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街の事務員の日常  作者: 滝田TE
街の事務員の日常
24/39

第二十四話 それぞれの道


 半ば燃え尽きた木炭が、七輪の中で崩れ落ち、硬い音をたてる。

 邸宅の女主人がそこまで語り終えた時、アーオノシュの高級住宅街には既に夜が訪れていた。

 談話室の壁面に掛けられた術石製のランプからは柔らかな光が溢れ、その周囲をぼんやりと明るく照らしている。

 どうやら、室内にある鉢植えの植物に配慮してか、光量を抑えられているようだ。

 ソーンリヴが窓の外へと目をやると、ジュブラン執事が庭に据え付けられた、これも術石製の庭園灯に『明かり』の魔法を唱えて廻っているところであった。


「……陽が沈んでしまったようね」


 ソーンリヴに倣うように庭へと顔を向けたハーベラが、独り言ともとれる口調で呟く。


「はい」


 室内のランプとは違い、白く冷たい光を発する庭園灯から視線を動かすと、宵闇の中に聳え立つアーステルア城が見えた。

 白で統一された外壁は、城内の随所に設けられた灯火によって煌々と照らされ、城自体が光り輝いているような錯覚に囚われる。

 七輪の木炭が、また一つ燃え崩れ、小さな火の粉を舞い上がらせた。

 階上からは、ランシュの笑い声が微かながら漏れ聞こえて来ており、修一郎はコタールの忘れ形見である二人から未だ開放されていないようだ。


「久しぶりにシュウイチロウに会えたことが、余程嬉しかったのねぇ。尤も、それは私も同じなのだけれど」


 パルメルの部屋で繰り広げられているであろう光景を想像したのか、ハーベラが笑いの微粒子を多分に含んだ声で、我が子の心情と自らの心情を告げる。


「それほど、会われていなかったということでしょうか?」


「そうね……。私は二年ぶりかしら。

 私と今の夫のクロワバーシュが一緒になった時に、あの子が顔を見せてくれたの。

 ……ほんの僅かな時間だったけれどね」


「…………」


 ハーベラが最後の台詞を付け加えた際に見せた、寂寥感を伴う笑顔が印象的であった。


 ソーンリヴは思う。

 ハーベラたちの過去に起こった出来事は、既に彼女の中では理性や感情といった様々な面で折り合いが付けられているのだろう。

 だが、修一郎は、これまでその域に達していなかったのではないか。

 無論、その“過去”がどのようなものなのかは、未だ全てが語られたわけではないので、修一郎の思惟は分からない。

 それでも、今日、こうしてハーベラの下を訪れたということは、長身黒髪の異世界人の中で、何かしらの踏ん切り……或いは覚悟と呼んでも良いかもしれない決意が為されたということなのだろう。

 だからこそ、それに気付いたハーベラが、こうして昔話を自分にしてくれているのではないだろうか。

 修一郎が語らない、或いは語ろうとしない過去を、本人の居ない所で知ることに、抵抗を感じないわけではない。しかし、この世界での修一郎の親とも呼べる目の前の女性は、自分を信用してそれを明かそうとしているのだ。


「続きを……」


 ならば、聞こう。

 彼女の中で、単なる職場の部下という位置付けから変わりつつある、修一郎の身に起こった過去を。


「続きを聞かせていただけますか」


 深い藍色の髪と瞳をした女性は、一つの決意を込めた表情でハーベラを見つめた。






 コタールたちがセギュール隊と合流を果たした時、そこは先ほどの襲撃がお遊びに思えるほど、凄惨な戦場の只中にあった。

 万が一の際にと、配置していたのであろう野盗を、ハーベラの短弓で二人、コタールの短剣で一人斃す間に、修一郎は今まさに野盗と切り結んでいるカーロンへ向けて精一杯の声で呼びかける。


「セギュール!カーロン!こちらの野盗は片付けました!パルメルもランシュも無事です!

 レデグへの救援依頼も既に向かわせています!」


 修一郎なりに考えたうえでの行動なのだろう。その声は隊商参加者の戦意高揚と、僅かなりとも野盗たちの動揺を誘う効果があったようだ。

 三人の野盗を倒したとは言え、コタールたちとセギュール隊の間には未だ四人の野盗が立ちはだかっている。

 修一郎の言葉に真っ先に反応したのは、当然の如く、その四人の野盗たちであった。

 一瞬、戸惑ったような仕草を見せた四人のうち、一人はハーベラが放った矢を得物を持っていた腕に受けることとなった。

 残る三人の一人は、コタールが野盗の頭部に向けて唱えた『発火』の魔法で頭を火に包まれ、苦悶の叫びを上げながら路傍へと倒れこんだ。

 もう一人は直後に突き出されたコタールの短剣を腹部に受けてうずくまる。

 最後の一人は、修一郎が出鱈目に振り回した短剣から避けようとして雪に足をとられて転倒したところに、ハーベラが再度射掛けた矢を顔面に受けて絶命した。

 ここまでのアペンツェル夫妻の働きを見れば、単なる行商人とは思えないほど戦慣れをしているように思われるが、これは幸運に拠るところが大であり、いつもこのように上手く行くとは限らない。

