第一話 事務と魔法
※基本的に、この作品では残酷な戦闘シーンや、過激な性行為を描写する予定はありませんが、一応、今後描写の可能性があるものとしてR-15のタグを付けさせていただきました。
また、誤字・脱字・日本語としておかしな表現等がありましたら、ご指摘いただけると幸いです。
アルタスリーア王国一の商業都市アーセナクトに本拠を構える商店の一つに、マリボーという店がある。
レンガ造りの二階建ての建物に、大陸公用語で“マリボー商店”と書かれた看板を掲げ、入り口の上には、鍋とペンを象った銅製の意匠看板を吊り下げている。
主に、日用品や事務用品を取り扱っており、他に、僅かながら隣国のルザル王国産の茶や煙草といった嗜好品も店先に並ぶこともある。要するに雑貨屋であった。
従業員は店主のマリボー・ワットの他に十三人。大半が人間族であるが、中には獣人族や妖精族と呼ばれる種族も働いている。
店内部署は、仕入れ、流通、販売、在庫管理、事務に分けられ、仕入れは主に店主のマリボーとその息子ブルソーの二人が担当し、流通は人間族・獣人族合わせて八人、販売には人間族・妖精族合わせて三人、在庫管理には人間族・獣人族の四人、事務には人間族が二人といった配属になっていた。
アーセナクトに限らず、アルタスリーア王国には人間族以外の種族も多い。
猫人族、犬人族、鳥人族、狼人族、虎人族、獅子人族といった獣人族。
土の妖精族ノーム、岩と金属の妖精族ドワーフ、森の妖精族エルフ、草原の妖精族ハーフリング、水辺の妖精族ピクシー、海の妖精族ネレイド、街の妖精族ブラウニーといった妖精族である。
獣人族は妖精族に比べ、環境適応性が高いのか大抵の街に何れかの種族が暮らしているが、妖精族はその属性により、街によって住んでいる種族が偏る。
西の工業都市アーラドルにはドワーフやブラウニーは居るが、エルフやネレイドは殆ど居ない。逆に南の港湾都市ダリンにはピクシーやネレイドが多いが、ドワーフやハーフリングは滅多に見かけない。
街の北にそれなりの大きさの森が存在し、東には平原が広がっているアーセナクトには、ノームやエルフ、ハーフリング、ブラウニーと、他の街に比べ多種の妖精族が生活している。
マリボーの店に勤めているのは、犬人族が二人、鳥人族が一人、エルフ族が一人であった。
事務室の扉を勢い良く開けながら、極々簡素な白いシャツと草色のズボンを履いた犬人族が入ってくる。
「おい、シュー。アーラドルからの商品が届いたぜ。中身と数量は確認済みだ」
人間と同じく二足歩行で、体型も人間と殆ど変わらない。体つきは鍛錬を重ねた人間の剣士のように機能的な筋肉質で、その体躯を茶色の毛皮が包み、ズボンの尻の辺りに開いた穴から同じ色の毛に覆われた尻尾が生えていた。
また頭部は人間のそれとは違い、その名の示す通り、犬の頭が乗っていた。
事務室で忙しそうに木箱を抱えて歩き回っていた人間族の男性に歩み寄る。
「で、コイツが納品板」
男性の傍で立ち止まると、犬人族はそう言いながらズボンのポケットから一枚の手の平サイズの金属板を差し出しながらそう告げた。
「ああ、ご苦労様ですゼリガさん。イルーさんには、こちらから在庫板を渡しておきますね」
シューと呼ばれた男性は、犬人族の名前を口にすると笑顔で応える。
柔和な笑みを湛えた、纏まりの悪い黒髪に黒い瞳の人間族の男性は、身長こそ頭一つ分ほどゼリガより高いが、体つきは良く言えば細身、悪く言えばひょろ長く、力仕事とは無縁のように見えた。
青年と言うには言動がやけに落ち着いており、壮年と言うには線の細さやどこか幼さの残る顔つきが気になる。
その長身を、紺色長袖の木綿の上着に前掛け、上着と同色の長ズボンで包んだ男性は、受け取った金属板より二周りほど大きな金属板を、机の端に置かれていた木箱から取り出した。
「すみません、ソーンリヴさん。お願いしていいですか?こちらが納品板と在庫板です」
ゼリガから受け取った納品板と自分の机から持ってきた在庫板、二枚の金属板を持って、シューは隣の机で作業していた人物に話しかける。
深い藍色の髪を肩口で刈り揃え、髪と同じ色の瞳の目はややきついものの、怜悧な顔立ちをした人間族の女性で、シューと同じ紺色長袖の上着に前掛け、同色の長ズボンという出で立ちである。
