89 記憶の花
どこまでも緑の平原が続く道をシュヴァルツは駆けていく。
風と一体になり駆け、周囲の風景をぐんぐん追い越していく。
そのシュヴァルツと一心同体となったクラウド様はわずかな手綱の動きだけで自在にシュヴァルツの走行を操った。
わたしはこんなに長時間馬に乗るのは初めてだけれど、その場所に出るまでちっとも疲れなかった。
背中にずっとクラウド様の体温を感じて、ずっと心臓がうるさかったけれど。
突然視界に現れたその場所に、わたしは目を凝らす。
広範囲に草原が途切れて、黒く煤けた地面がむき出しになっていた。
まるで酷い火傷のようだ。
見ていると全身に刺すような痛みが走り、悪寒がする。
「クラウド様、あの場所は怖い感じがします。迂回なさっては」
わたしが言うと、クラウド様がゆっくりとシュヴァルツの速度を落とした。
「怖いか」
「はい」
「それは瘴気だ――竜の火炎に焼かれた後の」
「えっ」
「あの地の瘴気はすでに消滅しているが、エステルは魔力が高いから感じ取るんだな」
「そう、なのでしょうか」
「ああ。俺はもう感じない。……消えない後悔と悲しみは、いまだ残っているがな」
その言葉にわたしはハッとする。
「もしかして……」
クラウド様は言っていた。自分にも隠していることがある、と。
クラウド様が何を隠しているのか予感はあった。わたしも、同じことを――深い悲しみの記憶を、クラウド様に隠しているから。
「もしかしてあそこは、クラウド様の故郷なのですか?」
クラウド様が頷いたのが、背中越しにわかった。
「キリルカ村。俺の故郷で、今日の目的地だ」
♢
村の門があったという場所には、煤けて朽ちた二柱があり、わたしたちはそこでシュヴァルツを降りた。
シュヴァルツに水を飲ませ草原へ放すと、クラウド様は鞍に掛けていた荷袋から白い花束を出し、ひたとわたしを振り返る。
「舞踏会の夜、俺がエステルに言ったことを覚えているか」
わたしは瞬時に顔が熱くなった。
『ずっと俺のそばにいてほしい。――愛している』
クラウド様は、わたしにそう言ってくれた。
「は、はい……」
恥ずかしさに思わず目を逸らしてしまう。クラウド様がふっと笑んだのがわかった。
「俺の気持ちはずっと永遠に変わらない。だからここへエステルを連れてきた。ここは俺の始まりの場所であり、一生背負う罪が眠る場所だから」
その言葉にわたしは胸がしめつけられる。
一生背負う罪、という言葉に、クラウド様の深い悲しみが感じられた。
だからわたしは、恥ずかしさで全身から熱が噴き出しながらも言った。
「わ、わたしの気持ちもずっと変わりません! ですから……クラウド様が背負う罪は、わたしも一緒に背負いますから!」
すると、大きな手がぽん、と頭に載る。
「エステルが何かを背負うことはない。ただ……知ってほしかったのだ」
クラウド様は手に花束を持って歩き出した。
歩きながら、キリルカ村での思い出をぽつりぽつりとお話してくれる。
それは今とは違うクラウド様のやんちゃな少年時代がうかがえる、とても楽しい話だった。
それだけに、その後に続いた村を襲った悲劇に、クラウド様が直面した苦しみに、わたしは言葉を失った。
「俺は、結果的に村の皆を見殺しにしたのだ」
「そんなことはっ……それに、クラウド様は竜を退治し、立派に仇をうったではありませんか!」
「だが死んでいった者は帰ってこない」
「クラウド様……」
「俺はずっと殻に閉じこもっていた。帰らぬ者たちの魂を弔うことのみに生きようと思っていた。竜を倒してからもだ。だから、ここへ来ないでいた。俺が再びここへくるのは、死んで土に還るときだと思っていた」
黒く煤けた土地の奥に、大きな塚ができていた。
多くの石が積まれ、墓標が立てられた所に、まだ新しい白い花の束が置いてあった。その傍にクラウド様は手にしていた花束を静かにたむけ、膝を付いて瞑目した。
わたしも、クラウド様に倣って祈る。
クラウド様が隠していたこと。抱えていた苦しみと悲しみ。それをわたしに打ち明けてくれたことがうれしかった。
同時に、クラウド様がなぜ竜討伐を成し遂げたのか、その後も懸命に領地領民のために心身を砕いていたのかがわかって、わたしも決意を新たにした。
(ここで亡くなった方々の魂をわたしもクラウド様と共に弔います。そして、人々が魔物に怯えず、笑顔で暮らせるよう領地にするため、クラウド様と力を合わせます)
そう心の中で念じていると、クラウド様が立ち上がる気配がした。
「俺はエステルと共に生きたい。だから殻から出て、この世界をエステルと生きる。罪を背負ったまま。そんな俺でも、いいだろうか」
紫色の双眸に、わずかに不安が揺れる。
わたしは微笑んだ。
「わたしの気持ちは変わりません。クラウド様がそうされるなら、わたしもクラウド様とキリルカ村の方々を弔い、領地領民のために力を尽くします」
「エステル……貴女という人は」
クラウド様が愛おしそうに微笑んで手を差しのべてくれる。わたしはその手を取り、立ち上がった。
わたしたちはお墓の前で深く一礼し、その場を離れた。
「もう一つ、行きたい場所がある。歩けるか」
「はい、もちろん大丈夫ですが……村の中ですか?」
「中というか、村の外れだ」
煤けた地面がなだらかに傾斜する道を、クラウド様は上っていく。かつてはおそらく、小さな丘か林だったような地形だ。
