58 果物売りの老婆
「果物、ですか?」
エマのパン屋の会計台で、エステルはプルロットにお釣りを渡していた。
「ええ、果物です」
プルロットは真剣な表情で頷く。
店内はお昼の混雑ピークを過ぎ、パンの棚がほとんどすっからかんになったと同様、店内にもプルロットの他に客はいない。
「それは見事な黄金色のリンゴだそうです。甘い匂いが強く、その外見と匂いに誘われて買って食べた者は……今、全員が衛兵に捕らえられて牢につながれてますよ」
「なんですって?!」
常日頃おだやかなエステルが牢と聞いて声を大きくした。その勢いにプルロットは気圧される。
「し、仕方なかったようですよ! なにせリンゴを食べた者は暴れて、誰にでもケンカを吹っ掛けるんですから。おかげでここ数日、町では乱闘があちこちで起きて大変だったんです。怪我人も出てしまって」
「そ、そうですか……それは確かに仕方ないかもしれませんね」
エステルは落ち着きを取り戻し、
「お城に戻ってすぐにクラウド様に申し上げます。対策を立てなくては」
そう言うと、プルロットが「もう対応されてますよ」と微笑んだ。
「新しい領主様はさすがです。もうすでにルイス様が巡回を強化してくださって、今日なんかは乱闘も起きてないみたいです」
「そうですか、それならいいけれど……金色のリンゴ、か」
エステルはどこかひっかかりを覚えて記憶の奥底をたぐる。金色のリンゴ。強い甘い匂いがして、食べると気性が荒くなる――。
「――そうだ、思い出したわ! 魔導書に記してあった魔草の実よ。紛争リンゴモドキ!」
「やっぱりエステル様もそう思いますか?」
紛争リンゴモドキとはリンゴに良く似た魔草の実で、食べると気性が荒くなり好戦的になって暴力行為に走る。
「でもあの実は、温かい地域でしか採れないはず」
「そうなんです。南の魔女が悪い魔女だと非難される原因の一つですね」
「……悪い魔女?」
(そういえば、テンプルトンさんが言ってたわ。ガレアの町に悪い魔女がいるかもしれないから気を付けてくださいって)
関係ないとは思いつつ、言葉にできない不安が胸をざわつかせる。
「プルロットさん、その果物はどこの露店で売っているの?」
「それが露店じゃなくて、売り子が売り歩いているらしくて。だから出所が押さえられずに困っているらしいです。どこからともなくふらりと現れて『お一つどうぞ』と言ってくる。老婆だそうですよ」
エステルは店の奥をのぞく。舞踏会の準備が始まって以来、城に泊まりこむも多くなったエマは主人とパン種をこねながら陽気に話し込んでいる。
(ちょっとだけ。エマさんが御主人とお話している間だけ)
エステルはプルロットに店番を頼むと、そっとパン屋を抜け出した。
♢
町では一人にならない、という約束なので、エステルは頭巾とマントを羽織って顔を隠し、市場を歩く。
マントを羽織ってしまえば白い絹のブラウスも目につかなくなり、エステルは人波にまぎれた。
(いつも通りに見えるけれど)
店も、通りの様子も、人々の笑い声や喧噪も、先日来たときと変わらない。特に変わったところはない。
(なんとなく、テンプルトンさんが心配している『悪い魔女』が紛争リンゴモドキを売っているって思ってしまっていたけれど)
考えてみれば、『悪い魔女』がリンゴ売りの老婆とは限らない。
そもそも『悪い魔女』はテンプルトンが心配していただけで、本当にいるかどうかはわからないのだ。
ガレアの町は領内の中心地だけあって、市場も田舎にしてはそこそこに大きい。遠くからの行商も来るため安宿も多く、市場の中心地周辺は、安宿と露店に囲まれた細く入り組んだ迷路のようになっている。
(もう一周して、リンゴ売りのおばあさんが見つからなかったらパン屋に戻りましょう)
露店と露店に挟まれた狭い道を、エステルは売り物を踏まないように気を付けながら歩いていく。
そのときだった。
「お一つどうぞ」
耳をねぶるような声に思わず足が止まる。
後ろから、いきなり手首をつかまれた。
「……!!」
皮膚に食い込む強い力。骨ばった感触。
ざわり、と身体中の毛が逆立つ。忘れかけていた恐怖が蘇る。これは。この感触は。
ゆっくりと振り返る。
そこには老婆が立っていた。
この地域ではよく見かける民族衣装、手に下げた大きな籠には、金色にきらめく小ぶりのリンゴがたくさん入っている。
老婆が頭巾の下で笑ったのがわかった。
「久しぶりだねえ、エステル」
老婆じゃない。やはりこれは。この手を握る感触は。この声は。
「イザベラお母様……」
手首を握る力がさらに強くなる。こうなるとエステルはもうイザベラの言うがままだった。心が縮こまり身体が動かなくなってしまうのだ。
昔と同じ。毎日毎日打擲され、怯えていたあの頃と。
「声を出すんじゃないよ。一緒に来るんだ」
イザベラはエステルを強く引っぱり、すぐ近くの安宿の木戸を開けた。




