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街の事務員の日常  作者: 滝田TE
街の事務員の日常
17/39

第十七話 笑えればそれでいい


「遅くなってすまなかったな。だが、俺が来たからには安心しろ」


 冬の四の月二十五日の平和祈念式典が終わって四日後、アーオノシュに到着したマリボーが、ソーンリヴと修一郎を前に発した第一声である。

 二十五日に、修一郎から支店に関する噂について報告を受けたマリボーは、翌二十六日の朝一番で商館へと向かった。

 以前、懸案事項として組合の幹部に提案していた話の回答を得るためであり、昼を過ぎて商館から戻ってきたマリボーは満足げな笑みを浮かべていた。

 その後、息子のブルソーに自分が不在の際の指示を細かく出すと、マリボーは慌しく再び店を出て行った。

 向かった先はレベックの工房で、商館で得られた回答の内容をノーム族の老職人に説明して了解を得ると、次はバランダの工房へと足を向けた。

 そこでも同様に説明し、バランダと何度か口論になりながらも何とか了解を取り付けたマリボーは、意気揚々と店へ戻ってきたのだった。

 その日の事務処理をジスとブルソーの三人で終わらせ、月末である三十日の決算締めの手続きに関していくつかの注意点を二人に与えた後、マリボーは自宅へと戻り、旅支度に取り掛かった。

 夜が明けて、路線馬車に乗り込んだのが二十七日。

 道中は内心の焦りを隠しつつ、乗り合った客同士で他愛ない会話を交わしながら一日を馬車の中で過ごし、セボの宿場に着いてからも、自らの店に関する噂がどの程度広まっているのか確認するのに併せて、有益な情報がないかと多くはない店を全て回って話を聞いた。

 そこでマリボーが得たのは、今のところ例の噂はアーオノシュに留まっているようで、どうやら他の都市には広まっていないらしい、といった程度のものであった。

 明けて二十八日。

 夕刻に到着した馬車を降りると、マリボーは支店へと直行することなく、アーオノシュの商館へと足を向けた。

 アーオノシュにある商人組合は、表向きは独立した組織であったが、実質はアーセナクト商人組合の支所的扱いである。

 正確に言うと、アーセナクト商人組合がアルタスリーア王国内の商人組合を束ねる位置づけであり、他の都市の商人組合は全てその支所と呼んで差し支えない。

 アーセナクトの組合長は、領地こそ所有していないものの、爵位を持つ貴族でもあり、その気になれば国の運営にも口を出せる立場であるのだ。

 つまりは、アーセナクト商人組合で決定された事項は、アルタスリーア国内全ての商人組合に所属する商人間の取引等に適用されるものであり、一般の商人たちにとっては、国の法律に次いで遵守されなければならないものであった。

 アーオノシュの商館にて、マリボーは組合長に面会を求め、子鐘半分ほどの時間を待たされた後、老齢の人間族が務めている組合長の執務室に通された。

 そこで、アーセナクト商館が発行した羊皮紙製の三枚の書類を見せ、補足事項を口頭で説明しながら、承諾を迫った。

 無論、アーセナクトの決定に否やの返事をすることなどできず、老組合長は書類の内容に若干の疑問を持ちながらもそれを受け入れる旨の回答をした。

 その後、例の噂に関して事実無根である証拠となる、国に提出済みの前年次分の総資産計算書の写しと、今年の総資産計算書の概算を組合長に手渡した。

 総資産計算書とは、修一郎の世界で言うところの、損益計算書と貸借対照表を合わせたようなものであり、毎年決算時に作成される書類である。

 店舗を構える商人は、前年の春の一の月から翌年の冬の四の月までの一年分の収支額を取りまとめ、春の一の月十五日までに国に提出しなければならず、国は提出された総資産計算書を元に、当該年次の売上税を商人から徴収する仕組みになっている。

