第十八話 クレルミロン夫人
クレルミロン邸は、アーオノシュ高級住宅街の一角にある。
綺麗に剪定された街路樹が両脇に並ぶ大通りを歩いて行くと、別の大通りに突き当たる。
その通りと通りが交差する角地に、豪奢という言葉をそのまま形にしたような邸宅が建っていた。
尤も、高級住宅地に建てられている家屋は、その殆どが同じ規模かそれ以上であったが。
ハーベラの現在の夫は、クロワバーシュ・クレルミロンといい、王都アーオノシュに本拠を構えるクレルミロン運送の三代目店主であった。
王都から各主要都市に伸びる路線馬車の運営は、クレルミロン運送が一手に引き受けている。
また、荷馬車の販売や賃貸、荷物の代行運送なども手がけており、“王都の足”と呼ばれるまでになっていた。
クロワバーシュは、祖父の代から築いてきたその店を、実に堅実な手腕で着実に発展させ、一般市民階級でありながらも高級住宅街に居を構えるほどの財を成した人物として、アーオノシュ市民に知られている。
クレルミロン邸に到着するまでに、修一郎からそういった説明を受けていたソーンリヴであったが、実際に大邸宅と呼んでいい建物を目の前にすると、その言葉に納得せざるを得なかった。
さすがに貴族階級でないため、騎士や兵士といった門衛の姿はないが、門扉の横に立っていたとしてもおかしくないほど、屋敷は大きい。
「話には聞いていましたが、文字通りの豪邸ですねぇ……」
両開きの扉の前に設けられたポーチに立った修一郎は、屋敷を見上げるようにして、感嘆のため息を漏らした。
「お前の家の何倍あるかな?」
「比べるだけで失礼というものですよ。我が家では比較にもなりません」
そんな軽口をたたきながら、扉に取り付けられたノッカーで家人を呼ぶ修一郎。
暫くして、扉が内側から開けられると、そこには黒のスーツを見事に着こなした人間族の老紳士が立っていた。
「どちら様でございましょうか」
目の前に立つ人間族の男女の身形を確認すると、老紳士は落ち着いた声音で訊ねてくる。
二人の格好は、アーオノシュの一般市民が着ている服と大差ない、ごくありふれたものだったが、この地区では逆に場違いな服装とも言えた。
老紳士の茶色の瞳に、自分たちを訝しむ色が一瞬横切ったのを見逃さなかった修一郎であったが、敢えて気付かないふりをして口を開く。
「突然の訪問、失礼します。私はシュウイチロウ・ヤスキと申します。
以前、クレルミロン夫人にお世話になった者ですが、夫人はご在宅でしょうか?」
軽く頭を下げて用件を告げると、修一郎はいつもの笑顔で老紳士の返事を待った。
ソーンリヴは修一郎の後ろで両手を前に重ねて、静かに立っている。この場は修一郎に全て任せるつもりのようだ。
「……少々お待ちいただけますか」
値踏みするように修一郎を一瞥した老紳士は、そう言うとお手本のような礼をして、扉を閉めた。
静かに閉じられた扉を見て、修一郎は軽く息を吐き出す。
「ふぅ。……執事の方ですかね?
