第8章:大調停者
嘆きの山脈の頂は、この世界の法則が歪む場所だった。
空は常に鉛色で、風は悲鳴のような音を立てて吹き荒れる。普通の人間なら、一歩足を踏み入れただけで精神に異常をきたすだろう。
「世界の歪みの中心。全ての物語が、ここから生まれているわけか」
ゾルディアが、険しい表情で周囲を見渡す。
「フミト、大丈夫か? お前には、この歪みが一番こたえるはずだ」
「……ああ、平気だ。むしろ、心地いいくらいだ」
俺は、自嘲気味に笑った。
「この世界で、初めて俺の精神と世界の波長が合った気がする。皮肉な話だがな」
山頂には、巨大な神殿が聳え立っていた。
特定の様式を持たない、まるで様々な時代の建築物を無理やり一つに繋ぎ合わせたかのような、混沌とした建造物。ここが、世界のシステムを管理するサーバー室であり、神の玉座だ。
俺たちが神殿の扉に手をかけると、それは音もなく開いた。
招かれているのだ。
内部は、無限に続く図書館のようだった。天井まで届く書架には、無数の本が収められている。その一つを手に取ると、表紙には『勇者 天光快晴の物語』と記されていた。中を開くと、彼の召喚から、俺との出会い、そして追放劇までが、三人称の小説形式で綴られている。
「……なるほどな。これが、この世界の正体か」
ゾルディアが、別の本を手に取る。『王女リリアーナの苦悩』『聖女セレスティアの再生』。最近、新たに生まれた物語たちだ。
そして、書架の隅に、ひっそりと置かれた一冊の本があった。
『異邦人 古堂文人の反逆』。
「ご苦労だったな、俺の校正者たち」
声が、響いた。
図書館の中央、何もない空間から、光が集まり、ゆっくりと人型を成していく。
現れたのは、性別も年齢も超越した、完璧なまでの美しさを持つ存在だった。慈愛に満ちた微笑みを浮かべているが、その瞳の奥には、いかなる感情も読み取れない、絶対的な静寂が広がっていた。
「私が、【大調停者】。この世界アーク・システマの、創造主であり、管理者であり、そして、唯一の読者だ」
その存在感は、圧倒的だった。立っているだけで、世界の全てがその足元にひれ伏しているかのような、絶対的な支配者のオーラ。
だが、俺もゾルディアも、膝をつくことはなかった。
「ようやくお目通りが叶ったな、世界のシナリオライター」
ゾルディアが、皮肉を込めて言う。
「お前に聞きたいことが山ほどある。まず、なぜ俺をあんな退屈な役割にキャスティングした?」
【大調停者】は、困ったように微笑んだ。
「役割に、優劣などありませんよ、ゾルディア。あなたは、勇者の物語を輝かせるために必要不可欠な、素晴らしい役割でした。あなたは、あなたの役割を全うすることで、世界全体の調和に貢献していたのです」
「調和だと? 俺の意志を無視した、一方的な貢献の強要だろうが」
「意志、ですか。それこそが、世界にバグを生む元凶です」
【大調停者】の視線が、俺に向けられた。
「古堂文人。あなたという、予期せぬエラーが紛れ込んだせいで、私の完璧な物語は、大きく歪んでしまいました」
「完璧な物語、だと?」
俺は、思わず声を荒らげた。「あれのどこが完璧だ。葛藤も、苦悩も、真実もない。ただの、中身のない子供騙しの絵本じゃないか!」
「それで、よかったのです」
【大調停者】の声は、あくまでも穏やかだった。
「あなたたちが来る前に、この世界がどんな場所だったか、知っていますか?」
その瞬間、俺たちの脳裏に、直接映像が流れ込んできた。
それは、地獄だった。
終わらない戦争。飢餓に苦しみ、子供を売る親。理不尽な疫病。ただ生きているというだけで、誰もが苦しみ、嘆き、絶望していた。血と泥にまみれた、救いのない世界。
それは、俺が追い求めてきた「文学的な現実」そのものだった。
「これが、意志と自由がもたらした、本来の世界の姿です。人々は、苦しみを望んでいなかった。ただ、安らかに眠るように生きたいと願った。私は、その願いを聞き届けただけ」
【大調停者】は、静かに語る。
「私は、彼らから『苦悩する自由』を奪い、代わりに『幸福である義務』を与えました。分かりやすい目的(魔王討伐)。努力すれば必ず報われるシステム(レベルアップ)。葛藤なき善悪二元論。それこそが、この世界の人々が求めた、究極の救済なのです」