 総資産計算書に虚偽の記載があった場合は、容易に店が傾くほどの莫大な追徴金が課せられるため、マリボーのようにいささか強引ながらも、一応まっとうな商売を行っている者ならば、計算書に書かれた数字はまず間違いなく事実であろうが、それを他人……しかも同業者に見せるということは、自らの懐具合を曝け出すに等しい。

 まともな状況であれば、そのような行いは愚挙としか言えないのだが、現状がそもそもまともでないのだ。

 マリボーが採った、初手にして最後の手段であり、最大の効果を発揮する手段でもあった。

 これを見せられれば、マリボー商店の資金繰りがどうなっているか一目瞭然であるため、噂を信じて取引を渋るような者は居なくなるだろう。

 ただ、手の内を公開するということは、取引上で足元を見られる可能性も増えるということであったが、それだけのリスクを犯してでも、マリボーはアーオノシュでの商売を成功させねばならないと考えていた。

 どこの誰が流した噂かは未だ判明していないが、事態を収拾した暁には、その者には相応の報いをくれてやると、心に誓っているマリボーであった。

 そんなマリボーから渡された計算書に目を通したアーオノシュの組合長は、その数字に愕然とした。

 前年次の総資産額ですら、アーオノシュの大店に匹敵する金額であるのに、今年の推定総資産額はそれを更に上回っている。

 しかも、今年の推定額はアーセナクトの本店のみであり、最近になってアーオノシュに開いた支店の資産額は含まれていないのだ。

 当然ながら、店舗の購入や新規雇用に係る人件費、設備費等の初期投資費用を考慮すれば、支店の損益額は本店には遠く及ばないであろうが、マリボーが言うには、それでも収支差額がほぼ同額になるか、収入が僅かながらも上回るだろうとのことである。

 渡された書類は総額のみを記したもので、支出と収入の内訳がどうなっているのかは分からないが、少なくともマリボー商店の経営状態は、この計算書を信じるならば至って良好と言えるだろう。

 ここまで力をつけてきている店であれば、同業者の一人や二人はマリボーに対し危機感なり嫉妬なりを抱いてもおかしくないと、老組合長は心の中で呟いた。

 マリボーとしては、巷に流れている噂も何とかしなければならないのは勿論のこと、まずは、商人を束ねる組合に対して流言を否定しておく必要があった。

 同業でない者……要は顧客となり得る一般市民に対しては、新規商品の取り扱いを増やしたり、特価品の販売や販売商品に無料提供品を付ける等、いくらでも手の打ちようはあるのだ。

 それを数ヶ月も続ければ、マリボー商店が経営不振に陥っているという噂など、一般市民の頭からはすっかり消えてなくなっているだろう。

 ともあれ、アーオノシュの商人組合にて必要な要件を全て片付けると、マリボーはソーンリヴと修一郎が起居している宿舎代わりの家へと、自信に満ちた足取りで向かったのだった。




