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街の事務員の日常  作者: 滝田TE
街の事務員の日常
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第二話 晩飯と新商品


 商業都市アーセナクトの中心部にある、市庁舎の親鐘が低く、だが遠くまで透る鐘の音を四つ響かせた。

 それを聴いて、一部の店を除いた大多数の店が、一斉に店内の照明を落とし始める。

 一部の店とは、これからの時間帯が書入れ時である酒場や食堂、宿屋といった店だ。

 また、この街には少ないが、冒険者や探鉱者、騎士や兵士といった荒事に携わる者を相手にする武具屋や雑貨屋もそれに含まれる。


 この街に限らず、アルタスリーア王国では、二種類の鐘の音で住民に時間を知らせるようになっている。

 王城若しくは市庁舎やそれに類する主要建築物に付随して建てられた鐘楼にある親鐘が、午前零時を起点に六時間毎に鳴らされ、教会にある子鐘が一時間毎に鳴らされる。

 人々は、修一郎がいた世界のように厳密な二十四時間制で時間を表すわけではなく、親鐘が幾つと子鐘が幾つといった言い方で凡その時間を知り、それに従って生活している。

 親鐘一つと子鐘五つ(午前五時)に起き出して、親鐘二つと子鐘一つ(午前七時)までに朝食を摂り、それぞれの仕事場へ向かう。

 親鐘三つ(正午)で昼食を摂り、親鐘四つ(午後六時)で仕事を終え、夕食を摂り、親鐘四つと子鐘四つ(午後十時)に床に入るといった具合だ。

 修一郎たちの勤めるマリボー商店も、大多数の店と同じく親鐘四つ(午後六時)を閉店時間と定めている。


 店主のマリボーの指示通り、流通部門の従業員たちは既に仕事を終え、帰途についている。

 仕入れ担当であるマリボーは、王都アーオノシュで仕入れ商品の数量調整に手間取ったため、今日は王都に滞在することになっていた。

 もう一人の仕入れ担当であり、マリボーの息子であるブルソーは、北にある国境都市ゴステーアに昨日旅立ったばかりだ。

 在庫管理も既に就業後の清掃を終え、帰宅の準備を進めているだろう。

 真面目な鳥人族のイルーは、在庫管理部門の責任者でもあるから、まだ残っているのかも知れない。

 そんなことを思いながら、修一郎が本日分の出納板の数字を羊皮紙製の帳簿に書き写していると、事務室の扉が軽くノックされた。

 返事をする待つことなく、扉から顔を覗かせたのはレナヴィルであった。

 接客用の表情ではなく、普段の眠そうな目つきで、気だるげに告げる。


「じゃ、あたしたち上がるから~。おっつかれぇ~」


「はい。お疲れ様でした、レナヴィルさん」

「……お疲れさん」


 修一郎とソーンリヴがそれぞれの返事をしたところで、レナヴィルの後ろに居たのだろう、クローフルテが事務室に入ってくる。


「これ、今日の売上現金と売上板です。売掛は発生しませんでした」


 相も変わらず無表情のまま修一郎に歩み寄ると、銀髪の女性エルフは、皮製の売上金回収袋と金属板を修一郎に手渡す。


「はい。ありがとうございます、クローフルテ・マイヤックさん。それでは、お疲れ様でした」

「ご苦労さま」


「はい。お疲れ様でした」


 軽く一礼すると、クローフルテは修一郎たちと雑談するでもなく、そのまま事務室を出て行こうとする。

 クローフルテが事務室から出て、扉を閉めようとしたとき、丁度イルーが上がるところであったようだ。


「では、私もこれで終業とさせてもらう。もう一人の作業員は既に終業し帰宅した」


 クローフルテの頭越しに修一郎にそう告げると、イルーはそのまま従業員出入口に向かって歩み去った。

 それを黙って見つめていたクローフルテは、もう一度軽く礼をすると事務室の扉を閉めた。

 これで店内に残るのは修一郎とソーンリヴだけなのだが、事務員はこれからが一仕事である。

 まだ週末ではないので、実地棚卸をする必要はないのだが、売上板、納品板、出納板、在庫板の数量チェックと、売上金の確認作業が残っている。

 また、売上金と売上板、釣銭を照らし合わせて、過不足金が発生していないか確認する必要もある。


「じゃあ、さっさと済ませるぞ。

 出納板は私がやるから、シュウイチロウは売上金の確認と過不足金の確認をやってくれ。

 それが終わったら、記帳も頼む」


「分かりました」


 出納板に関連する作業は、魔力を持たない修一郎はできない。

 自然と、出納板のチェックをソーンリヴが一手に引き受け、それ以外を修一郎が担当することになっていた。

 出納板に手を伸ばしかけたソーンリヴは、何かを思い出したように机の引き出しから木製の勤務表を取り出すと、各従業員の退出時間を書き込んでいった。




「うーん……。やっぱり羊皮紙は書き辛いですね。あと羽ペンも」


 売上金と過不足金の確認を終え、帳簿に向かっていた修一郎が、顔を上げて独り言のように呟く。


「もっとこう……、すらすらと書けるとありがたいんですけどね」


「仕方ないだろう。シュウイチロウには記載術は使えないし、そもそも記載術用の帳簿は値段が高すぎてウチのような規模の店でおいそれと使えるような代物じゃない。

 それに羽ペン以外となると木ペンしかないが、あれは羽ペン以上に使いづらいぞ?」


 出納板のチェックを終えて、自らも記帳作業に移っていたソーンリヴが、またかと言いたげな表情で、愚痴を零している修一郎を見る。


「分かってはいるんですけどね。

