第十五話 願いよ叶え
「……なんだ、それは」
翌朝、宿の食堂で朝食を摂り、一度部屋へと戻って出立の支度をして降りてきたソーンリヴの発した言葉がこれであった。
「何と言われても……。整髪剤ですよ」
朝食時の修一郎の頭は、寝起きということもあって、普段より更に、髪の毛が好き勝手な方向へと起き上がっていたり寝ていたりという有様だった。
あまりにも酷いので、ソーンリヴは柳眉を僅かに上げて、少しは髪を整えたらどうなんだ、と零した。
曲がり形にも、二人はマリボー商店の本店に勤める事務員である。
店頭に立って接客することはないとは言え、支店の従業員に軽く見られるようであっては、ソーンリヴと修一郎だけではなく本店従業員全員の質を疑われかねないのだ。
朝っぱらから小言を言うソーンリヴに、いつもの表情で「はあ……」と応えた修一郎は部屋に戻ると、荷物の中から、手の平に納まる程度の小さな壷を取り出した。
その陶器製の壷には蓋の代わりに皮と紐で封がしてあり、それを解くと、中には薄い黄緑色をしたゼリー状の物体が詰められていて、微かに甘い香りがする。
アーセナクトに住んでいる、知り合いの調薬士に調合してもらったポマードだ。
元の世界では、ポマードは使ったことがなく、精々がスプレー式の整髪剤を使っていた修一郎だったが、この世界にはそんな物はない。
普段の生活でも、寝癖が酷い時は湯で濡らしたタオルで、髪を蒸らして整える程度だったのだが、何かの拍子に必要になるかも知れないと、試しに作ってもらっていたのだった。
修一郎はそれを少量手で掬うと、髪の毛に塗り始めた。
麝香系の匂いはあまり好きではなかったので、何か他の香りを、と頼んでいたのだが、どうやら柑橘系の植物から採った香料らしい。
頭から柑橘系の匂いを振りまいている中年男というのもどうなんだろうか、と思いつつも、あまり付けすぎないように注意しながら、髪の毛全体に拡がるように塗り付ける。
余談ではあるが、アーセナクト資産保管局の局長補佐リバーロ氏も、この整髪剤を使っている一人である。
リバーロと顔見知りになって暫くしたある日、調薬士からポマードの完成の知らせが届いてそこに向かうと、ちょうど持病の腰痛用の塗り薬を受け取りに来ていた老紳士に出くわしたのだ。
修一郎が依頼したモノに興味を持った様子のリバーロに、黒髪の異世界人は、リバーロさんも試してみますか?と、気前良くその整髪剤を取り分けて差し出したのだった。
リバーロ氏はそれをいたく気に入ったようで、それ以来、修一郎とは別に調薬士からポマードを購入しているらしい。
この世界では、まだまだ鏡は貴重品らしく、宿の部屋には置いてなかったが、窓のガラスに僅かに映る自分の姿を見ながら、修一郎は髪を撫で付けていった。
暫くして、とりあえず納得したのか、「こんなものでしょう」と呟くと、長身の男は荷物を持って部屋を出たのだった。
「おかしいですかね?一応、軽く寝かせる程度にしたつもりなんですが」
そう言いながら、頭に手を伸ばした修一郎は、寝癖が酷かった右側頭部を撫でる。
櫛など持っていなかったため、手櫛で整えた髪形は、元の世界で言うところのオールバックに近い。
「おかしくはないが……。まあいい。
準備が出来たのなら、店へ向かうぞ」
何かを言いかけて止めた上司は、宿の老夫婦に礼を述べると、修一郎を置いて表に出て行った。
「お世話になりました、バラカさん、ポーネさん。
暫くは王都に滞在する予定ですから、酒が恋しくなったらまた食事に寄らせてもらいます」
既にマリボー商店の事務員の制服に着替えていた修一郎は、黒髪の頭を下げる。
「いつでもおいでなさい、シュウイチロウ。美味しい料理を用意して待ってるわ」
