第1章:地獄の序曲
Geminiと相談して書きました
意識が浮上する。
まるで、長く澱んだインクの海から、無理やり引き揚げられたかのように。
最後に記憶しているのは、四畳半の安アパート、万年床の冷たさ、そして天井の木目に浮かび上がった、餓死した先人たちの幻影だった。古堂文人、享年三十五。売れない純文学作家の、あまりに陳腐で、しかし本人にとっては切実な終幕。
だが、今、俺の瞼を震わせているのは、陽光だった。それも、煤けた都会のそれとは違う、目に痛いほど純粋で、暴力的なまでの色彩を放つ光。
「……よかった、気がついたのですね!」
聞こえてきたのは、鈴を転がしたような、という使い古された比喩でしか表現できない、あまりに完璧なソプラノだった。
ゆっくりと目を開ける。
そこにいたのは、御伽噺をそのまま切り抜いてきたような少女だった。金糸の髪、空を溶かしたような碧眼、レースをふんだんに使った豪奢なドレス。その隣には、これまた絵に描いたような人物たちが並んでいる。白銀の鎧を纏い、背中に大剣を背負った快活そうな青年。尖った帽子にローブ姿の、知性的な美貌の女性。
「ここは……」
喉から絞り出した声は、掠れていた。
「ここはアーク・システマ! 剣と魔法の世界です!」
快活な青年――その腰に提げられた剣の鞘には、ご丁寧に『勇者の剣』と刻印が彫られている――が、ニカッと歯を見せて笑った。
その瞬間、脳内に、直接文字が流れ込んでくるような奇妙な感覚が走った。
《チュートリアルを開始します》
《ようこそ、異世界『アーク・システマ』へ!》
《あなたは『召喚されし者』です。この世界を脅かす魔王を討伐するため、女神様によって選ばれました》
脳内アナウンス? なんの冗談だ。ドストエフスキーが描いた悪夢でも、もう少し体裁というものがあったぞ。
「私はリリアーナ。この国の王女です。あなた様が伝説の勇者様なのですね!」
王女と名乗った少女が、頬を染め、うっとりとした表情で勇者を見つめる。
「ああ! 俺が勇者の天光快晴だ! この世界は俺が必ず救ってみせる!」
芝居がかっている。あまりに薄っぺらなセリフの応酬。リアリティの欠片もない。人間の感情とは、もっと複雑で、醜く、矛盾に満ちたものではなかったか? 葛藤も、逡巡も、自己欺瞞もない。ただ、与えられた役割を、疑いもなく演じているだけ。
まるで、三文芝居の舞台に迷い込んでしまったようだ。いや、違う。これは、俺が前世で最も唾棄すべきだと断じたもの――読者の欲望にただ迎合し、思考停止を促すだけの、安直な「物語」そのものだ。
生命の輝きがない。人形のようだ。
ああ、ここは地獄だ。真の文学が存在しない、空っぽの世界だ。
吐き気がこみ上げてくる。眩暈がする。
その時だった。俺の視界が、ぐにゃりと歪んだ。
「勇者様! まずはあなたの『ステータス』を確認しましょう!」
ローブの魔術師が、澄んだ声で言う。
「ステータス?」
「ええ。心の中で『ステータス・オープン』と念じてみてください」
勇者・快晴が、言われた通りに目を閉じる。やがて、彼の前に半透明のウィンドウが出現した。そこには、ゲームでよく見るような文字列が並んでいる。
【名前】天光 快晴
【職業】勇者
【Lv】1
スキル】限界突破、絶対正義
「すごい! さすがは勇者様! 初期スキルからして伝説級ですわ!」
王女が、少しも心のこもっていない声で感嘆する。
俺は、その光景を冷ややかに見つめていた。ステータス? スキル? 人間をそんな記号で定義するなど、魂への冒涜だ。
その侮蔑の念が引き金になったのかもしれない。
俺が、隣に立つ王女リリアーナに視線を向けた、その瞬間。
世界が、ノイズの走った映像のように乱れた。
彼女の頭上に、半透明のウィンドウとは似て非なる、禍々しくも格調高い、万年筆で書かれたようなテキストが浮かび上がったのだ。
【本質】空虚
【役割】囚われの姫。救済されるべきトロフィー
【自己欺瞞】『私は国の象徴として、民のためにここにいる』という体裁。その実、思考は停止し、ただシナリオに身を委ねるだけの自動人形。その瞳の奥には、光の届かぬ古井戸のごとき虚無が広がっている。
「――ッ!?」
俺は思わず後ずさった。なんだ、これは。ステータスではない。これは、人間の魂を丸裸にする、呪いの解剖録だ。俺が前世で、血を吐くような思いで追い求めていた、人間の深層そのものではないか。
「おい、あんたもステータスを確認してみろよ。記録係」
勇者が、俺を指して言った。いつの間にか、俺の役割は「記録係」に決まっていたらしい。荷物持ち兼、この茶番劇の書記、というわけか。前世と何も変わらないじゃないか。
俺は恐る恐る、心の中で念じた。
(ステータス・オープン)
目の前に現れたのは、やはり他の者とは異質なウィンドウだった。
【名前】古堂 文人
【職業】異邦人
【Lv】―
【スキル】
・真眼:万象の欺瞞を看破し、その本質を文学的テキストとして認識する。
・物語介入:世界の物語の矛盾を指摘し、蓋然性のある結末に強制的に書き換える。発動時、対象の苦悩を追体験する。
スキル……だと?
これは、呪いだ。
他人の内面を暴き、世界を書き換える? 神でも気取れというのか。
冗談じゃない。俺は、神を信じない。俺が信じるのは、人間のどうしようもない業と、その果てに瞬く、救われなさの美しさだけだ。
「どうしたんだ? 役立たずのスキルでも引いたか?」
勇者が、値踏みするような視線を向けてくる。
俺は、湧き上がる吐き気を必死にこらえ、顔を上げた。
目の前には、完璧な英雄と、完璧な姫君、そして完璧な賢者が、完璧な笑顔でこちらを見ている。
その笑顔の裏に、【真眼】が暴き出した空虚と欺瞞が透けて見える。
俺は、乾いた唇で、かろうじて言葉を紡いだ。
「……いや。俺には、ステータスなどないらしい」
嘘をついた。
この呪われた力を、こいつらに知られるわけにはいかない。
この世界は地獄だ。だが、この力は、その地獄をさらに混沌とした、本物の地獄に変えてしまうだろう。
俺は、ただの記録係。異邦人。傍観者。
それでいい。この世界の物語に、俺は決して関わらない。ただ、この陳腐な物語の結末を、冷笑と共に見届けてやる。
その時の俺は、まだ知らなかった。
文学を魂とする人間が、物語の欺瞞を前にして、沈黙を守り通すことなど不可能だということを。
そして、この呪われた力が、俺自身のエゴと信念によって暴走し、この安寧な虚構の世界を、根底から覆すことになるということを。
俺の異世界での闘争は、こうして、ひとつの絶望的な確信と共に幕を開けた。
これは、救済の物語ではない。
世界のシステムに、文学という名の毒を盛る、静かな反逆の記録だ。