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街の事務員の日常  作者: 滝田TE
街の事務員の日常
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第二十五話 休みの日は釣竿持って


 春の一の月(三月)十九日。

 実に一ヶ月以上ぶりのまともな休日となった日の朝、修一郎は普段と同じ時間に目を覚ました。


 道中何事もなく、王都から戻ったのが春の一の月十四日。

 マリボーと修一郎とソーンリヴは、その足で職場であるマリボー商店へと向かった。本店分の総資産計算書の最終確認及び決済のためである。

 本店の事務を代行していたブルソーとジスの能力を疑うわけではないが、事は売上税の税額確定に関するのだ。

 書類不備等で再提出を求められるならまだしも、市から文書改ざんや金額の虚偽記載といった嫌疑をかけられては目も当てられない。

 大鐘三つと子鐘五つ(午後五時)過ぎに、アーセナクトへ着いた路線馬車から、荷物と共に降り立った三人は、途中の露店で夕食兼夜食となりそうなものをいくつか買い込んで、店の二階にある応接室へと入る。

 そこには、既にブルソーとジスが決算書類一式を持ち込んで待ち構えており、挨拶や不在の間の情報交換もそこそこに、五人で最終確認を行ったのであった。

 一通りの確認と数箇所の訂正を含めた作業が終わったのが、日付が変わった十五日の大鐘一つ(午前零時)を少し過ぎた頃。

 書類を自室の金庫に納めたマリボーは、四人に対し労いの言葉をかけると、解散を告げた。

 翌日、マリボーは市庁舎へ、ブルソーはマリボーに代わりアーオノシュへ、修一郎とソーンリヴは店へと向かい、通常業務を開始した。

 ソーンリヴたちが原因ではなかったが、臨時に事務を担当することになったジス、ジスが抜けたことでしわ寄せを食らうことになった販売部門のレナヴィルとクローフルテの三人に対しては、修一郎の提案により王都名産の白磁製のティーカップをお礼兼土産として渡した。

 また、同じく修一郎の勧めで、店の従業員全員に対し、王都で人気のある菓子屋の焼き菓子を各部署にも配っている。

 この辺りは、元の世界で修一郎の勤める会社の慣例となっていたものを思い出して、それに倣っただけであったが、皆には好評であったようだ。

 そして以前の業務に戻った修一郎たちは、いつもの事務仕事を続け、待望の休日を迎えたのであった。

 尤も、ソーンリヴと修一郎に限っては、十一日に特別休暇を与えられていたことに加え、アーセナクトへ戻る道中は特にすることもなかったので、実質三日ほど休んでいたようなものであったが。


 ともあれ、休日は休日である。

 朝食を終えた修一郎は、居間でコーヒーを啜りつつ、ぼんやりと今日の予定を考えていた。


「シュウイチロー、片付け終わったよ」


 台所で洗い物をしていたルキーテが、タオルで両腕を拭きながらやってくる。

 地肌が濡れても水気を拭き取れば簡単に乾く人間族とは違い、鳥人族を除く獣人族は、一度体毛を濡らすとなかなか乾かない。

 それでも、ルキーテは自ら進んで台所仕事や洗濯といった水を扱う家事をこなしていた。

 今でも火を使った調理に関しては、修一郎が傍に居るときにしかやらせてもらえないが、それ以外の家事の殆どをルキーテが取り仕切っていると言ってもいい。

 フォーンロシェなどは、甲斐甲斐しく働くルキーテを眺めやって、


「まるで、修一郎に奥さんができたみたいね」


 と、意味ありげな笑みを浮かべてからかったが、修一郎は呆れ気味に、ルキーテは丁寧に、女冒険者の言葉を聞き流した。

 その冒険者たちは、修一郎が戻ったことで一応の依頼は達成したため、新たな仕事を見つけて、今はアーセナクトから離れている。

 アーセナクトからダリンへ向かう行商人の護衛の仕事らしい。なんでも、急ぎで向かわねばならないらしく、自前で馬車を借りた行商人が夜間の護衛を必要としていたとのことであった。