「……と、まあそういうわけでな。組合に対しては手を打っておいた。

 支店の者たちには、明日の朝俺から直接説明する。彼らには、これから一層頑張って働いてもらわんといかん。

 決算締めが終わったら、お前たちも含めて支店の従業員には、特別手当を渡すつもりだ。

 くだらん噂なんぞで、折角雇い入れた重要な戦力を失うわけにはいかんからな」


 王都に着いてからの行動を一通り二人に説明し終えたマリボーは、出されていた茶で喉を湿らすと続ける。


「それから支店の事務員についてだが、こちらも俺が明日、本人たちと警護団、治療を行った医術士のところへ顔を出して、直接話を聞いてくる。

 お前たちが出会ったという、二人組の男のことも調べる必要もあるだろう。

 その間はスィルトンに店を任せるが、お前たちは決算締めの手続きを進めておいてくれ。何せあと二日で本締めだからな。

 総資産計算書の作成については、ソーンリヴが経験しているから、ヤスキは教えてもらうといいだろう」


「分かりました。お話を聞く限りでは、元の世界での財務諸表と酷似しているようですから、理解するのにはそれほど時間はかからないと思います。

 ただ、出来ればやはり支店の事務に精通した方が一人でも居ていただいたほうが、作業は捗ると思いますが……」


 居間に置かれたテーブルを挟んで、マリボーの向かいのソファーに腰掛けていた修一郎が頷いた。


「ああ。急病で倒れた者の病状がどんなものかは分からんが、馬車に轢かれて臥せっている者はそろそろ回復するだろうとブルソーから聞いている。

 本締めには間に合わんかも知れんが、計算書作成までには何とか復帰できないか頼んでみるつもりだ」


「お願いします」


 修一郎の隣に腰を下ろしているソーンリヴは、短くその一言だけを口にした後、修一郎に小声で尋ねる。


「ところで“ザイムショヒョー”とは何だ」


「社長が仰った、“総資産計算書”と同じようなものですよ。その店の一年間の資産や収支の増減が分かるように取りまとめた書類の総称みたいなものです。

 こちらの世界でもわざわざ難しい言葉を使っているようですが、要は決算書ですね」


「……なら、最初からそう言え」


「すみません」


 小声で遣り取りしている二人を見ながら、マリボーが人の悪い笑みを口許に浮かべた。


「うん?二人して一つ屋根の下で暮らして、何か進展でもあったのか?

 やけに仲が良さそうじゃないか」


「……何もありません」

「とんでもない!何もありませんよ!」


 ソーンリヴは腕を組んだまま片方の眉を僅かに上げて、修一郎は慌てたように前に突き出した両手を左右に振って、異口同音に否定した。

 それを見ていたマリボーは膝を叩きながら、呵呵と笑う。


「まあ何にせよ、二人の息が合っていることは大いに結構。これからの約十日間が仕事の山場だからな。

 上手いこと仕事を回してくれよ。

 決算事務が早めに終われば、一日くらいは休みをやれるだろうから、頑張ってくれ」


 聞くべきことを聞き、話すことを話したマリボーは、これで安心して眠れると言い残し、使われていない客室はどこか確認すると、さっさとその部屋へと入っていった。

 この時間から宿を探すのは面倒であったし、どうせ店が用意した宿舎である。未使用の部屋があるなら使わねば損だとばかりに。

 店の窮地にあっても、少なくとも表面上は普段と変わらない店主の後姿を見送って、修一郎が嘆息する。


「これで、とりあえずは私たちは仕事に専念できますね」


「ああ」


「社長の言うとおり、こちらの事務の方が復帰してくれれば、更に仕事は楽になるでしょうし。

 上手く行って欲しいものです」


「ああ」


「決算事務を早く終わらせることが出来れば、一日休みをいただけるようですし、嬉しい方向に張り合いが出てきましたね。

 ソーンリヴさんは王都は初めてなのですから、王都観光するのも良いのではないですか?

 もし宜しければ、私が案内しますよ?」


「ああ」


 マリボーの言葉に、修一郎も多少は気力を回復できたらしく、隣に座るソーンリヴに饒舌気味に話しかけるのだが、当の本人はまるで上の空で、同じ返事を繰り返すだけであった。


