知られざる悩み
執筆者ういいち
エレーナの部屋に招き入れられた禾槻はカップを手に、家主から勧められた丸椅子へ腰掛ける。エレーナは対面に位置付くベッドの縁へ腰を下ろし、渡されたカップを両手で包み込んだ。
「エレーナさんに、昔のことを聞かせてもらったからね。僕も話しておかないと不公平かと思って」
「そんな……気にする必要ありませんのに」
「いいや、僕が話したいんだ。きみに聞いて欲しい」
面と向かい合い、禾槻は微笑んだ。その中に真剣な決意を感じ、エレーナも頷き返す。
「とはいえ、あまり面白い話じゃないんだけどね」
苦笑して禾槻はカップを口へ運んだ。一口だけ中身を飲み、ゆっくりと息を吐く。
「僕は母さんを探して旅していたって、前に少し話したよね」
「はい」
「僕が母さんと離れ離れになったのは、まだ7歳の頃なんだよ」
カップの中の水面を覗き、禾槻はどこか遠い目をする。幼き日の記憶を反芻するように、朱瞳は細められていた。
「どうしてですか? まだ小さい頃じゃないですか」
「僕達は奴隷だったからね。奴隷はね、なんの権利も与えられない人の形をした家畜なんだ。だから僕達の意思とは関係なく、金銭で売り買いされる」
悲痛な顔でカップを握り締めるエレーナへ、禾槻は力なく笑い掛けた。変え難い現実を受け入れた諦観の面持ちで。
「母さんには新しい買い手が見付かったんだよ。それで僕達は引き離された」
「それ以来、お母様を捜してらっしゃるのですか」
「うん」
エレーナが送る労わりの眼差しに、禾槻はそっと頷いた。もう一度カップを口元へ持っていくと、満たされたミルクで喉と唇を湿らせる。
「あの頃の僕にとって、母さんは唯一の味方であり、世界の全てだったんだ。居なくなった時は、それこそ世界が終わるような気分になった」
「どんな方だったのですか?」
「そうだなぁ。綺麗で優しくて温かくて、何時も不遇な扱いを受けてたけど前向きだったよ。何も怨まず許す心を持てと教えられた」
「素敵なお母様だったのですね」
母親について語る禾槻の言葉に、エレーナは柔らかく微笑んだ。青年が紡ぐ一語一語に強い親愛の情と、普段以上に優しげな響きを感じたからだ。彼の母へ向ける想いの質が、充然に伝わってくる。
「そうだね。食べ物もろくに与えられなくて、何時も襤褸切れ同然の服を着て、朝から晩まで働かされて。そんな辛い奴隷生活に耐えられたのも、母さんが居たからだよ」
「だからこそ、どうしても会いたかったのですね」
「うん。幸いにしてと言うべきか、母さんと離れて少ししてから特異能力に目覚めてね。僕を繋ぎ止めていた枷を焼き切り、飼い主だった商人の家を焼いて逃げ出したんだ。それからはずっと、当てもなく世界を彷徨ってきた」
昔語りをする禾槻の表情は、懐かしさと苦味の双方が混ざり合った複雑なものだ。幼少期の過酷な体験が心を焼くのか、時折面上へ苦渋が過ぎる。
その様子を目の当たりにして、エレーナは悲しげに目を伏せた。気心の知れた友人の痛ましい過去に、胸の締め付けられるような思いがする。それなのに何もしてやれない自分の無力さへ、堪え難い歯痒さが募っていく。
「でも、お母様は見付けられたのでしょう? 以前の話でも、捜していたという過去形でしたから」
「うん、まあ。何処に居るかは分かったよ。母さんの事をよく知る人から話を聞けてね。直接は会ってないけど、元気にしてるみたいだから、それでいいんだ」
カップの中を見詰めて、禾槻は寂しそうに微笑を刷く。それは本当に消え入りそうな、儚い笑顔だった。
「何処にいらっしゃるか分かっているのに、会いに行かれないんですか?」
「うん」
「どうして……」
「母さんは僕と離れてから新しい人生を手に入れたみたいなんだ。その生活は穏やかで、安定したものだった。少なくとも奴隷時代に比べれば、ずっと幸福な日々を送れている。母さんが幸せになれたのは、凄く嬉しいよ。なんていうのか、とても安心した」
禾槻はそこで言葉を切り、天井を仰いだ。それから口を閉ざしてしまう。エレーナも黙したまま、青年の発言を待った。部屋の中には沈黙が訪れ、二人の周囲に奇妙な緊張を齎す。
たっぷり十秒ほどの間を空けて、禾槻はゆっくり視線を落としエレーナをへ向けた。揺らぎなく注がれる朱瞳には、覚悟と悔恨が等分に滲む。
「だからこそ、僕は会うべきじゃないと思う」
「どうしてそう思われるのですか? お母様はきっと、霧川さんに御会いしたいと思っている筈ですよ」
「僕の父は誰か分からないんだ。母さんは奴隷として色んな人の手を渡っていたからね。女奴隷がどんな目に遭わされるか、想像出来るだろ? つまり僕はさ、母さんにとって人生の汚点みたいなモノなんだよ。振り返りたくない過去そのものなんじゃないかと思う」
真剣な口調で禾槻は告白する。今まで誰にも晒した事のない、心奥に秘めた不安と痛みを。
「母さんに会いたい一心で僕は生きてきた。でも、いざ会えるとなって気付いたんだ。僕が会いに行ったら、きっと母さんの幸せを壊してしまう。僕という存在は、嫌でも昔を思い出させる悪夢の結晶だ。奴隷時代の暗い過去を拭い去って、光の射す生活を営む母さんに、僕は会っちゃいけないんだよ。今まで散々辛い目を見てきて、ようやく幸せを手に出来たんだ。そこへ行く資格が、僕にはない」