少しばかり怪しまれているみたいですね」
後ろに立つソーンリヴに頼りなげな笑顔を向けると、彼の上司は何を当たり前なことを、と言わんばかりに首を軽く横に振った。
「少しどころか、完全に怪しまれていただろうが。
まあ、今の私たちはそこら辺の一般市民と変わらない格好だからな。当然と言えば当然だ」
「それもそうですね。
ですが、店の制服かこの私服かくらいしか選べるものがありませんでしたから、仕方ないですよ」
「却って、制服のほうが良かったかも知れんぞ?」
「うーん……。それだと、どうにも仕事の延長で動いている気がして、落ち着かないんですよねぇ」
などと他愛もない会話を交わしていると、再び扉が開かれた。
「お待たせいたしました、ヤスキ様。奥様がお会いになられると……っ!」
丁寧なお辞儀をしながら口を開いた執事らしき男の台詞が終わらないうちに、突然目の前のその姿が消える。
「シュウイチロウ!よく来たわねぇっ!」
老執事を突き飛ばしたのは、淡い緑色の毛糸で編まれたセーターのような短衣と薄紫のスカートに、純白のレースのついた絹の上掛けといった、見た目にも高級品と分かる衣装を身に纏った人間族の中年女性であった。
おそらく、この女性がハーベラ・クレルミロンなのだろう。
修一郎の話からすると、歳の頃は五十代に届くか届かないかといったところのはずだが、ソーンリヴの目には三十代後半に見える。
焦げ茶色の豊かな髪は銀細工らしき髪留めで後ろに纏められており、喜色を満面に湛えた顔には目立った皺も見受けられない。
顔つきや髪の色から、典型的なアルタスリーア南部出身の者と思われたが、肌の色は白く、北部出身者に南部の血が混ざっているのかも知れない。或いはその逆か。
いきなりの登場に驚いている様子の修一郎の後ろで、ソーンリヴは目の前の女性を観察していた。
「ご、ご無沙汰しています、ハーベラさん。お元気そうで何よりです」
やっとのことで口にした修一郎の挨拶に、ハーベラはまるで食堂の女将のような口調で応える。
「まったくだわ!
何度も何度も何度も何度も、顔を見せに来なさいって言ったのに、シュウイチロウったら全然訪ねて来てくれないのだもの!」
両の拳を握って腰の辺りで上下に振るという、まるで地団駄を踏む少女のような仕草で修一郎に詰め寄るハーベラに、漸く起き上がった老執事が苦言を呈した。
「奥様……。いきなり何をなさるのですか。
何度も申し上げておりますように、クレルミロン家の名にふさわしい言動をとっていただかないと困ります」
「それなりの時と場所ではきちんとしてるでしょ!今はそうじゃないもの。
そんなことより、ジュブラン。おもてなしの支度をして頂戴。
とびっきりのお茶とお菓子を用意して、ね」
毎度のことなのか、ジュブランと呼ばれた老執事は、やれやれといった様子で「かしこまりました」と答えると、三人に向かって一礼して屋敷の奥へと消えていった。
「さあ、シュウイチロウ。遠慮しないで入って頂戴。
……あら?そちらの女性は?」
ここに至って漸く気付いたのか、ハーベラが修一郎の後ろに立っていたソーンリヴに声をかける。
「はい。こちらは私の職場の上司の……」
「ソーンリヴと申します」
修一郎が言い終える前に、ソーンリヴは自ら名乗り、ハーベラに向かって丁寧なお辞儀を見せる。
「ソーンリヴさんね。お客様が増えるのは良いことだわ。
貴女も遠慮しなくて良いのよ。二人ともこちらにいらっしゃいな」
左右の掌を胸の前で合わせる仕草で、修一郎に向けたものと変わらない笑顔でソーンリヴにそう告げると、ハーベラは屋敷の中へと二人を招き入れた。
苦笑を浮かべながら彼女に続く修一郎に向かって、ソーンリヴが小声で話しかける。
「……おい、シュウイチロウ。お前から聞いていた人物像とかけ離れているような気がするが、それは私の思い違いか?」
その問いに、修一郎は浮かべていた苦笑をそのまま返すことしかできなかった。
「そんなわけでね?シュウイチロウと一緒に旅することになったのだけど、最初の頃は本当に苦労したわ。
だって、言葉は全くと言っていいほど通じないし、頼みの『意思疎通』の魔法もシュウイチロウには効かなかったのだもの。
