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62 舞踏会準備の総仕上げ


 次の日。

 エステルはベッドの上で念入りに顔を洗い、ぺちぺちと頬を叩く。

「さあエステル、今日は舞踏会準備の総仕上げよ! がんばって!」

 馬車や道具、王への進物。そして衣装。

 エステルが、城の者たちが、総力挙げて整えてきた準備を総点検するのだ。


 夫婦の居間にはいつも通り、クラウドが先に着席してグスタフと話していた。

「おはようございます、クラウド様」

「ああ、おはよう」


 傍目にはいつも通りに見えるだろう。

 昨日の夜のことを思い出し、つきんと胸が痛む。


(クラウド様は、きっとわたしに呆れられたわ)

 嫁いできてからこれまで、クラウドとは静かにいろいろ衝突してきた。

 その度にクラウドの優しさに触れて、エステルはこれまで傷付いた心が癒されてきた。

 世間では竜殺しとか血まみれ辺境伯とか噂されるクラウドが、実はとても誠実で領地領民のことを心から考える人物だとわかって。

 そんなクラウドにだからこそ、エステルも不器用ながらも自分の考えや想いを伝え、絆を深めてこられた。


(でも、今度はそういうわけにいかない)

 絆はこれ以上深めないほうがいい。

(別れのときは近いから)


「……エステル」

「は、はい!」


 思いにふけっていたエステルがびくっと顔を上げると、まだほんのり湯気を上げるパンのカゴをクラウドが差し出した。


「今朝、厨房に特別に頼んでおいた」


 エマに聞いたのだろう。エステルが美味しいとエマの主人に伝えたエマの店の菓子パン。ゲベックやブッタクーヘンなどこの地域特有の菓子パンがカゴいっぱいに入っている。


「今日は一日、長くなりそうだ。身体が持つようにたくさん食べるといい」

「……はい! ありがとうございます。クラウド様」

「問題ない。俺も久しぶりに甘いパンが食べたかった」


 クラウドの心遣いに涙が出そうになる。

(ぜったいに、クラウド様とクラウド様の領地はわたしがお守りします!)

 イザベラの毒牙になど、ぜったいにかけさせない。


 前は、イザベラの姿を見るだけでひれ伏す思いだった。イザベラに逆らおうなどとは少しも思わなかった。

 しかし今、クラウドやトレンメル領のためなら、エステルは正面からイザベラと対決できる。

 エステルは、そう確信していた。





「素晴らしいです!」

 次々と大広間に運びこまれる荷に、エステルは手を叩いた。

「そうでしょう。この布は王都でも重宝されていると聞いております。トレンメル領のような水のきれいな場所でないと作れない布でございますから」

 グスタフが誇らしげに言った。


 絹とも見まちがえるような光沢の布が、立派な箱に次々と詰められていく。


「それと宝石でございます。ダイヤモンドはもちろん、ルビー、サファイアなどの鉱泉がこのトレンメル領には多くございますので」


 宝石の原石は小さめの重厚な箱に収められ、出発の日まで別の場所で保管されるそうだ。

 その他に、地域の特産のワイン、珍味など、王家への献上品は目もくらむような質と量だった。


「おおそうだ、アグネスがぜひ、馬寄せにおいでくださいと申しておりましたよ」


 グスタフに言われて外へ行くと、立派な六頭仕立ての馬車が三台、堂々と停まっていた。

 王都にいたエステルは多くの貴族の馬車を目にしてきたし、公爵家の馬車もそれは見事で豪奢な仕立てだった。王家の馬車も見たことがある。

 そのいずれにも劣らない、むしろ勝っているような立派な馬車だ。


「す、すごい……なんて品格のある馬車なんでしょう!」

「ガレアの道具屋が頑張ってくれましてねえ。凱旋の時に使った馬車を仕立て直すだけじゃなく、新しく二台も馬車を用意してくれたんですよ」

 アグネスは嬉しそうだ。

「馬車の良し悪しで貴族は判断されますからね。この馬車はまちがいなく、一流貴族のものですよ! クラウド様とエステル様をお乗せするのにぴったりです!」


 エステルは思わずアグネスの手を取った。


「アグネスさん、御尽力ありがとうございます。お城の仕事だけでもお忙しいのに、こんなに素敵な馬車を仕立てていただいて……」

「あたしみたいな使用人にもそうやって御礼を言うところが、エステル様の良い所であり悪い所ですよ」


 アグネスはエステルの手を優し握り返す。


「こういうときは『当然ね』くらい高飛車にしててもよろしいんですよ」

「そんな! アグネスさんにそんなこと言えません!」

 エステルが仰天すると、アグネスが笑った。

「ふふふ、エステル様らしい。あたしはそんなエステル様が大好きですけどね」

「アグネスさん……」


 この日だまりのような笑顔ともうすぐお別れだと思うと身を切られるような思いがする。


「エステル様? どうしました?」

「いえ、なんでもないです」

(それがトレンメル領を、皆さんを、クラウド様を守るためなんだから……)


 そのとき、回廊を賑やかな一団が進んできた。

「オウ! 遅くなりまして申し訳ございません! この日に間に合ってよかった! テンプルトン、御衣裳をお持ちしました!」


 テンプルトンはメイドたちに手伝ってもらい、マネキンや衣装を大広間へ運びこもうとしているが、ふとエステルに気付いて馬寄せにやってきた。


「オウ! エステル様! こちらにいらしたのですね!」

 テンプルトンが優雅に歩み寄ってきて、慇懃に頭を下げた。

「エステル様、どうぞドレスの御試着をなさってください」




「まあ……」

 エマやアンをはじめ、手伝っていたメイドたちから感嘆の声がもれた。


 淡いラベンダー色のドレスは、パフスリーブに細いウエストライン、華やかに広がったスカートという王道の形だ。

 しかし、ふんだんに使われたレースやフリル、細やかな刺繍、見えないところに配置されたタックや切り返しが、エステルの華奢でしなやかな身体のラインを極限まで強調し、まさにエステルの美しさを最大限引き出すための仕様になっている。

 動くたびに布の上品な光沢が陰影を作り、エステルの七色に輝く黒髪に華を添えた。


「ドレスを着ただけでこのお美しさ……装飾品をつけて髪を整えたらもう、目が! 目が美しさで潰れてしまいますぅうう!!」

 アンなどは悶絶している。


 鏡の中の自分を見て、エステルは呆然とした。


「これがわたし……」

 まるでどこかの国の王女のような姿が、そこにある。

 初めて着たドレスの着心地の良さに酔うような心地がした。


「さあエステル様、いざ参りましょう」

 エマに言われてハッと我に返る。

「え……どこへ?」

「もちろん大広間ですよ。クラウド様がお待ちです!」




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