 だが、偶然であろうと実力であろうと、コタールたちとセギュールたちの集団を隔てる障害を取り除くことに成功したのは、確かであった。


 セギュール隊の馬車は、公路の端に生えていた大樹の下に固まるようにして陣取っていた。

 それを護るように、二人の冒険者、カーロン、猫人族のベルーネがそれぞれ長剣を構え、アルタスリーア出身の人間族商人五人が短剣を握り締めて、野盗と対峙している。セギュールは、母親から仕込まれた弓術……と呼ぶには些か未熟ではあったが、ともかくも長弓を手にして、馬車の荷台から矢を射放っていた。

 そして彼らを取り囲んでいるのは、薄汚れた防寒服で身を包んだ者、厚手の皮鎧を着込んだ者、部分的に欠損はあるものの、胸部・腹部・大腿部を鉄板で覆った、所謂半身鎧で固めた者など、雑多な装備の十人を超える野盗たちであった。

 足元には、九体の人型をした“物体”が倒れこんでいた。そこには、ウィレンカで加わったバンルーガ商人と名乗っていた者たちの姿もあり、アルタスリーアから行動を共にしていた犬人族商人や人間族商人の姿もあった。

 いずれも、着衣はぼろぼろに切り裂かれ、体中のあちこちに赤黒い染みが拡がっている。

 本来であれば、雪が積もっているはずの周辺は踏み荒らされて半ば泥濘と化しており、そこに行商人と野盗の血が加わって、その異様な色合いを、木々の合間から差し込む冬の陽光が照らしていた。


 コタール隊を襲った野盗の規模から考えると、向こうの狙いがセギュール隊であるのは明らかである。

 コタールたちを襲った野盗は七人。それに対して、現在セギュールたちを襲っているのは、既に倒した者を含めて最低でも十七人以上。これは、バンルーガ商人が野盗が扮したものでないと仮定しての数であるので、もしその者たちが野盗であったならば、総勢は二十人を超えている。

 対する隊商側は、駆けつけたコタールたち三人を含め、十二人。何人か姿が見えない者が居るが、その者たちが身を隠しているのか、それとも別の場所で既に倒されているのか、現状では判断できない。


「はっ!商人ごときが三人加わったところで、構やしねぇ!

 まとめて殺しちまえばいいだけのことだ!」


 半身鎧に身を包んだ、ひときわ体格の良い野盗が、野太い声で嘲るように声を上げた。

 どうやら、この男が野盗を束ねる立場の者であるようだ。


「おっと、女は殺すんじゃねぇぞ!?仕事の後の“お楽しみ”だ!」


 剥き出しの欲望を、下卑た声で吐き出しながら、部下をけしかける。

 馬車を取り囲む野盗たちのそこかしこで気勢があがるが、それを打ち消すように苛烈と言って良い声が響く。


「ふざけるのも大概にしとくんだね!アンタたちがあたしに指一本でも触れられるとでも思ってんのが笑わせるじゃないの!

 返り討ちにしてあげるから、さっさとかかってきな!」


 たった今、野盗をまた一人斬り伏せたフォーンロシェであった。こびり付いた血糊を振り落とすように長剣を一振りすると、頭目と思しき男に向かって口を開く。


「ほらほら!野盗風情が遠慮なんてしてんじゃないよ!

 そこで倒れてる汚らしいお仲間のいる所に送って欲しい奴はいないのか!」


 野盗を煽りつつも、威勢の良い台詞を口にすることで、仲間……特に行商人たちを奮い立たせるつもりなのだろう、普段のフォーンロシェからは想像も出来ないような辛辣な言葉が発せられる。

 だが、野盗の頭目は怒りだすこともなく、不敵な笑みを浮かべた。


「ほぉ……。そうかい。遠慮はいらねぇってか。

 じゃ、お言葉に甘えさせてもらおうじゃねぇか。カベール!」


 頭目が、自分の後ろに控えていた人物の名前を呼ぶ。

 その男は、剣も弓も所持しておらず、素手の状態であった。薄手の防寒服の上から赤茶けたローブを着込み、顔にかかったフードで表情は読み取れない。

 頭目の横に並んだその男が、右手を前に突き出して口を開く。


「『―――』」


 大陸公用語ではない、耳慣れない言葉が呟かれると、男の右手に填められていた指輪が強烈な紅い光を放つ。

 それはほんの一瞬であったが、その光が消え去ると、男の目の前に一体の“獣”の姿があった。

 大きさはこの国に棲息する雪熊と然程変わらないが、その体躯を覆う毛は赤黒く、前肢の長さは雪熊の倍はある。その前肢から伸びている長く鋭い爪を合わせると、体長の三倍に達しようかと思えるほどであった。

 顔の中央にある双眸は熱せられた鉄のように赤く光っており、口からは黒ずんだ呼気が低い唸り声と共に吐き出されていた。


「魔獣だ。気をつけろ、ロシェ」


 別の野盗と斬り結びながら、グラナが相方に向けて短く警告する。


「見れば分かるわよ!……野盗に魔獣使いがいるなんてね」


 さすがに先ほどまでの威勢を収め、長剣を握りなおすと魔獣に向けて鋭い視線を向けるフォーンロシェ。

 十人の野盗に加え、魔獣まで投入されては、グラナとフォーンロシェがいかな腕の立つ冒険者であっても、隊商を護りきるのは難しいと言えた。

 女冒険者の表情が変化したことを見てとった野盗の頭目は、男に向かって指示を出す。


「まずは、あの三人を片付けさせろ。あっちの女は弓使いのようだからな。下手に射られちゃかなわん。

 ああ、黒髪のひょろ長い奴は出来れば殺すな。聞いたところだと、あいつは異世界人らしい。カネになる」


 厳つい顎をコタールたちへしゃくると、野盗の頭目はフォーンロシェへと顔を向け、不敵な笑顔を浮かべたまま告げた。


「嬢ちゃんはオレが相手してやるよ。なあに、殺しやしねぇから安心しろ。

 腕の一本くらいは覚悟してもらうがな」


 それまで手にしていた長剣を投げ捨てると、頭目は腰に差していたもう一本の剣を鞘から抜いた。一般的な長剣に比べ、刀身は長く、刃も幅と厚みがあり、並みの男では両手で持たねばならないと扱えないのでは、と思えるほどの重量感があった。