 手書きの記帳は向こうの世界でもやっていたので、それは別段苦にはならないんですが……」


 洋紙と万年筆の組み合わせに比べると、羊皮紙と羽ペンはどうしても書きづらく感じてしまう。

 慣れてしまえばそうでもなくなるのかも知れないが、こればかりは慣れるまで我慢……と言うより我慢して慣れるしかなく、ソーンリヴの言う通り仕方のないことだった。

 そもそもが、この世界にある物品はこの世界の住人のために作られ、改良され発展してきたものだ。

 そしてその住人は、多かれ少なかれ体内に魔力を持ち、魔法を操ることができる。

 魔法を使えることが当たり前の世界であり、身の回りの品々や公共システム、戦に関する武具や戦術まで、魔力を使用することが前提で作られている“モノ”が多い。

 その反面、こんなものにまで魔法を使わずともいいだろうにと思う場面に、修一郎は何度も出くわすことがあった。

 その一つに、ソーンリヴが口にした『記載術』と呼ばれる魔法を利用する羊皮紙製の帳簿も含まれる。

 専用の術が施された羊皮紙に、魔力を使い文字を記載していくのだが、帳簿に手をかざして記載したい内容を頭に思い浮かべると、それが瞬時に書き込まれるため、一文字一文字書いていくより遥かに早く、記帳ミスも少ない。

 ただし、専用の帳簿作成にかかる手間がそれなりに必要であるらしく、普通の羊皮紙製帳簿に比べると値段は十~十二倍と高額になる。

 記載術用帳簿一冊で修一郎が楽に一月暮らせる金額なのだ。

 修一郎の世界では一冊千円前後で買える帳簿も、こちらの世界では羊皮紙製帳簿ですらちょっとした金額になる。

 それ以外となると、安価な木板製の帳簿になるが、保管に場所を取ること、強度的に不安があること、記帳に手間がかかること、そして何よりみすぼらしいといった理由で、小規模の商店が経費節約のために使う程度である。

 術の有り無しは別として、羊皮紙か木板か、その二種類しかない。

 目玉が飛び出るような高価な帳簿を使うくらいなら、普通の羊皮紙製帳簿でいいじゃないかと思うのだが、事務作業の効率化を図っているのか、単なる見栄なのか、記載術用帳簿は大規模商店では結構使われているらしい。

 確かに、マリボー商店のような中規模の店に比べれば、取り扱う商品数も動く金額も、それに伴う事務処理も遥かに多いのだろうから、作業の効率化は経営者としても担当事務員としても必要なのだろう。

 それでも、と修一郎は思う。魔法に頼らなくても作業量を減らせる方策があるのではないかと。


 そんなことを考えながらも、修一郎の手は止まることなく動いている。

 暫くして、全ての記帳を終えた修一郎が顔を上げると、丁度彼の上司も記帳が完了したところであった。


「終わりました」


 やや疲れた声で、そう報告する修一郎に、ソーンリヴが大きな息を吐きながら応える。


「ああ、こっちも終わった。やれやれ、やっと今日の業務も終了だな」


「お疲れ様でした。後は『施錠』して終わりですね」


 気の抜けた声で呑気に言う修一郎にため息をつきながら、ソーンリヴは自分が記帳した帳簿と、修一郎から受け取った帳簿をまとめると、売上金の入った皮袋を持って金庫に向かった。

 金庫にかけられた『施錠』の魔法を解除し、帳簿一式と皮袋を中に収めて金庫の扉を閉めると、再び『施錠』の魔法をかける。

 これも魔法を使った仕掛けで、事務員のソーンリヴとマリボー、マリボーの息子ブルソーにしか『施錠』を解除することは出来ないようになっている。

 その間に修一郎は、事務室内の窓の戸締りや竈の火の点検を行い、「他を見てきます」と言い残し事務室から出て行った。

 最終的に、店の建物全体にも『施錠』をかけるのだが、それでも荷物搬入口の施錠や窓の閉め忘れ、ランプの消し忘れなどを確認しなくてはならない。

 一階部分の店頭、倉庫、流通、そして各部署の従業員控え室を一通り確認した修一郎は、二階に上がる。

 二階は商談用の応接室とマリボーの個室しかなく、マリボーの個室は部屋の主が専用の『施錠』をかけているため、確認するのは応接室のみだ。

 とりあえず自分ができる箇所全てを点検した修一郎が一階に戻ってくると、通路の先に従業員用出入口からゼリガとクローフルテが入ってくるのが見えた。


「どうしました?ゼリガさんにクローフルテさん。何かありましたか?」


 何事かあったかと思い、小走りに駆け寄る修一郎にエルフ族の販売員が無表情のまま本日三度めの訂正をする。


「……クローフルテ・マイヤックです」


 そんなクローフルテに苦笑を浮かべながら、ゼリガは傍まで来た修一郎に説明した。


「いやぁ、俺はなんでもないっちゃあなんでもないんだけどよ。

 マイヤック嬢ちゃんが忘れ物したらしくてな。

 出会った場所もちと離れてたし、もう日も暮れちまったから一応、な」


 一応とは、夜の街中を歩くクローフルテのことを案じたということなのだろう。

 国内でも治安の良い街として知られているアーセナクトでも、強盗や人攫いなどの犯罪が皆無というわけではない。


「忘れ物、ですか?」


 目を二、三度瞬かせた後、修一郎はクローフルテの顔を見つめる。


「はい……。お手数をおかけしますが、どうしても今日持って帰らなければならないものなのです。

 控え室までお付き合い願えませんか」


 表情からは分からないが、口調からは切実な想いが伝わってくる。

 余程大事な物を置き忘れてきたのだろう。

 修一郎についてきて欲しいと要請したのは、忘れ物をしたのが事実であることを確認して貰うためと、自分がおかしな行動を取らないことを修一郎立ち合いの元、明確にさせるためだ。