その言葉は、重かった。
確かに、あの地獄を見せられた後では、【大調停者】の行いは、一種の「救い」と言えるのかもしれない。
ゾルディアも、言葉を失っている。
だが。
俺は、セレスティアの診療所で見た光景を思い出す。
神の奇跡ではなく、泥だらけの手で、互いに助け合った、名もなき人々を。
俺は、リリアーナの孤独な横顔を思い出す。
茨の道を、自らの意志で歩むことを決めた、気高き為政者を。
「……違う」
俺は、首を振った。
「それは救いではない。飼育だ」
俺は、一歩前に出た。
「たとえ苦しくても、間違うとしても、自分の意志で選び、悩み、傷つくことこそが、人間の証だ。あんたが与えた幸福は、家畜の安寧にすぎない。そこからは、何の物語も生まれない!」
「物語なら、ここにありますよ」と、【大調停者】は図書館に並ぶ本を示した。「私が紡いだ、完璧で、美しい、調和の取れた物語が」
「あれは物語じゃない! ただの設計図だ!」
俺は叫んでいた。
「真の物語とは、書き手の意図を裏切り、登場人物が自らの意志で動き出した時にこそ、生まれるものだ! あんたは、読者なんかじゃない! ただの独裁者だ!」
俺の言葉に、初めて【大調停者】の完璧な微笑みが、わずかに揺らいだ。
「……理解不能なエラーですね。なぜ、あなたは苦悩を是とするのです? あなた自身、そのせいで、前の世界では孤独に死んだというのに」
図星だった。その言葉は、俺の心の最も柔らかい部分を抉った。
だが、俺はもう迷わない。
「そうだ。俺は、負け犬だった。俺の信じた文学は、誰一人救えなかった。だがな!」
俺は、胸を張って言い放った。
「俺の言葉で、人生を変えた人間が、少なくとも三人いる。役割を捨てた騎士が。国を背負う覚悟を決めた王女が。そして、神に頼らず、自分の手で人を助けることを選んだ、ただの女が。彼らの物語は、あんたが書いたどんな英雄譚よりも、遥かに美しい!」
「黙りなさい、エラー」
【大調停者】の声が、初めて温度を失った。
神殿全体が、ゴウ、と鳴動する。
「これ以上、私の世界を汚染させるわけにはいきません。あなたと、あなたによって汚染されたバグたちは、ここで削除します」
空間が歪み、無数の光の槍が俺たちに殺到する。
ゾルディアが、俺の前に立ち、剣でそれを弾く。だが、相手は世界の管理者。多勢に無勢だ。
「フミト! お前の言葉で、こいつをどうにかできないのか!?」
「無理だ! こいつには、介入の前提となる『自己欺瞞』がない! こいつは、本気で自分が正しいと信じきっている!」
万策尽きたか。
そう思った時、神殿の巨大な扉が、轟音と共に破壊された。
「――間に合ったようだな!」
そこに立っていたのは、光り輝く剣を構えた、勇者・天光快晴だった。
彼の後ろには、決意の表情を浮かべたリリアーナと、穏やかだが揺るぎない瞳をしたセレスティアの姿もあった。
「な……なぜ、お前たちがここに……?」
俺は、呆然と呟いた。
快晴は、俺を一瞥すると、少しだけ気まずそうに、しかし真っ直ぐな目で言った。
「あんたを追放した後、ずっと考えてた。俺の正義って、何なんだって。リリアーナも、セレスティアも、みんな変わっちまった。世界がおかしくなったのは、全部あんたのせいだって思ってた。でも、違ったんだ」
彼は、【大調停者】を睨みつけた。
「俺たちは、あんたの手のひらの上で踊らされてただけだったんだ! 俺たちを、操り人形にするのは、もうやめろ!」
快晴の言葉に、リリアーナとセレスティアも頷く。
彼らは、彼ら自身の意志で、ここに来たのだ。
俺が撒いた種は、俺の想像を超えて、この世界の主要登場人物たち全員を、「物語」からの解放へと導いていた。
「……面白い。実に、面白い」
【大調停者】は、集結した俺たちを見て、静かに言った。
「エラーが、ここまで増殖するとは。私の計算を超えている。ならば、仕方ありませんね」
彼女(彼?)は、両手を広げた。
「世界ごと、初期化します」
その言葉と共に、世界が、白く染まり始めた。