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50 一日の報告とクラウドの煩悶


 夜。

 いつものように、夫婦の居間でエステルが待っていると、クラウドが入ってきた。

「待たせてすまない」


 すっかり夜着に着替えたクラウドは、湯殿から上がってきたばかりなのだろう。エステルの向かいに座ると、ふわりと石鹸の良い香りがした。 

 その香りにドキドキしながらも、エステルは今日の出来事をひとつひとつクラウドに話していく。


「テンプルトンさんは、とても気さくで良い方でした。手際もとっても良くて。わたしのドレスとクラウド様の衣装を三着も仮縫いしてくださるそうです」

「俺の衣装はどうでもいいが、エステルのドレスはそれでよかったのか? 三着と言わず、もっと作ってもらってもいいのだぞ?」

「と、とんでもない! わたしなどのために……三着でも多いです」

「エステルは謙虚だな」


 クラウドはふっと目元も和ませてエステルを見つめる。


「貴女なら、どんなドレスでも似合ってしまうだろうに」

「そ、そそんなことは……」

 エステルは火照った顔を隠したかったが、まだまだ話したいことがたくさんある。うつむいてしまいそうになる熱い顔を懸命に上向けた。

「あの、それで、テロル村からの帰りに、ガレアの町へ寄ったんです。それで、エマさんのお宅のパン屋さんで――」


 エステルが人々の意見や世間話を伝えると、クラウドは感心したように頷いた。


「なるほど。そういうことか」

「え……?」

「おかしいと思っていたのだ。立派な神殿が放置されて荒れているのに、人々はとても信心深く神を崇めている。どこの家庭にも神への供物棚があるようだしな」

「そうなのですか?」

「ああ。しかし、赤ん坊の誕生の祝福にも関わるなら、急いだほうがいい。明日にでも技師を連れて神殿へ視察に行って、近いうちに使えるように手を入れよう。それに、薪の件。今からなら、冬までにガレアの民すべてにじゅうぶんな薪のストックを用意してやれる。さっそく手配しよう」


 クラウドが鈴を鳴らすと、グスタフがやってきた。

「グスタフ、今、エステルからガレアの民の声を聞いていたのだが、至急手配したいことがある。明日の予定に入れてもかまわないだろうか」

「かしこまりました。ですがクラウド様……明日、これ以上予定を入れますと、クラウド様の休憩のお時間が減ってしまうのが私としては心配なのですが」

「俺の休憩などはどうでもいい。今は民のことが最優先だ。領地が新しく生まれ変わると民に知ってもらうために、今すぐいろいろなことを変えていかなくてはな」

「かしこまりました。では、そのように準備いたします」


 グスタフは困ったようにエステルに微笑みかけ、一礼して部屋を出た。



(クラウド様は、本当になんて寛大な人なのかしら)


 『英雄』という称号は、ただ竜を倒したからだけではないとエステルは思う。

(クラウド様は民を救う、本物の英雄だわ)


――それに引きかえ、自分は。


(公爵令嬢とは名ばかりの、みすぼらしい女……)

 ドレスも着たことがないし、ダンスも踊れない。食事のマナーは亡き母から習ったが、お酒やパーティーでのマナーはわからない。

 貴族の子弟は幼い頃より何人もの家庭教師が付き、学問だけでなく文化芸術、ありとあらゆる教養を身に付けていく。それが社交界に出たときに必要で重要だからだ。 しかし、エステルにはその教養がない。



(『英雄』であるクラウド様の隣に立つのに、本当にぜんぜんふさわしくないわ……)

 わかってはいたが、改めて心が暗くなる。



 母が亡くなってから今まで、懸命に生きてきたことを決して恥じてはいないが、公爵令嬢としての教育を受けられなかったことをこんなに悲しく思ったことはない。


(それに、テンプルトンさんが素敵なドレスを仕立ててくれても、中身が伴っていなくては台無しだわ)

 テンプルトンはこの短期間に、三着ものドレスを仮縫いすると言ってくれた。


(わたしも、もっともっとがんばらなくちゃ)

 一刻も早く、少しでも多く、淑女に近付きたい。


「クラウド様、あの!」

 エステルの勢いにややクラウドは驚いたようだ。

「どうした?」

「あのっ……わたし、明日からでもダンスやパーティーマナーなど、舞踏会へ出席するのに必要なことを身に付けたいです!」

 エステルは勇気をふりしぼって言った。


(使用人のように生きてきたことは、知られてしまっているけれど……)

 淑女教育を頼むことは、自分に淑女としての教養が無いことをクラウドに面と向かって言っているようなものだ。

 恥ずかしくて消えてしまいたいが、今はそんなことよりも時間が惜しかった。





 クラウドは、目を瞠る。

(言いにくいことだろうに)

 自分の教養の無さをさらけ出すことは貴族女性にとって恥ずべきこと。

 それなのに、エステルは顔を真っ赤にしながらもクラウドに訴える。


「つきましては、どなたか、わたしに淑女教育を施してくださる方はいらっしゃいませんか?」


 エステルの過去の生活を思い、エステルがどんな気持ちで自分に訴えているのかを考え、目の前の健気な姿にクラウドは強く胸を打たれた。


「そう、だな」

 エステルが不安そうにしているので、努めて笑顔を作る。こんなことはまったくたいした問題じゃないと、エステルを少しでも安心させたい。

「アグネスは男爵家に勤めていたからパーティーマナーにも詳しいだろう。知識と教養ならアベルに任せられる。二人に、明日から時間を作ってもらうよう頼んでみよう」

「あ、ありがとうございます!」


 エステルは深々と頭を下げた。


「クラウド様、今日はプルロットさんの薬屋で良い薬草が手に入ったので、お茶の葉にブレンドしてみたんです。御用意しますから少しお待ちくださいね」

「ああ、ありがとう」


 小走りに部屋を出ていくエステルの後ろ姿に、クラウドはふと思う。

(俺は、いつまで耐えられるだろうか……エステルと別の寝室でいることに)


 もうはっきりわかっていた。

 クラウドはエステルが心から愛おしいし、もっとエステルに触れたい。


 しかし、初夜に心無い仕打ちをしてしまったこともあり、クラウドは慎重になっていた。

(決してもう傷付けない。エステルの気持ちに寄り添いたい)

 口づけを交わすとき、硬く緊張した様子があるうちはまだ、寝室を別にするのがいいと思っている。

 そうしないと、自分を抑えられる自信がなかった。


(ましてや、舞踏会への準備という、エステルにとっては大仕事ができてしまったからな……)

 しばらくは現状維持が最善。

 頭ではそうわかっているのに、深い溜息が出てしまうクラウドだった。



 


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