「……どうしました?ソーンリヴさん」


 その態度を怪訝に思ったのか、修一郎が上司の顔を覗き込むが、俯き加減の顔は深い藍色の髪に隠れて、表情が窺えない。


「シュウイチロウ、一つ確認したいことがある」


 名前を呼ばれた人間族の女性が、漸く今までと違う言葉を口にした。

 姿勢は先ほどから変わらず、腕を胸の前で組み、両目は瞑ったままである。


「はい。なんでしょうか」


「お前がさっき言った『とんでもない』とはどういう意味だ」






 春の一の月八日。

 マリボーは、アーオノシュ市庁舎の税金関係窓口に、マリボー商店アーオノシュ支店の総資産計算書と証拠書類、決算締めを済ませた帳簿一式を提出した。

 マリボーの言ったとおり、決算締めには間に合わなかったものの、総資産計算書作成時には支店の事務員一人が職場復帰し、三人がかりで毎晩遅くまで机に向かうこととなった。

 一通りの書類が出来上がったのが六日。店主であるマリボーが最終確認を一日かけて行い、翌八日に正式書類として提出と成った次第である。

 肩の荷が下りたと安堵するソーンリヴと修一郎に、更に喜ばしい報せが二つもたらされた。

 急病で療養していたもう一人の支店事務員も、十日には復帰できるというものが一つ。

 本店の決算事務もなんとか終わり、後はマリボーの決済を待つのみとなったということがもう一つ。

 ジスとブルソーに任せていたとは言え、それまでの日々の作業はソーンリヴと修一郎が行っていたのである。

 日締め、週締め、月締めは問題なく行っていたという自負はあったが、それでも何かしらの見落としがあるなど、不備が出ないかと二人が心配していたのも事実であった。

 市庁舎から戻ってきたマリボーは、本店からの助っ人二人に、支店の事務員が揃う十日に引継ぎを行い、翌日の十一日は丸一日の休日を与える旨の指示を出すと、アーオノシュの商館へと出かけていった。

 店では、中止となっていたライターとメガネの取り扱いが再開され、それに合わせるように特別割引販売や新商品の販売が始まった。

 また、例の噂に関しては、支店の全従業員に対し、店主本人の口から完全に否定されたうえに、支店の開店以降順調に売り上げを伸ばし、店の利益に貢献したという名目で、特別手当の支給が発表された。

 明らかに従業員の士気の低下を防ぐための方便であったが、事務室に乗り込んで来たアムスやトーラをはじめ、噂を気にしていた者には効果はあったようで、店には目に見えて活気が戻ってきていた。

 マリボーが内に外にと精力的に動いているおかげもあってか、あの噂以降は目立った問題は起きていない。

 このまま行けば、十二日には王都を離れてアーセナクトに戻ることが出来るだろうと、ソーンリヴと修一郎は話しながら仕事を続けていた。


 春の一の月十日。

 予定通りもう一人の支店事務員も職場に復帰し、日中は四人で通常業務をこなしつつ、必要な事項に関してはその都度ソーンリヴたちから支店事務員へ引継ぎが行われた。

 元々自分たちの仕事であったことに加え、開店当初からの作業を経験していた支店事務員たちは、細かい指示を出さずとも即座に理解し、事務室は和やかな雰囲気に包まれてその日の業務を終了した。

 翌十一日は特別休暇を貰って店に顔を出すことがないソーンリヴと修一郎に、支店の事務員二人は、自分たちが不在の間の仕事を代行してくれたことに改めて礼を述べると、それぞれの家路についた。

 ソーンリヴと修一郎は久方ぶりの定時終業を喜びつつ、“酒”と食事を楽しむためにバラカの宿へ足を向けた。




 春の一の月十一日。

 ソーンリヴの要請もあって、修一郎はアーオノシュの主要施設や大通りを案内していた。

 白亜の王城アーステルアや、白壁で統一された街並みの中でも特に景観の素晴らしさで知られる貴族の邸宅が並ぶ高級住宅街、アーセナクトの倍はあろうかと思われる中央広場と、そこに設置されたアーオノシュが誇る大噴水など。

 幸い天気にも恵まれ、空から降り注ぐ陽光は春の暖かさを感じさせ、街中を吹く風は優しい。

 祈念式典の時のような騒がしさはないものの、通りや広場は人々の活気とざわめきに溢れ、時たま大陸公用語以外の言語も聞こえてくる。

 支店の事務員の件もあってか、修一郎は案内する間、常にソーンリヴが通りの外側を歩くことになるように配慮しつつ、彼女の横に並んで柔和な笑みを浮かべていた。


「そろそろ大鐘三つ(正午)になりそうだな。シュウイチロウ、昼食にどこかお奨めはあるのか?」


 アーオノシュの台所とも言うべき生鮮市場を見物して、中央広場まで戻ってきた二人は、大噴水を囲むように据えつけられたベンチの一つに腰掛け、清澄な水を高く噴き上げる巨大な噴水を眺めている。