おっとりとした口調で、バラカの妻ポーネが微笑む。
「手配されておる宿が気に入らんようだったら、ウチに来るとええ。
一月くらいなら、部屋の一つや二つ用意してやるわい」
「ありがとうございます」
もう一度、深く頭を下げると、修一郎は思い出したようにバラカに尋ねた。
「そういえば、リバロさんはもう出て行かれたのですか?」
朝食の時に姿を見せなかった人間族の男のことが、些かなりとも気になっていたのだ。
「ああ。大鐘二つ鳴る前に出て行きおった。
宿代に朝食分も含まれておるから、食べてからにすればええと言うたんだがの。
カミさんが気になるからと笑っておったぞ」
「そうですか。早く機嫌を直してもらえると良いですね」
内心とは別のことを口にしながら、修一郎はバラカに合わせるように笑顔を作った。
「それでは、行ってきます」
そろそろ先に出て行った上司の後を追わねば、また小言が飛んでくるだろう。
それに、今日は事務の引継ぎに加えて、マリボーへ連絡も取らないといけない。早めに支店へと向かうに越したことはない。
老夫婦に見送られて、修一郎は早足でマリボー商店アーオノシュ支店へと歩いていった。
店で待っていたブルソーに支店の従業員を紹介され、本店よりも僅かに狭い事務室に案内された二人は、アーセナクトを出発してからの一連の事情を説明した。
ブルソーのほうでも、事務員二人が一度に倒れるという事態に些かの疑念を抱いたようで、支店を切り盛りする傍ら、王都の警護団や、急病に倒れた事務員を看た医術士に対して調査・確認を依頼したとのことであった。
とりあえず本店のマリボーへ連絡するべく、修一郎とブルソーが連れ立って早伝役駐留所へ向かうと、ソーンリヴは事務用机に文字通り山と積まれた出納板を眺めて盛大なため息を吐く。
「やれやれ……。これは何もなくても一仕事じゃないか……。
いや、何かあったからこうなったのか」
既に冬の四の月も半ばを過ぎている。ここ王都で開催される平和祈念式典も目前に迫っていた。
ブルソーは日締め作業は済ませていると言っていたが、この状態だとそれすらきちんと出来ているか怪しい。
「喜べ、シュウイチロウ。他の事に気を回す暇がないくらいには仕事があるようだぞ……」
今、この場に居ない後輩事務員に向かって、ソーンリヴはその深い藍色の頭を軽く左右に振りつつ呟いた。
このまま事務室で佇んで居ても、仕事が減るわけでもない。
出納板の積まれた机に向かい、近くにあった椅子を引き寄せると、ソーンリヴはメガネをかけて腰を下ろしたのだった。
マリボーに報告を終えた二人が戻って来ると、既にソーンリヴの机の上には確認済みの出納板が綺麗に並べられていた。
「ブルソー、とりあえず出納板の確認は終えた。
帳簿との照合作業をしたいので、帳簿の入った金庫を開けてもらえると助かる」
支店の金庫にかけられた『施錠』は、ブルソーと今は居ない支店の事務員にしか解除できない。
幸い、金庫の『施錠』は鍵式であったので、ブルソーから鍵を預かれば、ソーンリヴにも解除はできるため、ブルソーがアーオノシュを離れても問題はない。
尤も、ブルソーはアーオノシュ支店の支店長とも呼べる立場のため、最良なのは現在臥せっている事務員から鍵を借りることなのだが、今日のところはそうも言っていられなかった。
「ああ、すまん。今開ける」
事務室の奥に据えられている金庫へ向かったブルソーから視線を動かし、ソーンリヴは後輩事務員に指示を出した。
「シュウイチロウ、言ったとおり出納板は終わった。今からは二人で帳簿の照合と記帳漏れや間違いがないかの確認作業だ。