「あ」
わたしは思わず声を上げた。
「植物が……」
村の跡地は煤けた地面が広がるばかりだったけれど、坂を上っていくうちにぽつぽつと緑の植物や若い木が生えている。
「昔、この山でよく遊んだんだ」
クラウド様はわたしの手を引いてどんどん進んでいく。
「この坂にはザクロやベリーの木があって、食べながら歩いた。皆それぞれ手に剣を模した木の棒を持っていて、草を払いながら歩く。目的地は奥にある大きな沼だ」
「大きな沼……?」
その言葉に、わたしはどくん、と心臓が跳ね上がった。
心臓が大きく脈打つ。プルロットさんの言葉が脳裏によみがえる。
『なんでも西の森の南側に村があって、その奥に大きな沼があるそうなんですがね。昔、まだ竜がいた頃にその沼のほとりで見たって』
『記憶の花』があるかもしれないその場所は、村が竜に焼かれて近付けない、とプルロットさんは言っていた。
鳥のさえずりが聞こえる。楽の音のようなそれは、魔鳥のものだ。
クラウド様が、立ち止まった。
「ここだ」
立ちすくみ、わたしは息を呑んだ。
ひび割れた大地にわずかに湧き出す水。
その水が小さな流れを作り、その流れに沿って植物が群生していた。
青々とした細長い葉は丈夫そうで、優美さと強靭さを合わせ持つ。
そして、その葉に守られるようにして、赤いような青いような、不思議な色合いの花が咲いていた。
「記憶の花……!」
トレンメル領へ来てから解読した『魔導書』の記述通りのその花が、目の前に咲き乱れていた。
「やはりそうだったか」
クラウド様が言った。
「昔、院長先生が言っていたんだ。この沼には数年に一度、幻の魔草が群生する。それだけは摘んではいけないと。俺たちは食べられる実や珍しい植物をすぐに摘んでしまうからと、厳しく言われた。これが『記憶の花』だったとはな」
わたしは群生する花に近付く。『魔導書』に記されていたように、仄かに漂う甘い匂い。陽の光を不思議に反射する花の色。
「まちがいない。これは『記憶の花』だわ」
わたしは震える手で一輪の花に手を添える。
お母様が亡くなってから、ずっと待っていたこの瞬間。
この瞬間がクラウド様と迎えられるなんて、まるで奇跡だ。
ためらいはある。でも、クラウド様はわたしにすべてを話してくれた。
ならばわたしも、隠していたことをさらけ出そう。
神の奇跡に導かれるように、この瞬間のためにずっと胸の奥底に刻んでいた呪文を紡ぎ出す。
「――尊き花の御力を我に許し与えたまえ」
すると、添えていた手にほろり、と花びらが落ちた。
わたしはその花びらを高く掲げる。お母様の面影を脳裏に浮かべて呪文を唱える。
「エヴォカレ――現れたまえ」
刹那。
可憐な花びらが光となって大きく弾け、そこに人の形がだんだんと浮き上がる。
「エステル……の、御母上か!」
背後で、クラウド様が呆然と呟く。光の中に現れた姿は確かに鏡を見ているようだった。
けれど、わたしにとっては記憶の中のお母様だ。
「お母様っ、ごめんなさいっ……」
いろんな想いが溢れて苦しい。わたしは喉から声を絞り出した。
「わたしのせいでっ……おか、お母様は、死んでしまった……!」
夢で幾度もうなされたあの瞬間。
崩れ落ちる母。『おまえが殺した』と嗤う魔女――あれは、イザベラお母様だったのだ。今はもう、はっきりと思い出せる。
イザベラお母様が放った魔法からわたしを庇って、お母様は命を落としたのだ。
「お母様にどうしても謝りたかったのです。謝って、そして――わたしもお母様の許へ行こうと思っていました。でも」
振り返れば、不安そうに見守っている人がいる。
わたしの、何より大切な人。
「ごめんなさいお母様! わたしは、もう一度生きたいと願ってしまったのです……!」
ゆがんだ視界の中でお母様が微笑んだ。
『エステルのせいじゃないわ』
懐かしい声が、優しく耳の奥でささやく。
『振り返らず、前へ進みなさい。幸せになるのです……二人で』
瞬間、わたしはクラウド様を振り返る。
クラウド様も、目を瞠っていた。
「これは……」
群生する花の上で一斉に光が弾けて――そこにたくさんの人影が浮かび上がる。
「院長先生……? みんなも」
クラウド様が光に手をかざすと、修道士服姿の温厚そうな男性たちや少年たちが笑って、クラウド様に手を差し出した。
「お母様」
わたしも差しのべられたお母様の手へ手を伸ばす。
わたしの手がお母様に届き、クラウド様の手がたくさんの手に届いたとき――。
光がふっと、一斉に消えた。
そのたくさんの光の残像を、わたしは呆然と見上げる。
幸せになってはいけないと思ってきた。
お母様の許へ早く行きたいと思ってきた。
だから懸命に魔法修行に励み、『記憶の花』を探した。
でもクラウドに出会ってしまったから。
もう一度生きたいと願ってしまったから。
「お母様……ありがとう……」
隣を見れば、クラウド様も光の消えた虚空を見上げている。
その頬には美しく光る筋があった。
きっと今、クラウド様も同じ気持ちだ。
母の死を自分のせいだと責めてきたわたし。
村の人々を見殺しにしたと責めてきたクラウド様。
わたしたちは互いに抱えてきた想いと願いを分け合い、奇跡に逢い、そして――許されたのだろう。
二人で前へ進むために。
クラウド様の手がそっとわたしの手を握る。
わたしも、その大きな手を強く握り返した。




