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街の事務員の日常  作者: 滝田TE
街の事務員の日常
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第十三話 出張


「店、大丈夫でしょうかね……」


 今日、幾度めかの台詞を修一郎が口にする。

 商業都市アーセナクトから王都アーオノシュへと向かう、路線馬車の中、修一郎の隣に座るソーンリヴが、ため息と共にこちらも幾度めかの同じ返答を吐き出した。


「ブルソーも一応は、事務の仕事を経験してるんだ。一月くらい何とかなるさ。

 ジスさんも、ウチに来る前の店では事務と販売を兼任していたんだ。

 決算締めはマリボーさんも手伝うと言っていたし、心配することはないと言っているだろう」


 ジスとは、マリボー商店の販売担当の三人目の女性であった。

 以前働いていた店で、夫となる人間族の男性と知り合い、今では二児の母である。

 外見だけは、二十歳前の少女としか見えないのだが。


「それよりも、家は大丈夫なのか?あの二人組とルキドゥ……っと、ルキーテだったな、の三人だけで」


「ええ。問題ないでしょう。

 ルキーテはあれで結構細かいところに気がつく子ですし、ロシェとグラナも、ずっと冒険者をやっていたわけではありませんから、街暮らしに支障はないと思いますよ」


 店の制服とも普段の私服とも違う、旅装のソーンリヴが、座り心地が悪そうに身じろぎした。

 石畳で舗装されているとはいえ、修一郎の世界のコンクリートやアスファルトで舗装された道とは程違く、王国公路にはかなりの凹凸がある。

 加えて、路線馬車を始め、馬車の荷台には満足なサスペンションが発明されておらず、精々が座席に縫い付けられた綿入りの座布団のようなものがあるくらいだ。

 聞く所によると、レベックとバランダが共同で馬車用のバネを開発中らしいが、未だ完成はしていないようである。


「しかし、引っ越し早々新居を留守にせねばならんとは、お前もついてないな」


 自分と同様に、旅出立ちの修一郎に、口の片端を持ち上げるようにソーンリヴが笑う。


「仕方ない……んでしょうねぇ、やっぱり。

 ソーンリヴさんはともかく、私が行く理由は未だに分かりませんが」


 そう言って車窓の外へと向けた修一郎の顔には、諦観と疑問と僅かな感謝の念が絶妙にブレンドされた表情が浮かんでいた。






 その日、マリボー商店の店主、マリボー・ワットの持つ伝達板が微かな音と共に明滅した。

 懐から取り出して見ると、伝達板には『至急』を表す文字が浮かび上がっている。

 マリボー商店が登録・保有している伝達板は三枚。一枚はマリボー、一枚は事務担当、そして最後の一枚は息子ブルソーが所持していた。

 同じ店内に居る事務担当者が伝達板を使うはずもなく、つまりはブルソーからの連絡ということになる。

 そのブルソーは今、王都に新しく出来た、マリボー商店アーオノシュ支店へと、暫定的な店主として出向いていた。

 この国で店を持とうとする商人は、大抵本拠をアーセナクトに置く。

 人口で言えばアーセナクトの倍はある王都であるが、流通の要はアーセナクトであり、アーオノシュとほぼ同条件の公路網に加え、アーセナクトの近くを流れるナズ河を利用した船での搬送等によって、物品の輸送や、ヒトの出入りが最も多いのが、その理由だ。

 “まつりごとはアーオノシュから、商いはアーセナクトから”とは、アルタスリーア王国の商人が良く口にする諺である。

 早足で、店から一番近い早伝役の駐留所へと向かったマリボーは、年若い鳥人族の早伝役立会いの下、伝達板で息子と話をする。


「どうした、ブルソー。何か問題でも起きたのか?」


 『至急』と指定してくるのだ。余程の問題でも起きない限り伝達板を使うはずもないのだが、それでもそう訊かずには居られない。

 アーセナクトで足場を固めるに至ったと確信したからこそ、王都へと支店を出したのだ。

 王都での商売はこれからが正念場であり、下手を打って、王都での商売に支障を来すようなことになってはならない。


「親父、早速だが本店の事務員を支店に回してくれ。こっちじゃ今、大変なことになってるんだ」


 まるで目の前にブルソーが居るように、はっきりとした声が伝達板から発せられる。


「どう大変なんだ。そちらにも二人ほど事務員を雇っていたはずだろう」


 理由も言わず、用件だけ伝えようとする自分の息子に、マリボーは苛立ちを滲ませた声を返す。


「その二人が倒れたんだよ!一人は急病で、一人は荷馬車に轢かれたんだ!

