59 おまえも魔女だったとは
安宿の一室に入ると、イザベラは乱暴にエステルを椅子に座らせた。
「まったく、ここは田舎町のくせに衛兵が忌々しいねえ。もう少しこのリンゴの効果を楽しもうと思っていたのに生意気にも見張りやがって売りにくいったらありゃしない。ま、おまえをおびき寄せることに成功したからよしとするが」
「イザベラお母様、なぜ紛争リンゴモドキなどを! これは危険な魔草の実ですよ?!」
「だからさ。おまえは昔から薬草や魔草に興味を持っていた。町で売れば、おまえが城から出てくると思ったのさ」
エステルは凍り付く。イザベラお母様が、どうして今さらわたしを。
「な、なぜわたしを。御用ならお城に来てくだされば」
「確かめなくちゃならないことがあってねえ」
イザベラは背筋をピンと伸ばし、頭巾をはぎ取った。
老婆のように皺の寄っていた顔はあっという間に艶やかな肌になり、エステルの記憶の中のイザベラが現れる。
イザベラが現れた驚きよりも、イザベラに虐待される恐怖に支配されたことよりも、エステルは目の前の《《変化》》に目を瞠った。
「ま、まさか……イザベラお母様は、魔女なのですか?!」
「ふん、今頃気付いたの? まあ、もう公爵家を出されたおまえには関係ないだろう。おまえにはこの地できっちり役目を果たしてもらわないとねえ」
意地の悪い笑みを口の端に上げて、イザベラはエステルに迫った。
「おまえがなぜ、この辺境の地へ嫁いだか教えてやろうか」
――魔石鉱泉から出る莫大な利益を王家とリヴィエール公爵家に流すこと。
エステルは知っていたが、黙っていた。
「おまえの結婚相手は近く莫大な富を手に入れる。が、たかが田舎の辺境伯がそれを独占するなどあってはならない。王家、いや、王家よりもより多くリヴィエール家に富を流すようトレンメル辺境伯を動かすんだ」
エステルは唇をかむ。血が出てしまうかもしれないほど強く。そうしなくては、震えを抑えることができない。
(どうして……!)
この地に来て、満たされた穏やかな日々を送っていたのに。今になって、なぜ。
「おまえ、首尾よくやっているんだろうね」
言われてドキリとする。まさか。
「おまえの役目は、トレンメル辺境伯を閨で籠絡し、骨抜きにすることが肝要だ。それができているのかい?」
「そ、それは」
青ざめたエステルを見てイザベラはカッと血を上らせた。
「まさかおまえ、あたしが言い含めたことをやってないんじゃないだろうね?!」
「ひっ、す、すみませんっ、ぶたないでっ……」
翻ったイザベラの手を見て、過去から恐怖が再び一気に襲ってくる。エステルは思わず顔を守るよう覆った。
「ふざけんじゃないよ!」
イザベラはエステルの髪を乱暴につかんで上向かせた。
激痛が走るが、痛いことよりも髪が心配だった。毎晩アグネスが丁寧に梳かしてくれる髪が切れたり抜けたりしたら、アグネスが悲しむだろう。
「やめて、髪が……やめてください!」
「口答えするんじゃないよ! この役立たず!」
強く揺さぶられて視界に火花が散る。
「いいかい、教えた通りにするんだ。あの竜殺しの辺境伯が閨から出られなくなるほどにね。おまえの言うことを二つ返事で聞くようにするんだよ!」
「で、できませんわたし、そんなこと……!」
クラウドの優しい笑顔が脳裏をよぎる。
(あんなにわたしを気遣ってくださるクラウド様を騙すようなことなんて、絶対にできない!)
「ほう、そうかい。ずいぶんと生意気になったもんだ」
イザベラは冷ややかに言うと、エステルの髪を手首に巻きつけたまま引っぱり、息がかかるくらい顔を近付けた。
「なら、これを飲むがいい」
イザベラはエステルの髪を強く引いて上向かせると、小さな小瓶の取り出して片手で蓋を開ける。刹那立ち昇った臭いに、エステルは顔を歪めた。
(この臭いは)
サテュリオンという魔草の臭い。飲めば効き目が醒めるまで男と淫行せずにはいられないという強烈な媚薬だ。
「嫌っ! やめてください!」
以前のエステルならば、イザベラに手をふるわれ髪を掴まれた時点で言うがまま為すがままだった。虐待の恐怖に一瞬で支配されてしまっていたからだ。
(今も怖い。でも……!)
クラウドを欺きたくない。媚薬を飲んでイザベラに教えられた閨での行為に及ぶなど絶対にできない。
エステルは必死に抵抗する。
「このっ……生意気なっ! おまえはリヴィエール公爵家の道具なんだよっ! おとなしく言うことをお聞き!!」
イザベラは手指に魔力を集中させて呪文を口にした。
〈我に従え――パラライズ〉
これでエステルは固まり動けなくなる、とイザベラがほくそ笑んだときだった。
〈リムーブ!〉
高い澄んだ声が部屋に響く。
「ぎゃあっ」
ガラスが割れるような音と共にイザベラが目を覆い、エステルを突き飛ばして離れた。
その隙にエステルは椅子から逃れ、イザベラと距離を取る。いつでも魔法が発動できるように手指に魔力を集中させる。
「どういうことだっ! おまえ魔法が使えるのかい?!」
怒りと驚きにイザベラは目を瞠る。
「そんな馬鹿な……ということは、あの忌々しい女も魔女だったということか?!」
一方、エステルは魔法を発動した手指を呆然と見た。
(わたしの魔法、ちゃんと使えた!)
心臓が高鳴っていた。イザベラの魔法を跳ね返した感触が、はっきりと手に残っている。
(……わたしはイザベラお母様のいいなりにはならない!)
エステルはイザベラの怒りに歪んだ顔を正面から見据えた。
「わたしは、クラウド様を騙すことなんてできません! イザベラお母様の言うことには従えません!」
「このっ……あたしに逆らって田舎の辺境伯なんぞを庇うのか、この悪女の淫売めっ!!」
イザベラは再び魔法を発動しようとした。しかし。
(なんなんだこの魔力の波動はっ……)
イザベラの魔力を跳ね返すほどの魔力が、エステルから放たれている。
(くそっ、これではまた魔法を跳ね返されるっ……くそっ、くそぉお!!)
刹那、イザベラは大きくマントを翻した。
粗末な椅子とテーブルがひっくり返る。その影にエステルが隠れたときには、イザベラの姿は大きな鴉に変わっていた。
『ぜったいに許さない。おまえに呪いをかけてやる』
鴉は言った。
『こうなったらおまえが悪い魔女だということを王に訴え、火炙りの刑にしてやる!辺境伯も魔女を囲う竜殺しの反逆者だと王を洗脳してやるわ!』
「やめてください! クラウド様は何も悪くない!」
『ククク、それは王が決めること。炎の中で自分の愚かさを嘆くがいい』
黒い翼が大きく羽ばたいたかと思うと、大きな鴉は路地裏の暗い窓から飛び立っていった。