子供に一から教えるよりもよっぽど難しかったかも知れないわねー」
あの後、二人は大きな窓が壁一面に取り付けられた談話室に通された。
気泡や傷一つない綺麗なガラスをふんだんに使った窓からは、初春の陽射しが降り注ぎ、まるで温室のように暖かい。
部屋の中央には白く塗装された鉄製のテーブルと椅子が置かれ、窓際の壁には様々な鉢植えの植物があるあたり、実際に温室としても使われているのだろう。
二人をもてなすハーベラは終始にこにことしていて、修一郎に出会った頃の出来事を思い返すようにソーンリヴに聞かせていた。
当の修一郎は、照れながらも困惑したような微妙な面持ちで、時たま「いやあ」だの「そうでしたかね」だのと曖昧な返事を繰り返している。
「あの頃は、ちょうど私も一番下の子がお腹に居たものだから、あまり動けなくて。
セギュール……あ、一番上の子の名前なのだけど、あの子と旦那に修一郎のことは任せっきりにしていたの。
でも二人とも人にモノを教えることが下手でね?結局最後は、私とパルメル……これは三番目の子ね。
私とパルメルで教える羽目になってたわねぇ」
当時を懐かしむように窓の外に一度視線を向けてから、ハーベラはティーカップに注がれた紅茶を口にした。
ジュブラン執事が淹れてくれた紅茶は、アーセナクトや王都で飲んだどの紅茶よりも香りが高く、渋みと仄かな甘みの調和が取れていて、口にする者の嗅覚と味覚を楽しませてくれる。
「そういえば、セギュールたちは元気にしていますか?
フォーンロシェさんからは、騎士団や医術士になったと聞いていますが」
いい加減、自分の話題ばかりで居心地が悪くなったのか、修一郎が話題の転換を図った。
「それはもう元気にしているわよ。
今、ジュブランに連絡を取るように言ってあるから、暫くしたら顔を見せるのではないかしら。
あの子たちもシュウイチロウが来たことを知ったら、喜ぶと思うわー」
一方は満面の笑みで、もう一方はいつもの頼りなさそうな笑顔に苦笑を滲ませて、それでも楽しげに会話する二人を見ながら、ソーンリヴは殆ど発言していない。
少し前に、久々の対面に積もる話もあるだろうから、と席を外そうとした彼女であったが、ハーベラの有無を言わせぬ笑顔と言葉によって、修一郎と共に談話室の客となることを強いられている状態であった。
「ところで、ソーンリヴさん。シュウイチロウは職場ではどのような様子なの?
何か失敗でも仕出かして、皆さんに迷惑をかけていないかしら?」
突然自分に振られた話に一瞬とまどったソーンリヴであったが、暫しの間を置くことなく、この世界での修一郎の母親と言ってよい女性を見つめて答える。
「彼は良くやってくれています。
魔法が使えないことは、事務員として短所と言えば短所ですが、真面目ですし、彼が元居た世界での経験を仕事にも活かしているようですから、然したる問題ではないでしょう。
彼の人柄のおかげもあってか、店で働く者たちとも良い関係を築いています」
さすがに普段の男口調で喋ることはせず、落ち着いた女性のそれで、修一郎に対する評価を下すソーンリヴ。
それに、と付け加えるように、
「彼のもたらしたあちらの世界の技術や知識で、当店もかなりの利益を上げているようですし」
と、続けた。
「ちょ、ちょっと、ソーンリヴさん……」
隣で慌てる部下を見遣ると、深い藍色の髪をした上司はいつもの言葉遣いで平然と応じる。
「どうした?私は事実を言っているだけだぞ?
例え、お前が世話になった人物の前だろうが、私は使えなければ使えないと言う性格だ。
事実、お前は充分に役に立っているし、店の皆とも上手くやっているだろうが」
言い終えると、ソーンリヴは自分の目の前のティーカップを持ち、口に運ぶ。
修一郎は気付かなかったが、紅茶の香気を愉しんでいるように見える上司の頬は、ほんの僅かに赤く染まっていた。
口ではああ言ったものの、事実とは言え、本人を目の前にして褒めることに幾らかの抵抗があったのかも知れない。
「そう!良かったわー。“あの人”の教育の賜物かしらね?