おそらくこれが、この店での事務員の制服なのだろう。
「分かった。……しかし、いい加減なんとかならないのか?シュウイチロウ」
片手で作業しつつ、後輩事務員から金属板を受け取ったソーンリヴと呼ばれた女性は、作業を止めることなく視線だけを傍に立つ男に向けた。
人間族の女性にしては少しばかり凹凸……特に凸の乏しい体つきと、堅苦しい口調が、飾り気の一切ない制服と相俟って、落ち着いた男性的な雰囲気を彼女に纏わせている。
そのせいか、年齢はシューだのシュウイチロウだのと呼ばれている人間族の男より三~四歳年上に見えた。
「ええ、私としてもなんとかしたいんですけどね……。
幾度か魔法院にも相談に行ったんですが、どうも私には魔術の素質がないようでして。
かと言って、術石を使うにも、値段的にとてもじゃないですが私の給金では気軽に買えそうにありませんし……」
ははは、と苦笑し頬を指で掻きながら、彼は言葉を続ける。
「やはり、私が異世界人だからでしょうかね。
魔法院の導師様にも、普通の人間族にあるはずの魔術の素質が、体内に存在しないというのは有り得ないとまで言われましたから」
「有り得ない……ね」
彼女からしたら頼りなさげな笑いを浮かべている同僚に、何か言いたいことでもあるのだろう。
ふんとばかりに鼻を鳴らして、受け取った二枚の金属板を机の上に並べた。
「ま、あんたらが言うところの獣人族である俺らにも、多少の魔力はあるからなあ。お前さん、ある意味竜族よりも珍しい存在なんじゃねぇか?わはははは!」
人間族二人の遣り取りを聞いていたゼリガが、豪快に笑う。
「まったく……。
毎度毎度思うことだが、うちの雇い主は何のつもりでこんなのを雇ったのやら。これじゃ私一人で事務やってるのと変わりゃしない」
ソーンリヴは愚痴を零しながら、二枚の金属板に片手をかざした。
すると、納品板に刻まれていた二つの数字のうちの一つが消え、その空いた場所に『受領』を表す文字が新たに刻まれる。
同時に、在庫板にずらりと並んでいる様々な商品のうち、一つの商品の数字が、納品板から消えた数字の分だけ増加し、商品名の横に『入荷』を表す文字が浮かび上がる。
この店だけでなく、アルタスリーア王国内で一般的に使われている魔法を利用した出納板である。
『明かり』や『発火』といった初歩魔法よりも少ない魔力で、記入・消去・書き換え・数値管理が出来る代物であり、小売業だけでなく問屋業も行う商店には必ずと言っていいほど見かける事務用品である。
この世界に生を受けた種族であれば、大小の差はあれ魔術の素質、即ち魔力を有しているため気軽に扱える出納板も、魔力を持たないシュウイチロウ……地球という惑星の日本国出身である安来修一郎には扱えないのだった。
「ほら。じゃあシュウイチロウ、後は任せたぞ」
納品板は『確認済み』と書かれた専用の木箱に納め、在庫板だけ修一郎に戻しながら、ソーンリヴは自分の机に向き直ると作業を再開した。
「ありがとうございます。
あ、ゼリガさん、ダリンへの荷はもう出ましたよね?」
ソーンリヴから在庫板を受け取って礼を述べると、何かに思い当たったように修一郎はゼリガに尋ねた。
「おう、ダリンの荷は昼一で出発したぜ?なんだ?何か積み忘れでもあったか?」
修一郎の言葉に、ゼリガは怪訝な表情を浮かべながら問い返す。
「いえ、積み忘れはありませんよ。
では、ゼリガさん。アーラドルからの荷物を倉庫に運んだら、今日はもう上がっていただいて結構ですよ」
犬人族は猫人族や虎人族などに比べ、表情が豊かで、感情の起伏も人間のそれと大差ない。
当初は戸惑っていたものの、今では修一郎もこの気さくな犬人族と接することができている。
「ん?そりゃ有難いけどよ。王都からの荷はどうするんだ?アレも今日到着予定だろ?」
「ああ、それについては先ほど“社長”から言伝がありまして。
白出納板と羊皮紙の仕入れ数調整や、諸々の手続きに手間取って二日ほどずれこむそうです」
白出納板とは種類分けされてない、所謂まっさらな出納板のことだ。
これに簡単な魔法を付与することにより、出納板、納品板、在庫板、売上板と、それぞれの性質と機能を与えることができるもので、修一郎の世界で言う補助簿に近い。