 ついでと言えば、いささか大仕事になるが、ダリンまで足を伸ばすのであればと、修一郎は再びコーヒー豆の調達を依頼した。

 グラナたちが持ち帰って来たコーヒーを、折角だから職場でも愉しもうとしたところ、ソーンリヴが興味を示したのだ。

 試しに飲ませてみると、深い藍色の髪の女上司は、それをいたく気に入ったようで、仕事の合間に挟まれるお茶休憩の際には、コーヒーが出されることとなった。

 ちなみに、ゼリガとクローフルテにも勧めてみたが、ゼリガは焦げた臭いが気になると言って辞退し、クローフルテは苦味が好みでないため遠慮すると言われてしまっている。

 それでも、修一郎以外にコーヒーを愛飲する者が一人増えたため、豆の消費量も増えることになり、手許の豆が尽きる前に補充を考えていた修一郎にとっては、馴染みの冒険者がダリンへ向かうことは渡りに船であったのだ。

 グラナたちも、修一郎からの依頼を快く引き受けてくれた。報酬については、かなり異例なことだが、渡航に係る費用と滞在費、仕入れ……というより手伝ってくれる子供たちに渡す駄賃の費用の全額を修一郎が負担することで、契約は取り交わされた。

 正規の依頼であれば、成功報酬を別途手渡さなければならない。

 しかし、今回は冒険者組合を通さない非公式の依頼であることに加え、アーオノシュで修一郎とハーベラが再会を果たしたことを聞いて、我がことのように喜んだフォーンロシェが、「それが何よりの成功報酬よ!」と言い切ったのだ。

 そもそも“修一郎がハーベラの下を訪れるように説得する”ことも、フォーンロシェたちが受けた別件の依頼であったはずだ。

 普通の……と言うより大抵の冒険者であれば、ハーベラの依頼と修一郎の依頼、それぞれ分けて報酬を受け取ろうとするだろう。冒険者にとって、成功報酬がほぼ唯一と言っていい、収入源なのだから。

 しかし、グラナもどこか安堵した表情を浮かべたまま何も言わなかったため、有耶無耶なまま二人は旅立って行ったのだった。

 今後、度々イレ・マバル諸島までコーヒー豆を仕入れに向かうことになるならば、きちんとした仕入れルートの構築も検討しなければならないな、と修一郎が考えていると、ルキーテが声をかけてくる。


