第6章:為政者の貌(かお)
元・魔王軍幹部との奇妙な二人旅が始まって、一月ほどが経った。
俺はゾルディア(便宜上そう呼んでいる)に、前世の哲学や文学を語り、彼はその驚異的な戦闘能力とサバイバル技術で、俺の命を何度も救った。彼は、俺の言葉をスポンジのように吸収し、急速に「人間」の思考を学んでいった。その変化を間近で見るのは、作家としてこの上ない喜びだった。
「つまり、フミト。お前の言う『近代』とは、人間が神という大きな物語を失い、個人の小さな物語を紡ぐしかなくなった時代の始まり、ということか」
「……まあ、乱暴に要約すればそうなる。お前、本当に元・中ボスか? 下手な哲学科の学生より理解が早いぞ」
「お前という、最高のテキストが隣にいるからな」
そんな対話を繰り返しながら、俺たちは王都へと向かっていた。
目的は、情報収集と、もう一つ。俺がこの世界に最初に投じた波紋が、どんな形になっているのか、この目で確かめるためだ。
王都「セントラリア」の姿は、以前と様変わりしていた。
城門には厳重な警備が敷かれ、民衆の顔には活気と共に、どこか緊張の色が浮かんでいる。以前の、ただ平和で退屈なだけの雰囲気とは明らかに違った。
「何があったんだ?」
俺たちは、酒場で情報を集めることにした。酒場の喧騒は、いつの世も情報の宝庫だ。
「聞いたか? また一つ、大貴族の家が取り潰されたらしいぜ」
「リリアーナ様、容赦がねえからな」
「だが、そのおかげで俺たちへの税は軽くなった。今や、姫様を悪く言う奴はいねえよ」
「まったくだ。あの勇者様とかいうお飾りが来てから、姫様は人が変わったように国政に力を入れ始めた。まるで、何かに目覚めたかのようによ」
――リリアーナ。
その名を聞いて、俺は杯を置いた。
あの、ただ守られるだけだった空虚な姫が、貴族を粛清する為政者に?
俺の介入が、彼女をそんな風に変えてしまったというのか。
確かめなければならない。
俺とゾルディアは、夜陰に紛れて王城に侵入した。ゾルディアにかかれば、城壁など裏庭の垣根も同然だった。
俺たちが忍び込んだのは、王女の執務室。月明かりだけが差し込む静かな部屋で、彼女は一人、膨大な書類の山と格闘していた。
その横顔は、以前とは全くの別人だった。
かつての無垢な少女の面影はない。そこにあるのは、疲労と決意を刻み込んだ、冷徹な為政者の貌。
俺の【真眼】が、彼女の新たな本質を映し出す。
【対象】リリアーナ・セントラリア
【本質】孤独な覚悟。非情なるリアリズム。
【自己欺瞞】『私は民のために、心を捨てた鉄の姫』。その実、彼女は毎夜、自らが下した決断の重さに苛まれている。切り捨てた貴族の家族の涙を、救えなかった民の嘆きを、その小さな肩で一人背負っている。彼女が捨てたのは心ではない。ただ、弱音を吐くことを自分に禁じただけだ。
なんと、痛々しく、そして気高い姿だろうか。
俺が壊した自動人形は、自らの意志で、茨の道を歩むことを選んでいた。
「……そこにいるのは、誰です?」
リリアーナが、顔を上げずに言った。俺たちの気配に気づいていたらしい。
俺とゾルディアが、闇の中から姿を現す。
彼女は、俺の顔を見ると、わずかに目を見開いた。だが、すぐに元の冷徹な表情に戻った。
「……生きていたのですね、コドウ。そして、虚無のゾルディア。なるほど、厄介な者たちが手を組みましたか」
その声には、再会を喜ぶ響きなど微塵もなかった。
「何の用です? 私の首を獲りに来たとでも?」
「いや」と、俺は首を振った。「ただ、あなたの顔を見に来ただけだ」
「私の顔? 見て面白いものでもないでしょう。ただの、国という怪物に食らいつかれた女の顔です」
彼女は、自嘲するように言った。
「あなたが教えてくれたのでしょう? 物語の中では生きられない、と。夢を見ているだけでは、この国は腐った貴族共に食い尽くされるだけだった。だから私は、現実を選んだ。勇者様の人気を政治的に利用し、邪魔者を排除し、民が生きるための改革を進める。そのためなら、私は悪魔にでもなります」
その言葉は、刃のように鋭く、そして悲しかった。
彼女は、俺の介入によって、この世界の「システム」の欺瞞に気づいてしまったのだ。勇者が魔王を倒したところで、腐敗した国内が変わるわけではない。真の敵は、もっと身近な場所にいるのだと。
「あなたは、危険な思想の持ち主だ」
リリアーナは、静かに立ち上がった。「あなたは、人々に『考える』という劇薬を与える。それは、この世界の安寧を破壊する、最も危険なテロ行為です。見過ごすわけにはいきません」
彼女が、机の裏にある呼び鈴に手を伸ばそうとする。
「待て」
俺は、彼女を制した。
「俺は、あんたを止めに来たわけじゃない。むしろ……感心している」
「……何ですって?」
「あんたは、自分の意志で、その茨の道を選んだ。誰かに与えられた役割じゃない。あんた自身の物語を、あんたは生きている。たとえ、それが苦悩に満ちた道だとしても、俺は……それを美しいと思う」
俺の言葉に、リリアーナの肩が、かすかに震えた。
彼女の鉄の仮面が、ほんの一瞬、揺らいだように見えた。
「……戯言を」
彼女は、吐き捨てるように言った。しかし、呼び鈴に伸ばした手は、力なく下ろされていた。
「今すぐ、ここから消えなさい。次に会った時は、国賊として容赦なくあなたたちを捕らえます。これは、警告ではなく、最後の温情です」
俺とゾルディアは、顔を見合わせた。
これ以上、ここにいる理由はない。
俺たちは、静かに窓辺まで後退した。
去り際に、俺は彼女に問いかけた。
「一つだけ、聞かせてくれ。勇者は……快晴は、どうしている?」
リリアーナは、背を向けたまま答えた。
「彼は、相変わらずですよ。魔王を倒すことだけを考えている。私が国政の闇の部分を全て引き受けているから、彼は純粋な英雄のままでいられる。それでいいのです。世界には、光を浴びる英雄と、その影で泥を啜る人間、両方が必要なのですから」
その言葉に、俺は胸を突かれた。
彼女は、快晴を守っているのだ。彼が、自分のような現実に直面しなくても済むように。彼が、ただの「勇者」という物語のままでいられるように。
なんと皮肉で、そしてなんと切ない愛情だろうか。
俺たちは、王城を後にした。
「フミト」と、夜道を歩きながらゾルディアが言った。
「あの姫、お前のことを憎んでいるわけではなさそうだぞ」
「……どうだろうな」
俺は、夜空に浮かぶ二つの月を見上げた。「ただ、俺たちは、もう決して交わることのない道を歩いている。それだけのことだ」
俺の介入は、世界を複雑にした。
単純な善悪二元論は崩壊し、それぞれのキャラクターが、それぞれの正義と苦悩を抱えて動き始めている。
それは、破滅への序曲か、それとも新たな創世記の始まりか。
俺は、作家として、この混沌とした物語の行く末を、最後まで見届ける義務がある。
たとえ、その結末で、俺自身が断罪されることになったとしても。