ちなみに、金銭出納簿と、修一郎の世界で言うところの預金出納簿にあたる資産出納簿、売掛・買掛簿は、市販の羊皮紙製を使用することになっており、こちらは修一郎とソーンリヴが分担して記入した後、主人であるマリボーに、週に一度確認してもらい検収済みであるサインを書き込んでもらうことで、一連の作業は一区切りがつくようになっている。
「お、また向こうの言葉かい?確かシャチョーってのは店の主人とか一番偉いヒトって意味だよな?」
覚えたぜ?と言わんばかりの表情でゼリガが修一郎に笑いかける。
「まあ、そんなところです。どうにもこの店の規模からして個人的に社長と呼ぶのが一番しっくりくるもんで、つい。
店長とお呼びするには店が大きすぎますし、私は秘書でも召使でもないので旦那様というのもちょっと……」
「ヒショ?これまた新しい言葉だな。ヒショってなあどういう意味だ?」
「ああ、また。気をつけてるつもりなんですけどね、いかんなあ。
秘書というのはですね、その組織の長または組織全体を補佐することを専業とする役職……貴族で言うと執事、国で言うと宰相に近い感じでしょうか」
厳密に言うと三割方正解で七割方間違いになるのだが、修一郎は元の世界での実際の秘書の扱いを思い出してかなり大雑把に説明するに止めた。
この世界には、元々会社という概念がないうえ、修一郎たちのような事務員という職業自体もここ数年で耳にする機会が増え始めた状態である。
これからもっと人口が増え、商業が成熟して有形無形に関わらず今まで以上の多種多用な商品や情報が取引されるようになり、組織が複雑化すれば、自ずと秘書や専務といった役職も生まれてくるのだろうが、現段階では何処の商店や組合にも秘書という役職は存在しない。
「へぇ。宰相様ねぇ……。ま、確かにうちの店じゃそんなお偉い肩書きのヒトはいらねぇわな」
そう言って再び笑うゼリガだったが、これは思うところがあったわけではなく、単純にアーセナクトに数ある商店の中での、マリボー商店の規模を考えてのことだろう。
「まあ、私もあの雇い主のことを旦那様とは呼びたくはないな。悪い人じゃないんだが……」
二人の会話を聞いていたソーンリヴが作業の手を止めないまま、会話に加わる。
「それはともかく、シュウイチロウ。アーオノシュの荷物の件は、私は聞いてないぞ?いつ、連絡があった?」
「あ、すみません、ソーンリヴさん。実は先ほど昼食から戻る際に、店先でちょうど早伝役の方に会いまして」
早伝役とは魔法院が国からの要請を受けて、公的に行っている業務で、『伝達』の魔法が付与された『伝達板』を利用した遠隔地との意思疎通を可能にするものだ。
ある程度魔力を有する者ならば、独自で『伝達』を使うことができるが、一般市民にはそこまでの魔力を持たない者が殆どであるため、魔法院がその代行を請け負うことになっている。
ただし、誰でも利用可能というわけではなく、騎士団、警護団、医術士、王都若しくはアーセナクトに本拠を構え且つ総従業員が十五人を超える商人、アーラドル、ダリンに事務所を持ち総従業員又は団体員が三十人を超える工房、組合にしか利用は許可されていない。
利用許可の登録は、規定の書式に必要事項を記入し、申請費用を魔法院に納付すると、専用の伝達板が作成されて登録済みとされる。
その際、最低二名の使用者を登録し、登録された者以外は使用できなくするための魔法が掛けられる。
基本的には伝達板は二枚になるのだが、追加料金を納付すれば三枚以上の保持が可能となる。
ただし、この伝達板は一年で効力を失うため、継続利用するためには毎年登録申請時と同額の料金が必要となり、その額も馬鹿にならないこともあって、本当の意味での一般市民にはあまり利用する機会はない。
また、実際に利用するにあたっても、必ず魔法院直属の担当者が監視役として付く。
これは犯罪や謀略のために利用されることを防ぐためだ。
その担当者のことを、一般的に早伝役と呼ぶのだ。
そして、伝達板は早伝役立会いの下でないと発動できない仕組みとなっている。
そのため、連絡が入ったその場に偶然早伝役が居たりしない限りは、利用者はわざわざ魔法院か早伝役駐留所まで出向かなければならなかった。
それでも早文や早馬を使った連絡方法に比べれば、信頼性や所要時間の短縮などの恩恵に与ることができる早伝役は、それなりに利用されているようだ。
