第7章:神の不在証明
王都を離れた俺たちは、次の目的地を定めていた。
世界のシステムの根源とされる【大調停者】の神殿。ゾルディアが古文書から読み解いた情報によれば、それは人里離れた「嘆きの山脈」の奥深くに存在するらしい。
「世界のシナリオライターに会って、直接文句を言う。いよいよ、この旅も本題だな」
「ああ。だが、相手は神にも等しい存在だ。俺たちの言葉が通じる保証はない」
「通じなければ、通じるまで語るだけだ。お前の得意分野だろう、フミト」
軽口を叩きながらも、俺たちの間には緊張感が漂っていた。これまでの旅は、いわば序章に過ぎない。これから先は、この世界の根幹そのものに触れることになる。
「嘆きの山脈」の麓にある、寂れた村で旅の支度を整えようとした時のことだった。
村の片隅に、小さな診療所があった。中から、薬草を煎じる匂いが漂ってくる。そして、その入り口で、子供たちに囲まれている女性の姿を見て、俺は思わず足を止めた。
純白のローブではなく、動きやすい木綿の服。慈愛に満ちた聖女の微笑みではなく、穏やかで、少しだけ疲れたような、しかし確かな意志を感じさせる表情。
「……セレスティア……?」
俺の呟きに、彼女は顔を上げた。
その瞳に、一瞬、戸惑いの色が浮かんだ。しかし、彼女は逃げも、怯えもしなかった。ただ、静かに俺たちを見つめていた。
「……お久しぶりです、コドウ様。」
彼女は、深く一礼した。その所作には、かつての聖女の気品とは違う、地に足の着いた落ち着きがあった。
俺たちは、彼女の診療所に招き入れられた。
中は、決して広くはないが、清潔で、薬草の匂いに満ちていた。壁には、薬草の効能を記したであろう、彼女自身の筆によるメモがびっしりと貼られている。
「なぜ、こんな場所に?」
俺の問いに、セレスティアは苦笑しながら、薬草茶を差し出した。
「あの後、私は聖堂を出ました。自分が何者なのか、自分の力が何なのか、分からなくなってしまったからです」
彼女は、静かに語り始めた。
信仰を失い、自分の存在価値を見失った彼女は、ただ放浪していたという。死のうと思ったことも、一度や二度ではなかった。
そんな時、彼女はこの村にたどり着いた。高熱で苦しむ子供を前に、彼女は無意識に「奇跡の力」を使おうとした。しかし、迷いを抱えた彼女の手から、光は生まれなかった。
「その時、私は絶望しました。神に見放された、と。私は、本当に空っぽなのだ、と」
だが、その時、村の老婆が彼女に言ったのだという。
「お嬢ちゃん、祈ってる暇があったら、そこの冷たい水で布を絞っておやり。熱を下げるには、それが一番だよ」と。
「私は、言われるがままに、子供の体を拭きました。薬草を煎じて飲ませ、夜通し看病しました。私の手から光は出ませんでした。でも……次の朝、子供の熱は下がっていたのです」
セレスティアの目に、涙が滲んだ。
「その時、子供のお母さんが、私の汚れた手を握って『ありがとう』と言ってくれたんです。聖女様、ではなく、ただの私に。……その時、分かったんです。私は、神の代理人じゃなくても、誰かの助けになれるんだって」
それから、彼女はこの村に留まり、薬草学を学び始めた。奇跡の力は、信仰を失って以来、ほとんど使えなくなった。彼女は、自分の足で山に入り、薬草を摘み、自分の手で薬を作る。救える命もあれば、救えない命もある。神の奇跡のような万能の力はない。
「毎日が、無力感との戦いです。でも」と、彼女は自分の掌を見つめた。
「この手で、自分の意志で、誰かの痛みに寄り添う。この無力な私にできる、精一杯の償いであり、そして、これが、私が新しく見つけた『私』の物語なんです」
俺は、言葉を失っていた。
俺が投げつけた残酷な言葉が、彼女をここまで導いた。俺は彼女を破壊したが、その瓦礫の中から、彼女は自力で、より強靭で、より美しいものを築き上げていた。
「……立派だな」
思わず、そう呟いていた。
「俺が投げつけたのは、ただの破壊的な毒だった。それを見事に、薬に変えたのは、あんた自身の力だ」
「いいえ」と、セレスティアは首を振った。
