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43 伝え合う気持ち


 夕食後、手早く入浴を済ませたエステルは、手早く身支度を始めた。

 鏡の前に座り、髪を梳かし、低い位置で一つにまとめる。


「これでよし。消毒にじゃまになったらいけないものね」

 そして、ワゴンに必要な道具を揃えていく。

 昼間プルロットと精製した毒消しがたっぷりと入った青い瓶、化膿止めの湿布薬、アグネスに頼んで揃えてもらった清潔な布やピンセット。

「これで完璧かしら……」


 そのとき、軽く扉がノックされ、アグネスが入ってきた。


「エステル様、おやすみ前のハーブティーをクラウド様の部屋に御用意しましたよ」

「ありがとうございます。あの、クラウド様はご入浴はされましたか?」

「ええ、お着換えも済んでいるので、いつでも消毒にきてもらっていいそうですよ」

「ありがとうございます!」


 エステルはワゴンを押してクラウドの部屋の扉をノックした。


「どうぞ」


 応えた声が普通だったので、エステルはホッとする。入浴の後なので、痛みで呻いていたらどうしようと心配だったのだ。


「クラウド様、お湯が染みませんでしたか?」

「問題ない。エステルの消毒と魔法が効いたのだと思う」


 クラウドが左肩をぐるりと動かしてみせたので、エステルはあわてた。


「ダメです! そんなに急に動かしては」

「もう大丈夫だ。そんなに大事にしていては、明日から働くのが嫌になってしまう。アベルとルイスに後でねちねち言われるのはイヤだしな」

「そんな……とにかく傷を見せていただいてもいいですか?」

「ああ」


 クラウドの言う通り、傷はほとんどふさがっていた。

「確かによくなってますけど、まだ傷が乾ききっていないので消毒して化膿止めの湿布薬を貼りますね」

「ああ」


 努めて素っ気ない返事をしつつ、クラウドは落ち着かなかった。


(どうしてこんなに気になるんだ)


 最初は路傍の石と同じくらいに思っていた。

 政略結婚で嫁いできた女など、いくら容姿がよくても興味など持てないと思っていたし、実際、初夜の夜に組み敷いてみても冷たい情欲の他に何の感慨もなかった。


 それなのに、今はエステルの手が、指が肩に触れるだけで、近くで美しい黒髪が揺れるだけで、そわそわと落ち着かない。

 おそるおそる見れば、エステルが肩の傷を消毒液で拭いているところだった。


 治りかけとはいえ、紫に変色した皮膚や傷は、若い娘には怖ろしいものだろう。

 けれど、エステルは消毒液に浸した布で丁寧に傷をぬぐっている。

 あかぎれて荒れた手が、痛々しい。


(そうだ、エステルのことが気になるのは、癒してやりたいと思うから)

 実家でひどい扱いを受け、継母から虐待まがいの暴力を受けていた彼女の心の傷を癒してやりたいと思う。

(それは同情や憐憫だ)