仕事もだけれど、シュウイチロウの交流関係が良好と分かっただけでも嬉しいわ」
心底安心したような明るい笑顔で、ハーベラが大袈裟に胸を撫で下ろす仕草を見せる。
先ほどからの言動を見る限り、実年齢は五十歳に近いはずの、外見は三十代後半の容姿を持つこの女性は、その精神的活力によって若く見えるのではないだろうか、とソーンリヴには思えてならない。
「ヒトに恵まれたのは間違いないですね。コタールさんやハーベラさん、マリボーさんには感謝していますよ。
あ、もちろんソーンリヴさんにも感謝しています」
台詞の前半分はハーベラに向かって、後半分はソーンリヴに向かって発せられたものだ。
「ふふっ。それに、グラナやフォーンロシェにも、でしょ?」
榛色の瞳に悪戯っぽい光を宿らせて、ハーベラが修一郎の言葉に付け足した。
そうでした、と笑いながら修一郎がティーカップに手を伸ばそうとしたその時、部屋の外から賑やかな声が響いてくる。
「シュウイチロウが来てるって!?どこに居るんだ、ジュブラン!」
少年と思しきその声は、確実にこちらに近づいているようだ。
ジュブラン執事が何かを言っているようだが、「分かってるよ」だの「いいから早く」だのと答えていることから、少年はいつものことと聞き流しているのだろう。
然して間を置かずに、談話室の扉がノックされる。
「はい。どうぞ?」
笑いを噛み殺した声で女主人が応えると、すぐに扉が開かれ、老執事が軽く一礼する姿が見えた。
「奥様、ランシュ様がお戻りになられま……っ!」
玄関先で繰り広げられた騒動を丸々再現するように、老執事の体が横に突き飛ばされる。
「シュウイチロウにーちゃん!」
変わりに姿を現したのは、王立学校の白い制服に身を包んだ十二~三歳ほどの、肩口まで伸ばしたくすんだ金髪に薄い茶色の活き活きとした瞳が印象的な少年であった。
背丈はソーンリヴの肩あたりで、その年代の少年の平均身長よりは幾分低いようだ。
「ランシュ、久しぶりですね。また背が伸びましたか?」
座っていた椅子から立ち上がると、少年に向かって歩きながら修一郎が破顔する。
その言葉に、修一郎に飛びつこうとしていた少年の動きが止まった。
「分かってて言ってるだろ……にーちゃん。身長なんて殆ど伸びてないよ!」
自身の身長を気にしているのだろう、ランシュは恨みがましい目つきで長身の相手を見る。
「そんなことはありませんよ。二年……いや、あの時はランシュは学校に行っていて会っていませんから、三年半になりますか?
あの頃に比べると、随分と大きくなっていますよ」
「そりゃそうだよ!あの頃はまだ十歳にもなってないじゃないか!
あれから成長してないなら、もう身長がどうのという問題じゃないよ!」
噛み付くように言い募るランシュであったが、本気で怒っているようではないらしい。
「これ、ランシュ。お客様はシュウイチロウだけではないのよ。
もう少しクレルミロン家の三男として振る舞いなさいな」
自分のことは遠くの棚に放り投げておいて、ハーベラが息子を窘める。
言われて気付いたのか、ランシュは、椅子に座って興味深げにこちらを見つめている深い藍色の髪の女性に慌てて頭を下げた。
それに合わせて少年の金髪がさらりと揺れる。
「あ、し、失礼しました。俺……じゃなかった、僕はランシュ・クレルミロンと言います。王立学校普通科に通う二年生です。
騒がしくしてしまい、申し訳ありません」
「……まったくです。ランシュ様にも、もう少しクレルミロン家の一員であることを自覚していただかないと困ります」
床に突き飛ばされていたジュブラン執事が起き上がり、咳払いを一つして、ハーベラに同調した。
「分かってるって。ジュブランは五月蝿いなあ」
口うるさい執事を一瞥すると、ランシュは修一郎に向き直り矢継ぎ早に質問を投げつける。
「にーちゃん、何時王都に来たの?どれくらい滞在するつもりなの?