 先ほど見回った際には、テーブルや椅子の上などにはそれらしき物がなかったはずだが、修一郎は笑顔で快く引き受けた。


「構いませんよ。それでは控え室に行きましょう。

 あ、ゼリガさん。申し訳ないんですが、事務室のソーンリヴさんに建物内に異常はなかったことを伝えておいて貰えますか。

 あと、クローフルテさんの忘れ物を取りに従業員控え室に行ってくることも」


「ああ、いいぜ。もうお前らも帰るところだったんだろ?さっさと忘れ物取ってこいよ」


 そう言って、犬人族の男は事務室に歩いていった。


 修一郎が、無事忘れ物を見つけたクローフルテと共に事務室まで戻ってくると、ゼリガとソーンリヴが入口で待っていた。


「よう。えらく時間がかかったじゃねぇか?

 あんまり二人の邪魔しちゃ拙いだろうから店に『施錠』かけて帰ろうかって話してたとこだ」


 にやにやと笑うゼリガに、修一郎は慌てて弁明する。


「ち、違いますよ!確認しなければならないとは言え、販売員用の控え室は女性専用ですからね。

 見回り時ならともかく、クローフルテさんが居るのにずかずか入るわけにもいかないじゃないですか」


 実際は、閉店後に戻ってきた目的が間違いなく忘れ物であったことを確認させるために、共に控え室に入れと頑なに主張するクローフルテと、制服などの着替えが収められている販売員専用、つまりは女性専用控え室に女性と一緒に入るわけには行かないと固辞する修一郎の間で一悶着あったのだが、それには触れない。


「……マイヤックです」


 修一郎の言葉に訂正を加えようとするクローフルテの声も、からかわれたのが分かっているのだろう、表情を変えることはなかったが、その声量は聞き取れないくらいに小さい。

 やたら説明口調になってあたふたしている修一郎を横目に見ながら、ソーンリヴが呆れたように言う。


「従業員同士の恋愛にとやかく言うつもりはないが、私はさっさと帰りたいんだ。

 逢引なら外でやってもらえると助かるんだがな」


 心なしか周囲の温度が下がったように感じた修一郎は、いつもの柔和な笑みを浮かべる余裕もなく、


「だから違いますって!」


 と声を大にして叫ぶのだった。


 その横では、クローフルテは相変わらず無表情で佇んでいた。






「『施錠』」


 四人が建物から外に出て、従業員用出入口の扉に普通の鍵で施錠をした後、私服に着替えたソーンリヴがマリボー商店全体にかけられた『施錠』の魔法を発動させる。

 一瞬、建物全体が淡い光を発するが、すぐにそれは消え、一見日中と変わらない様子に見えた。

 実際は、前もって登録された従業員以外が『施錠』を解除しようとしたり、第三者が強引に『施錠』を突破しようとすると、すぐさま街の警備団に異常を知らせる連絡が入るようになっている。

 このあたりは向こうの世界のセキュリティシステムよりも優秀そうだなあ……などと修一郎が感心していると、ゼリガから声を掛けられた。


「おい、シュー。お前さん、これからどうするんだ?」


 ゼリガの問いに答えようとしたとき、市庁舎の親鐘四つに少し遅れて教会の子鐘が一つ鳴り響いた。

 ふと、官庁地区にある教会へと目を向けるが、晩秋の陽は既に落ち、教会の建物は所々に小さな光の点があるだけの、ただの黒い影にしか見えない。

 アーセナクト中央に聳える市庁舎や、北の居住地区、南の商業地区にある飲食街といった場所は、煌々と明かりが灯り、空から控え目に下りてきつつある夜の闇を押し返しているようにも見える。

 それでも、吹いてくる風は陽光の支配から解き放たれた喜びを主張するように冷たく、店の制服から黒地の長袖シャツに青地の麻の長ズボンといった私服に着替えた修一郎は、夜風に首を竦めながら応じた。


「そうですね。いつもの食堂で晩飯食べてから帰ります。

 このまま帰っても家じゃ料理できませんし……」


 どこか残念そうに答える修一郎に、


「そうかそうか!俺も晩飯まだなんだ!一緒に食うとするか!」


 ゼリガが嬉しそうに修一郎の肩を勢い良く叩く。

 ふと目を遣ると、ズボンから生えた尻尾も勢い良く左右に振られていた。


「ソーンリヴさんとクローフルテ・マイヤックさんもどうです?」


 勢いの良すぎる肩への連打に、苦笑を浮かべつつ顔を僅かに顰めるという地味に器用なことをこなしながら、修一郎は女性陣二人に尋ねる。


「いや、私は辞退するよ。まだ目の疲れも取れてないしな。さっさと寝たい。

 ああ、夕食はニンジンとカボチャのスープでも作るとするかな」


 にやりと笑ったソーンリヴは、修一郎たちに背を向けて歩き出しながら「あまり飲みすぎるんじゃないぞ」との一言を残して去って行った。


「おう、お疲れさん」


 ソーンリヴに向けて声を掛けるゼリガの横で、修一郎はもう一人の女性に顔を向ける。


「クローフルテ・マイヤックさんはどうします?

