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第5章:虚無との対話

死ぬ、と思った。

降りしきる雪が、容赦なく体温を奪っていく。意識は混濁し、手足の感覚はとうにない。

前世と同じだ。誰にも看取られず、理解されず、ただ静かに消えていく。文学の神様とやらは、俺に二度も同じ結末を用意するほど、悪趣味らしい。


ああ、くそ。どうせ死ぬなら、せめてあの勇者一行が魔王に無様に負けるところまでは見たかった。俺の介入で歪んだ物語が、どんな破滅的な結末を迎えるのか。それこそが、最高の文学的カタルシスだったろうに。


そんな下らないことを考えていると、不意に、誰かの足音が聞こえた。

雪を踏みしめる、重い足音。

勇者どもが、憐れみから戻ってきたのか? それとも、トドメを刺しに来たか?

どちらでもいい。もう、どうでもよかった。


「……面白い奴だ」


頭上から、低く、しかし妙に澄んだ声が降ってきた。

聞き覚えのある声。

俺は、凍りついた瞼を、必死にこじ開けた。


そこに立っていたのは、漆黒の鎧を脱ぎ捨て、簡素な旅人のような服装をした、銀髪の男だった。その顔には見覚えがある。整いすぎた美貌、そしてその瞳に宿る、底なしの虚無。


「……ゾルディア……?」

「その名で呼ぶな。それは、俺が演じていた役に過ぎん」

男――元・魔王軍幹部ゾルディアは、こともなげに言った。彼の脇腹には、包帯が巻かれている。快晴に付けられた傷だろう。

「なぜ……生きている……」

「お前のおかげでな」


彼は、俺の隣に無造作に腰を下ろした。まるで、吹雪など意に介さないように。

「お前が叫んだ言葉。『お前の目には、生への執着が欠片もない』。あれは、呪いだった。俺という自動人形オートマタの、思考回路を焼き切るためのな」

彼は、自分の掌を見つめながら、静かに続けた。

「俺は、あの場で死ぬはずだった。勇者に討ち取られ、彼の成長の糧となる。それが、俺に与えられた唯一の存在意義だった。だが、お前の言葉で、俺の中に『なぜ?』という問いが生まれた」


「なぜ、俺は死ななければならない?」

「なぜ、勇者だけが物語の主役なのだ?」

「なぜ、俺の生と死は、誰かの都合で決められなければならない?」


「その問いが生まれた瞬間、俺はもう『虚無のゾルディア』ではいられなくなった。ただの、死にたくない一個人に成り下がった。だから、死んだふりをして、奴らが去った後に逃げ出した。実に無様だろう?」

彼は、初めて自嘲するように笑った。その笑みには、今までなかった「人間」の感情が滲んでいた。


「お前は、俺に『虚無』という役割からの自由をくれた。もっとも、その代償として、目的のない『無意味』な生を与えられたわけだが」


俺は、彼の言葉を、遠のく意識の中で聞いていた。

そうか。俺の介入は、無意味ではなかったのか。

俺は、一人の人間を、物語のくびきから解放したのか。


「礼を言う、記録係。おかげで、俺は生まれて初めて、自分の意志で行動している」

ゾルディアはそう言うと、俺の体をひょいと担ぎ上げた。

「どこへ……」

「さあな。当てもない旅だ。だが、死にかけの男を見捨てるほど、俺はまだ新しい自分に慣れていない。それに……」


彼は、俺の顔を覗き込み、面白そうに目を細めた。

「お前には興味がある。この世界の理を、たった一言で捻じ曲げる男。お前が信じる『文学』とやらは、一体何だ? 俺が感じているこの『無意味』の正体を、お前なら説明できるのか?」


その問いに、俺の意識はわずかに覚醒した。

そうだ。俺は作家だった。人間の業と救われなさを、言葉で解剖する者。

目の前には、最高の題材がいる。

与えられた役割シナリオを失い、実存的な不安に苛まれる、生まれたての人間が。


俺たちは、近くの洞窟で火を熾した。

ゾルディアは手際よく傷の手当てをし、どこからか調達してきた干し肉を俺に分け与えてくれた。元・魔王軍幹部が、まるで手慣れた冒険者のようだ。


「お前の世界では」と、ゾルディアが切り出した。

「人間は皆、俺のように、自分の存在意義に悩むのか?」

「……ああ。程度の差はあれ、な」

俺は、熱いスープで喉を潤しながら答えた。

「俺たちの世界には、神も魔王もいない。レベルアップもない。努力が必ず報われる保証もない。ただ、不条理な現実があるだけだ。だから、人間は問い続けるしかない。『自分は何のために生きるのか』と」

「くだらんな。そんな面倒な世界、生きているだけで疲れそうだ」

「全くだ。だからこそ、物語が生まれる」


俺は、焚き火の炎を見つめながら語った。

前世の文学について。カミュが描いた不条理を。ドストエフスキーが描いた神と人間を。芥川が描いた地獄のようなエゴイズムを。

それらは、安直な答えを与えてはくれない。むしろ、読者をさらに深い迷宮へと誘う。だが、その苦悩の過程にこそ、人間であることの証があるのだと、俺は信じていた。


ゾルディアは、黙って俺の話を聞いていた。

彼の虚無に満ちていた瞳に、知的な光が宿り始めている。彼は、俺の言葉を一つ一つ吟味し、自分の内面と照らし合わせているようだった。


「なるほどな」

やがて、彼はぽつりと言った。

「つまり、お前がやったことは、この世界から『神』を殺そうとする行為に等しいわけだ。【大調停者】……この世界のシナリオライターが定めた安寧を破壊し、人間に『面倒な自由』を押し付けるテロ行為だ」

「……言い得て妙だな」

俺は、苦笑するしかなかった。


「面白い。実に面白い」

ゾルディアは、立ち上がると、洞窟の入り口から吹雪の荒野を見つめた。

「ならば、俺も付き合おう。そのテロ行為に。この世界の全ての人形に、俺が味わった『なぜ?』という呪いを振りまいてやる。そして、最後に【大調停者】とやらに会って、聞いてみたい。なぜ、俺をこんな退屈な役柄にキャスティングしたのか、とな」


彼の横顔には、もう虚無の色はなかった。

そこにあったのは、明確な「反逆」の意志だった。

それは、世界を破壊したいという衝動ではない。ただ、自らの存在理由を、創造主本人に問いただしたいという、あまりに人間的な探求心だった。


俺は、彼の中に、初めて「同志」と呼べる存在を見出した気がした。

売れない作家と、役割を失った元・中ボス。

なんとも奇妙な、しかし、これ以上なく文学的なコンビの誕生だった。


「行くぞ、記録係。お前の名は?」

「……古堂文人だ」

「フミトか。いいだろう。俺のことは、好きに呼べ。もはや、俺に名などないのだから」


俺たちは、吹雪が止んだ荒野へと、二人で歩き出した。

目的は、世界のシステムそのものへの反逆。

それは、破滅への道かもしれない。だが、不思議と心は晴れやかだった。


孤独な独白は、終わった。

ここから始まるのは、二人の異邦人による、世界との「対話」の物語だ。

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