 ローブ姿の野盗は、再び聞き慣れない言葉を口にすると、コタールたちへ向かって手をかざす。

 それが魔獣に対する指示であったのだろう。鉄錆色の雪熊とも呼べる魔獣は、低い唸り声を一つ漏らすと、セギュール隊に合流しようとしていたコタールたちへ向けて駆け出した。

 頭目を相手取るべきか、魔獣を追うべきか、半瞬にも満たない間逡巡するフォーンロシェの耳に、聞き慣れた声が飛び込んでくる。


「そいつは俺が相手する。お前はコタールさんたちの援護に行け」


 声と共に、フォーンロシェの目の前に割り込んできたのは、狼人族のグラナであった。


「分かった!」


 グラナの力量を充分すぎるほど知悉しているフォーンロシェは、素直にその場を相方に任せて魔獣の後を追う。


「『炎熱付与』!」


 雪道を走りながら、狼人族、エルフ族、人間族の三種族混血者であるフォーンロシェが、自らの長剣に呪文を唱える。

 『火炎』を応用した魔法で、指定した物体に一定時間、炎と高熱を付与するその術は、正確に効果を発揮し、彼女の握る剣が赤熱した炎の塊となった。


「間に合え!」


 先頭に立っていたコタールと魔獣との距離は、殆どない。コタールも自分に向かってくる魔獣に気付き、足を止めて迎撃態勢を取ってはいるが、如何に戦いの心得があるとは言え、所詮は行商人である。

 最悪の事態を回避すべく、フォーンロシェは路面を蹴る足に更に力を入れた。


「コタールさん!」

「あなた!」


 すぐ後ろで修一郎が、そこから少し後方に離れた場所でハーベラが、魔獣に対処しようとしているコタールの名を呼ぶ。

 魔獣が、鉄錆色の右前肢を振り上げる。長く伸びた爪が、木々の間から射し込む冬の陽光を反射して、禍々しい光を放った。

 一際大きな咆哮と共に、前肢が振り下ろされる。まともに受ければ、短剣は枯れ枝を折るが如くに容易く砕かれ、コタールの身体も縦に両断されていただろう。

 しかし、魔獣の爪が頭上に振り下ろされる直前に、コタールは倒れこむように身体を投げ出して、その凶悪な爪をかわしていた。

 人間族の男を捉え損なった爪が路面に当たり、僅かな雪と共に石の破片を撒き散らす。

 自らの攻撃が外れたことを知った魔獣が、怒りの声を上げようとしたが、それはすぐに苦痛の叫びへと変わる。

 追いついたフォーンロシェが、無防備であった背後から魔獣の左前肢を斬り落としたのだ。


「やらせるわけないでしょ!」


 振り切った長剣を引き戻し、すぐさま二撃目を魔獣の足元へ叩き込む。炎を纏った剣が、赤い光跡を描き、魔獣の右後肢に深く食い込んだ。

 片腕、片足に重傷を負った魔獣は、地響きにも似た音を立てて、バンルーガの公路上へ倒れこんだ。


「とどめっ!」


 その一言を発しながら、フォーンロシェは魔獣の頭に長剣を突き立てた。と、同時に、長剣が高く澄んだ音を立てて、半ばから折れる。

 次の瞬間、長剣に込められていた魔力が強制的に開放されたのか、折れた刀身とそれが刺さった魔獣を激しい炎が包み込んだ。

 断末魔の悲鳴を上げる魔獣から距離を取りながら、フォーンロシェは三人に向かって、荒い息のまま声を発した。


「コタールさん、大丈夫、でしたか?ハーベラさんと、シュウイチロウ、も」


 周囲には、魔獣の焼ける嫌な臭いが立ち込めている。

 コタールは雪にまみれた半身を起しつつ、油断なく魔獣を凝視していた。コタールを手助けすべく傍に駆け寄っていた修一郎も、コタールの視線を追うように魔獣を見つめている。

 ハーベラは短弓につがえた矢をそのままに、魔獣を視界の隅に捉えながらも野盗たちへと目を向けていた。

 フォーンロシェに変わり頭目を相手にしたグラナは、未だに剣戟の真っ最中であり、馬車の周囲ではカーロンたちと野盗との戦闘も続いている。


「ああ。なんとか助かっ……ぐっ!」


 身体を起し、雪上に座り込むかたちになったコタールが、フォーンロシェに応えようとして苦痛に声を詰まらせた。

 魔獣の攻撃を完全に躱せたように見えたコタールであったが、実のところ左腕を僅かに爪が掠っていたのだ。

 鋭い爪は、防寒服とその下に着込んでいた衣服を容易く切り裂き、コタールの腕に小さなかすり傷をつけていた。

 普段であれば、その程度の傷など気にならないはずであったが、どうやら魔獣の爪は何らかの毒を持っていたようだ。

 見る間にコタールの顔が青褪めていき、額には脂汗が幾筋も流れ始めた。


「コタールさん!しっかりしてください!」


 傍にいた修一郎が、膝立ちの格好でコタールの肩を抱きかかえる。


「心配……いらん。傷が少し痛んだだけだ……」


 気丈な台詞を口にするコタールであったが、その容体が異常なまでの速さで悪化しているのは、誰の目にも明らかであり、フォーンロシェも傷の確認をするために駆け寄ってきている。