 あ、でも忘れ物がありますから、早く家に戻ったほうがいいですかね」


 それが彼女が言っていた忘れ物なのだろう、小脇に抱えられる程度の布製の袋を両手で持っていたクローフルテは、無表情のままゼリガと修一郎に一度ずつ視線を向けると一言口にした。


「いえ、お付き合いします」






 目的の店に向かいながら、修一郎は隣を歩くクローフルテにちらりと視線を遣る。

 彼女も他の従業員同様、店の制服から私服に着替えており、膝下まである長めの深緑色のワンピースを腰の辺りに巻いた布紐で縛り、その上に厚手の生地で作られた木綿製の水色のジャケットを羽織っている。

 足元は、脛の辺りで折り返した布製のロングブーツという出で立ちだった。

 お洒落よりも動きやすさを追求したようなコーディネイトにも見える。

 ともすれば地味に見えなくもないが、深緑のワンピースにクローフルテの流れるような銀髪が映え、すれ違う人々の視線を集めていた。

 表情は蝋で固めたように無表情のままだが、どこか嬉しそうに感じるのは修一郎の気のせいだろうか。

 そのクローフルテを挟んで反対側を歩くゼリガは、上着だけは着替えたものの、ズボンは作業時と変わっていない。

 ゼリガ曰く、犬人族は汗を掻かないから埃などで汚れない限りは、あまり頻繁に着替える必要などないとのことだった。




 他愛のない会話を交わしながら歩いていると、目的地である食堂の看板が見えてきた。

 周囲の店からも食欲をそそる匂いや、酒の匂いと共に客の喧騒が聞こえてきていたが、三人は迷うことなく、目指す食堂に入っていく。


「あら。シューイチロー、いらっしゃい。女性連れとは珍しいわね」


 店内に設置された、大小合わせて十脚ほどの木製のテーブルの間を忙しく動き回っていた、猫人族の女性が修一郎たちに気付く。

 茶と灰と黒の、修一郎の世界で言う“藤猫”のような毛並みに、白いシャツと黄色のエプロン、赤いスカートを履いた出で立ちで、両手に盆を掲げて料理や酒、空になった食器を載せている。尻尾はどうやら邪魔になるらしくスカートの中にしまっているようだ。

 表情はゼリガと同じように、猫の頭部が人間に酷似した体の上に乗っかっているため、慣れないと判断がつきにくいのだが、修一郎はこの店の常連であり、今では喜怒哀楽程度なら分かるようになっていた。

 この店は飲酒よりも食事をメインにした店で、食事を楽しむ客の笑い声や話し声こそ飛び交って少しばかり騒然としているものの、酔客の叫び声などは聞こえてこない。

 おかげで大声で喋る必要はなく、修一郎はいつもの調子で猫人族に話しかけた。


「こんばんは、プレルさん。席、空いてます?」


「ああ、空いてるよ。

 クリュ!シューイチローを席に案内して!」


 プレルが店の奥に向かって叫ぶと、テーブルとほぼ同じ高さの位置を小さな毛皮の塊が駆け寄ってくる。


「いらっしゃい!しゅーちろー!」


 店内の喧騒に負けないくらい大きな声で挨拶したのは、プレルの娘であり同じ猫人族のクリュだった。

 プレルと同じ毛色の小さな身体に、ピンクのシャツ、クリュ用に作り直されたのだろう黄色のエプロン、尻尾用の穴の開いた赤いスカートという格好だ。

 小さな耳と尻尾をしきりに動かして、満面の笑顔で修一郎を見上げている。


「こんばんは、クリュちゃん。ばんごはんたべにきたんだけど、だれもつかってないテーブルってどこかな?」


 長身の修一郎がやや体を屈めながらクリュの頭を撫でてそう尋ねると、猫人族の幼女は嬉しそうに目を細めて「こっち!」と走り出した。


「こら、クリュ!店の中では走っちゃダメだって言ってるでしょ!」


 後から飛んできた母親の叱責も、お気に入りの人間族に会えて上機嫌のクリュには聞こえてないようであった。




 クリュが案内した先には、確かに誰も席についてない五人掛けの丸テーブルがあった。


「はい。おしながき!」


 背伸びをして店のメニューが書かれた木板をテーブルに置いたクリュは、厨房兼カウンターに向かってこれまた大声で叫ぶ。


「ラローズにーちゃーん!こっちちゅうもんおねがーい!」


 人間族で言えば四、五歳に見えるクリュが一所懸命に店を手伝っている様子を見て、修一郎が小さく笑っていると、クリュの声が聞こえたのだろう、カウンター内で料理の盛り付けをしていたらしい従業員が顔を上げて、修一郎たちがいるテーブルを見る。


「わかった。すぐ行くよ!」


 然程待つことなく、ラローズと呼ばれた人間族の男性が、修一郎たちのテーブルにやってくる。

 茶色の髪を短く切った碧眼の青年は、素朴な顔立ちをしていた。

 決して美青年と言えるものではないが、人好きのする顔である。

 着ている物は、プレルやクリュと同じく白いシャツに黄色いエプロン、赤い長ズボン。

 これが、この店の制服なのだろう。


「いらっしゃい。シュウイチロウさん、ゼリガさん。

 そちらのエルフの方は、二度目……でしたよね?」


 テーブルについた一行を順繰りに見渡しながら、それぞれに話しかける。


「…………はい」


「よう、ラローズ。どうだ?仕事には慣れたか?」


「ええ、まあ。親父さんに怒鳴られながらもなんとかやってますよ」


「パノーバさんは料理には厳しい方ですからね。でも、ラローズさんなら大丈夫ですよ」


「ありがとうございます。ご期待に添えるよう頑張ります」


 四人は話ながらも、それぞれが料理を注文していく。

 この食堂は、商業地区の中でも酒場通りよりも商店通りに近い場所に位置しており、基本的には商店で働く従業員の昼食や夕食を見込んだメニュー構成である。

 酒類もあるにはあるが、軽めの果実酒や精々がエールくらいしか置いてない。

 料理が来るまでの間、仕事の話や王都の最近の出来事、従業員の失敗談などに花を咲かせていたゼリガと修一郎に、時たま相槌や短い言葉を返していたクローフルテだったが、修一郎がふと気になったことをゼリガに尋ねた。