 二人の命に別状はないが、職場復帰は当分先になるらしい。

 今は俺がなんとか一人でやってるが、もうじき決算締めがある。さすがにそれは俺一人じゃ無理だ!」


「何だと?一度に二人ともか!?」


「ああ。俺が本店に戻れば、ジスと二人でなんとかそっちの決算締めは出来るだろう。

 けど、こっちはウチの事務に慣れた者じゃないと出来ない。

 他の従業員に事務経験者は居ないし、一時的に新規で雇ってる時間の余裕もないんだ!」


「ソーンリヴとヤスキを回せということか……」


「それしかないと思う。シュウイチロウはどうか知らないが、ソーンリヴは何度もウチの決算締めを経験してる。

 二人が無理なら、せめてソーンリヴだけでもこっちに寄越してくれないか」


 マリボーは暫し口を閉ざして考えた。

 彼は、将来的にブルソーに店を継がせるつもりで、仕入れから事務まで全ての業務を経験させていた。

 確かにジスと二人、最悪マリボー自身も手伝えば、本店の決算締めは出来るだろう。

 だが、アーオノシュの支店で、ソーンリヴを助っ人としてブルソーと二人で決算締めをさせるとなると、今度は本店の決算締めを修一郎とジス、マリボーで分担することになる。

 そうした場合、支店は何とかなるだろうが、こちらは正直なところきちんと出来るか不安だ。

 それに、マリボーには修一郎に対して考えていることがあった。


「分かった。ソーンリヴとヤスキをそちらに向かわせる。

 二人が到着して、引継ぎを終えたら、お前はすぐにこちらに戻って来い。

 それまでは、お前と俺で最低でも通常の事務処理はしておくことにしよう」


「ああ、それで構わない。でも、出来るだけ早く二人を寄越してくれよ。

 自分でも情けないことだと分かっちゃいるけど、俺ももう限界に近いんだ」


 一応、事務経験はあるとは言え、ブルソーも一通りの流れをこなした程度であって、事務を専らにしているわけではない。

 マリボーに言われるまでもなく、ブルソーは通常の事務処理にしか手が回っていなかった。


「泣き言を言うな。なるべく早く向かわせる。

 それと、二人分の宿でも仮住まいでもいいから、確保しておいてやれよ。

 遅くても四日後には、そちらに行かせるようにするから、だいたい三週間程度は王都に滞在することになるはずだ」


「ああ。早速手配しておくよ。とにかく頼んだぞ、親父」


 その言葉を最後に、伝達板から光が失われる。


「通話終了です」


 早伝役の鳥人族が、見て分かることを口にした。


 その日のうちに、ソーンリヴと修一郎に事情が説明され、急遽二人はアーオノシュへ助っ人に行くと言う名目で出張を命じられた。

 翌日、ジスとマリボーに業務引継ぎと旅の準備を行い、更にその翌日の朝一番の路線馬車で、王都アーオノシュへと二人は出発したのだった。






「もう子鐘半もしないうちに、セボに着きます」


 修一郎の回想を打ち消すように、御者が平坦な声で車内の乗客に告げる。

 修一郎とソーンリヴが乗り込んだ路線馬車には、他に二人の人間族の男がいた。

 どちらも、アーオノシュからアーセナクトの知人を訪ねた帰りだという。

 半日以上、然程広くない馬車の中に、四人が顔をつき合わせていたのである。

 誰からともなく話しかけて、適当な雑談をしながらの道中であった。

 アルタスリーア王国内の公路には、各主要都市間に路線馬車が運行されている。

 路線馬車が走る公路は、決められた距離ごとに所謂“宿場”のような集落が作られている。

 それは、修一郎の世界でいう冬至にあたる日を基準にしており、日の出から日の入りまでの丸一日で馬車が移動できる距離に一箇所、半日で移動できる距離に一箇所といったように設けられていた。