「シュウイチロー、今日は何か予定があるの?」


「うん?……そうですねぇ、これと言って特に考えていませんが」


 そう答えて、また一口、コーヒーを啜る。


「ふーん……」


 何やら思案している様子のルキーテが、テーブルを挟んで修一郎の真向かいに腰を下ろす。そこは、ルキーテの指定席となっている場所であった。


「ねぇ、シュウイチローは結婚する相手とか、恋人っていないの?」

「ぐっ……!」


 思いも寄らぬ方向からの質問に、完全に不意を突かれた修一郎は、あやうく口中のコーヒーを噴き出しそうになった。

 おまけに、その拍子でいくらか気管にも入ったようで、激しく咽ることとなる。


「げほっごほっ、こほっ……。と、突然何を言い……ごほっ……出すのですか、ルキーテ」


「い、いや、今まで一緒に暮らしてきて、一度もそういった女の人を見かけたことないからさ。

 ちょっと、気になっただけなんだけど……」


 目尻に涙を浮かべて、修一郎はルキーテを見るが、どうやら虎人族の少女は純粋な疑問を口にしただけのようであるらしい。

 喉に残った違和感を洗い流そうと、再びコーヒーの入ったカップに口をつける修一郎。


「ごほん……。んん、生憎、そのような女性は居ませんよ」


「そうなんだ。じゃあ、娼館とかに行ったりは?」


 今度こそ修一郎はコーヒーを噴き出す破目になった。しかも盛大に。


「がふっ……!な、な!?何を……っ、ごほっ!しょ、しょう……げほっ……そんな言葉を一体どこで……っ」


「わ、わっ。ご、ごめんシュウイチロー。とりあえず、これで拭いて」


 テーブルの上や修一郎の着ていた服にコーヒーが飛び散ったのを見て、ルキーテが慌てて、使っていたタオルを手渡す。

 未だ咳き込んでいる修一郎は、それを受け取ると自身の衣服に散った黒い飛沫にタオルを当てた。


「…………ごほっ、ちょっと、着替えて、きます。

 君は、テーブルを、拭いておいてください」


 未だ咳が収まらないため、切れ切れになりながらも一応の指示を出して、椅子から立ち上がると、手に持ったタオルをルキーテに返し、修一郎は一階の自室へと戻っていった。

 自分が留守の間に、虎人族の少女にいらぬことを吹き込んだのは、黒髪の女冒険者に違いないと確信しながら。


 修一郎が着替えを終えて居間に戻ると、テーブルには新たなカップとコーヒーの入ったポットが用意されていた。

 テーブルに飛び散ったコーヒーは、綺麗に拭き取られていて、修一郎の席の横には申し訳なさそうにルキーテがぽつんと立っていた。


「代わりを用意してくれたのですね。ありがとう、ルキーテ」


 ルキーテの頭に右手を乗せながら、修一郎が微笑みかける。


「う、うん」


「とりあえず、座りましょう」


 今の騒動は、飽くまでもフォーンロシェが根源であって、虎人族の少女に罪はない。

 罪はないが、ここはしっかりと教えておかねばならない。

 そう考えた修一郎は、出来るだけ優しい声音でルキーテに着席を勧めた。

 てっきり叱られるものと思っていたルキーテは、戸惑いながらも、再び修一郎の向かいに腰を下ろす。


「いいですか、ルキーテ」


 少女が椅子に座るのを待って、おもむろに修一郎が口を開く。


「確かに、私は結婚もしていませんし、恋人と呼べる女性もいません。

 だからと言って、娼館に通ってもいませんし、通うつもりもありません」


 半分は真実で、半分は嘘である。

 恋人や妻となる女性はいないが、気になる異性がいない訳でもない。

 もちろん、これは他人に明かすようなことではなく、ここでその相手の名を挙げるつもりもない。

 元の世界では、大学時代に一人の女性と付き合っていたことはあったが、それも就職によって地元を離れることが原因となり、自然消滅に近い形で終わりを迎えていた。

 ただ、これまでの九年間の異世界生活において、特定の女性と関係を持ったことがないのは事実であった。

 だが、修一郎は木石でできた人形ではない。人並みに……かどうかは微妙なところではあるが、それなりに性欲は持ち合わせている。

 かつて、二度ほど娼館に足を運んだことがある。ただ、二度目の娼館で相手の女性から病気を移されてしまい、医術士の世話になった経験があるため、それ以降は、娼館は懲り懲りだという思いが強い修一郎だった。


「じゃあ、獣人族や幼女趣味ということは……」


「それもありませんよ……。獣人族の中にも、魅力的な女性は何人もいますが、そういった方との縁にも恵まれていませんね。

 あと、私はいたって通常の嗜好を持っているつもりです。歳相応の方にしか興味はありません」


 この虎人族の少女に、フォーンロシェはどこまで余計なことを吹き込んでいるのだろうかと想像し、修一郎はため息と共に、それでもきっぱりと否定した。


「まあ、こういうことは、私一人の問題ではないことは、君にも分かるでしょう?

