49 パン屋で
プルロットの薬屋から出ると、どこからかこうばしい香りが漂ってきた。
「とっても良い匂いがするわ」
エステルが鼻をすんすんさせていると、エマが笑った。
「エステル様、お腹が空いたんじゃないですか?」
「ええ、とっても。この匂いをかいだら、お腹が空いていることを思い出しました」
「よかったら食べていきますか? この匂い、うちのパンの匂いですよ」
「いいんですか?!」
「やったあ、エマさんところのパン、美味しいんだよねえ」
アンも手をたたいて喜んでいる。
エステルも、この前もらって食べた美味しさが忘れられず、また食べたいと思っていたところだ。
「おまえさん、カイザーゼンメルサンドイッチを作っておくれ」
ガラガラと扉の鐘を鳴らしてエマが店に入ると、奥から大柄な主人が出てきた。
「なんだ、今ちょうどプレッツェルの焼き上がりが……って、アン? エステル様も!」
「ちょっとテロル村にお使いに行った帰りなのさ。エステル様がお腹が空いて、うちのパンを食べたいっておっしゃっているんだ」
「なんだそういうことか! 早くそれを言ってくれよ! すぐ用意するから!」
「あの、でもお忙しいのでは……」
エステルの声は、店の喧噪に消えてしまう。
店の中には他の客もいて、賑やかにパンを買っている。主人は奥の竈と客の相手を行ったり来たりだ。
「そうだ! わたし、手伝います!」
「「え?」」
エマとアンが首を傾げる間にも、エステルはさっとお会計台に入り、並んでいたお客から代金を受け取った。
お会計台にはパンの名前と値段が書かれている。
「あの、これは何というパンですか?」
「これはミッシュブロートだよ。知らないのかい? お嬢さん、他所から来た人なの?」
するとエマが言った。
「フェタさん、この方はね、新しい領主様の奥様のエステル様なんだよ!」
「ええ?!」
店の中の視線が、一気にエステルに集まった。
「新しい領主様の奥様?」
「王都から来たっていう?」
「なんか、もっとこう……偉そうなご婦人かと思ったけど」
人々が毒気を抜かれたように話しているのを聞いて、エマが笑った。
「噂なんてアテにならないもんだろ? エステル様、みんな、エステル様のことが気になっているんですよ。お言葉に甘えてお会計台を任せていいですかね?」
「え、ええ、もちろんです!」
それからエステルは、お会計をしながら人々を言葉を交わした。
もともと飲み込みが早く、実家で使用人のように働いていたので要領も良いエステルは、お会計をしながら人々を会話を楽しめた。
「奥様、この地方はね、冬にすごく寒くなるんですよ。なのに前の領主ときたら、備蓄の薪を全部城に溜めこんで、欲しければ城に買いにこいって言ってたんですよ。みんな、冬は本当に寒い思いをしてきたんです」
「まあ。それでは冬に皆さんへ充分な薪がいきわたるように、対策を考えてみます」
「奥様、聞いてください。前の領主は井戸の管理がなってなくて。ガレアの井戸が枯れそうになったこともあるんですよ。昔から井戸の管理は領主の仕事なんですけど、前の領主はしょっちゅうパーティーだ演劇鑑賞だと言って王都や町へ出かけていて、今もほったらかされている井戸があるはずですよ」
「それはいけません。きれいな水は生活に欠かせませんから。放置されている井戸がないかどうか、確認してみます」
「ねえ奥様、この前、野菜屋の奥さんに赤ちゃんが生まれたんですよ! 子どもが生まれると、領主様が神殿に立ち会って、司祭様と祝福してくれるのがこの地方の習わしだったんですが、前の領主になって神殿の維持費がかかるとかで、それも取りやめになってたのが残念でねえ」
「わあ、ぜひ赤ちゃん見たいです。その習わし、継続されるかどうか、クラウド様に聞いてみますね」
こんな調子で人々と話すエステルをエマはじっと観察していたのだが、
「エステル様はまるで聖女です!」
城に戻り、パン屋の主人が作ってくれたカイザーゼンメルサンドイッチを食べながらエマが叫んだ。
「どうしたのエマさん、急に。そりゃエステル様は聖女みたいにお美しいけどさ」
「そうだけど、そうじゃなくて! あたしら民の声のひとつひとつに耳を傾けてくれるあの姿勢が素晴らしいって言ってんのよ。――エステル様、みんな、エステル様とまたお話したいって帰っていきました。また町へ下りて、みんなと話してやってくれませんか?」
「ええ、もちろんです! わたしもすごく楽しかったです!」
カイザーゼンメルという丸い小型パンにたっぷりのハムと粒マスタード、玉ねぎやレタスがはさまれたサンドイッチはパリッと芳ばしくて、エステルはあっという間に二つを食べてしまう。
「クラウド様は、領地領民のことを第一に考えていらっしゃいますから。わたし、皆さんに聞いたことをクラウド様にお伝えします」
そして、できることは手伝いたい。エステルは人々と話してそう思った。
これまで居場所のなかったエステルにとって、こんなに温かく人々に受け入れられていることが、とてもうれしかった。
「皆さんには、本当に感謝しなくてはいけないわ」
自分のような、悪女な公爵令嬢を受け入れてくれて。
(クラウド様にご報告するのが楽しみ……)
エステルは、プルロットにもらった薬草の束を抱えて、今夜のお茶のブレンドを考え始めた。
『新しい領主の奥方は、美しくて、優しくて、気さくな、聖女のような方らしい』
その噂は、またたく間にガレアの町に広がったのだった。




