第3章:聖女の涙
ゴブリンの子供を見逃して以来、勇者パーティーの空気は、まるで薄氷の上を歩くようだった。
天光快晴は、明らかに変わった。口数は減り、戦闘の際にも一瞬の躊躇を見せるようになった。彼の剣は、もはや純粋な「正義の鉄槌」ではありえなくなったのだ。彼は、自分が斬る相手の「物語」を想像してしまうようになった。俺が植え付けた、呪いのような想像力を。
「古堂さん。あなたのせいですよ」
野営の夜、魔術師のアイリスが、静かに、しかし刃物のような鋭さで俺に言った。
「勇者様は、迷いを抱いてはいけないのです。彼の迷いは、世界の救済を遅らせるだけ。あなたのしたことは、ただの自己満足です」
俺は何も言い返せなかった。彼女の言う通りかもしれない。俺の信じる「真実」は、この世界にとっては不純物でしかない。
そんな重苦しい旅の果てに、俺たちは城塞都市「ルミナス」に到着した。
この街には、奇跡の力で人々を癒やすと評判の「聖女セレスティア」がいるという。傷ついた人々を癒やし、勇者の旅の助けとなる存在。実に都合のいい、物語の歯車だ。
聖堂は、荘厳でありながら、どこか張りぼてじみていた。
中央で祈りを捧げている女性が、聖女セレスティアだった。純白のローブ、清らかに澄んだ瞳、慈愛に満ちた微笑み。彼女の周りには、癒やしを求めて集まった負傷者や病人が列をなしている。
「聖女様! どうかこの子の病を!」
「私の足も、どうか……!」
セレスティアは、一人一人に優しく微笑みかけ、その手に触れる。すると、柔らかな光が溢れ出し、みるみるうちに傷や病が癒えていく。人々は涙を流して感謝し、彼女を「生ける女神」と崇めたてた。
「すごい……本当に奇跡だ」
快晴が、感嘆の声を漏らす。彼の心も、この光景に少しは救われるのかもしれない。
だが、俺の目には、全く違うものが映っていた。
【真眼】が、またしても俺の許可なく、世界の欺瞞を暴き立てる。
【対象】聖女セレスティア
【本質】歪んだ自己愛。依存的承認欲求。
【自己欺瞞】『私は、神の愛を地上に届けるための器』。その実、彼女の存在価値は、他者の不幸によってのみ証明される。癒やすべき傷がなければ、感謝されることもなく、彼女の自己は霧散する。彼女は人々を救っているのではない。人々を『癒やす自分』という役割に救われているのだ。その献身は、見返りを求めない聖性などではなく、最も狡猾な取引に他ならない。
――狡猾な、取引。
そのテキストが、俺の胃の腑を抉った。
なんという醜悪さ。なんという、人間的な真実。
彼女の聖性は、他者の不幸を糧に咲く、美しい毒の花だ。
「勇者様ですね。お待ちしておりました」
セレスティアが、俺たちに気づいて歩み寄ってきた。その笑顔は、完璧に聖女のそれだった。
「あなたの心に、迷いの影が見えます。ですが、ご安心を。私が、その曇りを晴らしましょう」
彼女はそう言うと、快晴の胸にそっと手を当てた。
柔らかな光が、快晴を包む。彼の表情から、ここ数日まとわりついていた苦悩の色が、すうっと薄れていくのが分かった。
「ああ……なんだか、心が軽くなる……」
「それが、神の御心です。勇者よ、あなたは迷う必要などないのです。ただ、信じなさい。あなたの剣が悪を滅ぼすことを」
やめろ。
その安直な救済で、彼の葛藤に蓋をするな。
彼がようやく掴みかけた「人間らしさ」を、都合のいい物語に回収するな。
俺は、気づけば一歩、前に踏み出していた。
万年筆を握る指先に、力がこもる。まるで、このペンが俺の剣であるかのように。
「聖女様」
俺の声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。
「ひとつ、お尋ねしたい」
セレスティアは、聖なる儀式を邪魔されたにもかかわらず、完璧な微笑みを崩さなかった。
「なんでしょう、記録係の方」
「あなたは、本当に彼を救いたいのか?」
俺は、彼女の目――その奥に広がる、承認欲求の暗い沼を、真っ直ぐに見据えて言った。
「それとも、『聖女である自分』を救いたいのか?」
その瞬間、聖堂の空気が凍りついた。
セレスティアの完璧な微笑みに、初めて亀裂が走る。
快晴を包んでいた癒やしの光が、ロウソクの火のように揺らめいた。
「……何を、おっしゃっているのですか?」
彼女の声は、かろうじて平静を装っていた。
俺は、言葉を続けた。それは、俺自身の言葉なのか、それとも【物語介入】が俺に言わせているのか、もはや分からなかった。
「もし、この世界から、病や怪我がなくなったら? 癒やすべき不幸が、ひとつもなくなったら? その時、あなたは何者になるんだ? あなたの価値は、どこにある?」
「……っ!」
セレスティアの手が、快晴の胸から、はらりと落ちた。
彼女の瞳から、光が消えた。
まるで、メッキが剥がれ落ちたように、慈愛の仮面の下から、ただの怯えた少女の顔が覗いている。
「わ、私は……神の……代行者……」
「神、か。便利な言葉だな。自分の空っぽな心を埋めるための、都合のいい言い訳だ」
俺の言葉は、毒矢のように、彼女の欺瞞の中心を射抜いた。
【物語介入】の反動が、俺の精神を襲う。彼女が今まで無視してきた、自己の存在意義への根源的な恐怖が、奔流となって俺の心になだれ込んでくる。息が詰まる。立っているのがやっとだ。
「ああ……あ……」
セレスティアは、その場にへたり込んだ。
彼女の周りにいた人々が、ざわめき始める。
「聖女様が……?」
「どうしたんだ……?」
「古堂ッ! てめえ、いい加減にしろ!」
我に返った快晴が、俺の胸ぐらを掴み上げた。その顔は、怒りと混乱で歪んでいた。
「お前は、人の心を壊して何が楽しいんだ! 彼女は、俺を救おうとしてくれたんだぞ!」
違う。彼女はお前を救おうとしたんじゃない。
彼女自身を救おうとしただけだ。
そう言おうとして、俺は言葉を飲み込んだ。
この青年に、これ以上、残酷な真実を突きつけてどうなる?
俺は、ただ無言で、快晴の拳を甘んじて受けた。
その夜、俺は聖堂の裏庭で、一人泣いているセレスティアの姿を目撃した。
彼女は、もう聖女ではなかった。
ただ、自分が何者なのか分からなくなってしまった、迷子の少女だった。
彼女は、自分の掌を見つめ、震える声で呟いていた。
「……私のこの力は、一体、なんのために……?」
その問いは、かつて俺自身が、売れない原稿を前に、幾度となく自問した問いと同じだった。
俺はまた、壊してしまったのか。
いや、あるいは。
彼女は今、生まれて初めて、自分自身の物語の、最初の1ページに立っているのかもしれない。
俺は、彼女に声をかけることもできず、ただ暗闇の中で立ち尽くす。
介入の副作用でズキズキと痛む頭を押さえながら、自嘲気味に呟いた。
「……救われねえな、どいつもこいつも」
俺自身を含めて、と、心の中で付け加えながら。
空には、作り物のように完璧な、二つの月が浮かんでいた。