「あなたは、毒と一緒に、解毒剤もくれました。覚えていますか? あなたが私に言った言葉」
彼女は、俺の目をまっすぐに見据えた。
「『ならば、あなた自身の意志で人を助けてみてはどうだ? 神の代理ではなく、一人の人間として。その一歩にこそ、神の奇跡よりも尊い価値がある』と」
「……そんなことを、言ったか、俺は」
介入の副作用で、俺自身の記憶は曖昧だった。
「はい。その言葉が、ずっと私を支えてくれました。だから、あなたには感謝しているんです。コドウ様」
その時、診療所の扉が開き、村の男が血相を変えて飛び込んできた。
「セレスティアさん! 大変だ! 崖崩れで、何人かが岩の下敷きに……!」
セレスティアの表情が変わった。穏やかな薬草師の顔から、決意を秘めた医療者の顔へ。
「分かりました、すぐ行きます!」
彼女は、救急箱を手に、迷いなく駆け出した。
俺とゾルディアも、後を追う。
現場は、悲惨な状況だった。数人が、巨大な岩の下で身動きが取れなくなっている。
「駄目だ、俺たちの力じゃ、この岩は動かせねえ!」
村人たちが、絶望の声を上げる。
セレスティアは、負傷者の応急処置をしながら、歯を食いしばっていた。彼女の非力な手では、どうすることもできない。
その時、彼女は俺を見た。その瞳は、助けを求めていた。しかし、それはかつてのような、奇跡にすがる目ではなかった。共に戦う仲間を見る目だった。
「ゾルディア!」
「言われずとも」
ゾルディアは、セレスティアの意図を察し、巨大な岩の前に立った。彼は、深呼吸すると、渾身の力で岩を押し始める。ミシミシと、岩が軋む音がする。
「フミト!」
「分かってる!」
俺は、村人たちに叫んだ。
「何をしてる! 一人じゃ無理でも、全員で力を合わせれば動くかもしれん! 祈ってる暇があったら手を貸せ!」
俺の言葉に、ハッとした村人たちが、次々と岩に取り付く。
「うおおおおおっ!」
男たちの雄叫びが、谷に響く。
その光景を見ていたセレスティアが、静かに目を閉じ、両手を合わせた。
彼女の体から、淡い、しかし、これまで見たこともないほど温かい光が溢れ出した。それは、傷を癒やす奇跡の光ではない。人々の力を増幅させ、勇気づける、励ましの光だった。
信仰を失った彼女が、自分の意志で、人々のために紡ぎ出した、新たな「奇跡」。
光を浴びた男たちの力が、漲る。
「動いたぞ!」
ゴゴゴゴゴ……という地響きと共に、巨大な岩が、ゆっくりと動いた。
岩が完全にどかされた時、俺たちは、助け出された人々と、力を使い果たして膝をつくセレスティアを囲んで、歓声を上げていた。
神は、いなかった。
勇者も、いなかった。
そこにいたのは、ただ、自分の無力さを知りながらも、力を合わせて困難に立ち向かった、名もなき人々だけだった。
夜、俺たちは再び、彼女の診療所にいた。
「……ありがとう、ございました」
セレスティアが、深々と頭を下げる。
「礼を言うのは、こっちの方だ」と、俺は言った。
「あんたは、俺に示してくれた。神の不在を。そして……神がいなくても、人間は、これほどまでに気高く、強くなれるということを」
そうだ。これこそが、俺が【大調停者】に突きつけるべき、最強の論拠だ。
あなたの作った安寧な物語がなくても、人間は自らの力で立ち、手を取り合い、未来を築くことができる。あなたの救済は、もはや不要なのだ、と。
「セレスティア」と、俺は彼女に言った。
「俺たちは、これから、この世界の神に会いに行く。文句を言うためにな」
彼女は、驚いたように目を見開いた。
「……もし、俺たちが戻らなかったら。あんたが、この村でやったようなことを、世界に広めてくれないか。神に頼らず、自分の足で立つ人間の物語を」
それは、遺言のようにも聞こえただろう。
だが、セレスティアは、悲しむのではなく、力強く頷いた。
「はい。お任せください。私も、私の戦いを、ここで続けます」
彼女の瞳には、もう迷いはなかった。
俺たちは、確かな希望と、より強固になった決意を胸に、再び「嘆きの山脈」の頂を目指して、歩き始めたのだった。