76 悪女なので離婚させていただきます
イザベラは困惑していた。
(エステルはどこへ行った?)
執事に聞けば、トレンメル辺境伯も席を外しているという。
上座にいるはずの王太子とマリアンヌもいない。
イザベラは細い目を広間に走らせる。王の姿はない。上座に席が設けられていないので、出席を取りやめたのかもしれない。
しかしあの王のことだ。油断はできない。
(この舞踏会宮殿でエステルを魔女だと糾弾し、集まっている者たちすべてを味方に付けてしまえば)
イザベラはほくそ笑む。そうすればトレンメル辺境伯共々、あの憎たらしい小娘を不幸のどん底に突き落とすことができる。
エステルを嫁に出せと言った王にも責任を負わせることができ、トレンメル辺境伯の領地を没収・分割する暁にはリヴィエール公爵家は有利な立場になれるだろう。
そのためには、早く事を進めなくてはならない。ダンスや酒に人々が酩酊してしまう前に――。
「お母様!」
振り返るとマリアンヌが上座に向かってくるのが見えた。
「マリアンヌ! どこへ行っていたの!」
「ふふ、ちょっとお姉様とお話していただけよ」
「なんですって?! エステルはどこなの?!」
「落ち着いてよお母様。とっても楽しいことになっているんだから」
今頃、控えの間で王太子に手籠めにされているであろうエステルのことを話すと、イザベラは意地悪く微笑んだ。
「さすがはマリアンヌね。王太子様なら、舞踏会に来た娘に手を出したって問題にはならないしねえ」
「ね、そうでしょう? ところでお母様、あたくしトレンメル辺境伯のことでお願いが――」
「ちょうどいいタイミングだわ。王太子はいなくてもかまわないし……マリアンヌ! 招待客を上座に注目させてちょうだい!」
「え? なんで?」
「いいから早く!」
急かされて、マリアンヌは「もうっ、なんなの!」と言いながらも執事に言いつけ、すぐに楽団の演奏を止めさせた。
広間がしん、となる。
人々の視線は上座に集まっていた。
「ねえ、あれリヴィエール公爵夫人じゃない?」
「ああ、本当だ」
「王太子妃の母ですもの、威厳がありますわねえ」
羨望のまなざしを向けられ、イザベラは意気揚々と上座に立った。
「お集まりの紳士淑女の皆さま。ごきげんよう」
人々は一斉に礼を執る。
「今宵、このような華やかな席でこのようなお話をするのはたいへん心苦しいことではあります。しかし、とても大事なことです」
イザベラはもったいぶって軽く咳払いした後、大仰に叫んだ。
「トレンメル辺境伯夫人は、魔女なのです!」
人々がざわつくのをたっぷり数分眺め、イザベラは再び口を開いた。
「この国において、魔女への対応は二つに分かれるはず。一つは国に貢献する研究者として生涯を捧げること、もう一つは国外追放。トレンメル辺境伯夫人にもどちらかを選んでもらうべきですわ!」
(おーっほっほっほっ、言ってやったわ!!)
ずっと温めていた演説を言い切った高揚感に浸っていたイザベラだが、ふと何かがおかしいと気付いて広間を見回した。
(なんなの、この空気は……)
人々は怪訝そうな様子でイザベラを見ている。
人の感情の動向に敏感なイザベラはすぐに察した。
(あたくしの言葉を皆信じてないですって?!)
人々は明らかに困惑している。
(くっ、こうなったら)
トレンメル辺境伯の扱いは魔石鉱泉の利益分配を王と交渉してからにしたかったが、仕方ない。
「皆さま! もっと見逃せないのはトレンメル辺境伯ですわ! 結婚すれば、妻が魔女であることはわかっていたはず。それなのに何も言わないのは、魔女の魔法を利用していたからではありませんこと? ならばトレンメル辺境伯も同罪です! もしかしたら竜退治も魔女の手助けを受けていたのでは――」
「ちがいます!!」
叫ぶような声が広間の後方から上がった。
「断じて違います! トレンメル辺境伯の名誉を傷付けることはわたしが許しません!!」
上座に向かって小走りに近付いてくるラベンダー色のドレスに、イザベラは憎悪の炎を燃やした。
(生意気な小娘め……ここで追い落としてくれるわ!)