「お奨めと言えるほど通ったわけではないですが、知っている店は数軒ありますよ。

 ソーンリヴさんの希望は何かありますか?」


 バラカの宿は昼もやっているが、昨晩の夕食時に存分に堪能したばかりである。

 数年前に王都に滞在した際に見つけた食堂を思い出しながら、ソーンリヴのリクエストを訊くことにした修一郎だった。


「そうだな……。これといって特に希望はないが、美味いサラダを出す店だと嬉しい」


 ソーンリヴはベンチに腰掛けたまま、空を見上げて答える。

 ここ最近は、露店で買った物が主な昼食であったので、久しぶりに生野菜の歯応えを楽しみたい。

 ソーンリヴも一応は女性である。

 恥ずかしくて修一郎には明かせないが、偏った食生活が続いたおかげで、通じもあまり宜しくない状況だ。


「分かりました。じゃあ、行きましょうか」


 ソーンリヴの密かな悩みに気付かない修一郎は、いつもの笑顔で立ち上がった。


「食事の値段は安いとは言えませんが、お洒落な感じの店で、サラダも含めて料理の味は結構いけますよ」


「落ち着いて食事が楽しめるなら、洒落ていようがいまいが構わんさ」


 修一郎に続いて立ち上がりながら、ソーンリヴもいつものように唇の片端を持ち上げるように笑う。

 二人並んで中央広場を歩き出して暫くも経たないうちに、王城の大鐘が鳴り始めた。




 修一郎が案内した食堂は、確かに洒落た造りになっていた。

 大通りに面した店先は、板張りのデッキが前面に広がっており、そこには数脚のテーブルセットが置かれ、修一郎の世界で言うところのオープンカフェの様相を呈している。

 店の雰囲気に惹かれてか、円テーブルで食事やお茶を楽しんでいる者の多くが女性客であった。

 前面のデッキ部は満席であったため、店の建物内に入る。

 店内のテーブルに着いた二人は、それぞれ注文を済まして店内を見回した。

 室内は、建物の外壁と同じく白で統一され、床を除いて壁も天井も白一色である。

 天井からは術石式のランプが吊り下げられ、壁面には所々に小さな額縁に入れられた絵画が飾られている。

 室内の角テーブルは、二人掛けが前提で作られているようで、薄緑色の正方形の天板を一本の脚が支えるタイプであった。

 テーブルの隅には、ガラス製の一輪挿しが置いてあり、この国では良く見かける白い花を咲かせた植物が活けてある。

 店内の装飾や、本格的な食事には向かない然して大きくないテーブルなどから、ここが食事よりもお茶を楽しませることを主目的とした店作りを行っていることが容易に推察できた。

 それでも、出された料理の味はソーンリヴの口に合ったようで、キャベツとルッコラに良く似た香味野菜のサラダに満足しているようである。


「それで、シュウイチロウ。昼からはどうする?

 私の案内ばかりではつまらんだろう。お前が行きたい所があるなら、今度は私が付き合うが?