嘆きと諦めの混濁した顔で、禾槻は重々しく息を吐いた。それは強固な決意の表れであったが、同時に自分自身へ言い聞かせているようでもある。己の選択に少なからぬ迷いを抱いている事は、彼が覗かせる複雑な表情から充分すぎるほど知れる。
「どうして、そんな事を言うんですか」
エレーナの呟きが、空白の大気に弾けた。小さいものの幾多の感情が込もる声だ。カップを握る手が小刻みに震えている。俯き加減の顔は、血が滲むような心痛を浮かべていた。哀しみと、彼女が滅多にみせることのない怒りによって。
「大切な肉親の方へ会うのに、決まりなんてあるわけがないじゃないですか!」
「エレーナ、さん?」
「ずっと離れていた親子が再会するのはいけないことなんですか? 会っていいのかどうか、資格があるとかないとか、そんなの誰にも決められるわけないじゃないですか!」
かつてない程の剣幕でエレーナが叫ぶ。鬼々迫るとも表現出来る顔付きで声を張り上げながら、彼女は泣いていた。緑の瞳から零れ落ちる透明な雫が、幾つも連なり白い頬を滑っていく。禾槻は驚きに目を瞠り、そんなエレーナを唖然と見ていた。
普段から淑やかで穏やかな彼女は、殆ど感情を乱すことがない。今回のように声を荒げた事は、禾槻が知る限り一度もなかった。優しく朗らかな姿に隠れてあまり見られないが、彼女には誰にも負けない芯の強さがある。それが今、明瞭に表立っている。
「せっかく会える人が居るのに、それなのに会わないなんて……そんなの、駄目ですよ。どんなに会いたくても、もう二度と会えない人だっているんです。チャンスがあるなら、会わなくちゃ……でないと、きっと後悔します」
嗚咽混じりにしゃくり上げ、エレーナは呻く。涙の溜った視界は酷く霞んでいたが、それへ構わず禾槻をじっと見詰め続けた。彼もまた視線を逸らしはしない。
「霧川さんには会いたい人が居て、しかも望めば会えるのでしょう? だったら悩むより何より、まずは会いに行かないと。幸せかどうかなんて、そんなの直接聞かなくちゃ分からないですよ」
多少低まった鼻声でエレーナは続けた。とても強い願いの宿された言葉が、真っ直ぐに禾槻へと届けられる。
3000年の遠い昔、最愛の家族と仲間を失った彼女の訴えは、あまりに重く痛ましい切実さを持っていた。恐ろしい孤独への哀しみと絶望。埋め難い喪失感と空虚さ。それらを誰よりも長く抱き、嘆き苦しみ続けてきたエレーナの真摯な願いは、高名な賢者の説法よりも胸へ打ち響く。迷い揺れる青年の心を烈しく刺激し、大きな衝撃を与えるほどに。
「エレーナさん、ごめん。きみを泣かせたかったわけじゃないんだ」
すまなそうに謝罪を口にし、禾槻は椅子から立ち上がった。そのまま数歩前へ進んで手を伸ばす。羽織の袖から出た褐色の腕と細い指が、依然として涙を湛えるエレーナの瞳へと向かう。彼女の目尻に浮かんだ涙の粒を、伸ばされた指が優しく拭った。
「でも、ありがとう。きみの言うとおりだね」
雫が払われ開けた視界に、穏やかに微笑む禾槻の顔が現れる。憑き物が落ちたような爽やかな笑みに、エレーナはそっと息を飲んだ。込み上げていた感情の奔流が、少しずつ落ち着いていく。
「まさかエレーナさんに怒られるとは思わなかったよ。ごめん。きみだって、辛いのにね。僕が間違ってた。きみのお陰で目が覚めたよ」
「あの、私の方こそ、霧川さんの気持ちも知らないで……言いたいことだけ言ってしまって、ごめんなさい」
徐々に冷静さを取り戻していく中で、エレーナは深々と頭を下げた。心の猛りに任せて言い放った科白を一つ一つ思い出しては、その度に恥と申し訳なさで赤面していく。
そんな彼女へ笑い掛け、禾槻は頭を左右へ振った。晴れ晴れとした彼の面立ちに、不快さや苛立ちは皆無である。面上へ満ちるのは、自分の迷いを断ち切って前を向けさせてくれたエレーナへの、尽きることない感謝の念だ。
「なんだか二人して謝ってて、変な感じだね」
「ふふふ、そうですね」
顔を見合わせて、禾槻とエレーナは同時に吹き出す。先刻までの張り詰めた空気は、今や完全に霧消していた。
「とにかく、決心がついたよ。やっぱりエレーナさんに話して良かった」
「私はただ言いたい放題言ってしまっただけですが。でも、どうなさるか決められたのならよかったです」
「うん。それで、ちょっと御願いがあるんだけど。いいかな?」
にこやかに頷いた後、禾槻は少しばかり真剣な顔に戻ってエレーナを見た。禾槻の真面目な口ぶりに、エレーナも居住いを正す。
「はい。なんでしょうか」
「実は、母さんに会いに行く時なんだけど。一緒に来て欲しいんだ」
「えっと、それは私が、ですか?」
思わぬ申し出にエレーナは驚き、目を瞬かせる。どういう事なのか、正確に理解が出来ない。
「うん。御願い出来ないかな」
「どうして私なんですか?」
「母さんに会いに行く決心はついたんだけど、情けないことにまだちょっと不安でね。エレーナさんが一緒に来てくれたら、心強いんだ。それに、大切な友達として紹介もしたいし」
照れ臭そうに頬を掻いて、禾槻は子供めいた笑みを覗かす。快活な雰囲気にはもう、暗さや気負いはまったくなかった。