高橋 在長(たかはし ありなが)
1.誕生と東宮の近侍
寛政12年頃に京都で生まれる。少納言・高橋在保の子とされるが、正確な記録がなく詳しい出生地や生母が不明であり、市井で幼少期を過ごしたことから実子かどうかについては疑問も呈されている。このため、町人文化や庶民の思想に理解があり、幼少期に培った視野の広さや闊達さは、後の自由思想に大きな影響を与えたと考えられている。
幼くして類稀な記憶力と思考力を発揮し、高橋家の嫡子として早くから名が知られ、その才気煥発な様子が様々な公家の日記に記されている。文化11年頃に在長は時の関白・鷹司政煕の引き立てを受け、幼少より東宮(のちの仁孝天皇)の近侍として仕え、ともに勉学に励んだ。この時に仁孝天皇と主従を超えた友情を結び、皇統への尊崇と仁孝天皇個人への忠誠心を抱くようになる。
2.知識探求の旅と尚歯会
文政3年頃から、成長した在長は家業に殉じて文献収集の旅に出る。京都、大坂、長崎出島、江戸を巡り、各地の寺院、藩校、私塾に立ち寄りながら、貪欲に知識を吸収した。しかし、天保8年頃から江戸に住み着く。高橋家には帰京命令に対して学問に身を捧げ、廃嫡されようとも帰還しない、という強い決意を示した在長の私信が残っている。しかし、江戸での在長は公家の身分を利用し、様々な私塾や学者の家に居候して、一心不乱に読書と論談に明け暮れていた。
この過程で渡辺崋山、高野長英らと親交を深め、尚歯会に参加する。特に渡辺崋山とは立場こそ異なれど思想に共通点が多く、昵懇の仲となった。
在長は尚歯会で自由な論壇の場と、先進的な西洋知識、実学だけでなく啓蒙思想や社会契約論に触れ、さらに高橋家の禁書庫から得た中国の『公天下』思想や、真宗系の平等思想に学び、そして、日本における公議政治の必要性、学問の自由、身分制度を超えた教育の意義を痛感し、独自の思想を形成していく。
3.蛮社の獄と京への召還
充実した日々を送る在長だったが、天保10年に蛮社の獄が発生。在長は公家であったため幕府からの警告だけで済んだものの、盟友の渡辺崋山と高野長英が逮捕され、この言論弾圧に在長は強く憤る。在長は渡辺崋山、高野長英の関係者たちと協力して救済に奔走するが、芳しからず、減刑にこぎ着けるのが精一杯だった。それに激昂した在長は匿名ではあるが、世相のあり様や当局を批判する檄文を発し、逮捕の危機に直面した。
これを察知した朝廷は、在長を強制的に京へ連れ戻し、在長に今後一切この件に関わらぬよう厳命した。さらに蟄居中の崋山から暴挙を諫め、日本のため思想の継承をしてほしいと諭され、高野長英からは世を変えるため培った思想の拡大と拡散しろ、と叱咤する手紙が届く。盟友を救えなかった在長は強い悔恨を抱きつつも、盟友たちの想いに応えるため自由な論壇の場を作ることを決意する。
天保11年、在長は謹慎に近いこの帰京時に、関白・鷹司政通を通じて仁孝天皇へ建白書を奏上した。その内容は、身分制度に囚われない幅広い教育の重要性を説き、自由な学問と議論の場の設立を提言するものだった。しかし、当時の朝廷に身分制度に挑戦するような内容に賛同できる者はおらず採用されることはなかった。それでも、在長の熱意に心を動かされた仁孝天皇と鷹司家は、規模は小さいながら支援を約束した。
仁孝天皇は在長の心意気に深く感じ入り、個人的な友誼もあって在長を激励した私文と「清鑑」の御宸翰を密かに下賜した。在長はこれに感激し、「子孫は末代までこの御恩に報いるべし」と日記に書き残している。
4.清鑑院塾の創設
帰京後は朝廷への出仕と家業に専念する。周囲は在長の博識と有能さを惜しみ、仁孝天皇からも慰留を求められ、その日の日記には「ただただ汗顔の至り」と記している。そのため在長は朝廷に忠勤しつつ、京都で学問所のような施設の開設を目指していたが、この頃は公家たちの子息を教育する目的で、のちに学習院となる計画が既に動き出していた。ただ在長の思想とは相容れず、また学習院を主導していた格上の広幡家から牽制もあったため、対立を畏れた在長は京都で学問所を開設する計画を断念する。
弘化元年に在長は高橋家の家督を継ぐ。この頃、海外のアヘン戦争に始まる不穏な空気が漂い、高橋家は江戸や大坂でも諜報活動を強化するため動き出す。在長はそれに合わせて大坂や江戸での学問所の開設を模索し始める。