それを終わせないと、今日以降の事務作業が次々とずれ込むばかりになるからな。
照合は私がやるから、お前は記帳確認と未記帳分の処理を頼む」
「分かりました」
ソーンリヴの真向かいの机に自分の作業場所を確保しながら、修一郎が応える。
その机も雑然と羊皮紙の束やら木箱やらが積まれ、一度整理しないと、とてもではないが仕事が出来るような状態ではなかったのだ。
事務室の壁面に据えつけられた棚から、本店と同じように『確認済み』と書かれた木箱を持ってきた修一郎は、羽ペンとインク壷を手許に引き寄せた。
「ほら、これが今月分の帳簿だ。先月までの締めはここの事務員二人が処理済みだから問題ないと思う。
二人が倒れてからは……すまん。仮の日締めをやってはいるが、本締めはしていない」
ソーンリヴの机に羊皮紙製の帳簿を積み上げて、ブルソーは体を小さくしている。
どうやら店の経営に関することは一通りこなしている店主の息子とはいえども、マリボー商店の実質的な副店主とも呼べるソーンリヴに対しては、事務作業面では未だ頭が上がらないようだ。
「ああ、あの状況を見れば大体予想は付いてるよ。まあ、そのために私たちが呼ばれたのだろうし、仕事はするさ。
だが、事務以外のことについては、私たちは何も分からないに等しいからな。そっちは任せるが、構わないな?」
「無論だ。なかなか難しいだろうが、なんとか一区切りついたら教えてくれ。懸案事項を含めて引継ぎをしたい。
それまでに、俺は警護団と医術士のところに顔を出してくる。
ついでに、倒れた事務員からも何か分からないか訊いてくるつもりだ。金庫の鍵も預かって来ないといけないしな」
本店の事務員がこちらに来たということは、向こうの事務はジスとマリボーがなんとか回している状態なのである。
なるべく早く戻らないと、今度は本店の事務作業が滞ってしまうことになりかねない。
「付け加えると、店の『施錠』もなんとかして欲しいが……。ここも本店と同じ様式なのだろう?
この状態だと、私たちの作業は夜遅くまでかかるのは間違いないが、誰が『施錠』をかけるんだ?」
本店と同じ様式なら、店の『施錠』は鍵式ではなく店舗全体にかけられるものであるはずだ。
ブルソーは当然登録されているだろうが、修一郎は体質的に論外だとしても、ソーンリヴは支店の『施錠』に関しては登録していない。
「その点に関しては、スィルトンに任せようと思ってる。今は取引先に出向いていて居ないが、ハーフリング族の男だ。
本来は仕入れ担当だが、親父とも面識のある奴で、俺がいない間の店主補佐みたいな業務もやってもらっているからな。
通常業務が終わってからずっと付きっきりにさせるわけにもいかんだろうから、頃合を見計らって店に戻って来てもらうつもりだ」
近い将来、アーオノシュ支店の店主となる予定ではあるが、ブルソーの所属は未だアーセナクトの本店仕入れ担当である。
その補佐として雇っているのが、スィルトンという人物のようであった。
「分かった。それについてはあとで引継ぎの際にでも詳しく聞こう。
まずは、目の前の仕事を片付けてからだな。シュウイチロウ、始めようか」
「はい」
本日の大まかな流れが決まったところで、各人はそれぞれの仕事をこなすべく動きだす。
王城の大鐘が二つ鳴り、続いて教会の子鐘が五つ鳴った。
王都アーオノシュは、もうじき昼を迎えようとしている。
昼食を摂るだけの極々短い休憩時間を終えて、再び帳簿に向き合っていたソーンリヴが声を上げた。
「どこが日締めは『やっている』だ……。売上金も売上数量も合わない日が四日もあるじゃないか。
経験があるとは言っても、やはりブルソーは事務には向かないようだな……」