 相手が居ないとお話になりませんからね」


「うん。でも、シュウイチローくらいの歳で相手がいないのはおかしいって、フォーンロシェが」


「まったく、あの娘は……」


 こめかみに鈍い痛みを感じたような気がして、右手の中指と親指でそこを揉むような仕草をした修一郎は、それでもルキーテを諭すように告げる。


「自分に合った相手を見つけるのに、年齢は然程重要ではありませんよ。

 幼い頃に知り合った相手を好きになったり、歳老いてから出会った相手が終の伴侶となったり、恋愛というものはヒトそれぞれ……」


 そこまで言って、修一郎はあることに気がついた。


「ルキーテ。確か今日は、十九日でしたね?」


「え?うん、そうだけど」


 これまでとは全く関係のないことを訊ねてくる修一郎に、ルキーテは小首をかしげながらも答えた。

 心なしか、修一郎の表情には疲れが増したように見える。


「そう……ですか。十九日……。あと五日…………。私も……」


 まるで夢でうなされている者のように、態度を急変させ、何やら呟き始めた修一郎を見て、ルキーテが慌てて声をかける。


「しゅ、シュウイチロー?どうしたんだ?身体の調子でもおかしいのか!?」


「ルキーテ……。私は部屋に戻ります……。すみませんが、暫く一人にしてください……」


 不意に立ち上がった修一郎は、それだけ言い残すと再び自室へと消えていった。

 居間には、好物であるはずのコーヒーが殆ど減っていないカップと、困惑気味のルキーテだけが残された。




「釣りに行きましょう」


 自室に引っ込んで子鐘一つ(一時間)が過ぎた頃、修一郎は布に包まれた細長いモノと小さな布製の袋を手にして、居間へと姿を現した。


「釣り?」


「そうです。釣りです。

 幸い天気も良いようですし、こんな憂鬱な日には、川縁でのんびりと釣り糸を垂らすに限ります」


 断固たる決意を瞳に宿らせて語る修一郎であったが、ルキーテにとってはいたって普通の一日としか思えない。

 初春の空には小さな雲が二つ三つ浮かんでいる程度で、青く晴れ渡っており、良い日和だなぁと思うことはあっても、憂鬱だと感じる者は少ないだろう。

 それに、ルキーテたち虎人族にとっては、釣りとは食料を得るための狩猟方法の一つであり、その行為に“のんびり”などという表現は場違いな言葉にしか聞こえなかった。

 しかし、修一郎の纏う妙な迫力もあって、虎人族の少女は素直に従うことにした。


「昼飯は私がサンドイッチを作ります。ルキーテ、君は飲み物を用意してください」


「わ、分かった」


 時刻は、既に大鐘二つに子鐘四つ(午前十時)を過ぎている。今から釣りに行くとなれば、確かに昼食を用意する必要はあるだろう。

 二人して台所へ向かい、それぞれの準備を済ませると、修一郎とルキーテは出かけて行ったのであった。






 商業都市アーセナクトの東を流れるナズ河は、北の国境に広がる山脈を源とし、アルタスリーア王国でも有数の水量豊富な川である。

 正確な数値は知らないが、修一郎の世界の度量衡で言うと、アーセナクト周辺の中流域で川幅約200メートル、水深は10メートル以上あるようだ。

 川岸は葦のような植物が生い茂っている場所もあれば、人頭大の石が転がる川原や、河畔林が広がる場所もあって、釣り人にとってのポイントには事欠かない。

 汚れても構わない簡素で地味な出で立ちの修一郎とルキーテは、東の市壁を出ると、アーセナクトから見て下流域にある河畔林へと足を向けた。

 林と言っても、平野部や山裾にあるような背の高い木々が生えているわけではなく、川に沿うように潅木が茂り、所々に3メートル前後の広葉樹が伸びている状態である。

 水際には岩場もあり、腰を下ろすにも、弁当を広げるにも都合がいい。

 修一郎は辺りで最も大きな岩を選ぶと、その上に登った。岩からナズ河を見下ろすと、足元は小さな淵となっているようだ。


「ここにしましょう」


 そう言って、修一郎は荷物を大岩の上に降ろした。細長い包みの布を解くと、二本の釣竿が現れる。

 こちらの世界に生えている竹に良く似た植物を伐採して、乾燥させただけの質素な竿である。

 無論、リールなどという便利な道具もなく、ナイロン製テグスも存在していないため、馬の尻尾の毛をって作られた釣り糸を竿先に結びつけるだけの、ごく簡単な仕掛けだ。

 元の世界でも修一郎は、熱心ではなかったものの、毛鉤釣りや投げ釣りなどに時たま出かけては、半日程度時間を潰すことはあった。

 今回は木製の玉浮きを用いた餌釣りであるが、修一郎にとって川釣りと言えば、毛鉤釣りが真っ先に思い浮かぶ。似たような毛鉤を使うということで、テンカラ釣りに挑戦したこともあったが、そちらはどうにも合わないように思えて、早々に諦めていた。