弘化3年、個人的に尊崇していた仁孝天皇が崩御、深い悲しみに暮れる在長だったが朝廷に義理は果たしたと言わんばかりに出仕しなくなり、大坂や江戸での学問所開設に向けて本格的に動き出す。嘉永6年頃に江戸での開設を内々に幕府に打診し始めた頃、折しも黒船来航。西洋の影響で激動の時代に突入する。在長はそれを隠れ蓑として江戸での学問所開設を決意。「江戸拠点拡張」という名目で再び江戸へ拠点を移す。時の関白だった鷹司政通は在長の行動に苦言を呈しつつも在長の熱意に負けて渋々許可を与えた。
江戸の活動拠点の設立にあたり、在長は幕府の海防強化計画を逆手に取る。品川宿近辺の土地は幕府直轄であったが、在長は『この地に蘭学を基盤とした教育機関を設置することで、西洋の最新知識を日本の防衛に役立てる』と渡辺崋山の論法に習って、開明的な開国論を曲げてでも幕府に受け入れやすい排他的な海防論を説く。さらに朝廷からの支援も受けていることをちらつかせると朝幕協調の機運が高まっていたこともあって幕府の説得に成功。結果として、嘉永7年頃に半ば公的な私塾開設を名目に品川の御用地の一画を借用した。
安政3年に、借用した品川の土地に様々な研究所や医療施設を併設した先進的な教育機関を建設し、仁孝天皇から下賜された御宸翰を原典に「清鑑院塾」と命名する。その後、在長は清鑑院塾の塾長として辣腕を振るう。
表向きは幕府に恭順しつつ、海防計画に関する研究と策定に従事するが、塾内では平等思想・自由思想、実学の重要性を説き、理性的で自由な論壇を推進。身分や思想を問わず学ぶ者を受け入れ、開国論や教育論の第一人者として評価されるようになる。
在長はかつての尚歯会にあった自由闊達な議論と合議を目指し、合議による意思決定を志向したものであり、後の議会政治の先駆けともいえる思想だった。
万延元年から文久元年にかけて、和宮内親王の降嫁に向け、朝廷の命で情報収集や和宮一行の下向の下準備を滞りなく手配する。そのことを江戸に到着した和宮から直接謝意を伝えられ、また和宮の父である仁孝天皇について、思い出話を所望され、お喜びいただけた、と在長の日記に記されている。ただ在長は和宮の降嫁にかこつけて、朝廷から資金を調達して江戸各地に支塾網を整備している。
5.晩年と影響
幕末期の動乱期、清鑑院塾は激しい内部対立が起こり、存立危機に陥る。それだけでなく幕府と関係があったことや、僅かながら流入していた西洋人とも積極的に意見交換していたこと、その割には教育や論談に注力して政治活動には消極的なことなどが、いろいろな所から避難を受け、過激的な活動家に命を狙われる危機に晒されるが、在長の思想に共感した多くの支援者に守られ生き延びた。
明治維新後、清鑑院塾の門下からは、官民で活躍する多数の人材が輩出され、在長の理想は存命中に実現できなかったが、その理念は子孫と塾生たちにより、後の清鑑院大学へと継承された。
在長の最後の記録は、明治5年に学制制度の要旨を明治天皇に進講するため皇居に参内した際のものである。その後、自宅で突然倒れ、数日後に死去した。
6.在長の思想について
江戸後期の公家社会出身の人物にしては開明的であり、その思想は近代的な自由・平等・民権さえ見える。
在長は高橋家の禁書庫で、中国の『公天下』思想や、真宗系の平等思想に学び、これを基盤にした。さらに尚歯会を通じて西洋の社会契約論や啓蒙思想を吸収し、それらを統合する形で『公議政治と教育の自由が、日本の未来を開く』という独自の信念に至った。
その近代的な思想は、板垣退助をして日本における自由民権の父祖と言わしめた。
7.五箇条の御誓文と在長
歴史資料の中に五箇条の御誓文の作成に在長の関わりを示す公式記録は存在しない。しかし、御誓文の理念と在長が掲げた思想があまりにも似通っていることから、幕末当時から「在長が御誓文を起草した」と噂されていた。
在長自身は生前、五箇条の御誓文に強い共感を認めつつ「御誓文の作成には一切関与していない」と証言しており、決定的な証拠もないことから、この説は長らく否定されてきた。
ところが、のちの時代、高橋家の旧蔵文書の整理中に、在長が仁孝天皇に提出した建白書の写しが発見された。そこには「公議による政治」「身分を超えた知識の共有」「世界の叡智を学ぶことの重要性」など、五箇条の御誓文と驚くほど共通する理念が記されていた。
さらに調査が進むと、幕末の五箇条の御誓文の作成過程で参照された資料の中に、この建白書と全く同じ文書が含まれていたことが、別の史料から判明したのである。
この発見により、作成過程で建白書の写しが参照された可能性が高まり、近代史研究者の間で改めて議論が活発化することとなった。
・関連項目
高橋家(伯爵)
清鑑院塾
清鑑院大学