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夕暮れが過ぎ、夜の帳が降りた平日の夜8時。私はスマートフォンを握りしめ、ひどく緊張していた。
待ち合わせは、家の近くの歩道橋の上。私は今日、見ず知らずの人と待ち合わせをしている。
その人とは、マッチングアプリで知り合った。今まで、アプリでは顔写真とプロフィールをじっくり見て、自分好みの人を探してきた。でも、結果はいつも同じだった。表面的なやり取りはできても、心が通い合うことはなかった。どこか、壁を感じ、かつ自分自身も常に仮面をつけているかのような気分だった。誰かに見た目で判断されることにも疲れていたのと同時に、自分も無意識に見た目で選んでるんじゃないか、という自己嫌悪も抱えていた。
そんなことを考えていた私はいつからか、アプリのプロフィール写真に顔を出すことに抵抗を感じ、後姿の写真だけを載せるようにした。写真を変えてから、マッチする回数は格段に減ったが、そのぶん、一人ひとりにちゃんと向き合える気がしていた。
大学の授業が終わり、スマホをチェックすると1件の通知が来ていた。マッチングしたようだ。アプリを開き相手のプロフィールを確認すると、そこには顔写真どころか、画像は一つも登録されていなかった。なぜマッチしたのか不思議だった。右にスワイプした覚えがなく、プロフィールも身長200cm、体重100kgと出鱈目な数字が書かれていた。ただそんな中、彼に対して興味が湧いた。どんな人なんだろう。そう思い、思い切って彼にメッセージを送信してみた。
「マッチングありがとうございます。よろしくお願いします。」
すると、返事はすぐきた。
「よろしくね。なんて呼べばいい?俺は、将樹」
「私は秋です。」
「そっかそっか。秋よろしくな。今何してる?」
「授業が終わって、帰宅するところです。そちらは?」
「俺も帰宅中。」
「一緒ですね!というか今日はさむいですね。」
「そうだなぁ~。熱燗でも飲みたい気分だな」
「私お酒飲めないんですよ。すぐ顔が真っ赤になっちゃうので(笑)。だから私は、おでんとか食べたいです!」
今まではメッセージを送るだけでも、どこか気を使っており、猫を被っていたのだろう。お互いの顔がわからないと、自然と友達と会話するように気楽に話すことができた。メッセージを交わすうちに、お互いが驚くほどご近所に住んでいると判明した。その偶然の楽しさに、思わず
「もしよかったら今夜会ってみませんか?」
と、提案をしてみた。すると彼は、
「構わないよ。じゃあ海の近くの歩道橋で待ち合わせしようか。夕飯食べたらいくよ。」
「わかりました!楽しみにしてます。」
そうして今に至る。
待ち合わせ場所の歩道橋は、夜8時という事と、駅から離れている事もあり、人通りが少ない。街灯の光がまばらに道を照らしているだけで、静けさがかえって不安を煽る。聞こえるのは海の波音だけ。よくよく考えると、顔も知らない人と急に会うなんて、結構大胆で危ないことなのではと考えた。一足先に着いてしまった私は、じわじわと恐怖を覚え始めていた。
「将樹さんには悪いけど、やっぱり帰ろう。」
そう思って歩道橋の階段を降りようとした、その時。
歩道橋の向こうから一台の自転車がゆっくりと近づいてくる。乗っているのは30代くらいの男性。身長は180cm以上ありそうで、もじゃもじゃの髪が特徴的だ。その風貌は、サッカー選手のラモスを彷彿とさせる、強烈な個性がある。
彼は私の前で自転車を停め、穏やかな声で言った。
「秋さんですか?」
帰ろうと思っていた矢先に声をかけられ、私は驚いてフリーズした。顔も知らない相手と会うことに恐怖を覚えていたけれど、彼の顔を見たらどこか安心感を覚えた。強烈な個性を持つ彼だったが、その穏やかな目元はメッセージから感じていたイメージをそのまま映し出しているようだった。
「はっ、はい。将樹さんですよね。お待ちしてました。」
私の戸惑いを察したのか、彼は少し照れたように笑って言った。
「待たせちゃったかな?こんなところで立ち話もあれだし、近くに公園があるから、そっちに移動しない?」
彼の声は、落ち着いていて優しい。少し躊躇したものの、その声を信じて頷いた。
「大丈夫です。行きましょう。」
軽い自己紹介を改めてお互いしつつ、公園へ向かった。冬の夜は身を切るように冷たく、風が頬を刺す。街灯の数が少なく、少し不気味な公園にたどり着いた。階段状になったコンクリートの段に腰掛け、星空の下で会話を始めた。
「よくこういうふうに会うの?」
「あまりですね。最近は誰とも会ってなくて。」
「俺もだなぁ。なかなか難しいよなこういうの。」
「だから自分でもびっくりしてるんです。今日知り合って急にあってるから。」
「一緒だな。俺は誰かと話したかったから丁度よかったよ。」
「何かあったんですか?」
「いや別に。ただ話したいそう思っただけだ。」