「拙いわね……。あたしが使える『解毒』じゃ、この毒は消せない。

 シルトなら治せるのに……」


 黒く変色し始めている傷口に手をかざし、冒険者であれば大抵の者が習得している、基本的な『解毒』の魔法を唱えていたフォーンロシェが、悔しそうに呟いた。

 コタールは苦痛に顔を歪ませながら、そんな女冒険者を見つめている。


「とりあえず、腕を縛って少しでも毒の回りを遅くしましょう」


 そう言いながら、修一郎が懐からタオルを取り出そうとするのを、コタールの声が押し止める。


「無駄だ……シュウイチロウ。その程度では、気休めにも……ならん」


「ですが!」


「フォーンロシェさん、俺の腕を……斬り落としてくれ。それが一番確実な……方法だと思う。

 すまないが、頼めないかね……」


 フォーンロシェも同じことを考えていたのだろう、「宜しいのですか?」と訊き返すこともなく、


「分かりました」


 とだけ、短く応じる。


「フォーンロシェさん。私からもお願い。その人を、助けてあげて」


 ハーベラも構えていた弓を下ろし、真摯な表情でフォーンロシェに懇願した。


「はい。出来る限りのことはします。

 シュウイチロウ、アンタの剣を貸して」


 感情を表に出さず、ハーベラに対し頷いて見せた黒髪の少女は、同じ黒髪の異世界人に向かって手を伸ばす。


「さっきの戦いで、あたしの剣は折れたからね。

 今この場で、一番状態の良い剣を持っているのはアンタなの」


 ハーベラは短弓しか持っていないし、コタールの短剣は野盗と何度か斬り結び、尚且つヒトを斬ってもいる。

 まともに打ち合っていない修一郎の短剣が、この場合は最適だと判断したのであった。


「……はい」


 極僅かな時間、逡巡した修一郎は右手に持っていた短剣を、フォーンロシェに差し出そうとしていた。


 そこから起こった状況の変化は、あまりに唐突で立て続けであったため、その時その場に居たハーベラですら全てを把握出来たわけではなかった。

 後になって生残者から話を聞き、整理して漸く理解できたものであった。


 顔面を蒼白にして呼吸も荒かったコタールが、それまでの様子からは想像もつかないほど素早い動きで、両脇に居た修一郎とフォーンロシェを突き飛ばした。

 その直後、前方から凄まじい速度で飛来した黒い槍のような物体がコタールに直撃したかと思うと、壮年の行商人の体を黒い球体が包む。

 自らが操っていた魔獣を斃されたローブの男が、直接的な攻撃手段に切り替え、魔法を放ったのだ。

 漆黒の球体の内部では、時折り青白い稲妻のような光が弾けていたが、一切の音は聞こえず、コタールの姿も確認できなかった。

 逸早く我に返ったフォーンロシェが、未だ呆然としている修一郎から短剣を奪い取り、ローブの男目掛けて投げつける。

 凄まじい速度と正確な狙いで投じられた短剣は、ローブ姿の野盗の胸板に深々と突き刺さった。

 それと前後するように、グラナの戦いも決着がついていた。

 狼の咆哮と共に繰り出された必殺の斬撃が、頭目の首を刎ね飛ばした。

 馬車の周囲では、セギュールが野盗の攻撃を足に受け、負傷していた。

 元冒険者の猫人族商人ベルーネは、奮戦し、五人の野盗を斬り倒していた。

 カーロンも幾つかの小さな刀傷を負ったものの、三人の野盗を戦闘不能に追い込んでいた。

 負傷したセギュールの援護にまわったアルタスリーア商人の一人が、野盗の剣によって倒された。

 商人を殺し、粗野な叫び声を上げていた野盗の背中に、隊商最古参のサンタンドが持つ広刃のナイフが突き立てられる。

 最後の一人となり、逃げ出そうとしていた野盗は、セギュールの手から長弓を奪った猫人族商人のベルーネが射倒した。


 こうして、野盗は全滅したのだが……。

 ハーベラが危惧していたとおり、コタール隊のバンルーガ商人がノーブスを除いて野盗が扮していたように、セギュール隊のバンルーガ商人は、全員野盗が行商人と偽っていたことが判明した。