 改めて思い返してみると、修一郎の周囲には、毛鉤の素材となるものが揃っている。

 犬人族に鳥人族、猫人族に虎人族と、彼らから抜けた落ちた体毛を拝借すれば作れなくはないな、などといささか失礼なことを考えながら、修一郎は二人分の準備を進めた。

 釣り餌は、途中の川原で手頃な石を引っ繰り返して、その下に潜んでいた水棲昆虫をルキーテが確保してくれている。


「よし。ルキーテはこれを使ってください」


 準備を終えた修一郎が、釣竿の一本をルキーテに手渡す。

 浮き釣りこそ初めてではあるものの、ルキーテも生まれ故郷の集落で暮らしている頃に、釣りは何度か経験している。

 簡単な手ほどきを受けた虎人族の少女は、慣れた手つきで竿を振り、それに少し遅れて修一郎も仕掛けを川へと投げ入れた。






「…………」


「…………」


 最初に仕掛けを投入して子鐘一つが経過したが、二人の釣果は未だにゼロであった。


「シュウイチロー」


「なんです?」


「釣れないね……」


「そうですねぇ」


 川面に浮かんでぴくりともしない浮きを見つめながら、ルキーテが呟く。

 この釣りを狩猟の一環として捉えていたルキーテも、当初は真剣な表情で臨んでいたのだが、今ではただ退屈そうに釣竿を握っているだけだ。

 一方、修一郎は、途中何度か餌を付け替えただけで、場所を移動するでもなく水面を眺めているが、何やら物思いに耽っているようで、浮きを見ているかどうかも怪しい。


「シュウイチロー」


「なんです?」


「ここ、魚いないんじゃない?」


「そうですねぇ」


 何を話しかけても同じことしか言わない保護者を訝しむように、被保護者であるルキーテは横目で修一郎を見遣る。

 急遽決まった釣りもそうだが、それ以前から修一郎の様子は既におかしかった。

 あの時の会話に、修一郎の気に障ることでも含まれていただろうか。思い返してみても、心当たりがあるとすれば、恋人や娼館について訊ねたことくらいだが、それに関しては特段怒っていたようにも見えなかった。

 しかし、今の修一郎は表情こそぼうっとしているが、決して長いとは言えないまでも、数ヶ月の時間を共に過ごしてきたルキーテには、手近なものに集中することで気を紛らわせているように感じられて仕方がない。

 虎人族の少女は、思い切って尋ねてみることにした。


「……シュウイチロー」


「なんです?」


「その……、何か悩み事でもあるのか?」


「……そうですね」


 ルキーテの言葉に、修一郎の表情が僅かに揺れた。


「オレ……わたしに何ができるか分からないけど、話を聞くことくらいできるよ?

 わたしじゃ、シュウイチローの力にはなれない?」


 そこで初めて、修一郎は声の主に顔を向けた。

 少女の金色の瞳には、自分を心配してくれる真摯な光が宿っているように見える。

 それに気付いた異世界人の男は、今朝からの自分の行動を振り返って、苦笑の形に唇を歪めた。

 大人の自分が、子供のルキーテに不安を与えるとは、何という体たらくか。

 極々個人的な、しかもある意味馬鹿げた悩みであるのに、ルキーテは本心から心配してくれているのだ。

 その心情に応えるために、修一郎は今朝から悩んでいたことを打ち明けるべく口を開く。


「すみません。心配をかけてしまったようですね。

 実に馬鹿馬鹿しい理由です。ルキーテが気に病む必要はありませんよ」


 柔和な笑顔で、そう返答する修一郎に、それでもルキーテは安心できなかったようだ。


「本当に?」


「ええ。本当です。

 悩み……と言って良いのか微妙なところなのですがね。

 実はですね……」


「…………」


 修一郎が、心の内を明かそうとしている。知らず、ルキーテは背筋を伸ばして、緊張した面持ちで次の言葉を待った。


「五日後の二十四日なのですが……」


「う、うん」


 ルキーテの喉がごくりと鳴る。


「私の、誕生日なんです」


「…………へ?」


 全く予期していなかった答えに、思わず虎人族の少女は思い切り間の抜けた返事をしてしまうのだった。






「心配して損した!だいたい、自分の誕生日で悩む奴なんか初めて見たよ!」


 修一郎の言ったとおり、あまりに馬鹿馬鹿しいその悩みを聞いて、ご立腹のルキーテがそこに居た。


「そうは言いますがね、ルキーテ。この歳になると、新たに迎える誕生日なんて、あまり嬉しいものではないのですよ。

 また一つ、老いに向けて歳を取るということなのですから」


 未だに怒りを収めようとしないルキーテに、修一郎が弁解を重ねる。

 確かに、成人していないルキーテにとって、誕生日とは大人へと近づく一歩でもあるため、待ち遠しいと感じることはあっても、やって来て欲しくないと思うことなど皆無と言っていいだろう。