 御者が言った、セボという集落も、王都アーオノシュと商業都市アーセナクトを結ぶ公路上での、宿場の一つである。

 村とすら呼べるかどうか怪しい規模の集落であるが、国が認めた商人に委託して経営している宿屋兼食堂が一軒、日用品を扱う商店が一軒、携帯食を含めた食料品を扱う商店が一軒、武具や野営に必要な雑貨を扱う商店が一軒と、一応旅に必要な品々を揃えることが出来るようになっている。

 その他には数軒の民家と、この集落を警備する警護団の詰め所があり、集落全体の人口は五十人にも満たない。

 宿屋の規模は意外と大きく、常に路線馬車の人数分の空き部屋を確保することが決められているようで、全部で十六室あり、三室が四人部屋、五室が二人部屋、残り八室が一人部屋となっていた。

 路線馬車の最大搭乗人数は六人であるので、王都とアーセナクト両都市から到着する馬車の最大乗客分計十二人分の部屋が、確保されていることになる。

 セボに到着し、宿屋の前に馬車が停まると、建物の中からふくよか過ぎる中年の女性が姿を現した。


「ようこそいらっしゃいました。皆様お疲れでしょう。

 お部屋を用意しておりますので、まずは荷物を置かれてはいかがでしょうか。

 食事が必要なお客様は、一階の食堂でご用意できます」


 笑顔であったが、どこか決められた台詞を決められた口調で言う女性に、乗客が軽く言葉をかけながら宿の中へと入っていく。

 宿屋に入ってすぐのカウンターに、羊皮紙製の宿帳が広げられていて、宿泊者は、そこに名前と朝食が必要かどうかを書き込むようになっていた。

 朝食は、一泊の料金に含まれているが、朝食を必要としない者に対しては、僅かだが宿泊料金が安くなるのだ。

 ちなみに、朝食はパンとスープだけという質素極まりないものであったが、それでもないよりはマシというものである。

 昼食は、頼めば宿でもパンと干し肉、干し果物程度なら用意してくれるだろうが、基本的には個々人が予め準備しているものなので、宿からは何も言われることはなかった。

 その為に食料品を扱う店が、この宿場にあると言っても良いくらいのだから。

 アーオノシュ行きの路線馬車に乗り合わせた四人が、宿帳を書き終え、一泊分の料金を支払うと、それぞれに部屋の鍵が渡される。

「生憎と部屋が満室でございまして。誠に申し訳ありませんがお連れ様と相部屋になりますが、宜しいでしょうか」などと言う、ハプニングは当然あろうはずもなく、四人それぞれに一人部屋が割り当てられた。


「では、ソーンリヴさん。荷物を置いて一息ついたら、晩飯にしましょうか」


「分かった」


 自分の部屋の隣室となったソーンリヴに声をかけると、修一郎は部屋の扉に鍵を差し込む。

 ここでも、扉を対象とした『施錠』の鍵が使われていた。

 部屋は、修一郎の世界の一般的なビジネスホテルのシングルルームより幾分広い程度で、頑丈だけが取り柄のようなベッドと、簡素なテーブルと椅子が一脚ずつ、そのテーブルの上に火の灯ってない普通のランプが一つ置いてある。

 愛用となったライターでランプに火を灯し、荷物を椅子の上に載せると、修一郎はベッドに腰掛けた。

 宿場に着いた頃は、まだ夕焼けの残滓が、地上に接する空を僅かに赤く染めていたのだが、既に全天が深い紺へと色を変えている。


「ふぅ……」


 長いこと馬車に揺られていたせいか、未だに何となく体が揺れている気がする。

 存外、座席に座っているだけでも疲労は蓄積されるものだ。

 コタールの隊商で旅をしていた頃は、一日中馬車に乗っていても然程疲れるようなことはなかったのだが、街暮らしの時間が長くなるにつれ、以前の体質に戻りつつあるのかも知れない。

