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85 さようなら、リヴィエール公爵家

 リヴィエール公爵は、憔悴しきっていた。

 妻のイザベラが魔女だとして、投獄されたのだ。

 しかも、イザベラはかの有名な『シャロン侯爵家の悲劇』の真犯人であり、リヴィエール公爵の前の妻を陥れたという容疑もかかっていた。


「私の、前の妻は……」

 今まで、そんなことを考えたことはなかった。

 エステルという娘を生んだ妻がいるはずだが、その妻がどういう女性だったのかまったく思い出せないなかったのだ。

 忘れ形見のエステルも、なぜか屋敷の敷地の隅で暮らしていたので、最近では前の妻のことを思い出すこともなかった。


 すべての記憶が曖昧だった。イザベラの妖艶な笑みだけが鮮明に頭にあって忘れられず、イザベラだけを追い求める毎日だった。


 しかしイザベラが投獄されて数日、最初こそイザベラがいないことに憤りさえ覚えたが、それが憔悴に変わると同時に頭の片隅にあったぼんやりした記憶がはっきりと鮮明になってきた。


「私には、たしかにヒルデという妻がいた」

 この国では珍しい黒真珠のような黒髪に翡翠のような瞳の、とても美しい女性だった。

 舞踏会で会ったエステルは、記憶の中のヒルデにとてもよく似ていた。


「そう、ヒルデとエステルと私で、幸せに暮らしていた日々が確かにあった」

 毎日笑顔で溢れて、楽しくて。

 その日々がいつから変わったのだろう。

 イザベラがこの屋敷に来たのは、どこかで開かれたパーティーの後、身寄りを事故で失ったというイザベラを憐れに思って、この家に招いてからだった。


 いつの間にかイザベラはこの家に暮らし、ヒルデは体調を崩すようになった。

 伏しがちになったヒルデに取って代わるようにイザベラがリヴィエール公爵と寝室を同じくするようになり、いつの間にかマリアンヌが生まれた。


 ヒルデはその間に、ひっそり亡くなっていた。


「なぜだ……なぜ私はヒルデを放っておいたのか」

 彼女の最期も覚えていない。看取ったかさえ、わからなかった。


(イザベラは南の魔女の系譜らしい。リヴィエール公爵、君はあの女狐にすっかり騙されていたのだよ。媚薬を飲まされてね。そして君の前の御夫人はあの女狐に毒を盛られたのだろうねえ)

 王に言われた言葉を思い出す。そうか。自分は騙されていたのか。


「ヒルデ……エステル……」

 エステルがいつも汚い格好で屋敷の中を動き回っていたのを思い出す。使用人のように掃除をし、片付けやマリアンヌの世話をし、暗くなると屋敷の隅に消えていった小さな背中。