何の用事で来たの?もしかして俺達に会いに来てくれたとか?
そう言えば、アーセナクトに家を買ったって聞いたけど本当?」
修一郎の胸のあたりまでしかない身長のため、ランシュは修一郎の顔を文字通り見上げながらの質問であった。
「王都に来たのは先月の中頃ですよ。仕事で来たのですが、それも終わりましたから、明日にはここを発ってアーセナクトに戻る予定です。
今日は偶々時間が取れたので、ハーベラさんにお会いするために寄らせてもらったのですよ。
それから、家を買ったのは本当です。しかし、何時の間にそんな話を?」
久々の再会に興奮する少年に対し、馬鹿丁寧に一つ一つ答える修一郎は、それでもどこか嬉しそうに見える。
親子と言って良いほどに歳の離れた二人であったが、ランシュが生まれて物心ついてからも常に傍に居て面倒を見てくれた修一郎に対し、少年は実の兄よりも修一郎を慕っていると言っていい。
そんな二人を見ながら、ソーンリヴはハーベラにだけ聞こえるようにそっと呟いた。
「シュウイチロウを慕っているようですね」
「そうねぇ。あの子が生まれてからは、ずっとシュウイチロウが傍に居たからかしらね。
一番上のセギュールは騎士見習いとして騎士団の寮に入って居なかったし、二番目の子カーロンと三番目の子パルメルは、当時学校の寄宿舎に入ってたから……。
ランシュにとっては、私たち親の次に身近に居た年上だったのよ」
ハーベラのたおやかな指が、空になったティーカップを持ち上げる。
それに気付いた老執事が、お代わりの紅茶を注ぐ。
午後の陽射しが女性二人を優しく包み、その周囲だけ緩やかな時間が流れているような錯覚に囚われる。
二人して暫く修一郎とランシュの遣り取りを眺めていると、再び玄関から人の声が聞こえてきた。
「ジュブラン、ジュブランは居る?シュウイチロウが来ていると聞いたのだけれど」
「こちらです、お嬢様」
談話室の入口に立っていた老執事が廊下の先に向かって、声をかけた。
「ありがとう。あ、ちょっと邪魔だからどいてくれるかしら?」
「パルメルお嬢様、邪魔とはどうい……っ!」
クレルミロン家の息女に向かって執事としての礼を欠かさぬジュブランが、声の主にお辞儀をしようとしたところを、押しのけて金髪の妙齢な女性が姿を現した。
医術士が愛用している白衣に身を包んだその女性は、談話室の中で会話を交わしている弟と、その相手の長身を男の姿を見て、相好を崩す。
「シュウイチロウ、お久しぶりね!元気にしてた?病気なんかしてないでしょうね?」
どうやらこの家族は執事に対して同じような行動を取るらしい。
似たような光景を短時間のうちに三度も見せられては、そうとしか思えないソーンリヴであった。
同時に、他人事ながら、苦労していろうであるジュブラン執事に僅かばかりの同情を覚える。
背丈はソーンリヴと同じくらいであろうか、ランシュとは違い、緩く波打つ見事な金髪をした色白の美しい女性が談話室へと入ってくる。
「パルメル姉さん。医術院のほうはいいの?」
「あー、あっちは助手に任せて来ちゃった。急患もいないし充分対応できるでしょ」
手をひらひらと振りながらさも問題ないといった口調で、弟に応える女性に、修一郎が口を開いた。
「パルメルまで戻ってきたのですか!?そんな無理する必要はないと思いますが。
まさかセギュールやカーロンまで集まって来るんじゃないでしょうね?」
「んー。セギュール兄さんはどうも抜け出せないみたいでね?多分戻るのは夜になるでしょうね。
カーロン兄さんも、今警護団で何か調査してるみたいで、今日は帰って来ないんじゃないかなあ。
まあ、その分私がこうやって来たんだから、それでいいじゃない?」
ハーベラの子供二人が戻ってきたことで、ジュブラン執事を入れて四人であった談話室の人口が一.五倍に増えた。
談話室のテーブルに備え付けられている椅子は四脚しかないので、座って落ち着いて話せるような状況でもなくなってきている。
母親に窘められる前に、パルメルはソーンリヴに向かって手本となるようなお辞儀を見せ、ようこそ我が家へいらっしゃいました、と告げた。
ソーンリヴが立ち上がって返礼をしようとした時、女主人であるハーベラの声が談話室に流れる。
「そうね、あなたたちもシュウイチロウに積もる話もあるでしょうから、いっそのことパルメルの部屋でお話してきたらどうかしら?
