74 舞踏会の華
ワルツの調べに乗ってクラウドとエステルは広間の中央に進み出た。
そのまま流れるようにステップを踏む。
黒と淡いラベンダー色の衣装が広間を自在に動いた。
エステルはクラウドの紫色の双眸をじっと見上げる。
他には何も目に入らなかった。入る必要もなかった。
しっかりとクラウドの逞しい腕と手を握り、クラウドのリードに身を任せた。
一秒でもクラウドと過ごせる時を、大切にしたかった。
クラウドもエステルの若葉色の双眸に吸い寄せられていた。
華奢な背に手を回し、その愛おしい手をしっかりと握る。
エステルはクラウドの動きにぴったりと寄り添ってくれる。だからリードというより、それはごく自然な動きに近い。
このままずっと、エステルだけを見つめて踊っていたかった。
二人は広間に咲く大輪の華となり、会場すべての人々を魅了した。
互いに互いだけを見つめ、周囲の羨望や称賛の眼差しなどまったく目に入っていなかった。
「素晴らしい」
「お二人とも達人のテクニックですわ」
「トレンメル辺境伯様のリードが素晴らしい。御夫人がそのリードに上手く導かれているのがまた良い」
「見つめ合う姿だけでも仲睦まじいのは伝わってきますわね」
「まさにお手本のダンスですわ」
曲が終わると、拍手の嵐が吹き荒れた。
本来ならこのタイミングで演奏が続き、他の招待客たちが躍り出すのだが、拍手がなかなか鳴りやまないため宮廷楽団が演奏を躊躇っている。
「これじゃああの女に華々しい舞台を作ってやったようなもんじゃない!! このクソアホ王子!!!」
最上座で蒼白になっていたマリアンヌは、テーブルの下で思いきり王太子の足を踏みつける。
「痛たっ! なななんで??」
すべて愛しい女の言う通りにしたのに、ご褒美どころか罵られた王太子は目を白黒させる。
そんな王太子のマヌケ面を見て、マリアンヌはさらに腸が煮えくりかえった。
(しかもっ、辺境伯があんなに美形なんて聞いてないわっ)
脳みそまで筋肉でできた猛獣マッチョを想像していたのに、あの麗しい姿はどうだろう。
あれで数々の魔物討伐の功績を上げ、竜まで退治し、所領と莫大な報奨金まで得たというのだから、まさに非の打ちどころの無い英雄だ。
そこでマリアンヌはハタと思い当たる。
(……そうよ。そうだわ)
本来であれば王太子の婚約者はエステル。
そうすると、辺境伯に嫁ぐはずだったのはマリアンヌだ。
(少々化けたってエステルは所詮エステルだわ。あたくしが脅せばおどおどと言うことを聞くにちがいない)
マリアンヌの悪知恵が瞬時に回る。昔から自分と母に逆らったことのないエステル。女慣れしておらず、美しい女にはすぐに手を出したくなるスケベな王太子。
マリアンヌは背後の執事にすばやく耳打ちして何やら指示すると、王太子を振り返った。
「ラルフ様! すぐに辺境伯夫人を控えの間にお呼びになって!」
「ええ? なんで?」
「あたくしお姉様にお話があるの。その間ラルフ様も一緒にいてね」
「いいけど……席を空けて大丈夫かな。僕たちは今日のホストなのに」
「大丈夫ですわ」
マリアンヌは毒々しい紅唇を上げた。
「なんといっても、今日の舞踏会の華はトレンメル辺境伯様ですもの。この最上座で皆さまの注目を一身に浴びてくださいますわ」
(そして、この後その隣に座るのはあたくしよ)
マリアンヌはほくそ笑んだ。
♢
一瞬に感じた夢のようなワルツの後、広間の中央から下がってもクラウドはエステルの手を離さなかった。
「予行練習よりも上手だったな、エステル」
クラウドが微笑む。
「いいえ、クラウド様のリードのおかげです」
エステルが頬を染めると、その額の汗をハンカチーフでそっと拭いてクラウドが少し顔をしかめた。
「面倒なことに、王太子に上座へ来いと言われている。行く前にここでゆっくり何か飲んでいこう」
「はい」
「上座なんかに座ったらロクでもないことになるだろうが、これも務めだと思えば仕方がないな」
クラウドはエステルの腰にそっと手を回し、顔を近付けてささやいた。
「俺は社交界などどうでもいいが、エステルに嫌な思いをさせたくない」
「クラウド様……」
「すぐに戻る」
クラウドは名残惜しそうにエステルから離れた。
しかし、飲み物を取るために人波に向かったクラウドはすぐに周囲を数多の紳士淑女に囲まれてしまった。
あ、と思ったときには、エステルの周囲にも人だかりができている。
「素晴らしいダンスでしたわ!」
「そのドレス、どちらでお仕立てになりましたの?」
女性たちは口々に褒めそやし、男性たちは、
「王都は初めてですか?」
「一曲お願いするにはトレンメル辺境伯様の許可が必要ですかな?」
などとエステルに近付こうとする。
「ええと、あの……」
こんなにたくさんの人に囲まれたことのないエステルは怖気づいてしまいそうになるが、舞踏会のために頑張ってきた時間やアグネスの言葉を思い出す。
(クラウド様の妻であるという自信と誇り)
そう。自分はあの麗しい方の妻なのだ。
トレンメル領の人々に力を貸してもらって今日まであらゆることを身に付けてきた。
だから大丈夫。もっと胸を張って。自信を持って。
「……ありがとうございます」
周囲を見回して、エステルはにっこりと微笑んだ。
「ダンスをお褒めいただき光栄ですわ。ドレスを仕立ててくれた者を同行しておりますので、よろしければご紹介します。王都は……ええ、初めてですわ。ダンスのこと、主人が戻りましたら聞いて参ります」
優雅に答えれば女性たちから感嘆の溜息が漏れる。
女性でさえうっとりするような気品ある受け答えに、男性たちなどはただぼうっと頬を赤くするばかりだ。
そのときだった。
「トレンメル辺境伯夫人様」
振り返ると、黒衣の執事が立っている。
(確か、王太子様とマリアンヌの隣にいた執事だわ)
執事の恭しいお辞儀で周囲の人々は自然と散り、エステルは執事と向き合った。
「何か御用でしょうか?」
「マリアンヌ様がお呼びでございます。控えの間にお越しくださいますよう」
心臓を掴まれたような気がした。
「でも、あの、わたし、ここで主人を待っていなくては」
「トレンメル辺境伯様は王太子様が席へお招きになっておりますのでご心配なく」
「え……」
見れば、遠く最上座へ進んでいくクラウドの背中が見える。ちらと見えた横顔は憮然と、困惑しているように見えた。
王太子の指示ならば、無視もできなかったのだろう。
(わたしも逃げてはいけない)
ガレアの町でイザベラと対峙したことを思い出す。
(大丈夫。イザベラお母様に抗えたのだから、マリアンヌとだって話はできるわ)
エステルは会場をサッと見渡す。まだイザベラの姿は見えない。
ならばその前にマリアンヌとも会って、弱かった過去の自分に決別しよう。
そして『離婚宣言』でクラウドを守る。
そうすれば思い残すことなく、王都からも出られるだろう。
「……わかりました」
エステルは執事の後に続いて、そっと舞踏会宮殿から出た。