肩に手を当てて、凝りを解すように首を回したソーンリヴの嘆息交じりの口調には、はっきりと分かるほどの疲れが含まれていた。
「ええと……、どこですか?」
短く訊ねる修一郎の声にも、やはり疲れが滲んでいる。
いざ意気込んで取り掛かったはいいが、ほぼ半月分に相当する日別の売上・棚卸の確認作業はそう簡単に終わるものではない。
ましてや、ブルソーが、一人で店主代行として対外交渉や仕入れ調整といった業務をこなしつつの事務作業であったため、帳簿への記入漏れや転記間違いといったミスが次々と判明していた。
今は、資産出納簿と売掛・買掛簿を修一郎が、金銭出納簿と商品別売上内訳簿をソーンリヴが、それぞれ担当している。
「まずは、八日だ。売上板と売上内訳簿の商品売上数量に54の差異がある。
これは一つ一つ見ていかんと分からんか……」
作業を進めるごとに減るどころか増えるばかりのこの状態に、ソーンリヴは軽い頭痛を覚えたのか、こめかみをその細い指先で押さえる。
「54ということは9の倍数ですか……。
ソーンリヴさん、売上金額に間違いはないんですよね?」
何かを考えていた様子の修一郎が、確認のため質問すると、彼の女性上司はメガネを光らせながら声のトーンを落とした。
「実際の金に間違いがあったらそれこそ問題だろうが。合わないのは商品系統別の売上数量だ。
売上板が違うということはまず有り得ないから転記間違いだと思うが、面倒なことには変わりないな」
「でしたら、数字の順番が入れ替わっている可能性もありますね。売上板で171のところを帳簿には117と記入しているとか。
売上個数が50以下の商品を除外して、ざっと確認してみると、もしかしたら一発で分かるかも知れません」
「なんでそんなことが言える?心当たりでもあるのか?」
修一郎の言葉に怪訝な表情を浮かべながら、尋ね返すソーンリヴ。
「以前、元の世界で事務をやっている時に先輩から教えてもらった事例の一つですよ。
9の倍数の差異がある場合は、下二桁の数字の順序が逆になっている可能性があると。
勿論、売上板と帳簿を一つ一つ照合するのが一番確実な方法ですけど、それで分かれば儲けモノ程度の確認法です」
事務をやっていると、連続する数字の前後で記入ミスを犯すことが間々ある。例えば、556という数字を565や655といったように記入してしまう、所謂“てれこ”と呼ばれるミスだ。
実際に556個売れた商品を、記帳する際に565個と書けば、違いはマイナス9個となるし、655個と書けばマイナス99個となり、どちらも9の倍数の差異となる。
飽くまでも一例であって、実際は小さな数字の積み重ねでその差異が発生していることのほうが圧倒的に多いのだが、苦し紛れとして覚えておいても損はないだろう、とその先輩は笑いながら教えてくれたものだ。
「面白いな。気にかけて確認してみるか」
頭の中で色々なパターンを試算してみたのだろう、確かにどれも9の倍数になるな、とソーンリヴは納得しながら帳簿に目を落とす。
結果的には三品目の数量に記入ミスがあったものが累計で54の差異となっていたのだが、そんな遣り取りをしながら、二人は仕事を進めていった。
「では、『施錠』しますよ?忘れ物とかないでしょうね?」
ブルソーの言ったとおり、じきに大鐘四つに子鐘五つ(午後十一時)になろうとする頃、スィルトンが店にやってきて本日の仕事を終えたソーンリヴと修一郎に合流した。
引継ぎを終わらせたブルソーは、一足先に二人のために用意した宿舎に向かっている。
このためだけに、深夜に店まで出向いてもらったことに恐縮する二人であったが、ハーフリング族の男は一向に気にしない様子で笑って答えた。