 それを目にしながら、何も言わず何もしなかった自分に愕然とする。

「私は、実の娘になんという仕打ちを……!」


 媚薬を飲まされていたんだよ、という王の言葉が耳の奥で響く。

 しかし、そんなことを理由にできないほど、自分がエステルにした仕打ちは取り返しがつかないものだ。


 打ちひしがれていると、扉を叩く音がした。


「なんだ! 用事はすべて断れ。私は体調が優れぬ。ベッドから出られんのだ!」

 イライラと怒鳴ると、困惑した執事の声が答えた。


「それが旦那様。エステル様がお見えになっておりまして……」


 リヴィエール公爵はベッドから飛び起きた。





「お父様、御無沙汰しております」

 立ったまま丁寧に挨拶するエステルは、別人のようだった。

 顔色もよく、髪も黒真珠のような光沢を放ち、健康的に肉付いている。


「げ、元気そうだな。その、領地では楽しく過ごしているのか?」

 そんなことを言いつつも、ここから追い出すようにトレンメル領に馬車を出したことを思い出し、リヴィエール公爵は全身に汗が噴き出してきた。

「はい。お父様もお元気そうでよかったです」

「あ、ありがとうエステル。そう、そうだちょうどよかった。私は思い出したのだ。お前の母、前の妻のヒルデのことを。私は――」

「リヴィエール公爵。今日、私たちは領地へ帰ります。その前にお話しておきたいことがあって参りました」


 エステルの手を取ろうとしたリヴィエール公爵を遮って、トレンメル辺境伯が言った。

 その美麗な姿に気圧されるようにリヴィエール公爵は言葉を呑む。


「な、なんだね?」

「エステルはベルジェ伯爵夫妻の養子となりました。今、法的手続きを進めております」

「な、なんだって?!」

「つまりエステルはもうリヴィエール公爵令嬢ではなく、ベルジェ伯爵令嬢にしてトレンメル辺境伯夫人、ということになります」


 リヴィエール公爵はカッとなって怒鳴った。


「そんな馬鹿な! 私になんの断わりもなくそんな勝手なことを! エステルはヒルデの忘れ形見で、私の可愛い娘なんだぞ!」

「その可愛い娘に貴方がした仕打ちは、どのようなものだったでしょうか」


 冷ややかな紫色の双眸がひたとリヴィエール公爵を見据える。端整な顔立ちだけに、怒りが滲むと凄味があった。


「貴方が魔女に媚薬を盛られていたとはいえ、エステルがずっと苦しく辛い思いをしてきたのは事実です。私はエステルの夫として彼女の将来も考えた上で、ベルジェ伯爵の養子になるのが最善だと判断しました」


 貴族の女性は嫁いだ先の当主の命に従うことになっており、たとえばその身を養子に入れる際も実家の父より夫の権限の方が強くなる。


 リヴィエール公爵は力無く項垂れた。


「私は……何という酷い仕打ちをエステルにしてきたのか……」

 リヴィエール公爵が顔を覆った。クラウドは軽く息を吐いた。

 今さら、過去を恨んでも、嘆いても仕方がない。

 前に進む。そのために、ここへ来たのだ。


「お話はそれだけです。従って今後リヴィエール公爵家と我がトレンメル家は、なんの関係もなくなります。お会いするのも、これが最後になるでしょう」

「お父様」

 ずっと黙っていたエステルが口を開いた。

「今まで育ててくださって、ありがとうございました」

「エステル……お前は、私にそんなことを言ってくれるのか。酷いことをした私に……」

「確かに、わたしが辛い思いをしたことは消えません。でも、お父様がお母様やわたしと一緒に過ごした時間があったことを思い出してくださったことだけで充分ですわ」

「うう……エステル……」

「お父様、どうかお元気で」


 そっと立ち上がった二人に、リヴィエール公爵が顔を上げた。


「エステル! おまえはそれで幸せなのか?! トレンメル領は辺境の地だ、そんな田舎にいて、王都育ちのおまえが楽しいはずがあるまい!」

 するとエステルはにっこりと、花開くように微笑んだ。

「いいえお父様。わたしは今、生きてきた中で一番幸せです。毎日が楽しくて、わくわくします」

「そ、そんな……」

「ご心配なく、リヴィエール公爵。トレンメル領はたしかに辺境の地ですが、エステルは私が世界一幸せな女性にしてみせますので」


 呆然とするリヴィエール公爵に深く一礼し、クラウドはエステルの手を取って部屋を辞した。

「これで本当によかったか?」

「はい」

 お互いに見つめ合い、そっと微笑み合う。

(クラウド様も、前へ進もうと思ってくださっている)