このあたりのシステムは、修一郎の居た『元の世界』では電話や携帯電話に相当するものなのだろうが、システムの簡略化に関してもう少しなんとかならないのだろうかと修一郎は思っている。
「ああ、伝達板は今週はシュウイチロウが当番だったな。
だが、連絡が入っていたのに呑気に昼飯食ってたのか?」
理由を聞いて、ソーンリヴは納得したが、その後の修一郎の行動を疑問に思ったのだろう、少しだけ口調に叱責の気配を滲ませて問い掛けた。
「もちろん『至急』の表示があれば、すぐさまこちらから早伝役を探したでしょうけどね。
何も表示がなかったもので、一度事務所に戻ってからと思いまして」
「で、運よく店先で早伝役に出会えたと」
「ええ。どうやらウチの店でお茶を買われた帰りのようでした。
結構ちょくちょく寄ってくださるそうで、お得意様のようでしたよ?」
何が可笑しいのか、笑みを絶やさぬまま聞いてもいないことまで説明する修一郎に、ソーンリヴは眉間を親指と人差し指で摘むように押さえながら、先ほどよりもトーンを落とした声で呟く。
「そうじゃなくてだな……。
なんで上司の私が何も知らなくて、新入りのシュウイチロウが指示を…………はぁ……もういい」
「まあまあ、ソーンリヴも細かいことに拘るなって。
俺らが帰っちまう前に“シャチョー”からの指示も分かったことだし、それでいいじゃねぇか」
取り成すように割って入ってきたゼリガの言に、ソーンリヴもこれ以上は時間の無駄だとばかりに、片手を挙げると手のひらを振った。
「分かった分かった。さっさと倉庫に行ってイルーに在庫板渡してきな。
流通はこれで上がりだろうけど、他はそうじゃないんだからな」
そう言いつつ、何かに思い当たったようにソーンリヴは修一郎を睨む。
「まさか、この件以外でも何かマリボーさんから指示が出てるんじゃないだろうな?」
普段から目つきの鋭い印象のあるソーンリヴの表情が、さらに険しさを増す。
「いえ。社長から承った指示は流通部門に関してのみです。
他は通常どおりに勤務するようにと……」
「そうか。じゃあゼリガ、あんたは他の流通の面子にそのことを伝えておいてくれ。
倉庫への搬入が終わったら一度事務所に顔出してくれよ。勤務表に書いとかないといけないからね」
「了解だ。んじゃ、シュー。行こうぜ」
「はい。
では、ソーンリヴさん。ちょっと倉庫まで行ってきます」
「はいはい」
面倒臭そうに応えながら、既に先輩事務員は自分の作業に集中すべく、机の上の各種金属板と羊皮紙製の帳簿に向き直って、忙しく手を動かしていた。
事務室を後にしたゼリガと修一郎は、従業員用の狭い通路を通って店舗裏にある倉庫へ向かった。
小売業だけでなく問屋業も営んでいるマリボー商店の倉庫は、天上、奥行きも広く、修一郎が働いている事務室の優に十倍以上の広さがあった。
壁の随所に明り取りの窓が設けられているが、それで室内の隅々まで外光が射し込むはずもなく、全体的にぼんやりと明るい程度である。
その中を、人間族の男性と鳥人族の男性が、忙しそうに動き回っている。
倉庫の入り口に立った修一郎は、大きな声で在庫管理部門の担当者の名を呼んだ。
「イルーさん!アーラドルからの荷が届きましたー!搬入を始めますが宜しいですか?」
名前を呼ばれた鳥人族が、倉庫の隅から文字通り飛び上がると、その特徴である背中の翼を羽ばたかせこちらにやってくる。
「……遅かったな。荷物は疾うに到着していたのではなかったか?」
ゼリガと同じ白のシャツに、こちらは水色のズボンを履いている。
犬人族とは違い、背格好も顔つきも人間とまったく変わらない鳥人族だが、性格はあまり社交的とは言えず、感情も表に出すことは滅多にない。
かと言って他種族と交流を持たないかと言えば、そうでもない。必要最小限の社交性は持ち合わせているようである。
これが狼人族や獅子人族になると、そうはいかない。他種族から『孤高の種族』と揶揄されるように、己が種族以外とは殆ど交流を持とうとしないのだ。その性格からか、彼らを街中で見かけることはまず、ない。
精々が、冒険者または探鉱者と呼ばれる連中がたむろしている酒場で極々たまに見かけるくらいだ。
「ええ。まあちょっと。