 それらの者は、比較的早い段階でグラナが気付いたこともあり、内部からの撹乱という目的を果たす前に、冒険者二人によって全て倒されている。

 おかげで森の中から襲撃してきた野盗に対処する余裕も出来たのだが、最終的に隊商側も多数の死傷者を出すことになった。

 野盗が振るった長剣を左大腿部に受けたセギュールの傷は、応急処置で出血量こそ少なくなったものの、決して軽傷とは言えない状態である。

 カーロンは体中いたる所に小さな傷を負っていたが、右頬に受けた刀傷はどうやら痕が残りそうだ。

 他にも、二人のアルタスリーア商人と一人の犬人族商人が、それぞれ背中と左腕、右肩に重症を負っており、早急に医術士に診せる必要があった。

 かつての経験を活かしてく戦った元冒険者のベルーネと、最古参の行商人サンタンドは怪我こそ負ってはいなかったが、疲れきって最早動くこともできない状態だ。


 それでも生者はまだ“これから”があるだけ、幸運と言えた。

 セギュール隊に属していた、アルタスリーア商人四人、犬人族の商人一人が野盗の凶刃によって死亡しているのだ。

 一方、コタール隊もハーフリング族商人の妻、只一人本当のバンルーガ商人であったノーブスを失い、そして隊商を束ね、アペンツェル一家の主であったコタールが帰らぬ人となった。

 魔獣使いであり、魔術師でもあったローブ姿の野盗が放った魔法は、コタールに最後の言葉を口にする暇さえ与えず、彼の命を奪っていた。

 消し炭で作られた人形のような姿となり横たわった父親の亡骸の傍には、カーロンが蹲っている。

 足を怪我したセギュールは、既に馬車の荷台へと乗せられており、そこで小さな嗚咽を漏らしていた。

 コタールに突き飛ばされた修一郎は、目の前で起こった出来事が信じられないかのように、戦闘が終結してもその格好のまま路上に座り込んでいたのだが、今はフォーンロシェに手を引かれるままに立ち上がっている。

 無言で、かつてコタールであった“もの”を見下ろすその顔には、何の表情も浮かんでいないように見えた。

 修一郎を立たせたまま、その手を未だに握り締めているフォーンロシェの顔は、体の中から溢れ出そうとする何かを必死に押し止めるように、口元を真一文字に結び、眉間に深い皺を寄せている。

 コタールの周囲に集まった者たちが、途方に暮れたように言葉を発しない中、凛とした声が響く。


「グラナさん。申し訳ないのだけれど、動かせる馬車をこちらに集めていただけるかしら。

 フォーンロシェさんとシュウイチロウは、怪我人を馬車へ乗せるのを手伝って頂戴。

 他の方は、馬車の用意ができたらすぐに乗り込んで。少しでも早くレデグの医術士に診てもらわないといけないのだから」


 コタールの妻、ハーベラであった。


「母さん!親父が、親父が死んだんだぞ!何とも思わないのかよ!」


 母親の、作業をこなすかのような物言いに、カーロンが声を荒げる。

 が、それをフォーンロシェの掠れた声が窘めた。


「ハーベラさんの言うとおりよ……。怪我人もいるし、野盗もあれだけとは限らない。

 もし、また襲撃を受けたら、今のあたしたちでは……対処しきれないわ。

 一刻も早くここから離れるべきなのよ……」


「そうだ。カーロン、動けるならばついて来てくれ。

 俺だけでは、動かせる馬車は精々二台だ」


 大樹の根元に固められた馬車へと足を向けていたグラナが、肩越しに振り返ってカーロンに言う。


「ロシェ、シュウイチロウ。怪我人が終わったら、遺体も馬車に乗せる。

 すまんが手伝ってくれ」


「わかった」

「…………」


 コタールの傍に蹲ったままのカーロンから視線を移し、グラナはハーベラの意図を汲み取るようにその後の指示を出した。

 フォーンロシェは一言だけ口にして、修一郎は変わらず無表情のまま頷き、それに応じる。

 それから子鐘半分(約三十分)後、ウィレンカ出発時の半数以下になった隊商は、雪に覆われた森を後にした。




 途中、パルメルたちの要請により、レデグから派遣された警備兵の一団と合流したハーベラ率いる隊商は、これまでの経緯を説明し、集団を二つに分けることとなった。

 即ち、負傷者をレデグへ輸送する馬車とそれを護衛する者たちの集団と、森へ赴いて現場を検分する者及び止む無く放置してきた荷物を回収する者たちの集団である。

 レデグへと向かうのは、コタールに代わって隊長となったハーベラとフォーンロシェ、セギュールをはじめとする早急な治療が必要な負傷者たちに、レデグから派遣された警備兵数名。

 森へと向かうのは、隊商最古参のサンタンドとカーロンが責任者となり、グラナとベルーネ、比較的軽傷で済んだアルタスリーア商人一人、レデグ警備兵の残りといった構成であった。