「そういえば、ゼリガさん。晩飯は家で食べないんですか?奥さんに怒られますよ?」


 ゼリガは妻帯者で、しかも子供も三人ほど居ると聞いたことがある。

 犬人族は狼人族と同じくらい家庭を大事にすると言われており、愛妻家であっても恐妻家であっても家庭を蔑ろにする個体は居ないことで有名だ。

 クローフルテは独身だと以前レナヴィルから聞いていたので、外食するのも分かるのだが、ゼリガは修一郎の知る限り朝食、夕食はおろか昼食も一度帰宅して摂っているほどで、外食をするゼリガに疑問を持つのも仕方ない。


「あー。それなんだがよ……。

 ウチのカーチャンが、その、今……な?」


 普段は、快活と豪快が毛皮と服を纏って歩いているようなゼリガだが、修一郎の疑問には妙に歯切れが悪かった。


「奥様と喧嘩されたのですか?」


 様子のおかしいゼリガに、クローフルテも気になったようで、表情を変えないまでも、声にゼリガを案ずる色を滲ませて問い掛ける。


「いやいや!喧嘩なんてしてねぇぞ!?

 むしろ……その、今……カーチャン、発情期……でな?」


 普段のその逞しい体を羞恥のため小さくしながら呟く犬人族の言葉に、人間族の男とエルフ族の女は思わず見つめ合ってしまう。


「だから、ガキどもが寝るまでは家に戻れないというか……」


 人間族であったら、おそらく顔を真っ赤にしているであろうゼリガは、言い辛い話題から逃げるように「早く酒持ってきてくれよぉ!」とカウンターに向かって叫んだ。

 修一郎はというと、漸く家庭を大事にする犬人族が言わんとしていることに気付いた様子で、決まり悪そうに


「そ、そういうことでしたか。そ、それは確かに帰りづらいですねぇ」


 などと、頭を掻いている。

 一方、ゼリガを心配していたクローフルテは、その理由を聞いて珍しく頬を染めて恥ずかしげに俯いていた。

 人間族や、人間族まではいかなくとも、“その気になれば”年中そういった行為に及び子を為すエルフ族たちと違い、犬人族や猫人族、狼人族などは年に数回の発情期にしか相手を求めることはせず、仮にその時期以外に“行為”を行ったとしても妊娠することはない。

 その代わり、発情期になると男性女性共に激しく求め合い、確実に子を宿すことになるため、これ以上子供をもうける気のない夫婦や、既に子供が生まれている夫婦は、色々と苦労する時期でもあった。




 言いようのない気まずい雰囲気が支配するテーブルに、注文した料理と酒を盆に載せてラローズがやってきた。


「お待たせしました、皆さん。……あれ?どうかされましたか?」


 場の雰囲気がおかしいことに気付いたラローズが尋ねる。


「い、いえ、なんでもないですよ」

「そ、そうそう!なんでもねぇよ!それより飯だ!」

「……………」


 三者三様に反応するが、顔を赤くして俯いたまま無言のクローフルテが気になったのか、ラローズがさらに言葉を重ねる。


「そちらの方は具合でも……?

 大丈夫ですか?」


 心配するラローズの声を聞いて、その長い耳まで真っ赤にしたクローフルテが、


「い、いいえ!大丈夫です!」


 と、普段出さないような大きな声で、首を勢い良く左右に振るという、滅多に見られないどころか初めて目にする仕草に、目と口を大きく開けて見入ってしまった修一郎とゼリガだった。




 注文した料理は、どれも豪勢とは正反対の質素なものばかりであったが、食べ飽きることのないよう控え目の味付けで丁寧に調理されたものばかりだった。

 ジャガイモのパンケーキに摩り下ろしたニンジンと干しブドウのソースをかけたもの、キノコと鶏肉の炒め物、赤カブと数種類のハーブに柑橘系の果汁を使ったドレッシングをかけたサラダ、川魚のぶつ切りとハクサイに近い野菜を煮込んだ塩味のスープ、黒胡麻入りのパンといった料理が、テーブルに並べられている。

 飲み物は、ゼリガがエール、修一郎が梨を使った果実酒、クローフルテがザクロのジュースをそれぞれ頼んでいた。

 肉類はあまり好きではないというクローフルテのために、追加で注文した干したトマトを一度もどしてタマネギとチーズを乗せてオーブンで焼いた料理は、その香ばしい匂いに釣られたゼリガが半分近くを食べてしまうという出来事があったりしたが、ご愛嬌である。

 クローフルテは酒類を頼むことはなかったが、それでもそれなりに会話に加わるようになり、賑やかに話は弾んでいた。






 開けっ放しの食堂の入口に、一人の人物が立っていた。

 年老いた老人のように長く伸ばした髭、丸く大きな鼻、一般的な人間族の半分程度しかない背丈、木屑や鉄片の付着した麻の上着に、長年使い込んでいると思われる木の皮を編んで作ったジャケット、灰色の麻のズボン。