 それとも、本店の皆用に土産物でも買いに行くか?」


 皿に盛られたサラダを綺麗に平らげた後、残っていた黒パンに手をつけながらソーンリヴが問う。

 支店事務員の件があるので、マリボーからは休日でも二人一緒に行動するようにと言われていた。

 明日の朝、少しだけ支店に顔を出した後は、二人とも路線馬車でアーセナクトに戻る予定である。

 本店の者や、修一郎の留守を預かっているグラナたちには何か買って帰るべきだろうと、二人して話し合って決めていた。


「そうですね……」


 食後に頼んだ紅茶のカップを受け皿に戻しながら、修一郎は考え込む仕草を見せる。

 普段見せないような真剣な、それでいてどこか鎮痛な面持ちで黙り込んだ部下を見て、ソーンリヴは何か声をかけようかと迷ったが、そのまま修一郎が口を開くのを待つことにした。


「実は、一箇所だけ寄りたい場所があるんです。

 ソーンリヴさんには待っていただくことになると思いますが、それでも良ければ少しだけ付き合っていただけますか?」


 決して短くない時間、何かを逡巡していた様子の修一郎は、意を決したように顔を上げて、ソーンリヴの瞳を見つめた。

 今まで見せたことのない表情で自分を見つめてくる異世界人の男に、ソーンリヴは、


「分かった」


 とだけ告げた。






 安来修一郎がこの世界に突然現れた時、彼の目の前には十数人の人間と、数匹の直立歩行する衣服を着込んだ獣、十輌を超える荷馬車が隊列を組んで石畳の道を進んでいた。

 荷馬車の列の先頭には、欧米人のような彫りの深い顔立ちの壮年の男性が立っていて、突如として出現した修一郎を見た彼は、隊列に向かって何やら叫んでいた記憶がある。

 一方、修一郎は営業から連絡を受け、数キロメートル離れた小学校に文房具を届けるために社用車に乗り込もうとして、急激な平衡感覚の喪失と激しい眩暈に襲われ、それが漸く治まったかと思ったら、周囲の風景が一変しており、呆然としていた。

 数台の社用車と従業員の自家用車が並ぶ会社の駐車場ではなく、ヨーロッパ旅行の番組に出てきそうな緑広がる一面の草原に変わっていたのである。

 未だ僅かに残る眩暈のために、路傍に座り込んだまま、周囲の風景と目の前の一団を見比べていた修一郎に、欧米人風の男が腰にさした短剣を抜き放ちながら、ゆっくりと近寄ってくる。


「―――! ――――――!?」


 どこの言語なのかは分からないが、状況と語調からして誰何か警告なのだろうな、と回らない頭で考える。

 イントネーションや言葉の持つ雰囲気からしてイタリア辺りなのだろうか、とも思うが、第二外国語履修でイタリア語を選択していなかったため、修一郎には何を言っているのかさっぱりであった。

 よく見れば、男の服装も田舎風というか、中世ヨーロッパを舞台にした映画に出てくる町民のような出で立ちである。

 もしかしたら、フランスの片田舎とかベルギー辺りなのかも知れない。

 先ほどまで日本に居た自分が、何故、今そんな場所に居るのかは分からないが。


『ええと……』


 白いワイシャツにネクタイ、紺色のスラックスに会社の制服である作業着を引っ掛けた、日本の地方都市の中小企業で良く見かけるような出で立ちの修一郎は、座り込んだままどう答えたら良いものか迷う。