 修一郎はグラナの提言により、レデグへ向かう集団に組み込まれた。唯唯として従う修一郎は、殆ど言葉を発することはなかった。


 レデグへ到着し、負傷者を医術士へと託したハーベラは、レデグの商人組合へと足を運んだ。

 野盗の襲撃があったことを伝えるためであるのは勿論のこと、ウィレンカの偽装商人の存在を知らせる必要もあったのだ。

 それらの報告を済ませると、先に到着していたパルメルやランシュ、治療が済んだ隊商参加者たちを、前もって修一郎に確保させていた宿の一室に集めた。


「本来の隊長であるコタールが死亡したため、妻である私が夫に代わって今回の件について、謝罪させていただきます。

 充分な調査もせず、安易に野盗の潜入を許してしまったこと、誠に申し訳ございません。

 亡くなられた方のご遺族、そして被害に遭われた皆さんに対する補償は、最大限の誠意を持って対応させていただくつもりです。

 今現在、医術士の下で治療を受けている方の治療費、この街に留まる間の皆さんの滞在費用も、全てこちらが負担させていただきます。

 詳しい内容につきましては、治療中の方が戻られてから、改めて説明させていただきますので、皆さんは当面の間、この宿にて休養なさってください」


 淀みなく言って、深々と頭を下げるハーベラに、サンタンドが声をかける。


「ハーベラさん、何も貴女が全ての責を負う必要はないんだよ。貴女も、コタールさんを喪っているんだ。

 それに、行商人なら野盗なり野獣なりに襲われる可能性があることは覚悟している。

 あまり、気に病みなさんな」


「ああ。ハーベラさんがそこまで言うなら、俺たちにも責任はある。

 依頼であった護衛という仕事を、まともに果たせなかったのだからな……」


 サンタンドの後を継ぐように、グラナが口調に苦いものを滲ませて発言した。

 その隣では、既に治療を終えたシルトが沈痛な面持ちで立ち竦んでいる。左肩から三角巾を吊るしたその姿が痛々しい。

 フォーンロシェは床に座り込んで俯いたまま、微動だにしなかった。


「ありがとうございます。

 ですが、これは隊商を率いる者として、当然負うべき責任だと思います」


 それまで毅然とした表情を崩さなかったハーベラが、微かに笑顔を浮かべたが、すぐにまた表情を戻して応じる。


「それでは、この場はこれで解散とします。

 皆さん、本当に申し訳ありませんでした」






 最終的に、レデグには凡そ一月半滞在することとなった。

 重傷者の治療が長引いたこと、破損した馬車の修理、失った馬車馬の手配、無事に回収された仕入れ品の処分、遺体の共同墓地への埋葬、とある件で修一郎がバンルーガ王立魔法院に呼び出されたことなどが、主な理由であった。

 レデグを出立して以降の行程は、既に商売云々の状態ではなくなったことから、当初の予定通りとはいかなかったが、位置的にこのまま国境を越え、ルザル王国経由でアルタスリーアへ戻るのが最良と判断されたため、ハーベラたちはネベロクルフへと向かった。

 ネベロクルフに二日滞在した後、一行はルザル王国に入り、王国北部地域を横断するようにしてアルタスリーア王国へと進む。

 ルザル北部地域でも比較的治安の良い主要公路を通ったため、四日ほど余分に日数を費やすこととなったが、それでも十二日かけてアルタスリーアへと入国することができた。

 王都アーオノシュへ戻ると、補償費用捻出のため馬車も売り払ったハーベラは、隊商を解散させることに決めた。

 当然、資産管理局に保管されていたアペンツェル家の私財の殆ども補償の費用として充て、生残者と死者の遺族へ配った。

 病に倒れ、妻を失ったハーフリング族の行商人は、結局快癒することなく、アーオノシュ到着直前に死亡している。

 三人の冒険者に対しても、契約の報酬の全額を支払うと申し出たハーベラであったが、これに関しては三人の中で話し合いが持たれていたのだろう、報酬の半額以上を受け取るつもりはないと断られた。

 ウィレンカ以降の依頼は失敗としか呼べない結果であるため、アーオノシュ冒険者組合と協議した末の結論であり、組合もこれに合意しているとの返答だった。

 全ての手続きを終わらせたハーベラは、市が運営する長屋を借り、そこに定住することに決めた。

 それが、コタールの隊商がアーオノシュを出発して七ヶ月後、夏の一の月のことであった。






 ハーベラが長い回想を終えたとき、談話室には何時の間に戻ってきたのか、修一郎の姿があった。その後ろには、パルメルとランシュの姿もある。


「私も、少しは行商の心得があったから、続けようと思えばセギュールと一緒に隊商を続けることもできたのだけれどね。

 さすがに、少し疲れてしまったのと、これ以上誰かの死を見たくなかったというのが本音かしら。

 それに、子供たちの心境に変化があったことも理由の一つね」


 ハーベラが柔らかな視線をパルメルに向けると、この家の長女はどこか寂しげで、それでいて照れているような笑みを浮かべた。


「目の前で死んでいくヒトを見ちゃうと……ね。

 元々、魔術を学ぶために魔法院へ入るつもりだったから、その目的を治癒魔法に変えて医術士になっただけだもの。

 でも、それを言ったら私だけじゃないわよ?

 セギュール兄さんだって、カーロン兄さんだって、当初の目標から外れた職に就いちゃってるんだから」


 パルメルの言うとおり、子供たちにコタールの死が及ぼした影響は、決して小さくないものであった。

 父親の後を継いで行商人になるつもりであったセギュールは、自分たちのような悲劇を味わう者が一人でも減るようにと、騎士団へと志願し、片足の身体的障害を学力で捻じ伏せ、今では騎士団公路治安維持関連部署の後方支援要職補佐にまで上り詰めている。

