や、魔法院の管轄する事柄が含まれるため、閲覧が制限される重要な記録として保管されている可能性もある。
そしてペイシュヴィルが、最後に呟くように付け加えた一言。表向きに反して、ソウジロウは病死ではないということなのだろうか。
だが、それも事実はどうであれ、正式な記録としては残されていまい。
「まあ、そう落胆するでない、シュウイチロウとやら。ソウジロウの遺したもののおかげで、我らは苦境から持ち直すことができたと言うても良いのだ。
それ故、我らは多少なりとも異世界人に恩返しをすると決めたのだ。ピクシー族、ネレイド族、そして私のような元ピクシー族であった者……。
感謝の念を表す形に違いはあれども、皆、お主ら異世界人を歓迎するであろうよ」
気を取り直すように、ペイシュヴィルは口調を改め、修一郎に好意的な視線を向けた。
しかし修一郎には、ペイシュヴィルが再び口にした『元』という言葉が引っかかる。
「正直なところ、私はピクシー族の流儀や常識を詳しく知りません。口外できない、或いは礼を失する問いでしたら、答えていただかなくても結構ですし、謝罪もします。
それでも敢えてお尋ねしますが、ペイシュヴィルさんは『元ピクシー族』と仰いました。すると今は違うということなのでしょうか?」
この時点で、修一郎のペイシュヴィルに対する警戒心は完全に霧散していた。自称元ピクシー族の語る情報に、修一郎は相応の価値を見出していたためである。
元の世界に戻ることは、殆ど諦めたと言っていい。しかし、目の前の人物は修一郎の知らない情報を未だ数多く持っているように思えた。
今後もこの世界で生きていくのであれば、ペイシュヴィルと相知となっておくことは決して損ではないし、ピクシー族についての知識はいずれ役に立つかも知れない。
「別に隠すほどのものではない故、謝罪する必要はない。
そうだ。『元』と言うたのは、私は既にピクシー族ではないからだ。
私の本来の肉体は、既にこの世界にない。今の私は魂だけの存在……オディアーナになっている」
「オディアーナ、ですか……?」
「ああ、何と説明すれば良いかな。
ピクシー族は、他の妖精族と変わらぬ肉体や性別を有しているが、ある条件下で天寿を全うした際、その者が望めば精神体“オディアーナ”としてこの世界に留まることができるのだ。
無論、皆が皆、オディアーナとなることはできぬし、様々な制約も受けることとなるが、オディアーナとなったピクシー族は、性別がなくなり、年老いることもなくなる」
それはある意味、不老不死ではないのだろうか、と修一郎は思う。
魔法が発達したこの世界のことだ。精神体を消し去るような攻撃魔法も存在するのかも知れないが、一般的には一度死んだものを再度殺すことは不可能である。ましてや、相手は実体を持たない精神体なのだ。
それに加えて、歳を取ることもなくなるならば、ペイシュヴィルは未来永劫、この世界に留まり続けることになるのではないか。
「ふふ……。お主の考えておることは、凡そ見当が付く。オディアーナは不老不死者ではないのか、ということであろう?