私とソーンリヴさんは、もう暫く、この談話室で女性同士の会話を楽しむことにするから」
それを聞いたランシュ少年は、良い案だとばかりに、既に修一郎の手を引いて部屋から出て行こうとしている。
「いや、しかし……」
なんとか抗議しようとした修一郎であったが、ハーベラの一言でそれを諦めるしかなかった。
「あら?子供たちが貴方と話したいと言っているのよ?
それともシュウイチロウ。貴方はそんな子供たちの願いを聞き入れることが出来ないと言うのかしら?」
ハーベラの表情は相変わらずにこにこと笑顔が浮かんでいたが、身に纏う雰囲気は有無を言わせぬものがあるように修一郎には思われた。
「はぁ……。分かりましたよ。
ソーンリヴさん、そういうわけで少し席を外します。すぐに戻ってきますので……」
修一郎は諦めたようにため息を一つ吐くと、申し訳なさそうな表情で、ソーンリヴに断りを入れた。
「シュウイチロウは気にしなくていいの!女同士の会話を男性が聞くものではないわよ?」
ソーンリヴが口を開く前に、ハーベラがぴしゃりと言い切る。
「そ、それではちょっと行ってきます」
いつもの情けなさそうな表情のまま、ランシュとパルメルに引き摺られるように、修一郎が談話室から姿を消すと、先ほどまでの騒ぎが嘘であったかのように、室内に静寂が訪れた。
ジュブラン執事も、パルメルの部屋にお茶の準備をするべく、談話室から退室していった。
静かに閉じられた扉を見ていたソーンリヴは、ハーベラに視線を移し、表情を消したまま口調だけを真剣なものに変える。
「人払いをされたということは、何か私に用件があると思って良いのでしょうか」
怜悧な人間族の女性は、ハーベラの意図することに気付いたようだ。
それを見たハーベラはにこにことした笑顔を変えることなく、言葉を発する。
「あら。気づいたのね。
ふふ……。さすがはシュウイチロウが信頼している女性というところかしら」
アーオノシュ支店での一連の騒ぎに、クレルミロン運送が絡んでいるのかとも思ったソーンリヴであったが、業種が違ううえに、マリボー商店の商業活動が停滞すれば、運送業としては損はあっても益はないと思われる。
実際に、マリボー商店が所有する荷馬車で積荷の搬送が対応できない時などは、クレルミロン運送を利用してもいるのだ。
マリボー商店にちょっかいを出しているのはクレルミロン運送ではない、とソーンリヴは結論付けた。
では、この豪商の夫人が自分に何の用件があると言うのか。
表情には出さずに、ソーンリヴは心の中で身構えた。
「そんなに警戒しなくても大丈夫よー。シュウイチロウを理解してくれている人に、ちょっとした昔話をね、聞かせてあげようかなーって。
ほら、本人が居たら話せないことってあるじゃない?」
先ほどより更に砕けた口調になって、ハーベラが笑う。
しかし次の瞬間、その笑顔は見る間に消えて、どこか悲しげな、それでいて昔を懐かしむような表情に変わっていた。
「何となく……。何となくだけどね?貴女には知っていて貰いたいと思ったの」
そして、ハーベラの長い昔話が始まった。