すぐに搬入していただきます。ゼリガさん?」
実に日本人らしい曖昧さで言葉を濁しつつ、修一郎がゼリガを見遣ると、心得たとばかりにゼリガは建物裏の荷卸し場へ向かって駆け出して行った。
「それから、これが在庫板です。アーラドルからの、筆器具類、顔料、銀製食器、木製食器類になります。
月末が近いので、入荷量はそれほどでもないようです」
修一郎は小脇に抱えていた金属板をイルーに差し出すと、鳥人族の男は真面目な顔でそれを受け取った。
くすんだ金髪を短く刈った、彫りの深い顔立ちの鳥人族は、出納板に薄茶色の視線を落とし、商品名と入荷数を確認する。
年齢は三十一歳と聞いているが、修一郎からすると十ほど年上に見える。
「了解した。先ほど販売部門から顔料の蔵出しを頼まれたところだ。数量の調整をやっておいてくれ」
淡々とした口調で、そう告げられた修一郎は、先ほど事務所でソーンリヴに見せた情けなさそうな苦笑を再び浮かべ、イルーに告げる。
「そのことなんですが、すみません……。
私は出納板全般が扱えないので、イルーさんにやっていただけると非常に助かるのですが……」
「ああ、そうだったな。すまない。
分かった、私のほうでやっておこう」
「お手数をおかけします。
その代わりと言ってはなんですが、その顔料は私が“表”まで運んでおきますよ」
「では、頼む。
在庫板はそこの休憩用長椅子の上に置いておくから、帰りに持って行ってくれ」
イルーが視線で示した先には、まさしく作業員が休憩時に使う長椅子があった。
イルー個人の拘りなのか、鳥人族の癖なのかは分からないが、どうやらイルーは、言葉を略したり職場内での略称を使うことを良しとしないようである。
生真面目な鳥人族の男にありがとうございますと応えて、修一郎は顔料が保管されている棚へと足を向けた。
「販売部門から言われた顔料は、バンルーガ王国産の赤色と紺色を二箱ずつだ。間違えないでくれ」
「はい。バンルーガ産ですね」
何度か倉庫での作業もこなしたのだろう、修一郎は然して迷うこともなく、言われたとおりバンルーガ産の顔料が詰めてある木箱の並べられた棚から、赤と紺の木箱を抜き出していく。
自分の手のひらより二回りほど大きな木箱を四つ抱えた修一郎は、“表”、つまりはマリボー商店の店頭へと向かって行った。
従業員専用扉から、修一郎が姿を現したとき、丁度店頭には客の姿はなかった。
裏方である倉庫や事務室などに比べ、店内は充分な照明に、欅に似た光沢を持つ木材が床、壁、天井に使われており、この店を訪れる客層に合わせた洒落た造りになっている。
店内の広さは修一郎のいた世界の単位で言うと、横幅が約5メートル、奥行きが約6メートル、天井までの高さが約2.5メートルと、他の同規模の店と比べ若干広いと言えなくもない。
しかし、魔法を用いた間接照明を取り入れていることと、床材に木を使っていること、無闇矢鱈に商品を並べるようなことはせず、必要最小限を陳列し、雑貨店にありがちな雑然とした雰囲気を払拭したことが、店主であるマリボーが他店とは違うと自慢するところでもあった。
一般的な店では、照明はランプか術石を用いた燭台の直接照明のみであり、床材は資材として豊富であることや手入れのし易さから砂岩を使用していることが多く、商品は単純に積み上げるか並べるか、良くて棚一杯に陳列して品揃えの豊富さをアピールするかである。
マリボー商店の陳列方法に関しては、修一郎が初めて店内を見た際に、思わず洩らした一言を聞きとがめたマリボーが、試しに修一郎の言う通りに陳列してみたところ、商品自体が見易くなった・圧迫されるような雰囲気がなくなった・どことなくお洒落な感じがする等の感想が客から寄せられたため、正式採用された。
「お疲れ様です」
店内に居た販売部門の女性二人に声をかけると、修一郎は運んできた木箱を顔の高さまで揚げて尋ねる。
先ほどまで客が居たのだろうか、一人は会計用カウンターで作業しており、もう一人はそこから少し離れたところで陳列棚の商品を暇そうに弄んでいた。
二人が身に着けている衣装はこの店の販売員用制服なのだろう、淡い青の生地を基調として襟と馬乗り(後身頃の腰の辺りの部分)に緑のワンポイント、袖が白といった上着に、上着と同じく淡い青の生地で作られたスラックスで統一されている。