オディアーナとて、永遠にこの世に縛られる存在ではない。お主らの肉体が老いて朽ちてゆくように、精神体も徐々に希薄となり終には消滅する。
無論、それは長い年月の果てに、ではあるがな」
修一郎の考えを見透かしたように、ペイシュヴィルはその中性的な顔立ちに、薄い笑いを浮かべた。
「そうでしたか。答えていただき、ありがとうございます」
「なに、構わぬよ」
軽く頭を下げて礼を言う修一郎に、ペイシュヴィルは表情を変えぬまま短く応じる。
「さて、少しばかり長話をしてしまった。
あまり見かけぬ者が居たので気になってな。邪魔をして済まなかった。
だが、珍しき者に出会えたことは僥倖であったと言うべきか。
シュウイチロウ、お主もソウジロウのように、この世界に益する存在となることを期待させてもらうぞ」
それまで異世界人との会話を楽しんでいるようであった口調を一変させて、精神体オディアーナとなった元ピクシー族が、真剣な表情で言葉を発する。
彼……或いは彼女の中で、ソウジロウという異世界人は余程大きな存在となっているのだろう。
生前の、と言うには表現が相応しくないように思われるが、ピクシー族であったころのペイシュヴィルには、ソウジロウに対する特別な想いがあったのかも知れない。
「残念ですが、私はいたって普通の人間ですよ。この世界で暮らしていくのに精一杯です。
それに、特別な知識も持っていませんし、若くもありません。ペイシュヴィルさんのご期待に沿えそうにもありませんね」
修一郎が、いつもの頼りなさそうな笑みを浮かべる。本人としては、応えた言葉は嘘でも謙遜でもなく、事実だと思っている。
修一郎がこの世界にもたらしたものは全て、自分が必要と感じたから形にしただけであって、特段世の人々の役に立とうと意図したわけではないのだ。
「……ふむ、まあ良い。思うところはあるが、今日はこれまでにしておこう。
お主らはアーセナクトに居を構えておるのだろう?また、見えることもあろうよ」
僅かに何か考え込むような仕草を見せたペイシュヴィルは、それでもこれ以上会話を続けようとはせず、やってきた林へと足を向けた。
が、不意に何かを思い出したように、再び修一郎たちに向き直り、懐から何やら取り出した。。
「忘れるところであった。お主に、これを渡しておこう」
戸惑いながらも受け取った修一郎の手には、楕円形の青い小石が載せられていた。
「これは?」
「ナズ河上流域の河底で採れる“湧水の青石”と云うてな、ピクシー族の感謝の印として相手に渡すものだ。
お主としては受け取る義理もなかろうが、これはソウジロウの行いにピクシー族全体が感謝している証として、出会った異世界人全てに渡している。
お主らの言う御守のようなものだと思って、受け取って貰えると有難い」
「……分かりました。
仰るとおり、私個人は貴方がたピクシー族に何ら貢献しているわけではありませんが、そういうことでしたら受け取らないわけにもいかないようですね。
大切にさせていただきます」
真面目な表情で、小石が載せられた手をそっと握り締める修一郎を見て、ペイシュヴィルが笑う。
「そこまで大仰に捉えずとも良い。
然程珍しいものではない。特別な力があるわけでもない故な」
そして再びペイシュヴィルは踵を返そうとするが、またも何かを思い出したのか、立ち止まって口を開いた。
「ああ、それともう一つ。夕刻前には街に戻ることだ。
もうじき、天気が崩れ始めるぞ」
そう告げると、今度こそオディアーナのペイシュヴィルは河畔林の中へと姿を消した。
「なんだか、とんでもないモノを貰っちゃったね」
魂だけの存在だという、元ピクシー族の消えた方角を眺めていた修一郎に、それまで黙っていたルキーテが声をかけた。
ルキーテも途中から警戒心を解いて二人の会話を聞いていたのだが、ペイシュヴィルの物言いは所々古風な言い回しがあって、虎人族の少女は会話に加わる機会を逸してしまっていた。
もちろん修一郎もペイシュヴィルも、大陸公用語で会話していたので、全く理解できなかったわけではない。 それでもルキーテは、全体の三分の一くらいは何を言っているのか分からなかった。会話の前後の繋がりから、凡その内容を推測し、把握するので精一杯であったのだ。
「ええ、本当に。