 伸びるに任せた黒に近い茶色の頭髪には所々白いものが混じっているが、その髪の間から覗く茶色の眼光は鋭く、店内を物色しているようだ。

 その人物に気付いたプレルが声をかけるが、「おう」と一言だけ応え、店内にいる客に視線を巡らせている。

 しばらくして、探している相手が見つかったのか、その人物はすたすたと店内に入って行く。

 プレルはいつものことだと言わんばかりに小さく肩を竦めると、他の客の注文を伝える為、カウンターへと向かった。




「シュウイチロウ!探したぞい!」


 いきなり三人の会話に大声で割り込んできたのは、土の妖精族ノームであった。


「なんだぁ!?って、レベック爺さんじゃねぇか」


 驚きと相手の不躾さに声を上げたゼリガだったが、闖入者が見知った顔だったので拍子抜けしたようである。


「こんばんは、レベックさん。こんな時間に珍しいですね」


 突然現れたノームに驚いた様子もなく、いつもの笑顔を浮かべながら話しかける修一郎。


「…………」


 クローフルテは黙って軽く頭を下げただけで、無表情のままだ。


「こんな時間もへったくれもないわい。お前さんから頼まれとったモノが出来上がったんでな。

 鐘半分でも早う欲しいじゃろうと思うて、街中探し回っておったんじゃ。

 やれやれ、とんだ一苦労じゃったわい」


 言葉とは裏腹に疲れを感じさせない口調でそう言うと、三人の様子を気にも留めず、レベックと呼ばれたノームはさっさと空いた席に座ってしまう。


「おい、坊主!エール追加じゃ!つまみはふかしたジャガイモでええからの」


 ラローズに向かって勝手に追加注文をするレベックに、ゼリガは苦笑を浮かべながら「相変わらずだねぇ、この爺さん」などと小声で呟いた。

 クローフルテは黙ったまま、瞳に好奇心の光をちらつかせつつ、ノームの行動を観察しているようだ。


「頼んでいたものと言うと、アレが完成したんですか!?」


 当事者の修一郎といえば、レベックの言葉に喜びの表情を浮かべ、声まで弾ませている。


「うむ。お前さんの要求全てに応えることができたわけじゃないがの。

 それでもなんとか使えるモノにはなったわい」


 そう言いながら、テーブルに残っていたパンケーキとサラダとパンを遠慮なく口に運ぶレベック。

 鶏肉の炒め物も残っていたが、それには見向きもしない。

 土の妖精族ノームは森の妖精族エルフ族以上に肉食を避ける。

 大地に実る或いは生えるものは食べるが、大地の草を食べる家畜や水の生物である魚などは一切口にしないと言われている。

 チーズや牛乳ですら彼らは避けるのだ。

 ちなみに、遠慮のなさは種族としてではなく、レベック個人の性格である。


「で、じゃ。これがソレなんじゃが……」


 口髭の端についたパンケーキのソースを、着ていたジャケットの袖で拭いながら、レベックがもう片方の手でジャケットの懐から何やら取り出そうとしたとき、ラローズがエールとふかし芋を持ってやってきた。


「ちょ、ちょっとレベックさん!

 ここじゃ拙いです。場所を変えましょう」


 慌てて修一郎がレベックを止め、歳若い青年に尋ねる。


「ラローズさん。今、個室は空いてますか?」


 アーセナクトは商業都市であって、様々な人が流れ込んできては出て行く。

 当然、その中には隊商や行商人もおり、成り行きで食事をしながら商談をすることも少なくない。

 そんな人々のために、大抵の食堂や酒場には数部屋の個室が用意されている。

 この店にも、一部屋しかないものの個室があるのだった。


「個室ですか?はい。確か空いてたと思いますが……。一応、使えるか女将さんに訊いてみますね」


 ラローズが、カウンターから厨房に向かって客の注文を伝えているプレルの元へ行き、一言二言話をすると、暫くしてプレルが個室の鍵を持ってやってきた。


「シューイチローが個室を使うなんて珍しいわねぇ。何か良からぬことをしてるんじゃないでしょうね?」


「まさか。ちょっと私的な用件ですよ」


 プレルの言葉が冗談であることを理解している修一郎は、笑顔を浮かべる。


「あ、それとラローズさん。申し訳ありませんが、こっちのテーブルの料理を個室に移したいんですが」


「ええ、構いませんよ」


「ああ、ならあたしも手伝うよ。もちろん追加注文してくれるんだろうしね!」


 笑いが弾ける四人とは対照的に、レベックは鍵が開けられた個室へとさっさと移動してしまい、クローフルテは修一郎がラローズに頼む前に、既に料理の皿を持って移動し始めていた。




 全員が個室に移り、追加で注文した料理や酒が来たところで、先ほどの続きと言わんばかりにレベックが口を開く。


「さっきもちと言うたがの。二、三の点を除けば凡そはシュウイチロウの希望通りになっとるはずじゃ」


 そう言いながら、今度こそ本当にジャケットからソレを取り出した。


「なんだこりゃあ……?」


 レベックが大事そうにテーブルに置いた、小さな金属製の箱を眺めて、ゼリガが声を上げる。

 大きさは修一郎の手の平より二回りほど小さく、素材は鉄で出来ているようだ。

 親指一本分の厚みを持った長方形で、箱の長辺のほぼ中央あたりに箱の周囲を一周するように切れ目が入っている。

 それ以外は、魔術が施されたような跡もなく、突起物も穴もない、つるりとした印象で、穴がないことを除けば修一郎の故国である日本で使われていた触媒式懐炉のようにも見える。