「気にしないでください。
元々、夜更かしするほうなんでね。散歩がてらと思えば気にもなりませんよ。
それより、お二人のほうこそあまり無理をしないでくださいよ?助っ人まで倒れられちゃ本当に店が動けなくなっちまう」
「ああ、気をつけるよ」
「お手数をおかけします、スィルトンさん」
素直に頷く二人に、再度笑顔を見せると、スィルトンはまた明日、と言い残して去っていった。
「さて、彼の仕事はこれで終わりだろうが、我々は今からもう一仕事残っているんだな。
ブルソーが用意してくれたという宿舎はこの近くなのか?」
通りに消えていくスィルトンを見送った後、修一郎に振り返りながらソーンリヴが訊ねた。
午前中、マリボーへ報告する道すがら、修一郎はブルソーから仮の住まいとなる宿舎の場所を聞いている。
「はい。それほど離れてはいませんよ。
ブルソーさんが気を遣ってくれたのか、警護団の詰め所も近くにありますし、治安も悪くなさそうです」
ブルソーの待つ宿舎へと歩きながら、修一郎が説明した。
「どうも宿の長期確保は無理だったようで、築五年の二階建ての家を一月ほど借りたそうです。
寝室は四部屋あるそうですから、寝る場所には困らないでしょう。
ソーンリヴさんが気にされるなら、私はバラカさんの宿に移りますが……」
隣を歩く上司を見下ろす形になりながらも、窺うように言葉を続ける修一郎に、
「店側が用意してくれたんだ。態々自腹で宿を確保する必要もないだろう。
私なら構わんさ。尤も、お前が“おかしな行動”を取ろうというつもりなら話は別だが?」
と、挑戦的な笑みの形に唇を歪めたソーンリヴだったが、修一郎はとんでもない、と笑って応じた。
宿舎となる家に辿り着いた頃は、既に大鐘四つに子鐘五つが鳴り終えて少し経った時間であった。
他の家と同じく白く塗られた壁にある窓からは、煌々と明かりが漏れており、どうやらランプだけではなく術石式の照明器具もあるようだ。
玄関先に立ち、修一郎が扉をノックすると、暫くしてからブルソーが扉を開ける。
「ご苦労さん。
荷物はとりあえず居間にでも置いてくれ。茶でも淹れよう」
助っ人二人を家に招きいれながらも、扉を閉める間際に、ブルソーは表に視線を巡らせて怪しい人影がないか確認する。
その様子を見て、修一郎はあまり良い方向に話が進んでいないようだと感じ取った。
居間に置かれたソファーに腰を下ろして、ブルソーが茶を淹れるのを待ってから、三人で今後の打ち合わせが始まった。
仕事に関しては、既に店で済ませているので、内容は支店の事務員が同時に倒れたことと、アーオノシュへの道中に馬車で知り合った二人に関してである。
「急病で倒れた事務員についてはまだ確認は取れてないが、馬車に轢かれた事務員については、本人と警護団からある程度事情を聞くことが出来た」
先に馬車の二人に関しての報告を二人から聞いた後、自分用に淹れた茶を啜って唇を湿らせると、ブルソーはそう切り出した。
「本人曰く、馬車が目の前を通り過ぎる際に、突然後ろから誰かに突き飛ばされた気がしたそうだ。
警護団のほうも、その馬車に乗っていた御者から当時の状況を聞いたらしく、外套を目深に被った人物が事務員を押したように見えたとの証言を得ているらしい」
「それはまた……」
ブルソーの説明に、修一郎は顔を顰める。
「ふ……ん。そこまで稚拙な手段で来るとはな。
ブルソー、あんたこの街で何か拙いことでもやってるんじゃないだろうな?」
黙って聞いていたソーンリヴが、口の片端だけ吊り上げて皮肉めいた笑いを浮かべるが、ブルソーは彼女の台詞を全力で否定した。
「よしてくれ!親父には及ばないながらも、俺も歴とした商人だぞ?