エステルは上座のイザベラを見上げる。その強い目の光にイザベラは思わずたじろいだ。
(な、なんだこの空気は)
強い魔力の波動を感じる。
(ガレアの町でもこうだった)
やはり間違いない。エステルはイザベラと同等、もしかしたらそれ以上の魔力をもつ。しかしここで魔法でやり合うわけにはいかない。
(くっ……生意気な小娘がっ。国外追放したら使い魔を差し向けて八つ裂きにしてやるわ!!)
エステルはイザベラを睨んだまま上座に上がり、人々の方へ振り向いた。
「皆さま! お聞きください! 違うのです!」
そうだろう、と人々は頷き合う。
先ほどの華々しいダンスや気品ある姿で人々を魅了したこの貴婦人が魔女であるはずがない――人々が安堵の笑みを浮かべたとき。
「クラウド・フォン・トレンメル辺境伯は知らなかったのです! わたしが魔女であることを!!」
しん、と広間が静まり返った。
糾弾したはずのイザベラですら、エステルを思わず凝視した。
(な、なに考えてるのこの小娘、自分から魔女だと名乗るですって?!)
「そう、わたしは魔女です! 悪女なのです! 何も知らないトレンメル辺境伯へ嫁ぎ、自分の欲望のために領内資源の薬草を搾取しました!」
(嘘ではないわ)
薬草を採ったのはクラウドのためにお茶、冬の感染症に備えた薬を精製するためだが、それらの一部を革鞄に詰めて持ち出している。国外へ出てからの備えだが、それは立派な搾取になるだろう。
「イザベラおか……いいえ、リヴィエール公爵夫人がおっしゃったことは真実なのです!」
この場の人々はエステルがリヴィエール公爵家令嬢だということを知らない。知らないままにしておいたほうがいい。
(お父様はわたしの存在自体を世間から隠したかったのですもの……)
母が亡くなり突然エステルに冷たく無関心になった父だが、小さい時はエステルを人並みに可愛がってくれたと思う。
自分がリヴィエール公爵家令嬢であることを隠し通すのは、そんなリヴィエール公爵へのせめてもの恩返しだ。
「トレンメル辺境伯に罪はありません。なぜなら――わたしは、たった今この瞬間、トレンメル辺境伯と離婚させていただくからです!」
エステルは左手薬指の指輪をサッと抜いた。剣で突かれたような痛みが胸を走る。
(さようならクラウド様。どうかお幸せに)
エステルは指輪を思いきり投げ捨てた。
きらりと光って消えた指輪を、広間のすべての人々が呆然と見上げた。広間は水打ったように静まった。
――しかし、一瞬後。
人々はざわめいた。それは大きな奔流となり舞踏会宮殿を揺るがす。
「そんなはずない!」
「いやいやもしかしたら……美女には棘があると諺にも」
「そうよ、魔女だったらあの綺麗さも頷けるわ」
人々は口々に憶測を並べ立てる。しかしエステルはかまわず続けた。
「わたしは! 魔女として国外追放を望みます! すみやかに国外へ出ますので皆さまどうぞご心配なく! 舞踏会をお続けください!」
淑やかに完璧なカーテシーを披露してエステルは上座から離れる。
広間は完全に混乱に陥っていた。イザベラですら、為す術もなくその様子を呆然と眺めるしかなかった。
(よし!『離婚宣言』成功……今だわ!)
混乱に乗じてエステルはすぐに裏口を目指す。
もの問いたげな使用人たちや楽団の楽士たちの間を抜け、上座の裏手にある扉にたどりつく。
金の把手に手をかけたとき、
「きゃあ?!」
強い力がエステルを乱暴に引っ張った。
抗おうとして振り向くと――黒衣の長身姿が立っていた。
「クラウド様……!」
紫色の双眸が冷たく光っている。その眼差しは初めてトレンメル城で出会ったときのことを思い出させた。
「来い」
クラウドはエステルの腕を痛いほどの力で握る。抗えるはずもなく、エステルはクラウドに引っぱられていった。