販売員は店の顔だけあって、修一郎たち事務員が着ている地味な制服とは違い、機能性を考慮しながらも、清潔感を出すように配慮がなされていた。
さすがに絹は高価なため、上質ではあるが木綿を使用している点に関しては事務員の制服と然程変わらないのだが。
「言われていた顔料です。赤二つに紺二つ。
レナヴィルさん、これで間違いありませんか」
二人のうち、修一郎の近くに立っていた店員の人間族の女性に声をかける。
「あら、ありがと。イルーが持ってくるものとばかり思ってたわ。
悪いけど、そこの棚まで運んでくれるぅ?」
緩やかなウェーブを描く赤い髪を項のあたりで切り揃えた、修一郎の世界で言うところのショートボブに近い髪型をした女性である。
接客していないときは、茶色の瞳の半分ほどを瞼に隠すような眠そうな目で、物言いも尊大なものであったが、いざ客を目の前にすると、見事な営業スマイルを顔に貼り付け、耳に心地よい声で嫌味にならない程度に客を褒めちぎることで客の財布の紐を弛ませる。
彼女の特殊技能とも呼べるその振る舞いは、販売部門の他の二人には到底真似出来ないレベルにまで達していた。
加えて、豊満な胸に、細くくびれた腰、形の良い尻、長身であるはずの修一郎とほぼ同じ身長と、修一郎の世界であればトップモデルも充分務まるであろうスタイルは、男性客だけでなく女性客も見惚れることがあるくらいだ。
ソーンリヴ曰く、こんな中流の店でなく貴族相手の店でも充分にやっていけるだろうに。とのことである。
修一郎がレナヴィルに指示された棚に顔料を補充していると、もう一人の店員、クローフルテが近づいてきた。
クローフルテは、森の妖精族エルフの女性である。
透き通るような銀髪を腰のあたりまで伸ばし、前髪を小さな飾りの付いた木製の髪留めでまとめている。
淡い空色の瞳につり目がちの切れ長の目、すっと通った鼻筋に形の良い唇と、エルフ族最大の特徴である、長く尖った耳。
スタイルはレナヴィルほどでないにしろ、出る所は出て、引っ込むところは引っ込んでいる。
細身が多いエルフ族にしては珍しいと言えるが、世間一般に言われている「エルフ族には美男美女しかいない」との噂を裏付けるには充分な美貌の持ち主だった。まあ、飽くまでも人間族主観でのことだが。
余談だが、レナヴィルもクローフルテも、そして今日は休日となっているもう一人の店員ジスも、販売部門担当者三人の年齢は皆不詳となっている。
長命な種族と言われるエルフ族のクローフルテはともかく、他の二人は人間族であるにも関わらず、誰に訊いても明確な答えが返ってくることはなく、本人たちも答えようとしなかった。
代わりに返ってきたのは「女性に年齢を訊くとは失礼極まりない」というお叱りの言葉と冷たい視線であった。
世界は違えど、こういった女性の反応に関しては共通しているようだ。
「手伝います」
そんな年齢不詳のエルフ族の女性は、木箱を挟んで修一郎の向かいでしゃがみ込むと、無表情で木箱から顔料を取り出し、丁寧に棚に並べていく。
「ありがとうございます、クローフルテさん」
「……マイヤック」
礼を言う修一郎に、クローフルテは無表情のまま呟いた。
「……クローフルテ・マイヤックです」
「あー、シュウイチロウ。
彼女、家名……んー、エルフ族の場合は氏族名だっけー?で呼ばないと機嫌悪くなっちゃうわよぉ」
二人をに気だるげに眺めていたレナヴィルが、面倒臭そうに声をかける。
接客時と平時でここまで態度が違う人も珍しいのではないだろうかと思いつつ、修一郎は素直に訂正することにした。
「すみませんでした、クローフルテ……マイヤックさん。助かります」
「……別に敬称は必要ないです。それに怒ってもいません」
“さん”付けは必要ないというクローフルテに苦笑しながらも、修一郎は宥めるように言う。
「まあ、そこは大目に見てくださいよ。まがりなりにも四ヶ月も先輩なんですから。クローフルテさんは」
「クローフルテ・マイヤックです」
相変わらず無表情で修一郎の言葉を訂正するクローフルテだった。
商品の補充を終え、倉庫にて在庫板を受け取った修一郎が事務室に戻ると、仕事が一段落ついたのか、ソーンリヴが左手で右肩を叩いているところだった。