法に触れるようなことはしないし、同業者ならともかく人様に恨みを買われるような真似もしない!」
「つまりは、同業者に恨みを買われるようなことをしていると?」
言葉尻を捉えるようにソーンリヴが追求すると、ブルソーは口篭る。
「商売上で何かあったんですか?」
それを見た修一郎が声をかけるが、ブルソーは何やら言いにくそうに茶の注がれたコップを手の中で弄ぶだけで、言葉を発しようとはしない。
「店の方針なら私たちが口を出すことではないが、それはマリボーさんも承知していることなのか?」
「いや……。まだ親父には話していない」
ブルソーの一言に、ソーンリヴは呆れたと言わんばかりに、座ったまま天井を見上げる。
何のことはない。こちら側……ブルソーに原因があったというわけだ。
「それは何です?さすがに“社長”も知らないこととなると、本店でも対応できないのではないですか?」
「ここまで来たら、我々も無関係というわけにもいかないようだな。
勿論、教えてもらえるんだろう?」
二人に詰め寄られて、ついにブルソーも観念したようで、ばつが悪そうに事情を口にした。
「別にやましいことはしていないぞ。ただ、親父に止められていたライターとメガネの販売を支店でもやり始めただけだ。
アーセナクトであれだけの売り上げがあるんだ。王都で売ればそれ以上の儲けになるだろう?
それに、親父も近いうちに王都でも取り扱いを始めると言っていた。それを少し早めただけだ。
店の利益を伸ばすことは悪いはずがない。俺はその一心で行動したまでだ」
話すうちに、自分でも徐々に言い訳がましくなっていることに気付きながらも、ブルソーは一気にまくし立てる。
「……製作はどうしているんです?レベックさんとバランダさんからは、そのような話は聞いていませんが」
帳簿にその二つの商品の名前を見つけた時は驚いたが、修一郎が気にしたのは別の件である。
増産するならするで、何らかの話が修一郎の耳にも入っていてもおかしくないが、生憎と二人からそういった話は聞いていないのだ。
「ライターは本店から原価で買い上げる形でこちらに回している。アーセナクトでの売れ行きも落ち着いて、在庫に余裕が出来るようになっていたしな。
メガネに関しては、この街の職人に依頼して同様の物を作らせる契約を交わした」
ブルソーの話を聞くに、どちらも今月に入って取り扱いを始めたばかりで、本店のマリボーが知ることになるのは月末の報告になるだろう、とのことだった。
「ライターはともかくとして、メガネの類似品は遠くないうちに出回るだろうとは思っていましたが、まさか身内からとは……」
これには修一郎も絶句せざるを得ない。
「事情はどうであれ、原因の目処は付いたわけだ。
この件に関しては、明日の朝一番でマリボーさんに連絡してもらうぞ、ブルソー?」
何かにつけて、父親に追いつこうとあがくブルソーをきつく責める気にもなれず、かと言って放置しておいて良い問題でもないため、釘を刺すようにソーンリヴはマリボーの息子に向かって口を開いた。
「それに、目処は付いたとは言え、原因はそれだけでもなさそうだ。王都で起きた問題なら王都の中で解決すれば済む話だからな。
だが実際は、アーセナクトから出発した我々にも監視の目があった。
事は、支店だけの問題ではないだろうな」
「分かった。シュウイチロウ、すまないが明日また早伝役まで同行してくれるか」
「はい」
自分の持ち込んだ技術が原因でこの騒動が起きたとなっては、それこそ他人事ではない。
修一郎に否も応もなかった。
「本来なら、ブルソーは一刻も早く本店に戻って向こうの事務をやってもらわないと困るんだが、こうなってはな。
少なくとも明日もう一日、王都に留まるべきだろう」
「ああ、そのつもりだよ。もう一人の事務員を看てくれた医術士からも連絡があるだろうし」
今後のことを話す二人の会話を聞きながらも、昨夜バラカの宿で思った「何も起こらなければ」、との願いが早くも叶わぬものとなったことに、修一郎は内心で大きくため息を吐くのであった。