 大きく息を吐き出すと、修一郎は上体をベッドへと倒す。


「やはり、気を遣われたというのもあるのでしょうね……」


 以前、フォーンロシェに、春ごろには時間を見つけて王都へ行くと答えた自分を思い出す。

 期せずして、その言葉どおりとなったことに苦笑が浮かびそうになるが、考えてみれば良い機会かも知れない。

 店の事務担当は自分とソーンリヴしかおらず、どちらか一人が長期の休みを取るのは難しい。

 アーセナクトからアーオノシュまでは、路線馬車で二日。王都で一日過ごしてすぐに戻ったとしても、往復で五日かかる。

 店の定休日を絡ませるにしても、四日は休みを取らねばならないのだ。

 出納板を扱えない修一郎が欠けても、マリボーかジスが手伝えば、然して困ることはないだろうが、ソーンリヴへの負担は増えるだろう。


 飽くまでも仕事で王都へ行くのであって、ハーベラに会う余裕はないのかも知れない。

 それでも、修一郎はなんとかして彼女に会う時間を作ろうと決心していた。

 今まで、こちらが一方的に避けていたのに、自分勝手だとは思うが、ここらでけじめを付けるべきだろう。

 それをしないと先に進めないなどと言うつもりはない。

 既に自分は、アーセナクトで様々な縁を持ち、日々を暮らしているのだ。

 ただ、やはり今の自分を見せ、考えを伝えなければ、いつまでも引き摺ることになる。

 現に、そうやって二年が経っている。

 修一郎がアーセナクトにやってきて約一年。

 あの街に家を構えたこともあり、ここらが潮時だのだろう、と思う。

 マリボーが修一郎に王都への出張を命じたのは、勿論ヘルプ要員であることは間違いないのだが、ハーベラ……と言うより、ハーベラの前夫であるコタールと親友であった商人にとっても、ハーベラと修一郎の間に横たわるわだかまりを解消しようとの考えもあるのだろう。


「まったく……。私は何時まで経ってもあの三人に世話になりっ放しですね」


 この世界に来てからは、コタール、ハーベラのアペンツェル夫妻に。アーセナクトに居座ってからはマリボーに。

 元の世界で、自立できていると思っていたのは、錯覚であったのかと感じるくらいには、三人に助けられている修一郎だった。


「さて、これ以上物思いに耽っていると、ソーンリヴさんが怖いですね。そろそろ食堂に行きますか」


 誰に聞かせるでもない台詞を呟いて、修一郎は勢い良く体を起す。

 マリボー商店に勤め、様々な人たちと日々を過ごし、ここ数ヶ月は虎人族の“少女”と暮らすようになって、眠る時を除き、一人で居る時間が殆どなくなった修一郎は、自分はここまで独り言を言うような性格だっただろうか、と思いながら部屋を出て行った。






「どうした?シュウイチロウ、飲まないのか?」


 顔色を一切変えない目の前に座る人間族の女性が、修一郎にブドウ酒の注がれたジョッキを突きつける。


「もう充分飲んでますよ。ソーンリヴさんこそ、そろそろ止めておいたほうが……」


「何を言っている。まだ二杯しか飲んでいないぞ?

 この程度で翌日に響くわけでなし、構わんだろうが」


 確かに、ソーンリヴはアルコールには強い体質なようで、顔色どころか口調も態度も普段と全く変わっていない。


「馬車での移動は、意外と疲れが溜まるんです。何事もいつもより抑え目に、が旅の鉄則ですよ」


 普段は見せないような決然とした表情と口調で、修一郎はソーンリヴを窘めた。


「ふ……ん。シュウイチロウが私に意見するとは珍しいな。

 仕方ない。ここは素直に従っておくことにするか」


 持っていたジョッキをテーブルに置くと、ソーンリヴはつまらなそうに兎肉の香草焼きをつつく。

 それを見て安心した修一郎は、手許にあった固いパンを千切ると口に放り込んだ。




「そういえば」


 食事があらかた終わった頃、ふとソーンリヴが口にする。


「ルキーテは、結局あのままシュウイチロウの被保護者となったのか?」


「ええ。登録時は男で申請していましたから、変更手続きに手間取りましたけどね。

 それと孤児の保護ではなく、養子として迎えることになりそうです」


 さらりと言ってのけた修一郎に、ソーンリヴが驚きの声を上げたが、周囲のテーブルにつく客の視線に気付き声のトーンを元に戻す。


「ルキーテもそれで納得したのか?」


「はい。喜んでいましたよ。

 まあ、おかげで結婚もしていないのに、一児の親となってしまいますけどね」


 いつもの頼りなげな笑顔で笑う修一郎を、ソーンリヴは心底呆れた様子で見つめた。


「やっぱりお前は、馬鹿がつくほどのお人よしか物好きだ。

 子連れの男と結婚しようなどと思う女はそうは居ないぞ。

 それとも、お前の世界ではそういった男のほうが好まれるのか?包容力があるとか言われて」


「まさか。余程、容姿が優れているとか、人柄が良いとか、資産があるとかでない限り、“コブ付き”は敬遠されますよ。

 残念ながら、私はどれにも該当しませんね」


 何故かこの世界でも、子連れの独身者のことを“コブ付き”と呼んでいる。

 大方、修一郎より前にこちらの世界に来た、日本出身の異世界人が広めたのだろうが、本来は“コブ付き”とは子連れの女性を指す、どちらかと言えばあまり良くない意味合いの俗語であったはずだ。