 しかし、修一郎にとっては、そうではない。疾うの昔に、青年と呼ばれる時代は過ぎ、今では中年と呼ばれる年代にしっかりと足を踏み入れているのだ。


「それでも、急に様子がおかしくなったら心配するだろ!」


 尚もルキーテが言い募ろうとしたその時、アーセナクト市庁舎の大鐘が三つ鳴り響いた。街からそれ程離れていないため、ここからでもしっかりと聞き取れる音量であった。


「まあまあ。その件については謝りますから。

 お昼になったようですし、ここは一旦、この話も釣りも中断して、昼飯を食べることにしましょう」


 宥めるように発せられた修一郎の言葉に、何か言いかけたルキーテであったが、怒ったためか空腹が刺激されたのだろう。

 どこか釈然としない表情をしながらも、持参してきていた手提げ篭を膝の上に乗せる。

 中には、修一郎が作った二人分のサンドイッチと、飲み物の入った皮製水筒が入れられていた。

 釣りをしていると手が汚れてしまうので、いつも通っている食堂の女将プレルが分けてくれた、大きな植物の葉でサンドイッチは包まれている。

 サンドイッチと言っても、今回は挽き肉にみじん切りのタマネギと香辛料を練りこんで、ハンバーグのように焼き上げた肉の塊がメインの食材である。

 それにトマトソースをかけ、下に生タマネギの輪切りを挟み込んだ、修一郎の世界のハンバーガーのようなものであった。


「まだ完全に許したわけじゃないからなっ!それと、ほらこれ!」


 言葉に相応しい荒っぽい仕草で手渡されたサンドイッチを、苦笑を浮かべて受け取る修一郎。

 ルキーテは喉が渇いていたのか、サンドイッチよりも先に水筒に手を伸ばした。皮製の水筒には、冷めても香りが失われないハーブティーが入れられている。

 葉っぱの包みを半分だけ剥がし、直接手で摘まないようにしながら、食事を開始しようとした修一郎に、ルキーテの緊張した声がかけられる。


「誰か来るよ……!」


 見ると、飲み口を開けた水筒を手にしたまま、ルキーテは険しい表情で周囲に視線を巡らせている。

 狼人族の固有能力“気配探知”には遠く及ばないまでも、虎人族はある程度離れた場所の気配を知ることができる。

 そのルキーテが言うのだから、何者かがこちらに接近しているのだろう。

 王都での件があるので、修一郎はアーセナクトに戻ってからも、身辺には気を配るようにしており、被保護者のルキーテにもその旨注意を促していた。

 それをルキーテと一緒に聞いていたフォーンロシェなどは、一旦受けた依頼を断ってまで、修一郎の警護をすると言い出したのだが、一度受けた依頼を冒険者側の都合で断るとなると、所謂キャンセル料を払わねばならない。

 それでなくても、修一郎不在の間のルキーテや家の面倒を、食事と寝床の提供だけで引き受けており、グラナとフォーンロシェはそれ以外の報酬を得ていないのだ。

 二人の冒険者に、これ以上の負担をかけたくなかった修一郎は、言葉を重ねて説得し、何とか納得させていた。

 おかげで今日の釣行も、市壁の物見塔から見える場所を選び、河畔林には踏み入らず、目立ちやすい岩場からは動かないようにするなど、出来る限りの配慮をしなければならなかったのだが。

 一番安全であるのは家から出ないことなのだが、明確に自分の命が狙われていると判明しているわけではない状態で、過度に怯えて暮らすのも馬鹿げた話である。

 最大限とは言えないが、充分に注意を払いながら普段どおりの生活を送ることを、修一郎は選んでいた。


「数は分かりますか?」


 既に立ち上がっていたルキーテに遅れて、修一郎も食事を中断し、腰を上げる。


「……たぶん、一人だと思う」


 そちらの方向から来るのだろう、林の中へと伸びる小道の先を睨みつけたまま、ルキーテが答えた。


 やがて、木立の中から、一つの人影が姿を現した。

 長く伸ばした流れるような白い頭髪に、白の貫頭衣、淡い水色のズボンといった、一見すると白一色のような出で立ち。

 背丈は、長身である修一郎とほぼ同じか、やや低いくらいだろうか。細身の体格と、ゆったりとした服のため、女性であるのか、男性であるのかはっきりしない。

 その人物は二人がいる大岩の近くまで、姿を現した時と変わらぬ歩調で歩み寄ると、口を開いた。


「ほう。虎人族と人間族の取り合わせとは、また珍しい」



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