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75 過去との決別

 舞踏会宮殿には、いくつかの控えの間がある。

 マリアンヌが待っていたのは王族のみが使用できる控えの間だった。


「お姉様、お久しぶりね。お会いできたから、姉妹水入らずで話しがしたかったの」

 大きく胸元の開いた深紅のドレスに流れる金髪。マリアンヌは固い表情で立っているエステルを挑発するように見つめた。

「ごきげんようマリアンヌ。それはうれしいわ」


 エステルは静かに答えた。落ち着いた様子にマリアンヌは内心舌打ちをする。


(いつまで余裕ぶっていられるかしらね)

「お姉様、座って。いいえ、そちらへ。王太子様のお隣へどうぞ」


 エステルは酷い違和感を覚えたが、言われるままに王太子の隣に座った。

 途端に、王太子の顔が真っ赤になる。


「き、君が本当に、エステル嬢なのかい?」

「本当よねえ。よく化けたわねお姉様。みっともなくて痩せこけたお姉様はどこへ行ったのかしら」


 マリアンヌは憎々し気にエステルを見る。

 ラベンダー色のドレスからのぞく白磁のような首や腕は華奢なのに、デコルテは男性を魅了するボリュームだ。さっきから王太子はエステルの豊かな谷間に目がいきっぱなしだ。みっともないと散々笑ってやった黒髪は、黒真珠のような光沢を放つ素晴らしい髪になっている。


「トレンメル領の方々がとてもよくしてくださるおかげです」

 思わず言うと、マリアンヌがすかさずエステルを睨んだ。

「あら、それは嫌味?」

「そんなことは」

「自分のことは棚に上げてリヴィエール家を悪く言うなんてやっぱりお姉様は狡賢いのね。お母様が昔から言っていたわ。エステルは旦那様に愛されないのを後妻のお母様やわたしのせいにしてるって」

「そんなことないわ!」


 エステルは顔を上げた。


「わたし、何かをイザベラお母様やマリアンヌのせいにしたことなんかないわ!」


 はっきりと言い切ったエステルに、マリアンヌは仰天する。


(な、なによこの女、いつの間にこんな強気になったの?!)

 腹立たしさにマリアンヌは思わず立ち上がった。


「あたくしに反抗しようっていうの?!」

「反抗じゃないわ。話をしに来たのよ」

「話ですって?! あんたとする話なんかないわよ! 生意気な!」

 

 つかつかと歩み寄ってきたマリアンヌが、エステルにぐっと顔を近付ける。


「ちょっと見た目が良くなったからって調子に乗らないで。お母様に言いつけるわよ!」


 その言葉にエステルは一瞬で硬直する。

 エステルの反応を見てマリアンヌが意地悪く笑った。

「ふん、ちょっと綺麗になったからって、所詮は埃だらけの惨めなエステルよね!」


 マリアンヌの哄笑が部屋に響く。


 冷や水を浴びせられたようだった。


 お母様に言いつけるわよ――昔からこれを言われるとエステルは思考が停止する。その先に待っている酷い折檻の恐怖に支配されてしまう。


(マリアンヌの言う通りなのかもしれない……ちょっと見た目が変わったからって、本当は何も変わっていないのかもしれない)


 そんな暗い思考のどん底に突き落とされた気がした――そのとき。

 暗い水底に光が差すように、ふと脳裏にクラウドの顔が浮かぶ。


 エステルを綺麗だと言ってくれたクラウド。人々の羨望の眼差しを一身に集めていたクラウド。

 わたしは、あの誇り高い人の妻なのだ。まだ今は。


(……負けない!)


 わたしはクラウド様の妻だから。

 トレンメル領の人々のおかげで、今日この場に立つにふさわしい女性になれたから。


 唇を噛んで蒼白になったエステルを見て、マリアンヌはほくそ笑んだ。

(うまくいった。こうなったらエステルは動かなくなるもの)

 昔から母をダシにするとエステルは簡単に操れた。


「あたくしに嫌味を言った罰よ。舞踏会に戻らずここでしばらく待機しなさい」

「――嫌です」


 きっぱりと返ってきた答えにマリアンヌは一瞬唖然とした。


「なっ……あんた、あたくしの言ったことが聞こえなかったの?!」

「聞こえたわ。でもわたし、戻らなきゃ。クラウド様を心配させてしまうわ」

「なっ、あの方があんたの心配なんかするわけないじゃない!!」

「いいえ。クラウド様はきっと心配なさるわ」


 真っすぐにマリアンヌを見つめて、エステルは言った。


「だってわたしは、クラウド様の妻ですもの」


「なっ……」

 蒼白になったマリアンヌを見てエステルは毅然と立ち上がった。

「話ができてよかったわ、マリアンヌ。さようなら。王太子様とお幸せにね」



 過去と決別できた――そんな感触に、エステルがホッとしたときだった。



「ラルフ様!! エステルを捕まえて!!」

「え? ええ? 僕?!」


 いきなり話を振られ、しかしいつもマリアンヌに命令されている条件反射で王太子は行きかけたエステルの腕をつかんだ。


「な、なになさるのです、放してください!」

「ラルフ様、《《ご褒美》》が欲しいのでしょう? その図々しい女にいただくといいわ。もともとお二人は婚約者だったのですもの。何をしても許されますわよ。あたくしも許可しますから」