成り行きで私もいただいてしまいましたが、ここは過去の異世界人……ソウジロウさんに感謝しておくべきなのでしょうね」
握っていた手の平を開いて、その中にある小石を見つめる。
乾いているはずなのに、水に濡れたように青く光るその石は、初春の陽射しを小さく反射させて煌いている。
「ねぇ、シュウイチロー。あのペイシュヴィルってヒト……?って、何年くらい生きてる……?んだろうね」
今まで出会ったことのない、特殊な生涯を送っている存在に対して、ルキーテはどういった表現をすれば良いのか悩んでいるようだ。
「どうでしょうね。少なくとも、三百歳以上ではあるようですが」
言って、修一郎は微かに苦笑した。
ペイシュヴィルに会った後では、一つ歳を取っただけで大袈裟に騒いでいた自分が馬鹿らしく思えたからであった。
この世界には様々な種族がいて、それぞれ寿命は異なる。長命な種族として有名なエルフ族で平均寿命が凡そ二百五十年と言われており、次いでドワーフ族とノーム族の約百五十年。鳥人族が約百二十年、それ以外の種族は殆ど大差がなく七十年前後だと言われている。
多少形態は異なるが、ペイシュヴィルはそれらを軽く上回る寿命を持っているのだ。ただし、精神体となった状態も寿命として含めて良いのであれば、の話ではあるが。
例外として竜族がいるが、彼らは滅多どころか数百年に一度くらいの頻度でしか人前に姿を現すことがなく、そもそもアルベロテス大陸に竜族が居るかどうかも分かっていない。噂では竜族は歳を取らないとまで言われており、伝説上の種族と断言する者すら居る。
「いずれにせよ、珍しい方にお会いしたことは確かですね」
ペイシュヴィルと似たような台詞を口にして、青石を上着のポケットに仕舞うと、修一郎は大岩の上に再び腰を降ろした。
向こうの世界の物語やゲームに出てくる竜は、大半が善にしろ悪にしろ高い知識を持ち、莫大な財宝や遺跡を護る番人として描かれることが多かった。もしかすると、こちらの世界の竜族も同じだったりするのだろうか。
過去に失われた知識、想像もできないような宝物、人智の及ばない秘術といったものと共に在るのだろうか。
だとすれば、自分が向こうの世界へ戻る方法も存在するのかも知れない。
こちらの世界に骨を埋める覚悟はしたつもりであるが、それでもそういった思考を止めることはできない修一郎だった。
この世界に放り出されて九年。
九年という月日は、“人間”である修一郎にとって決して短くない。その間、一年また一年と歳を重ねると同時に、大勢の者たちと繋がりも出来ていった。
王都に暮らすハーベラやその子供たち、冒険者であるグラナたち、マリボー商店の同僚、レベックやバランダといった職人、今修一郎の横に居るルキーテもそうだ。
向こうからこちらに来たときは、修一郎の意思など介入する余地はなかった。では、“もし”こちらから向こうへ帰ることができるとなった時、自分は選べるのだろうか。
公に私に、表に裏に、自分を助け、支えてくれた者たちから躊躇うことなく離れられるのだろうか。
そこまで考えて、修一郎は内心で苦笑する。
そのような状況になることは、まずないだろう。仮定に仮定を重ねた話なのだ。十年二十年先に“あるかも知れない”出来事に悩む前に、まずは今日一日をしっかりと生きていかねばならない。
気持ちを切り替えるように、大きく深呼吸した修一郎が、ルキーテを促す。
「さあ、昼飯を食べてしまいましょう。あのヒトの言うことが正しければ、この後雨が降るようですからね」
「そうだね」
修一郎の言葉に素直に従い、ルキーテも座り込むと、飲み口を開けたままであった水筒からハーブティーを口に含んだ。
家を出る時よりは、少しだけ空に浮かぶ雲の数が増えたような気もするが、それでも充分気持ちの良い青空の下、二人は遅くなってしまった昼食を再開したのだった。
昼食を終えた修一郎とルキーテは、ペイシュヴィルの忠告を素直に受け取ることにして、釣りをやめアーセナクトへ戻る。
東門の手前までやって来た修一郎は、意外な人物に出会った。
銀色の長い髪に、深緑色のワンピースと水色のジャケット、髪から覗く特徴的な長い耳。
マリボー商店販売部門担当の、クローフルテである。
「クローフルテさんじゃないですか。休みの日に、こんな所でお会いするとは珍しいですね」
「……クローフルテ・マイヤックです」
