61 もどかしく心細い距離感
キリルカ村。
(聞いたことのない名前だわ)
エステルは舞踏会のための教養講義で、アベルから国の地理について徹底的に叩きこまれた。
主要な町や村だけでなく、かなり細かい地名も覚えたつもりだが、それでもキリルカ村という名は覚えがない。
「キリルカ村は、今は跡形もないのですか?」
「ええ。竜に襲われても復興する村はありますが、キリルカ村は……竜に焼かれたまま消滅しました。生き残った住人が、それを望まなかったので」
アベルの表情は今まで見たことがないほど暗い。
(まるで、聞いてはいけないことのような)
そんな気がして、エステルはやっと「そうですか」とだけ言った。
「ですが、なぜ竜に襲われた村の事など知りたいのです?」
「それは……」
エステルは一瞬迷って、しかし正直に答えた。
「もしかしたら、その場所に『記憶の花』があるかもしれないんです」
「なんですって?」
「プルロットさんの知り合いの薬師さんが、昔見たそうで。西の森の南にある沼のほとりに小さな村があって、そこにたくさん『記憶の花』が咲いていたのだと」
「そうですか……」
アベルは考え込むように手を顎に当てる。
「私も調べておきましょう。そのかわりエステル様にお願いが」
「は、はい」
「クラウド様にはこのこと、おっしゃらないようにお願いします」
なぜ、と思ったがアベルの表情があまりに真剣なので、
「わかりました。クラウド様には言いません」
と深く頷いた。
♢
ティトリー、ローズマリー、ジャスミンの花びら、ジンジャー。
そこに、蜂蜜をスプーン一杯垂らす。
「できた」
エステルは、今日もクラウドのためにお茶を準備する。
このところ、クラウドは朝も夜も執務室にこもっている。挨拶回りや魔物退治がひと段落した今、新しい領主として処理すべき書類が山のようにあるらしい。
一つ一つ丁寧に目を通し、真剣に吟味しているクラウドの姿を、エステルは扉の影からそっと見かけたことがある。
(座りっぱなしだと、身体が冷えてしまうから)
今日のレシピにはジンジャーと蜂蜜を加え、内側から身体が温まるように配慮した。
同じ物を自室で飲むために取り分けようと自分用のカップに手を伸ばすと、その手に大きな手が重なった。
「クラウド様?!」
「俺にお茶を淹れてくれていたのか」
いつの間にか、背後にクラウドが立っていた。気付かずに準備をしていたことにエステルは顔が熱くなる。
「は、はいっ、今、お部屋へお持ちしようかと思っていたのですが」
いつもはクラウドが湯殿へ行っている間に部屋へ運んでいるのだが、今日は西の森から帰ったのが思ったより遅くなり、時間が押してしまった。
「すみません、遅くなってしまって」
ワゴンに用意されたポットやカップのセットを見て、クラウドは大きく息をつく。
「問題ない。だが、エステルは? お茶を飲むのだろう?」
「は、はい、飲みますが……」
「なら一緒に飲もう。――アグネス!」
クラウドは慌てるエステルにおかまいなくアグネスにワゴンを頼み、エステルの手を取る。その手の強さに、エステルはどきりとした。
(クラウド様、なんか怒っていらっしゃる?!)