「…………」


 クローフルテは先ほどよりさらに好奇心を掻き立てられたようで、凝とテーブルに置かれた物を見つめている。

 そんな玩具を前にした子猫のようなクローフルテにちらりと視線をやって、当人に気付かれないように笑みを浮かべると、修一郎はレベックが作ったそれを手に取った。


「お前さんが最初に言うておった開閉部分の蝶番じゃが、やはり小型化は無理じゃった。あと、内部の“バネ”やら言う部品も、の。

 じゃから代案じゃった方式を採用しとる。それでもお前さんが要求しておった大きさぎりぎりになってしもうた。

 わしも細工師としてまだまだ修行が足らんということかの」


 木製のジョッキに残っていたエールを一気に飲み干すと、それが苦い薬であったかのように顔を顰めながらレベックが語る。

 依頼人の要求に完璧に応えることができなかった事実が、細工師としての矜持を傷つけているのだろう。

 この老いたノーム族と、異国の地で初めて出会った頃が思い出された。

 今はどんな言葉をもってしても、この土の妖精族を慰めることはできないと感じた修一郎は、まずは完成品の検品を済ませることにした。


 箱の下部を右手で持ち、左手で上部を摘んで引っ張ると、箱は切れ目から二つに分かれ、中から煙突のような形をした金属製の筒が現れた。

 どうやら外側の金属製の箱は、ケースであり蓋であり、品物の本体は、半ばまで剥いたゆで卵の殻から頭を出した白身のような状態のこの筒らしい。

 金属製の筒には、所々小さな穴が穿たれ、筒の片側には、同じく金属製の車輪のようなものが筒に添うように取り付けられている。


「はぁ~……」


「…………」


 ふと、ゼリガとクローフルテに目をやると、二人とも興味津々といった様子で、修一郎の右手に持たれた奇妙な形をした筒を凝視している。

 修一郎は視線を“筒”に戻し、それこそ煙突の上から下を覗くように、筒の内部を確認する。

 筒の中には、ランプに使われている芯が、筒に取り付けられた金属製の車輪からほんの少し離れた場所に固定されている。

 その金属製の車輪の周囲には、斜めに交差するように細かな溝が彫られ、やすり状になっていた。

 視点をずらして車輪の下を見ると、車輪の幅より少しだけ細い窪みに、黄土色の小さな石片が填め込まれており、車輪の外周部に僅かに接触するように位置が調整されている。


「レベックさん、点けても?」


 そこまで確認してから、修一郎はレベックに問う。


「無論じゃ。わしも一応確認はしとるがの」


 嬉しそうにそれを眺める修一郎を見て、幾分気が晴れたのか、先ほどより表情を和らげたレベックが答える。

 それを見て小さく頷くと、修一郎は“筒”に取り付けられた車輪に親指をかけた。

 車輪を回転させるように勢い良く親指を滑らすと、石と石を擦り合わせたような音がして筒の中に向け火花が散る。

 次の瞬間、ぼうっという音と共に筒に火が灯った。


「おおっ!?」

「え……っ!?」


 息を呑む同僚二人を他所に、修一郎は満足げな表情を浮かべると、左手に持っていた箱の上部で、横から素早く被せるように蓋をする。

 すると、火が漏れることも爆発するようなこともなく、レベックがテーブルに置いたときと変わらない金属製の箱が修一郎の右手に納まっていた。


「うん!ありがとうございます、レベックさん。充分すぎるほどの出来ですよ!」


 満面の笑みでそう告げる修一郎に、言葉を返そうとするレベックを遮って、ゼリガとクローフルテが興奮した声をぶつけてきた。


「おい、シュー!なんだ今のは!?

 お前、『発火』……いや、ありゃ『火炎』か?魔法が使えるようになったのか!?」

「私も一瞬、魔法を使ったのかとも思いましたが……。

 もしかして、それはほくち箱に類するものなのでしょうか?」


「落ち着いてください、ゼリガさん。

 私は魔法なんて使ってませんし、使えませんよ。

 それから、クローフルテさん。

 仰るとおり、これはほくち箱のようなものです」


 身を乗り出すようにして一斉に質問してくる二人に、苦笑しながらも修一郎が説明する。


「これは“ライター”と言います。

 私がいた世界の言葉で、本来は『火や灯りを点けるもの』といった意味ですが、私が生まれたときには既に“ライター”という言葉自体がこういった機巧を指すものになってました。