「戻りました。お茶でも淹れましょうか?」
小さく笑いながら、修一郎がそう告げる。
「ん……?そうだな、頼む」
そう言って、ソーンリヴは眉根を寄せると修一郎を凝視した。
睨まれた修一郎は、微かに首を竦めながらも事務室内に設けられた小さな流しへと足を向ける。
「それ程遅くなったつもりはないんですが……。すみません」
流しの近くにあるランプから焚きつけ用の小枝に火を取って、小型の簡易竈に向かう自分を凝視したままのソーンリヴに、謝罪の言葉を口にする修一郎。
修一郎の謝罪に一瞬何のことか思い当たらなかったソーンリヴだったが、少し考えて部下である修一郎が言わんとしていることを理解して、訂正する。
「別に怒ってなどいないが?
……ああ、悪い。睨んでいたわけじゃない。少しばかり目が疲れただけだ」
「そうでしたか。そういえば最近、ソーンリヴさんちょくちょく疲れ目だと言ってませんか?」
竈にやかんをかけ、ポットに茶葉を入れながら、振り向くことなく修一郎が問い掛ける。
修一郎から視線を外し、上を向いて目頭を指で揉んでいたソーンリヴは、その仕草を続けたまま、口の端を少しだけ吊り上げて答えた。
「そうだな。誰かさんのおかげで余計な仕事も増えたからな。おかげで私の目は悪くなる一方だ」
「それはいけません。医術士に診てもらったらどうです?
あとは、目に良い物を食べるとか。たしか、ニンジンやカボチャ、レバー、チーズ、ブドウあたりが良かったはずですよ。
……あ、それとブルーベリーも目に良いとか言ってたかな……ただ、こっちの世界にあったかどうか……」
ソーンリヴが半分皮肉、半分冗談で言った台詞の前半部分を見事に聞き流して、修一郎は上司の心配をする。
実際のところは、修一郎が来たことで増えた仕事など殆どない。
魔法を使う作業を任せられないだけで、それ以外の仕事に関しては修一郎はそこそこ役に立っている。
むしろ、それまでソーンリヴが一人でこなしていた雑事を修一郎に割り振ることで、彼女自身の仕事は捗っていると言っていい。
「疲れ目程度で医術士なんぞにかかれるか。馬鹿高い診察料と紹介料を取られて調薬士に回されるのが落ちだ」
修一郎の天然ボケにも既に慣れたのか、皮肉が通じなかったことを気に留めるでもなく、藍色の髪をわずかに揺らしながら先輩事務員は天井に顔を向けたまま答える。
医術士とは、魔法と医学全般及び薬草学を修めた者が就ける職種で、王国と魔法院、双方の許可がないと医術士とは名乗れない。
調薬士とは、初歩医学と薬草学を修めていれば、所属する都市の市長の許可のみで開業することができる。
前者はその資格を得る条件の厳しさから、王国全体でも数十人しかおらず、王都や各都市はまだしも、地方の小さな街や辺境の村となるとまず見かけることはない。
また、医術士は、各分野の知識及び技術と、難関を潜り抜けたという多少と言うには大きすぎるプライドを持つ者が多く、治療代金が高額であるのが常であった。
だが、身体の部位欠損や骨折、重篤の患者もほぼ完治させることができるため、その分治療代が高いのは仕方がないと言われているのも事実である。
後者は、薬草に関する知識があれば、後は簡単な医学に関する講習を受けるだけで開業できるため、王都や各主要都市はもちろん、地方都市や小さな街にも大抵二~三人はいる。
極端なことを言えば、その辺りの薬草摘みの娘が調薬士組合に行って講習を受け、市長の署名の入った許可証を受け取れば、その日から調薬士になれるのだ。
そういったことから、街には何人もの調薬士がおり、開業までの手間の少なさや要求される知識の程度、他の調薬士との価格競争、あと少しばかりの調薬士本人の良心から、治療代金は庶民が利用できるレベルに抑えられている。
重い風邪や、軽度の裂傷や打撲であれば、大抵の者が調薬士を頼る。
「それに、ニンジンやカボチャはともかく、レバーは臭いがダメだ。チーズはあの歯触りが好きじゃない。
そしてブドウは時季じゃない」
漸く目頭を揉み解すことをやめ、視線を修一郎に戻し、即答に近い早さで答えたソーンリヴだったが、未だ視界がぼやけているのか、眉間に皺を寄せたままだ。
「しかし、よくそんなことを知っているな、シュウイチロウ。
もしかして向こうの世界では調薬士のような仕事をしていたのか?
