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71 王都へ


 よく眠れないまま、エステルは朝を迎えた。


「大丈夫ですか、エステル様。お顔の色が悪いですよ?」

 アグネスが部屋に朝食のワゴンを引いてきた。


「お薬を……って、お薬に関してはエステル様の方が詳しいですよね。何かお飲みになった方がよろしいんじゃないです?」

「大丈夫です。少し寝不足で」

「あらまあ。やっぱり緊張なさってるんですか」

「は、はい、まあ」


『離婚宣言』をするまでの流れをベッドの中で何度も確認した。


 舞踏会の流れはグスタフから聞いていたので、どのタイミングで『離婚宣言』をするのがよいか、『離婚宣言』した後どうやって宿泊している屋敷まで帰るのか。

 そして、王都をどうやって抜け出すのか。


 それらを確認していると、クラウドの甘く優しい言葉やトレンメル領の人々の顔が思い出されて胸が苦しくなり、寝るどころではなくなってしまったのだった。


「大丈夫です。エステル様は本当によくがんばりましたもの。人事を尽くして天命を待つ、ですよ。あ、古い人間の言い回しですけどね」

 アグネスはぺろりと舌を出す。

「でも、エステル様が頑張ったことはこの城の全員が知っていますからね。特にクラウド様」

「クラウド様が?」

「あたしは討伐隊のときからずっとクラウド様に従っていますけどね、今ほど幸せそうなクラウド様は見たことがありません。すべてエステル様のおかげですよ」

「アグネスさん……」

「エステル様は、静かだけどほんわかと時に強く周囲を温める暖炉の火みたいなんです。家じゅうを、人を、温めてくれる。そのことに自信と誇りを持ってください。クラウド様の奥様として」


 エステルはハッとする。そう、クラウドの妻としての自信と誇り。

 それはきっと、クラウドから遠く離れてもエステルの心を照らすから。


「ありがとうございます、アグネスさん。わたし、精いっぱい頑張ってきます」

「ふふ、その調子ですよ。さ、召し上がってください」


 この温かく美味しい食事もこれで最後かと思うと、エステルは鼻の奥がツン、とした。作ってくれたアグネスやエマ、アンたちには感謝しかない。

 食欲はなかったが、エステルは大切にスープをすくっては口に運んだ。





 馬寄せに、立派な馬車が三台、停まっていた。

 どの馬車にもヨン、トム、ロニーがピカピカに手入れした栗毛の馬が六頭つながれている。

 先頭の六頭は白毛の馬で、クラウドとエステルが乗る馬車だ。


「留守を頼む、アベル、ルイス、グスタフ、アグネス」

「はい」

「おう、任せとけ」

「王都での人手は残っている王都組が担当します。すでに知らせているので宿泊場所で待機しているはずです。ご安心なさって、舞踏会をお楽しみください。お帰りをお待ちしております」

「そうそう、王都組もいるから身の回りは心配ないし、こちらのことも気にしなくて大丈夫ですからね。ゆっくりエステル様と王都見学でもなさってきてくださいよ」


 四人はそれぞれ、にこやかに頷く。


「アン、クラウド様とエステル様のお世話を頼んだよ」

 アグネスに言われ、新人メイドのアンはしゃきっと背筋を伸ばした。

「はいっ。精一杯務めさせていただきますっ」

「テンプルトンさん、衣装のこと以外で困ったことがあったら、アンに相談してくださいね。この子、これでもけっこうしっかりしてるんで」

「かしこまりました、アグネス殿。テンプルトン、この舞踏会に御同行できること誠に光栄の至り。アン殿と協力してクラウド様とエステル様をしっかりサポートいたします!」


 テンプルトンが慇懃に頭を垂れたところで、御者が馬車の扉を開いた。

「ご出発のお時間です」



 先頭の馬車にクラウド、エステル、アン。二台目にテンプルトンと衣装。三台目はその他の荷を積んでいる。

 エステルは三台目の馬車をちら、と見た。

(大丈夫。誰にも気付かれなかったはず)

 少し前、出発準備でたくさんの人が行き交っている中、どさくさにまぎれて自分の革鞄を三台目の座席の下にそっと滑りこませておいた。計画通りだ。

(ああ、ほんとうにわたしは悪女だ) 


 こんなに温かく見守ってくれる皆の目を盗んで荷を積み、お別れも言わずに出ていこうとしている――。


「エステル?」

「ははははい?!」


 いきなりクラウドがのぞきこんできたので、エステルは飛び上がりそうになった。


「少し顔色が悪いようだが、昨日は眠れなかったのか?」

「だっ、だいじょうぶです! その、朝食も摂れましたし!」

「……あまり大丈夫そうではないな」


 クラウドは先にエステルを馬車に乗せ、後から乗り込んだ。――エステルの隣に。


「あ、あのっ?! わわわわたしの隣ではクラウド様がっ、その、窮屈なので! 向かいあって座った方がよろしいかと!」

 密着されてしどろもどろになるが、クラウドは涼しい顔のままだ。

「問題ない。寄りかかれる場所が無ければ寝ずらいだろう」

「え……」

「馬車の中で寝ていくといい」


 エステルがあたふたしているのにも構わず、クラウドは自分の膝にクッションを載せてぽんぽん、と叩いた。


「さあ、横になるといい。寝不足だと馬車酔いしやすい。今から寝てしまえば問題ないだろう」

 エステルはさらに目を丸くした。

「そ、そそそそんなことできません! クラウド様の膝で寝るなんて……そんな畏れ多いこと!」

「畏れ多くない。俺たちは夫婦だろう」

「で、でも」


 動揺するエステルをクラウドは易々と押し倒す。


「ほら、何も問題ない」

「え、ええと、その…………」


 クラウドにのぞきこまれ、エステルは動けない。このまま起き上がったら、顔が触れるくらい近付いてしまう。

 エステルはクラウドの膝の上で、心臓が飛び出しそうになるのをこらえて、やっと言った。


「あ、ありがとうございます……」

「問題ない。ゆっくり寝ろ」


 その様子を馬車の外からそっと見ていたアンはうっとりとよろめいてテンプルトンを振り返った。


「はうぅ……尊いですぅ……美しすぎるお二人に当てられてしまいましたっ……テンプルトンさん、あたし、そちらの馬車に乗ってもいいですか? こっちに乗ったら、王都に着くまでに鼻血噴きすぎて悶え死にそうなんでっ」





 エステルは顔を赤くしてじっと固まっていたが、馬車が動き出すとすぐに寝てしまったようだ。

 くったりと脱力して少し重みを増したエステルの肩を、安定するように少し動かしてやる。


「う……んん……」

 むにゃむにゃと桜色の唇が動く。起こしてしまったかと焦るが、エステルはそのまま静かな寝息を立てた。

 白い頬に睫毛の影が落ちている。その陶器のような頬にクラウドは思わず指を滑らせて呟いた。


「……愛らしすぎる……」


 七色に輝く髪を手で梳き、合わせられた小さな手のひらを握ると、その指が赤く荒れていることに気付いた。


「そうか、薬草を摘んでいたから」


 クラウドのために様々な効能のお茶を作り、トレンメル領の冬に備えて感染症の薬を作っている、とプルロットから聞いていた。

「こんなに手が荒れるまで頑張るとは」


 そのひたむきさが愛おしい。


「エステルを失うことなど、考えられない。王都で何が起ころうとも、エステルを守り抜く」

 ぜったいに離さない。

 クラウドは荒れた指先を包むようにエステルの手を握りしめた。




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