 この“筒”の中に、ランプ用の芯を通して周囲に綿を詰めたのち、油を綿に染みこませます。

 そして、この火打金代わりの金属の車輪と火打石を擦り合わせて火花を発生させ、それを芯に当てて火をおこす仕組みです。

 火打金と火打石を使ってますから、ほくち箱の変り種と言ってもいいかも知れませんね」


 再びライターの蓋を開けて、“筒”の上部を持つとゆっくりと引き抜く。

 穴の開いた煙突状の筒の下は、ライターのケースと同様に鉄で作られており、それを引っ繰り返すと、確かに修一郎の言う通り綿が詰められていた。


「ほく……なんだって?」


 ライターについては理解したようだが、途中で出てきた“ほくち箱”という耳慣れない単語に、再び疑問の声を上げるゼリガ。


「ほくち箱です。火打金と火打石、それにおが屑や綿屑を一つにまとめたものです。

 形状はその名の通り箱状であったり、皮袋に入れてある場合もあります。

 確かに街中ではあまり見かけませんし、必要ともされませんが、行商人や冒険者といった長旅をする者の中には、火をおこす際の予備の手段として携行している者もいます」


 修一郎に代わって、クローフルテが淡々と説明する。

 ゼリガはアーセナクトで生まれ、アーセナクトで育った犬人族だ。

 街中で育ち、他の都市などへの泊り掛けの旅も経験したことがなく、周囲の者も魔法を扱うことからほくち箱の存在を知らないのも無理はないことだった。

 クローフルテはこの街の生まれではないとソーンリヴから聞いていたので、おそらく長旅の経験があり、ほくち箱を手にしたか見たかしているのだろうと修一郎は推察する。

 彼女の口調から、既にいつもの冷静さを取り戻したかに見えるが、修一郎が名前で呼んだことを訂正しないあたり、まだ多少は混乱しているのかも知れない。


「そうです。実際に私もほくち箱は持っていますが、あれって結構取り扱いが面倒ですし、慣れないとなかなか火をおこせないんですよ。

 それに私は魔法が使えませんから、常にそういった物を持ち歩かないといけませんし。

 そこで、レベックさんにお願いして、これを作っていただいたというわけです」


 想像以上に出来が良かったことと、懐かしい品に触れることができたからか、修一郎は嬉しそうに再びライターの火を灯した。

 そんな様子を見ながら、レベックが修一郎を補足する。


「シュウイチロウが依頼してきたのは、ライターっちゅうやつの蓋を蝶番で留めて開閉させるものじゃった。

 じゃが、指定された大きさぎりぎりまで頑張ってみても、強度的に辛いものがあっての。

 無理に蝶番をくっつけても三十回も開閉せんうちに、心棒が歪むか折れるかして使い物にならなんだ」


 ふんと鼻を鳴らして、レベックが個室の入口へ歩いて行く。

 扉を開けると、カウンターのラローズに向かって大声でエールの追加を注文する。

 その様子を黙って見ていた三人だったが、レベックが自分の椅子に戻るとゼリガが口を開いた。


「へぇ……。爺さんなら作っちまいそうなもんだがねぇ」


「ふん!いくらわしでも出来んこともあるわい。

 それに、もう一つシュウイチロウが出した案の“バネ”は、わしどころか今のこの国の……いや大陸の技術じゃ無理じゃ」


 忌々しげに吐き捨てるレベックが「エールはまだか」と声を上げたタイミングで、個室の扉がノックされラローズがエールを持って入ってきた。

 修一郎はさりげなくライターを持った手をテーブルの下に隠し、ラローズに見られないようにしている。

 エールを置いてラローズが退室すると、レベックが再び口を開く。


「棒状にした鋼を螺旋状に巻いて、反発力を利用して火打石をせり上げる仕組みはたいしたもんじゃが、あの大きさに収まるように作るのはわしには到底できやせん。

 工業都市アーラドルの同族やドワーフにやらせても無理じゃろうな。

 じゃから適切な大きさに切り揃えた石を填め込む方式にさせて貰うた。

 ……じゃが、あの“バネ”は面白いの。大きさに拘らなんだら、色々応用は利きそうじゃ」


 渋い顔で説明を続けていたレベックであったが、最後の一言でにやりと笑うとジョッキを呷った。


「レベックさんの腕を疑ったわけではないのですが、あの二つの案はそうなればいいなといった程度のものですので、これで充分ですよ。

 おかげで、長屋に帰っても貰い火をしなくて済みますし」


 はは、と情けなさそうな笑いを浮かべながらも、修一郎は手の中でライターを弄んでいる。

 魔法が一切使えない修一郎は、アーセナクト市民用の長屋を借りて住んでいるのだが、照明はランプか蝋燭、台所は竈しかなく、帰宅してから火をつけるのに苦労することが多かった。

 魔法が使えれば『着火』で一瞬なのだが、修一郎はほくち箱を使わないと火をおこせない。

 しかも長雨でおが屑などが湿気ると、隣近所の住民にお願いして火種を貰わないといけないのだ。

 その点、オイル式のライターであればライター自体が水に濡れない限りは容易に火をおこせる。

 そこで、昔の伝で面識のあったレベックにライター製作を依頼したのだった。


「いや、じゃが今回の仕事は、わしも色々学ぶことができたわい。

 火打石の中でも脆くて使えんと思われておった石のほうが、ライターのように擦ることで真価を発揮することや、わしらノームの間で”種火草”と呼ばれる焚きつけにしか使えんかった草から精製した油が、あれほど燃えやすい性質を持っておったこととかの。

 流石は異世界の行商人の知恵といったところかの?」


「レベックさん」


 そう小さく発した修一郎の言葉に、レベックは少し慌てたように、商売の話に移った。


「お、おお。そうじゃったの。して、代金の話じゃが。

 素材は基本的に鉄と鋼しか使うておらんし、他も簡単に手に入るものばかりじゃった。

 それに次善案でしか作れなんだし、さっき言うたように今まで捨てておったような物の使い途も見つかった。

 加えて、“バネ”っちゅう新しい技術も教えて貰うたしの。

 既に貰うておる手付金で充分じゃ。

 ……と言いたいところじゃが、それではお前さんが納得しそうもないしのう。

 よし、ここの飯代で手を打とうじゃないか。

 あと、火打石と油の補充は、格安で提供してやるわい。それでどうじゃ?」


 やたら饒舌になった細工師に、胡乱な視線を向けていたゼリガとクローフルテだったが、修一郎の次の言葉に再び驚くことになる。


「いいえ、それではこちらは応じかねます」


 慌てて修一郎を見る二人を他所に、当の本人は珍しく真剣な顔つきでレベックを見据えていた。


「ほう。では、どうするんじゃ?」


 対するレベックは好奇心を湛えた瞳で、口の端を吊り上げて笑う。


「まずですね…………」


 そうして告げられた内容に、個室にいた一人は呵呵と笑い声を上げ、一人は感心したように呟き、一人は何かを考え込むように黙り込む。

 急遽設けられた商談の席で、条件を提示した修一郎は、いつもの柔和な笑みを浮かべたまま、愛おしそうにライターの表面に触れていた。



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