「え? ええ? そうなの??」


『何をしても許される』という言葉に反応して、王太子はエステルの腕を強く引き乱暴にソファに座らせた。


「王太子様?!」

「ふふふ、王太子様、誰も邪魔しないよう見張りを付けますから、ごゆっくり」


(密通という規制事実を作ってしまえばトレンメル辺境伯もエステルに幻滅するでしょう)

 マリアンヌは扉をしっかりと閉めて出ていった。


 扉が閉まってしまうと王太子は考えた。

(マリアンヌがああ言うのなら……)


 マリアンヌの言う通り、エステルはもともと自分の婚約者だった。 

 見れば、白磁のような肌や艶やかな黒髪、ほっそりしたウエストに豊かな胸はとても魅力的だ。

 なにより、恐怖に怯えた顔が美しすぎて息を呑むほど。

 マリアンヌのような華やかさはないが、美貌はマリアンヌ以上だ。


「エステル嬢」

 王太子はそっとエステルの肩に手を回した。

「な、なになさるんですか、やめてください!」

 拒否されて煽られた王太子は一気にエステルい覆いかぶさった。

「やめて!!」

「いいではないですか。貴女はもともと僕の婚約者だったんだから」


 興奮に息を弾ませ華奢な身体を組み伏せ、豊かな双丘の間に顔をうずめようとした――そのとき。


「ぐわ?!」

 突然身体がふわりと浮き、続いて視界に火花が散った。

「う……」

 床に投げ飛ばされたとわかったときには、酷い痛みが全身を襲う。


「――いくら王太子殿下とはいえ、人の妻に手を出すにはそれなりの覚悟がおありということですか?」


 魔王のような冷えた声――黒衣のトレンメル辺境伯が立っていた。


「これは、私に対する決闘の申し込みと受け取ってよろしいか?」

「ひっ……」


 冗談じゃない。数々の魔物を倒し、竜退治までやってのけた男と決闘なんてするわけない。


「す、すすすみませんでしたーっ」


 王太子はあわてて部屋から飛び出していった。

 そのマヌケな後ろ姿が見えなくなると、クラウドはソファで震えているエステルに駆け寄った。


「エステル、無事だったか?! 怪我はないか?」

「クラウド様……!」


 エステルは思わずクラウドにすがりついた。

「怖かった……!」

 クラウドはその身体を優しく抱き寄せる。

「すまない。最上座に誰もいないのおかしいと思ったのだが……オレがもう少し早く気付いて、執事を問いただしていれば」

「ちがいます、クラウド様は何も悪くない!」


 マリアンヌに呼ばれた時点で、もっと警戒するべきだった。

 この後『離婚宣言』をしなくてはならないのに、こんなことで震えていてどうする。

(きっとこの後イザベラお母様も来るのに、こんなんじゃダメよ……しっかりしなくちゃ……)

 そう思うが身体の震えが収まらない。


(あの破廉恥王太子はぜったいに殺す)

 クラウドは内心冷ややかに呟き、腕の中のエステルをさらに抱き寄せた。

「怖い思いをしたな。少しこうしていよう」

「はい……」


 このままではイザベラと顔を合わせてもあの迫力に負けてしまう。

(落ち着いて、落ち着くのよ。クラウド様とトレンメル領を守るためなのだから)

 エステルはクラウドの胸の中で必死に震えと戦った。

(ああわたしは結局、こうしてクラウド様に甘えてしまう……)

 自己嫌悪に陥りながらも、クラウドの温もりがありがたかった。





 その頃、舞踏会宮殿の広間では。


「おかしいわね、クラウド様はどこへ行ったのかしら」

 マリアンヌは広間を歩き回り、声をかけてくる紳士淑女に愛想笑いを振りまきながら、麗しい長身姿を探していた。


「お嬢さん、お一人ですかな?」


 急に横から腕を取られ、マリアンヌはぎょっとする。

「ま、まあ、面白い趣向ですわね。どなた様かしら?」


 黒いマスカレードマスクを付けた男だった。

 おそらく中年以上の男だが、着ている夜会服は上等でセンスもいいし、大人の色気がムンムン漂っている。遊び慣れた上流貴族の当主といったところだろう。


「ふむ。私が誰かというより、今日ここで起きるイベントの方がよほど楽しみではないですかな?」

「イベント?」


 ホストの自分が知らないイベントなどあっただろうか。


(ラルフ様があたくしに内緒でサプライズでも用意しているのかしら?)

 そのとき、男がそっとマリアンヌの背を押した。


「いよいよですな。ごらんなさい、貴女のお母様がいらっしゃいましたよ」


 見れば、人々から恭しく挨拶をされている貴婦人が上座へ向かっていた。確かにあれは母だ。


「お母様!」


 マリアンヌは人波に向かったが、ふと振り返る。

 あの男の姿は、もうそこになかった。



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