 現代日本では男女関係なく使われていたもので、気軽に使うような言葉ではないものの、冗談めかしたり自嘲で使ったりと、忌避される程の言葉ではなかった。

 ということは、その異世界人は修一郎の居た時間軸に近い時代から来たことになるのではないか。

 どうやら、異世界からこちらの世界に来る者は、時代や人種は関係ないらしい。

 以前、少しばかり調べたところだと、修一郎と同じ日本人の異世界人も居たし、金髪碧眼の異世界人も居たようであるし、何かの毛皮を纏った魔獣の“人鬼ゴブリン”に近い姿形の異世界人も居たようだ。

 各国は一応、異世界人に関する記録を残しているようだが、詳しい情報は隠匿されているのか、それとも本当に分かっていないのか、修一郎が辿り付けたのは、そういった者が居てこの世界で死んだといった程度の記録だけであった。

 以前は何とかして元の世界に戻ろうと、旅先で様々な書物を漁ったり、賢者と呼ばれる人物に話を聞いたりしていた修一郎だったが、調べれば調べるほど、誰一人としてこちらに来た異世界人が元の世界に戻った事実はないことが判明しただけで、いつしか調べることを止めていた。

 探しても得られる情報は、修一郎の望む情報と正反対のものしかないのだから、無理もない。

 戻ることが出来ないならば、この世界で生きていくしかないのだ。

 こちらの世界に来て九年。そろそろ諦める時期なのかも知れないな、と修一郎は思う。

 だからこそ、ルキーテを養子として迎え、アーセナクトに自分の家を持った。自らこの世界でのしがらみを増やした。

 迷いを吹っ切るため、行動することで自分を追い込むため、色々と言い換えることはできるだろうが、結局は修一郎なりの区切りの付け方である。


「そう卑下するものでもないと思うがな……」


 思考の淵に沈みこんだ修一郎に、ソーンリヴがぽつりと口にした言葉は、聞こえることはなかった。






 一夜明けて、陽が昇って暫く経った頃、アーオノシュ行きの路線馬車は宿場を出発した。

 都市部や一定規模の町でない限り、時を告げる鐘が存在しない村や集落の時間は、基本的に太陽が昇ると活動を始め、太陽が沈むと休むといった、実に単純且つ曖昧なものである。

 大鐘幾つに子鐘が幾つ、といった区切りがないので当たり前であるが、宿泊客は陽が昇る頃に起き出して一階の食堂で簡単な朝食を済ませると、さっさと宿を引き払い、路線馬車の停留所へと向った。

 その頃には既に御者が、馬車を停留所に待機させていて、乗客が揃った段階で出発する。

 当たり前のことだが、昨日と変わらぬ顔ぶれで馬車に揺られながら、修一郎たちは適当な雑談を交わしつつ、王都アーオノシュへと向かっている。

 このまま行けば、陽が沈む前に王都へ到着できるだろう。

 修一郎とソーンリヴは、今日はそのままどこかに宿を取って、翌日はマリボー商店アーオノシュ支店へと向かうことになっている。

 明日から当分は、いつもとは違う事務室で、いつもと同じ仕事をすることになる。

 正確には、いつもと同じ作業に決算締め作業も加わるのだけれど。

 この世界の決算業務は初めてであるうえに、勝手が違う支店での仕事である。

 間違いなく忙しくなるのであろうが、恩人でもあり雇い主でもあるマリボーからの業務命令だ。やるしかない。

 馬車の中から見える外の景色を見つめながら、修一郎はこれからのことに考えを巡らせていた。

 その隣に座るソーンリヴは、昨晩結局もう一杯注文したブドウ酒が効いたのか、その怜悧な顔を幾分青くして、修一郎の助言どおり窓の外の遠景を黙って眺め続けていた。

 


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