「まあそういう時もありますよね。私は興味本位で(笑)。将樹さんが悪い人じゃなくてよかったです。」
「あはは、興味本位かぁ。もしかしたら悪い人かもよ?(笑)」
そういって彼は両手をあげ襲うポーズをした。
「もー、からかわないでください(笑)。私そういうのなんとなくわかるんです。」
「なんとなくって?」
「ん~なんていうんだろ。危機察知能力があるというか。本当に危ない人はメッセージとかで直感でわかるんです!」
「じゃあ俺は平気だったんだ。」
「そうですね。悪い人ではないと思います。ただ。。。」
「ただ?なんだ?」
「秘密です!」
「なんだよ、教えろよ~。」
最初はぎこちなかったが、彼と会話していくうちに、私の緊張は徐々に解けていった。話題は尽きることなく、まるで何年も前から知っていたかのように、自然に言葉が紡がれていく。
ふと彼の顔を見て、つい声に出して言ってしまった。
「ラモスみたい。」
咄嗟に口から出た言葉に、彼は一瞬目を丸くした後、冗談めかした口調でこう返した。
「ラモスか、じゃあ、秋はおばさんみたいだな。」
ドキリ、と心臓が鳴る。確かに、私はどこかおばさんくさい、堅実で流行に疎いところがある。それは、自分自身が密かに抱えていたコンプレックスでもあった。しかし、不思議と不快感はなかった。むしろ、初対面の相手に自分の本来の姿を見透かされたような気がして、思わず笑ってしまった。
彼は私のその反応を見て、安心したように笑みを浮かべる。この瞬間、今までにない感情を感じた。
「寒いな」
と彼が呟いた。
「そうですね。今日は今年一番の冷えらしいですよ。」
私は両腕を擦りながら、無意識に身震いする。すると、彼は階段を一段登り私の後ろに来て、
「足の間に入るように座ったら、もっと暖かいだろ」
と言ってきた。
少し驚きながらも、私はお言葉に甘えて、彼に寄りかかるよう座ろうとすると、彼は着ていたコートの前を開け、私を包み込んでくれた。彼の体温が背中から伝わり、温かい安心感に包まれる。
ドクン、ドクン、と心臓が大きく鳴る。将樹さんは今までの自分のタイプとはかけ離れている。むしろ、今までなら絶対に選んでこなかったタイプだ。しかし、彼の大きな体に包まれて感じる安心感、そして温かさは、何よりも心地よかった。
「なんか、ずっとこのままこうしていたい…」
私の心は、理屈を超えてそう願っていた。
彼の腕の中で、安らぎと同時に、今までにない衝動が私を襲う。ふと、私は大胆な言葉を口にしてしまう。
「キス、してもいいですか?」
彼は少し驚いたように、しかし優しい眼差しで私を見下ろす。
「お酒飲んだから、アルコール臭いよ?」
少し照れたように言う彼に、私はそんなことはどうでもよかった。
「それでも、いい」
彼の目を見つめて、そう答える。
私はそっと顔を上げ、彼の唇にキスをした。すると、彼の言葉通り、どこかアルコールを感じるキスだった。
久しぶりのキス。どこか心地よい。
キスを終え、私は笑いながら言った。
「本当にアルコール臭いですね」
彼も
「そうだろ?」
と笑っている。
今まではかっこいいからキスがしたいとか、何か条件がないとキスをしたいと思っていなかった。なのに今日は、ただこの人とキスがしたい。心からそう思った。本能だろうか。
時間が経つのはあっという間だった。気付けば時間は23時を回っていた。
「じゃあ、そろそろ帰るか」
「はい」
そう答え、公園を後にした。お互い家が近かったが、さすがにまだ知り合って1日。お互いの家を知るには気が引ける。交差点に差し掛かったところで、切り出した。
「今日はどうもありがとうございました。この辺でお暇しますね。」
そう言うと、彼は
「こちらこそ、送らなくて大丈夫?」
「大丈夫です!もうすぐそこなので。走ればすぐです!」
「わかった。気をつけてな。」
「はい。ラモスも気をつけて。」
「ばーか。じゃあな。」
「おやすみなさい。」
そう言って、お互い背を向け歩き出した。
翌日、私は彼に
「昨日はありがとうございました」
とアプリでメッセージを送った。しかし、そこから返信が来ることはなかった。ああ、自分だけ気に入っていて、彼はなんとも思っていなかったのだろう。虚しさを感じた。ブロックされたり、ごめんなさいと言われるよりも、何の音沙汰もなく無視されることが一番傷つく。
しかし、まだ知り合ってまもない。そこまで深く入り込んでいたわけではなかったため、傷は浅く済んだ。一夜の恋だったと思い、いつしかこの出来事を忘れてしまっていた。
数年後。仕事を終え、最寄り駅に到着しホームに降りた時、スマホの通知が鳴る。なんだろうと確認すると、マッチングアプリのメッセージの通知だった。
開くと彼からのメッセージだった。
「めっちゃ服赤いな」
たったそれだけのメッセージだった。
偶然にも、私は赤いカーディガンを着ていた。彼も同じ車両に乗っていたのだろうか。あたりを見渡すが、ラモスらしき人影は見当たらない。
私はメッセージで、
「うるさい」
とだけ返し、アプリを閉じた。