 カーロンも、護りたい者たちを護りきれなかったという自責の念から、警護団へ入団し、日夜アーオノシュの治安維持に努めていた。

 末っ子のランシュは、新しい父であるクロワバーシュの後を継ぐべく、様々なことを学ぶため、現在は王立学校へと通う身である。


「あら、私は貴方たちが自分で決めたことに反対しているわけではないわよ?むしろ、大歓迎。

 クロワバーシュだって、特に何も言ってないでしょう?」


 辛い過去を語り終えたばかりだというのに、目の前の女性は、今こうして心から楽しそうに我が子と笑いあっている。

 ハーベラがソーンリヴに語った話の中では、ハーベラ自身の心情は半分も明かされていなかったが、様々な悲嘆や苦悩があったことは容易に推察できる。

 そして、そんな女性が現状に至るまで乗り越えてきた葛藤も。

 強い女性だとソーンリヴは思う。


「でもさ、コタール父さんの意思はシュウイチロウにーちゃんが継いだと考えてもいいと思うんだ。実際に、一時期は行商人もやってたんだし。

 それに、今はマリボーおじさんの所で働いてるんだろ?」


 自らの思いに耽っていたソーンリヴの耳に、ランシュの声が届く。


「そうね。大きな括りで言えば、シュウイチロウも商人として暮らしてるとも取れるのかしらね。

 珍しい商品を作り出して、マリボーさんのお店に貢献してるみたいだし」


「いや、まあ、作っているのは私ではないんですけどね。

 売り上げは確かに伸びていますが、私の本分は事務ですから」


 ハーベラが半ばからかうように修一郎に話を振るが、異世界人の男は決まり悪そうに頭を掻いて、そう応じるだけであった。

 そんな修一郎を見てランシュが口を開きかけたとき、王城の大鐘が続けて四回、低く大きな音を響かせた。


「もうこんな時間ですか。随分と長居してしまいましたね。

 ソーンリヴさん、そろそろお暇しましょうか」


 ごく自然な口調で、修一郎は切り出した。

 途端にハーベラが今までの雰囲気をがらりと変えて、口を尖らせる。


「え~。折角だから、夕飯を食べて行きなさいな。すぐにジュブランに支度させるから~」


 子供のように駄々を捏ねる母親に追従するように、こちらは歳相応の口調でパルメルが引き留めにかかり、ランシュもそれに同意する。


「そうよ、シュウイチロウ。それにソーンリヴさん。

 私も、貴方たちのお話をもう少し聴きたいわ」


「そうだよ、にーちゃん!一緒に晩飯食べようぜー!」


「ランシュ。お客様がいる前では、その言葉遣いをやめなさいと言っているでしょう」


 客がいない場所では構わないのだろうか、と思ったソーンリヴであったが、この場は修一郎に任せておくべきであろうと判断し、口を閉ざすことにした。

 一方、当の修一郎は、思わず普段の口調になってしまったランシュにハーベラが小言を言うのを見て、苦笑を浮かべるのだった。


「い、いえ。申し訳ないのですが、最後の王都の夜ということで、バラカさんの所に寄らせてもらうと約束しているのですよ。

 ですので、今回は勘弁してもらえませんか。ね、ソーンリヴさん」


 急に同意を求められ、ソーンリヴとしては「あ、ああ……」と応じるのが精一杯である。

 口ではそう言ったものの、実際はそんな約束をしていたとは聞いていないのだ。修一郎が咄嗟についた嘘であることを察し、言葉に出せただけ、ましというものだろう。


「そうなの?……まったく、相変わらずシュウイチロウは気が利かないのねぇ。仕方ないわ。

 でも、次に王都に来るときは、一緒に食事をする時間を用意すること。いい?これは約束よ?」


 恐らく、ハーベラは修一郎が嘘を言っていることに気付いているはずである。

 だが、それを言葉にすることはなく、一瞬寂しげな表情をその若々しい顔にぎらせただけで、拗ねた口調でそう告げるのだった。

 二人きりで話していたときの落ち着いたハーベラと、修一郎を前にしたときの子供っぽいハーベラ。

 どちらが本当の彼女の姿なのだろうか、と思いながら、ソーンリヴは二人の遣り取りを眺めている。


「分かりました。では、私たちはこれで……。

 ああ、セギュール君とカーロン君にも宜しく伝えておいてください。

 パルメル、ランシュ。お話できて良かったですよ」


 軽く会釈して、ソーンリヴを伴い談話室を後にしようとした修一郎をハーベラが呼び止める。


「待ちなさい。

 今、貴方たちが厄介ごとに巻き込まれているのは知っているわ。もう日も暮れたことだし、ジュブランにバラカさんの宿まで送らせましょう」


 再び、落ち着いた雰囲気を纏ったハーベラが、真顔で二人を見つめる。


「……お言葉に甘えさせていただきます」

「ありがとうございます」


 修一郎は僅かに躊躇った後、頭を下げる。それに合わせるように、ソーンリヴも感謝の言葉を述べた。






 修一郎とソーンリヴは車中の人となっていた。

 ジュブラン執事が御者台に座り、クレルミロン家所有の馬車を走らせている。


「思いのほか、長時間付きあわせてしまいたね、ソーンリヴさん。

 申し訳ありませんでした」


 クレルミロン邸を出発して少し経った頃、修一郎が口を開いた。


「いや……。構わんさ。私なりに有意義な時間を過ごせたと思ってるぞ」


 馬車の小窓の外を流れていく街の景色を眺めていたソーンリヴが、修一郎に向き直る。


「それより、お前の方はあれで良かったのか?ハーベラさんとまともに話をしていないだろう?」


「ええ。ですが、ハーベラさんには……クレルミロン夫人には、私の考えは充分伝わったと思います。

 ソーンリヴさん、コタールさんのことは……」