 とりあえずつたない英語で話しかけてみようとしたところに、先頭にある幌付きの荷馬車の中から女性の声が聞こえてきた。


「―――。 ――――――、―――……?」


 ゆっくりとした動作で荷馬車から降りてきた女性は、やはりどこか欧米人のような顔立ちをしており、その腹は大きく膨らんでいた。どうやら妊婦のようである。

 修一郎を警戒しながらも、その妊婦と言葉を交わしていた男は、いきなり修一郎に右手を突き出して、何やら呟き始める。


「―――!」


 男は、一音節の言葉を口にした後、再び修一郎に向けて語りかけた。


「―――。 ――――――?」


 しかし、相変わらず何を言っているのか分からず、戸惑っている修一郎を見て、男は驚愕の表情を浮かべる。

 向こうも戸惑っているのが分かった修一郎は、とりあえず敵意がないことを理解してもらうために、社会に出て身についた営業スマイルを浮かべ、一言一言区切るように話す。


『あー……。私は、Japanese、日本人です。シュウイチロウ・ヤスキと言います。

 Where is this?ここはどこでしょうか?』


「―――?」


 途中、何か反応があるも知れないと考えて極簡単な英語も混ぜてみたが、相手は理解した様子もない。

 いよいよ困ったことになった、と収まりの悪い頭を掻いた修一郎であったが、それを見ていた妊婦が、笑顔を浮かべて隣の男に話しかけた。

 にこにこと笑顔で話す女性に対して、男のほうは困ったような表情を浮かべていて、どうやら何かを提案した女性の翻意を促そうと説得を試みているようだ。

 結局、男が折れたようで、妊婦は笑顔を浮かべたまま修一郎に再び話しかけてきた。


「シュウイチロウ? ――――――、―――。 ――――――?」


 そう言って、手招きする。

 その仕草は日本式の手招きと同じで、手の甲を上にして上下に振るといったもので、ヨーロッパ地域の仕草はどうだっただろうと考えながらも、修一郎は素直に従うことにした。

 その横で、相変わらず修一郎を警戒している男が握っている短剣が、こちらに向かって振るわれないことを内心で祈りながら。

 女性に勧められるまま、修一郎は荷馬車に乗り込んだ。

 この一団がどこに向かおうとしているのかは分からないが、少なくとも、周囲に人が住んでいるような形跡がない草原に走る道の真っ只中に放置されるよりはマシだと思えた。

 荷馬車には男の子が二人と女の子が一人、床板に毛布を敷いてその上に座っていた。

 修一郎に続いて女性が乗り込み、三人の傍らに腰を落とすと、男の子二人は毅然として、女の子は女性の陰に隠れるようにしながら、ちらちらと修一郎を窺っている。

 どうやらこの子たちは、この女性の子供なのだろう。となると、隊列を率いていた男は、この女性の夫なのだろうか。

 そんなことを考えつつ、修一郎が親子らしき四人を見ていると、女性は自分を指さして、


「ハーベラ」


 と、穏やかな笑顔とはっきりとした発音で言った。

 次に、三人の子供のうち、背の高い十五歳前後と思しき少年を指さして「セギュール」と続ける。

 ここまで来れば、さすがに修一郎も名前を言っているのだと分かった。


「カーロン」


 もう一人の十歳くらいの少年を指さしてそう告げると、自分の後ろに居たカーロン少年と同じくらいの歳に見える少女の頭に手を置いて、


「パルメル」


 と呼びかけた。

 その後、ハーベラと名乗った女性は、荷馬車の外から心配そうに中を窺っている短剣の男を指さし、


「コタール。―――、―――。」


 と、締め括る。

 “コタール”の後に続けて言った言葉は、恐らく「私の夫よ」といった意味なのだろう。


『シュウイチロウ。シュウイチロウ・ヤスキです』


 この辺りの氏名の呼称が西洋式なのか東洋式なのかは分からなかったが、外見から判断して西洋式に名・姓の順に名乗ることにした修一郎だった。

 自分の名前を言いながら、母子四人と外の男に向かって軽くお辞儀をする。

 ここに至って、漸く男の警戒心も和らいだのか、握っていた短剣を鞘に収めると軽く嘆息して、後ろに控えていた隊列に向かい何やら声を張り上げた。

 それが出発の合図であったようで、荷馬車が動き出す。荷馬車の中で所在無げに立ち尽くしていた修一郎は、その揺れに危うく転倒しかけた。