いつもと変わらぬ無表情のまま、丁寧にお辞儀をしたクローフルテが、これまたいつものように修一郎の発言を訂正する。
「こんにちは」
いやあ、すみませんつい……などと頭を掻いている修一郎の横で、ルキーテもぺこりと頭を下げる。
「どこかにお出かけされていたのですか?」
律儀に虎人族の少女にもお辞儀を返しているクローフルテに、修一郎が問い掛ける。
出かけると言っても、アーセナクトの東周辺には、修一郎たちが行ったナズ河と、それを超えた向こうに広がる草原くらいしか存在しない。
森の妖精族であるエルフならば、東の草原より北の森へ行くことのほうが多いのではないだろうか、と修一郎が考えていると、
「いえ、シュウイチロウ・ヤスキさんをお待ちしていました」
まるで用意されていた答えのように、クローフルテが即答した。
「私を?」
「はい」
問い返しながら、仕事の関係で何か問題でもあったのだろうか、との考えが頭を過ぎるが、重大若しくは緊急の案件であれば、同じ部門の先輩であるレナヴィルかマリボーに相談するだろうと思い直し、修一郎はさらに問い掛ける。
「何のご用でしょう?……っと、門の前でお話しするのもアレですし、とりあえず街に入りませんか?」
三人は街中に入ったわけではなく、未だ市壁の外側に居る。
アーセナクト東門の入口には当然の如く警護団が詰めているのだが、そのうちの一人が、人間族とエルフ族と虎人族という珍しい三人組が門の前で立ち話しをしているのを興味深げに眺めていた。
「はい」
クローフルテは頷くと、その警護団の一人へと歩み寄り、市民証を提示する。アーセナクトの住民であれば、その市民証を見せるだけで街の出入りが可能であった。
修一郎とルキーテも、クローフルテに続いて市民証を提示し、街へと戻る。
街路を歩きながら、修一郎が口を開いた。
「それでは、改めて。私に何かご用でしょうか?」
修一郎とクローフルテの間にはルキーテがいるため、ルキーテの頭越しに問い掛ける。
「それが……、その……」
エルフ族の同僚は、ちらりとルキーテを見て、すぐさま修一郎に視線を移して口篭る。
その仕草から、あまり第三者に聞かれたくない事柄なのだろうと察した修一郎は、ルキーテを先に帰すことにした。
「ルキーテ。私は少しばかり用事ができました。
すみませんが、君は一足先に家に戻っていてもらえますか」
クローフルテの視線に気付かなかったルキーテは、素直に頷く。
「うん、分かった。
シュウイチロー、釣り道具とかわたしが持って帰っておこうか?」
「ああ、そうですね。お願いします。晩飯までには戻りますから」
持っていた釣竿の包みと皮袋をルキーテに渡しながら、修一郎はクローフルテに話しかける。
「では、どこか落ち着ける場所で用件をお聞きしましょうか。プレルさんの食堂でいいですか?」
プレルの食堂であれば、顔馴染みであるし、個室もある。個室ならば、落ち着いて話も出来るだろう、との考えからの提案であった。
「いっ、いえっ……!出来れば私の家に来ていただけると……」
珍しく慌てた様子のクローフルテは、両腕を突き出して修一郎を押し止めるような仕草で、要望を口にする。
「クローフルテさんの家ですか?それは構いませんが、お邪魔しても宜しいのでしょうか?」
「は、はい。是非」
「分かりました。
では、ルキーテ。後は頼みますね。それと、家に戻るまでも、戻ってからも周囲の気配には充分注意しておいてください。
帰り道も、出来るだけ人目に付き易く、明るい通りを選ぶのですよ?」
クローフルテに諾の返事をした後、修一郎はルキーテに向かってこまごまとした指示を与える。
「心配しなくたって大丈夫だよ!そっちこそ気をつけろよな!」
修一郎から荷物を受け取ったルキーテは、街路を駆け出し、通りの人ごみの中へと姿を消した。
身軽な動きで、通りを歩く通行人を避けつつルキーテは走っていた。
「なぁんか、おかしな雰囲気だったなー。
もしかしてクローフルテさんって、シュウイチローのこと好きなのかな?」
気付かないふりをしていたが、虎人族の少女はエルフ族の女性の纏う妙な緊張感を感じ取っていたようだ。
走りながら呟いたルキーテの独り言は、既に離れてしまった修一郎とクローフルテの耳に届くことはなく、通りを緩やかに吹き抜ける初春の風の中に消えていった。