 馬車の中に据え付けられた、小さな術石製のランプの光に照らし出された修一郎の表情は、口調とは裏腹に、いつもの頼りなさそうな笑顔だった。


「聞いた。

 隊商の者たちを救うために勇敢に戦ったことも。そして、お前たちを庇うように、魔法の犠牲になったことも」


 ハーベラが語った内容については、修一郎も察しているのだろうと考えたソーンリヴは、誤魔化すことなく答える。


「そうですか」


 そう短く応じた後、修一郎は暫く黙り込んだ。

 車内には、馬車の車輪が路面を咬む音が、低く流れている。


「…………私は……。私は、これまで軽蔑していたんです。

 目の前で繰り広げられた、生命を賭けた遣り取りに怯え、状況に流されるままだった自分を。

 必死の覚悟があれば上手く戦えたかも知れないなんて、思い上がったことを言うつもりはありません。

 ですが……、もっと気を確りと持っていれば……。周囲に気を配っていれば、コタールさんが犠牲になることはなかったのではないかと。

 この世界に生きながら、心のどこかで『これは自分の知る現実じゃない』と考えていたんじゃないかと……。

 それに気付いていて尚、気にかけてくれたコタールさんたちに甘えていた自分を、私は軽蔑していたんです」


 悲しみを滲ませることもなく、怒りに声を震わせることもなく、自らを嗤うこともなく、ただ平坦な声音で修一郎は語った。


「そうか」


 ソーンリヴが、先ほどの修一郎のように短い返答を口にした。

 ソーンリヴは修一郎ではない。異世界から自分の意思とは関係なく、この世界にやってきた男ではない。

 どんなに言葉を尽くしても、当事者でない限り、それは上面なものにしかならないのだ。


「なのに、ハーベラさんも、セギュールも、カーロンも、パルメルも、ランシュも、私を責めることをしなかったんです」


 それはソーンリヴにも容易に想像がついた。あの者たちが、修一郎やフォーンロシェを責めることなど、ないということに。

 後悔しているのは、修一郎だけではないはずである。

 修一郎と共に命を助けられたフォーンロシェも、怪我でその場を離れることを余儀なくされたシルトも、その場で戦っていたグラナをはじめとした者たちも、そしてハーベラも、思いに多少の差異はあるだろうが、関係した者は『あの時、もし……』という仮定を想像し、後悔しているはずなのだ。


「……ソーンリヴさん。ハーベラさんは、あれから一度も涙を見せたことがないそうです。

 私が居た堪れなくなって、ハーベラさんの下を離れたときも、何年か経って再会したときも、あの女性ひとは、いつも微笑んでいました」


 ソーンリヴは黙って修一郎の言葉を聞いている。


「ソーンリヴさん。私は、“私を軽蔑すること”をやめてもいいのでしょうか。“軽蔑すること”をやめても許されるのでしょうか。

 今日、ハーベラさんの下を訪れたのは、それを確かめるためでした。

 ですが、私は今になっても答えを出せずに居るのです……」


 そう言い終えると、修一郎はそれまで向けていた視線を、ソーンリヴから床へと落とした。

 少し考えて、ソーンリヴは口を開く。


「さあな。それを決めるのは、他でもないお前自身だ。

 だが、今日の彼らが浮かべていた表情を思い返せば、答えは自ずと出るんじゃないか?

 少なくとも、私には、皆笑顔を浮かべていたように見えたがな……」


「………………」


 修一郎は床を見つめたまま、言葉を発しない。

 向かい合った座席に座っていたソーンリヴは、別段その場で修一郎のいらえを期待していなかったため、再び窓の外へ視線を移そうとした。


「ありがとうございます……」


 車輪の立てる音に紛れて、ぎりぎり聞き取れる程度の声で修一郎が呟く。

 思わず修一郎の顔を見直したソーンリヴは、その頬に一筋の光るものを見た気がしたが、それは偶然窓の外を過ぎ去っていった街路灯の悪戯かも知れない。

 いずれにせよ、態々確認するようなものではないと判断したソーンリヴは、気のせいであることに決め、結局流れ行く街中の風景を眺めることにしたのだった。

 馬車は、既に歓楽街へと差し掛かっている。


「とりあえず、だ。今夜はバラカさんとの約束があるんだろう?

 我々の仕事もなんとか無事に終わったことだし、今夜は美味い酒と食事を楽しむ。

 それでいいんじゃないか?」


 暫くの間窓の外から視線を動かさなかったソーンリヴが、修一郎に向き直り、唇の片方だけ吊り上げるいつもの笑いを浮かべて、言う。

 折角、ハーベラが馬車まで用意してくれたのだ。ここは“嘘”を“本当”にして、彼女の配慮に甘えるべきだろう。


「……そうですね。アーセナクトに戻ったら、またいつもの仕事が待っていますからね。

 今日くらいは純粋に楽しみましょうか」


 修一郎は笑っていた。見慣れた、柔らかな笑みだった。

 ふと、その笑みとハーベラが浮かべていた笑顔が重なる。

 どうやら、この異世界人は疾うの昔に、アペンツェル夫妻の子供に“なっていた”ようだ。


「もうじき、バラカの宿に到着いたします」


 御者台から、ジュブラン執事の声が聞こえてくる。

 未だ解決していない問題はあるものの、王都アーオノシュに来て様々な体験ができた。

 ごく一部ではあるが、修一郎の中にある思いを知ることもできた。

 良い出来事にしろ悪い出来事にしろ、退屈しなかったという点において、王都へ来たことは無駄ではなかったと思うソーンリヴであった。



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