 それを見たハーベラと名乗った女性が、セギュールに何やら指示すると、少年は荷台の隅に積まれていた毛布を引っ張り出して修一郎に手渡した。

 身振り手振りを交えて、それを荷台に敷いてその上に座れと言っているようだ。


『ありがとう』


 先ほどまでの営業スマイルではなく、心からの笑顔でそう応えると、修一郎はセギュールの示すとおりに、毛布の上に腰を下ろした。

 ここがどこなのか未だに分からないし、彼らが何者なのかも分からない。そしてこれからどこに向かうかも、自分がどうなるのかも分からない。

 全てが分からないことだらけであったが、少なくとも目の前の女性は、今のところは友好的であったので、修一郎は彼女をとりあえず信用することにした。

 自分でも無用心だと思わなくもないが、さしあたって修一郎の選ぶことの出来る選択肢は、それくらいしかなかったのだ。

 ハーベラは、相変わらずにこにこと笑顔を絶やさないまま、修一郎を見つめていた。


 それが、九年前。

 ハーベラ・アペンツェルと、その夫コタール・アペンツェル、そして夫妻の子供たちとの出会いであった。




「……まあ、そんな感じで、アペンツェル夫妻に拾われましてね。

 その後は、あの人たちからこの世界の言葉や一般常識といったものを教わりながら、一緒に行動していたというわけです。

 彼らが隊商であったのは幸運だったのでしょうね。これが奴隷商や野盗であったら、私はどこかに奴隷として売られていたか、命を落としていたかも知れません」


 クレルミロン邸へ向かう道すがら、世間話でもするような気軽な口調で、修一郎はこの世界にやって来た当時のことを、ソーンリヴに話していた。


「なるほどな……」


 隣を歩くソーンリヴは、表情を消したまま、それだけを口にした。


「いやあ、この世界の言葉を覚えるのには苦労しましたよ。なにせ大学……こちらの世界で言うと“上級学校”になるのでしょうか。

 そこを卒業してから、語学の勉強なんてご無沙汰していましたからね。

 ただ、覚えなければ本当の意味で死活問題でしたから、必死で勉強しました」


 いつもの笑顔を浮かべて、呑気な口調で喋る修一郎であったが、ソーンリヴは部下の変化に気付いていた。


「おかげで、三年も経った頃は行商人としてもなんとかやっていける程度には、色々と覚えることが」

「シュウイチロウ」


 口数の多くなった部下の言葉を遮るように、ソーンリヴが異世界からやって来た男の名前を呼ぶ。


「はい。なんでしょう?」


「本当に私が付いて行って良いのか?

 マリボーさんは常に二人で行動しろと言っていたが、何だったら私は他の場所で待っていてもいいのだぞ?」


 ソーンリヴは珍しく迷っていた。

 普段であれば、自分に関係のないことなら、本人の問題だと一言で斬って捨てるような性格の彼女である。

 だが今、目の前で“笑顔を作って”、自らの過去を話している男は、どこか危うい感じがするのだ。

 一年にも満たない、しかも主に職場の同僚としての付き合いでしかなかったが、このような修一郎を目にしたのは初めてだった。

 そんな彼の私的な用件に、自分がこれ以上踏み込んでも良いのだろうか。

 逡巡するソーンリヴを暫く見つめていた修一郎は、肩の力を抜くように大きくため息を吐いた。


「ふぅ……。そうですね、矢張り無理はするものじゃないですね」


「では、私はさっきの店で茶でも……」


「いえ、大丈夫です。無理というのは、そういう意味ではありませんよ。

 自分らしく行こうと思っただけです」


 同行を辞退しようとしたソーンリヴを引き留めた修一郎の顔には、本来のいつもの“笑顔が浮かんで”いた。


「今なら、笑ってあの人たちに会うことが出来ると思います。

 だから、大丈夫ですよ」


 そう言って、修一郎は歩みを進める。

 一度は立ち止まっていたソーンリヴであったが、クレルミロン邸へと向かう彼の背中を見て小さく嘆息すると、再び歩き出した。


「笑うことが出来るならそれでいい、か……」


 修一郎らしい答えに、彼の後を追うソーンリヴの口許にも、いつしか笑みが浮かんでいた。




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