86 クラウドの記憶
クラウドたちが無事にトレンメル領に帰還した翌日。
エステルの部屋から出てきたアグネスを、クラウドはすかさず呼び止めた。
「エステルの様子はどうだ」
どうやら心配で部屋の外をうろついていたらしいクラウドを微笑ましく思いつつ、アグネスは笑った。
「大丈夫ですよ、今、少しスープも召し上がれましたしね。だいぶ楽になったとおっしゃってました」
「そうか……」
クラウドは小さくホッと息をつく。
トレンメル領への帰り道、馬車の中でエステルが苦しみだしたときは気が気でなかった。
どうしたのかと尋ねてもエステルは『だいじょうぶです』と蚊の鳴くような声で繰り返すだけ。
心配のあまり焦れたクラウドは馬車を道の脇に寄せて止め、後続の馬車もそれにならう。
何事かと出てきたアンたちに、クラウドは叫んだ。
『医者を探す! アンとメアリはエステルに付いていてくれ!』
急いでアンとメアリが車内に入り、顔面蒼白で冷や汗を流しているエステルの様子をひとしきり見たあと。
今にも馬を走らせようとしていたクラウドをメアリが止めた。
『クラウド様。お医者様はいりませんよ』
『何を言う! あんなに苦しそうではないか!』
『あー……そうではなくてですね』
アンが言いにくそうに目を逸らした。
『女性に特有の、その、月のものでございます』
その後、アンやアグネスに聞いた話では、女性特有のその現象には重い軽いの個人差があり、エステルの場合は重い部類に入るのだという。
「舞踏会でのお疲れも重なったのでしょう。こんなにひどいことは普段ないのに、クラウド様に御心配をおかけしてしまったとエステル様が気にしてましたよ」
自分のことよりクラウドを気遣うあたりがいじらしく、クラウドはうれしいような苦しいようなでも胸が温かくなるような複雑な気持ちになる。
「俺のことは気にするなと伝えてくれ。引き続きエステルを頼む」
「承知しました。お出かけですか? クラウド様もお疲れの御様子ですけど……」
アグネスはクラウドを気遣うようにのぞきこむ。
エステルのことが心配であまり寝ていないはずだ。舞踏会で疲れているのはクラウドも同じだろう。白皙の美貌がやや青ざめて見える。
「問題無い。でも、そうだな。少し遠出する。心配は無用だ。夕刻までには戻る」
「承知しました。いってらっしゃいませ」
王都から帰還した翌日に遠出とは、急ぎの用でもあるのだろうか。
いぶかしみながらも、アグネスはクラウドを送り出した。
♢
西の森はガレア周辺から大きく東西南北に張り出す、広大な森だ。
地図もあるが、その全容はわからないとも言われている。
その西の森の縁をたどるようにしてクラウドはシュヴァルツを走らせた。
どこまでもなだらかな草原が続くと思われたそのとき、遠くにぽかんと草原が途切れる場所があった。
近付くとよくわかる。まるで火傷を負ったようにむき出しになった地面は生命が育たない不毛な土地になっている。
竜の濃い瘴気が、この土地を死の土地にした。
「最後に来たのは竜討伐隊を編成する前だから……もう五年前か。さすがに瘴気は薄くなったようだが」
以前は近付くだけで凄まじい瘴気に倒れる者もいた。魔力や魔法に対する訓練を積んでいるクラウドでさえ瘴気に身体を圧迫された。
今はもう、普通に呼吸ができるようになっている。
♢
生まれは知らない。クラウドは物心ついたときにはキリルカ村の修道院で孤児として育っていた。
修道院にはクラウドと同じ身よりのない孤児がたくさんいた。皆、竜をはじめとする魔物に家族を奪われた子どもたちだった。
孤児であることを呪ったことや恨んだことはない。物心ついたときからそうだったし、何より、修道院の修道士様や院長先生がたくさんの愛情を注いでくれた。
驚くほど高い教養も実戦で役立つ剣技も、すべて修道院で習った。
学びや剣技を切磋琢磨する孤児たちは本当の兄弟のように育った。
日々鍛錬する目標は『いつかみんなが笑って暮らせる世界を作ること』。
魔物や竜におびえないで済む世界。それを実現するためにクラウドたちは日々研鑽を積んでいたのだ。
しかし。
あの日、一瞬にして竜がすべてを奪った。
クラウドたちの努力や想いをあざ笑うかのように、それは鮮やかで狡猾で疾風のような仕業だった。
夜半、竜が噴いた地獄の火炎は直後に村半分を焼き、クラウドたちが必死に応戦する最中、村中を舐め尽くした。
夜明けに、クラウドは焦土と化した村を見た。
そして、その中でまだ息のある人々の姿も。
焼け崩れた建物の下敷きになった人、身を焼いた炎を消して真っ黒に焦げた人、大勢の人々が細いながらも息をしていた。
『行きなさい、クラウド。私たちが掲げた目標のために』
院長先生は絶え絶えの息の中、そう言った。
『嫌だ! 院長先生を置いて行けない! みんなを置いて行けないっ……!』
焼け落ちた教会の下には、院長先生を始めたくさんの兄弟たちもいた。まだみんな、息があった。
そんなクラウドを見て、院長先生は微かに笑んだ。
『では、隣町まで行って助けを呼んできてください。さあ、早く。皆、助けを待っているのですよ』
言われて、クラウドは弾かれたように立ち上がった。そうだ。助けを呼んでこなくては。
『俺、すぐに戻ってくるから!』
まだ息をしている兄弟たちを励まし、クラウドは必死に走った。ボロボロの服のまま、怪我や火傷で痛む身体で、休まずに走った。
ようやく隣町まで辿り着き、救援の騎士団が駆けつけたときには、すべてが終わっていた。
騎士団は魔法で瘴気を祓い、必死に救援活動をしてくれた。
しかし救えた命は無く、残骸と化した骸を集めて墓を作るのが精いっぱいだった。
竜は残忍で狡猾だった。
夜目の利かない人間を夜に襲い、生かさず殺さずの状態にした後、ゆっくりと喰い尽くしたのだ。
『そん、な……』
絶望の底に突き落とされたクラウドは、そこで気付いた。
あのとき、院長先生はこうなることがわかっていたのだ。竜が戻ってくることを予想していたのだ。
だからクラウドを逃がすために、《《隣村でなくわざと遠い隣町まで行けと言ったのだ》》。
――俺は、皆を見殺しにして逃げた。
一夜にして地獄と化した村で、クラウドは慟哭した。