 そのことだけで充分、エステルはこれまでのことを胸にしまい、歩いていけると思う。


 しかし玄関ホールへ出ると、マリアンヌがもの凄い形相で立っていた。


「この性悪魔女め!! お母様を陥れたばかりかトレンメル辺境伯までたぶらかしたのね?!」


 クラウドはエステルを背にかばい、マリアンヌを睥睨した。


「いい加減目を覚ませ。皆を騙した性悪魔女はおまえの母親だ。それに俺は誰かにたぶらかされるほどぼんやりしてもいない。おまえの婚約者と違ってな」

「王太子様はエステルの婚約者だったのよ?!」

「まだ言うか。いつの話だ、それは。だいたい、エステルはもう俺の妻だし、ベルジェ伯爵令嬢だ。この家とは何の関係もない」

「な、なんですって……?!」


 ベルジェ伯爵といえば、ワイン王と称される社交界・経済界の中心人物だ。

 爵位は侯爵家や公爵家より下とはいえ、莫大な資産を持つベルジェ伯爵家は王家も一目置くほどの存在だった。


「なっ、なんでエステルがベルジェ伯爵令嬢なのよっ!!」

「おまえの知ったことじゃない。ちなみに今は、おまえとは正反対のとても可愛くて天使のような妹もいるから安心しろ」

「ゆ、許さない……認めないっ、エステルがあたくしより格上になるなんて!!」


 玄関ホールに飾ってあったレプリカの剣をマリアンヌが手に取った。


「あんたなんか死んじゃいなさいよっ!!」

 めちゃくちゃに剣を振ってマリアンヌが突進してきた。


「クラウド様!」

 エステルは咄嗟にクラウドを庇おうと前に出ようとしたが、クラウドの逞しい腕はそれをさせない。

 クラウドは憐む目でマリアンヌを見据え、軽い一動作でその剣を避けて易々とマリアンヌの腕をねじり上げた。


「痛っ……放して!! 誰かーっ、誰か来てーっ」

 金切り声に使用人が集まってくる。


「お嬢様、お気をたしかに!」

「マリアンヌお嬢様!」


 状況的にマリアンヌから手を出したことは明らかで、使用人たちは困惑している。


「部屋へ連れていって鎮静剤を飲ませてやれ。それから、レプリカでもこういう刃物はしばらく彼女のそばに置くな。怪我人が出るぞ」

 クラウドは使用人にレプリカの剣を渡すと、エステルを連れて外へ出た。


「クラウド様、お怪我は」

「問題ない。俺が剣もまともに握ったことのない人間にやられるわけがないだろう」「でも……」


 マリアンヌが剣を振り上げたとき、心臓が止まるかと思った。

 クラウドに何かあったらどうしようかと。


「俺の心配をしてくれたのか?」

「あ、当たり前です」

「ありがとう。うれしいぞ」


 クラウドがエステルの頭に手をのせたとき、馬寄せの傍から二つの影が近付いてきた。

 エステルがぱっと顔を明るくし、その影に向かって走った。


「メアリ! それにベンも!!」

「エステルお嬢様……こんなにお綺麗になって!」


 メアリは涙ぐんでいる。


「お幸せそうでよかった……ずっと、案じておりましたよ」

「んだ。薬草は足りたかと、病気になってねえかと、ずっと心配していましただが、こんなにお太りになって」

 ベンもうれしそうに頷いている。


「あなた方がメアリとベンか」

「あ、あなた様がトレンメル辺境伯様で!!」

 老夫婦はクラウドに平伏しようとして、止められた。

「俺の領地では平伏などは儀式のときだけだ。俺に平伏するなら、他にもっと領地のためになることに労力を注いでほしい。領民にはそのように心得てもらいたい」

「は、はあ……?」

「と、言いますと」

「お二人の話はエステルからも聞いているし、部下の報告でも耳にしている。エステルのことをずっと守ってくれたこと、深く感謝する。貴方たちさえよければ、我がトレンメル領の領民として迎えたいが、どうだろうか」


 クラウドの申し出に、エステルとメアリとベンは、手を取り合って喜んだ。


「では、これから領地へ帰還する。あなた方も、手荷物だけ持って馬車に乗るといい」



 こうして帰りの馬車は、トレンメル領の民を増やして走り出した。



~第四章 おわり~


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