あと、ブルーベリーというのはどんな食べ物だ?」
「まさか。元の世界でも私は事務員をやってましたよ。普通の事務員でした。
ただ、食べ物に関しては、本や……まあ色々なところから見たり聞いたりしただけです。
専門的な知識があるってわけじゃないですよ」
テレビやインターネットと言っても通じないことは分かっていたので、適当にぼかしながら答える。
しかも適当に流し読みしていた中に、そんな記事があったという程度なうえ、真偽の程をきちんと確認していない情報が多く、もっと真面目に読んでおけば良かったかなと苦笑を浮かべる修一郎だった。
「で、ブルーベリーとは?」
先ほどの修一郎の台詞の最後は、殆ど呟きに近いものだったのだが、目つきの悪くなった女性上司は確りと聞いていたのだろう、執拗に訊いてくる。
「ブルーベリーというのは、木の実というか一応果物……かな?潅木に小さな実をつけるんですが、色はブドウに似て、味はブドウより若干酸味が強かったと思います。
私はそのまま食べるよりジャムで食べるほうが多かったですね。パンに塗って食べてましたよ。
ですが、この国でも北のバンルーガでも西のルザルでも見かけたことがありませんから、おそらくこちらの世界にはないと思いますよ」
自分とソーンリヴ、それぞれのカップを用意し、あとは湯が沸くのを待つだけの修一郎は、腰に両手を充てたまま、やかんを見つめていたが、視線をソーンリヴに向けて説明する。
「なるほどな。まあ、機会があれば食べてみたいものだ」
こちらの世界にないと言われ幾分興味が失せたのか、気のない返事をしつつ、ソーンリヴは椅子にもたれるように座っていた姿勢を正して仕事を再開する。
それに合わせたかのようなタイミングで湯が沸いたので、修一郎は竈からやかんを取り上げてポットに湯を注ぐ。
湯気と共に、嗅ぎなれた茶の香りが事務室内に漂い始める。
ポットの蓋をして、茶葉を蒸らしていると、通路から何者かが歩いてくる音がした。
「ソーンリヴ。荷の運搬は終わったからよ、上がらせてもらうぜ?」
これまたタイミング良く、ゼリガが事務室の扉を開けて入ってくる。
「ご苦労さん。じゃあ流通はこれで上がり……と。今、何時だ?」
薄い木板でできた勤務表に何やら書き込みながら、ソーンリヴは事務室の壁に設けられた小さな窓を見遣る。
透明感のない、曇りガラスのようなガラスが填め込まれた窓からは、夕暮れの赤い陽射しが申し訳なさげに射し込んでいた。
ソーンリヴの机まで歩いてきたゼリガは、机に両手をついた格好で、ソーンリヴの手許を覗き込みながら答える。
「ちょっとばかし前に親鐘三つに子鐘四つ鳴ったから、子鐘四つ半ってとこじゃないか?」
「分かった。親鐘三つに子鐘四つ半にしとくよ」
「おいおい……。自分で言っといてなんだが、いいのかよ。そんな適当で」
「構わんさ。店主直々に上がっていいと言われてるんだろう?
子鐘一つもない差なんて気にするほどのことでもない」
そんな会話を交わしているゼリガとソーンリヴの前に湯気の立ったカップが置かれた。
「今から休憩でお茶でも飲もうってことになってたんですよ。ゼリガさんもどうです?」
そう言って柔らかな笑顔を浮かべた修一郎は、自分のカップと一緒に持っていたものを先輩事務員に渡す。
「あとこれはソーンリヴさんに。しばらく目に当てておくといいですよ」
そう言って渡されたのは、沸かしたお湯の残りで温めた小さなタオルだった。