夫婦の居間でソファに座ると、クラウドが言った。
「何かあったのか?」
「い、いえ、何も」
「俺に言いいたいことはないか? 何かあったのではないか?」
(も、もしかして、舞踏会準備の進み具合を報告していないことを怒っていらっしゃるのかしら)
何かと聞かれて、エステルの胸にはイザベラの哄笑や国境沿いをとぼとぼ歩く自分の姿がよぎるが、できるだけ平静を装って答えた。
「ご報告が遅れてすみません。舞踏会の準備は滞りなくほぼ終わりました!」
ダンスのレッスンから、教養、マナー、社交術まで、アグネスやアベルやグスタフからエステルはたくさんのことを教わった。
これでクラウドにふさわしい女性になったかどうかはわからないが、できることはすべてやったという達成感がある。
「ですからご安心ください。英雄であるクラウド様に恥ずかしい思いをさせないように精一杯がんばりますから!」
気合を入れると、クラウドがおかしそうに笑った。
「あ、あれ……? どうかなさいましたか?」
「いや……問題ない」
エステルにどうして自分を避けるのかと聞こうとしたが、可愛らしいエステルの気遣いを見ていたら自分のモヤモヤが馬鹿馬鹿しくなってきた。
「こうして一緒にお茶を飲むのも久しぶりだな」
「は、はい」
イザベラのことがあってからクラウドの顔を見るのが申しわけなくて、なんとなく避けていた。
(本当はわたしも、こうしてクラウド様とお茶を飲みたかったわ……)
今夜だけ。偶然会えた今夜だけ、一緒にお茶を楽しもう。
(イザベラお母様が企んでいる陰謀を知ったら、クラウド様はわたしを疫病神だと今度こそ嫌うかもれない……)
だから今だけ。嫌われる前にもう少しだけ一緒の時間を過ごしたい。
誰に願うのか、エステルは祈るような気持ちでカップを握りしめる。
クラウドも湯気の上がるカップを手に取った。
「今日はどうしていた?」
「西の森へ。アベル様が一緒に来てくださいました」
エステルは採った薬草のことをクラウドに細かく話す。
「西の森の豊かさには、ほんとうにいつも驚かされます。毎日行っても飽きません」
「…………」
黙って話を聞くクラウドの様子に、エステルはふと顔を上げる。
「どうかなさいましたか?」
「俺ではダメなのか?」
「え?」
「西の森へ行くのは、俺ではダメなのか?」
エステルは言われたことの意味を一瞬考えて、すぐに顔が熱くなった。
「そ、そそんなことは!ダメだなんてそんな!」
クラウドと一緒に行けたら、どんなに楽しいだろう。
「で、でも、クラウド様はお忙しいですし、それに――」
そんなに楽しい時を過ごしてしまったら、別れがつらくなる。
これまでもつらいことはたくさんあった。そのすべてのつらさを合わせても、クラウドとの離婚を自ら宣言するつらさは想像もできない。
きっと、身体がバラバラになってしまうくらいつらいだろう。
だからできるだけ、思い出を作りたくない。
舞踏会を成功させて、その舞踏会の場できっぱりクラウドと別れなくては、クラウドの身が、トレンメル領の人々がイザベラの毒牙にかかってしまう。
「何か、俺に隠していないか?」
紫水晶のような双眸が、エステルをじっと見つめる。
「そ、そんなことは」
「言えないのか? 俺たちは夫婦ではないのか?」
夫婦、という言葉にずきりと心臓が痛む。
甘い響き。でも、もうすぐ自分からは離れていく幸せな響き。
「前に、確かに互いに言えないこともあると言った。だが、わかり合おうと話したではないか。エステルが俺に何かを隠していて悩んでいるなら、俺はそれを分かち合いたい」
「そ、それは」
(クラウド様はお見通しなんだわ)
勘も良く賢いクラウドには、エステルが何かを隠していることなどすぐにわかったのだろう。
しかしクラウドを守るには、すべて黙ったまま実行するのが最善策だ。
「言えません」
言えない。
イザベラの陰謀を話せば、クラウドは激怒するだろう。
舞踏会を間近に控えた今、策もないままイザベラに抗議しても、かえってクラウドを窮地に追い込む。
ならばいたずらにクラウドの心を騒がせたくない。
エステルの策をすみやかに実行するのが、最も確実で傷付く者が少ないのだ。
「アベルには気軽に声をかけるのに、俺には話せないのか」
冷ややかな声にエステルはハッとする。
「違いますクラウド様! そういうことではなくて」
「もういい」
クラウドは黙ってお茶を飲み干した。
「美味かった。ごちそうさま」
「はい……」
立ち上がったクラウドを引き止めたい気持ちを必死で抑える。
「貴女も、早く休むといい。アグネスから、明日は舞踏会準備の総点検があると聞いた」
「……はい。おやすみなさいませ」
エステルは立ち上がり、部屋を出るクラウドの背に深く頭を垂れる。
少し前、縮まったように思えたクラウドとの距離がまた大きく開いた気がして、もどかしく心細い気持ちになる。
(でも、これでいいんだわ)
距離があれば、別れのつらさが少しは和らぐだろうから。