 それなのに、なぜこんなにも——。


「クラウド様、申しわけありません」


 思っても見ない言葉に思考が途切れた。

「どうした? なぜ謝る?」

 聞いてから気付く。エステルの肩は小刻みに震えていた。


「このお城にきて、わたしはたくさんの幸せをもらっています。皆さんにも、クラウド様にも。それなのに……わたしは罪深い悪女です」


 最もエステルと縁遠い形容詞に、クラウドは驚いた。


「なんの冗談だ?」

「クラウド様のために毒消しの薬草を採っているときでさえ、わたしは自分の目的の物を探していたのです。プルロットさんにいろいろと聞きもしました。あさましいことです」

「それは問題ないのではないか。俺は貴女から、西の森で探す物があると聞いているわけだし」

「いいえ。わたしは『記憶の花』という植物を探すために、クラウド様に嫁いできた悪女なのです」


 エステルの翡翠のような瞳は真っすぐだ。

 真剣に自分を「悪女」だと思っているらしいエステルに、何も言えなくなる。


「『記憶の花』というのか。貴女が西の森で探しているのは」

「はい」

「なぜその魔草を探す?」


 エステルは処置に使った道具を片付けながら考えているようだった。


「言えません」

「言えない?」

「『記憶の花』を使って、やらなくてはならないことがあるのです。すべてが終わってからなら、お話します。でも今は……」


 エステルは一瞬言葉を切り、思い切ったように息を吸った。


「言ってしまったら、クラウド様との時間が、このお城で皆さんと暮らせるこの幸せが消えてしまいそうで……言えません……」


 エステルは俯いていっそう肩を震わせた。


 刹那、クラウドはその細い肩を抱き寄せていた。考える間もなく身体が動いた。


「貴女が悪女なら、世の中の大半の者が悪者だな」

「そ、そんなことは……」

「俺もだ。なにせ、冷酷辺境伯と呼ばれているからな。自分の願いのために森へ入るなと領民を締めつけている」

「それはっ、クラウド様は領民の安全を思われてっ……」

「もちろんそうだが、俺も貴女に話していない事情があるからそうしている面もある」


 エステルは濡れた瞳でクラウドを見上げた。


「俺にも、貴女に話してないことはたくさんあるんだ。お互いさまではないか?」

「でも……」

「それに、話したくない理由がこの城を離れたくないからという理由なら、むしろ喜ばしい」

「え……?」

「皆と、俺と、一緒にいたいと思ってくれているのだろう? 失いたくないから、嫌われたくないから言えない。ちがうか?」

「ちがわない、ですけど……」

「もし貴女が本当のことを話しても、誰も貴女をここから追放したり嫌ったりしないと思うが、失いたくないから本当のことは言えない、という貴女の気持ちは、わかる気がする」

「……ありがとう、ございます」


 噛み締めるように言ったエステルの翡翠のような瞳が、ふわりと笑んだ。


「わたし、ここにいさせてもらえる間、クラウド様や皆さんのお役に立てるように頑張ります。と言っても、大してお役に立てそうにないですが……」

 申しわけなさそうなエステルの肩を思わずクラウドは軽く叩いた。


「何を言っている。貴女は家事もできれば薬も作れる。おまけに魔法も使える。ルイスがウッドタイガーを仕留められたのはエステルのおかげだと話していた」

「そ、そんなことはないです! あれはルイス様の剣の腕がすごかっただけで! で、でもそんなふうにルイス様がおっしゃってくれていたなら、うれしいです!」


 花咲くように笑った笑顔に、クラウドは胸を揺さぶられる。


 謙虚で、どんなにささやかな日常のことでも大切にして喜んで、でも薬のことになると別人のように饒舌で行動的で。

 エステルと一緒にいると、自分も永遠に平和な場所にいられるような、温かな気持ちになれる。

(罪深き俺が許されるような、優しい人間になったような気がするんだ……)


 確かに政略結婚かもしれない。同情や憐憫も感じているかもしれない。

 けれどそれ以上に、クラウドの中で大きくなる想いがあって。


 ——この笑顔と一緒にいたい。


 その想いの正体が、エステルを前にして自分が落ち着かなくなる理由だ。

 それに気付いたクラウドは、エステルの肩を抱く手に力をこめた。


「貴女はもう、この城になくてはならない人だ」

「クラウド様……」

「それに、俺たちは夫婦だな?」

「は、はい」

「ならばずっと一緒だ。今すぐ言えないこともある。互いにわからないこともある。それを知るのに、ゆっくり時間をかければいいのではないか?」


 エステルがクラウドを見上げた。


「クラウド様はやっぱり、とても優しい方です。冷酷辺境伯なんかじゃありません。こんなわたしに、そんな言葉を掛けてくださるなんて」

「ならば貴女も悪女じゃないな。この城の者にとっては素晴らしい女主人で、俺にとっては——可愛い妻だ」


 エステルがその言葉に赤面するより早く、柔らかい感触が頬に触れ、耳元で低い声がささやいた。


「この間の続きをしても?」


 クラウドの身体が、顔が、腕が、こんなにも近くにあるのに、以前に感じた恐怖はまったく感じない。

 むしろ、ささやかれて、これまで感じたことない甘い喜びが全身を満たしていく。


 けれどクラウドに言葉で返すのは恥ずかしくて、エステルはこくりと頷くと、真っ赤になった顔をわずかに上向けた。

「エステル——」

 その頬を大きな手が愛おしそうに包みこみ、そっと口付けが下りてきた。





——王都。

 貴族の屋敷が建ち並ぶ一角の、ひと際広大な屋敷。

 まるで森のような庭を抱えるリヴィエール公爵家の屋敷だ。

 その屋敷のテラスで、マリアンヌは取り巻きの令嬢たちを招いてお茶会を開いていた。


「みさなん、少し先のお話だけれど、舞踏会のドレスはもう用意されていて?」

 マリアンヌが言うと、取り巻き令嬢が口々に言う。

「ええ、もちろんですわ。でも、きっとマリアンヌ様のドレスが一番お美しいですわよね」

「ほんと。きっと王太子様もマリアンヌ様に釘付けですわよ」

「早く拝見したいですわ。マリアンヌ様のお美しさなら、どんなドレスでも綺麗に見えることでしょうけれど」


 マリアンヌは浴びるような称賛に満足し、ティーカップを置く。


「今回の舞踏会には、ちょっとした余興も用意してますのよ」

「あら素敵、なんですの?」

「皆さま、竜を退治したトレンメル辺境伯のことは御存じでしょう? そして、その方が御結婚されたことも」


 取り巻き立ちが頷き合った。


「ええ。もちろん」

「王都に凱旋したそうですけれど、戦いの死者を悼むためにパレードをお止めになったとか。さすがは王が領地と領主令嬢を賜るだけのお人柄ですわよね」


 トレンメル辺境伯は領地の貴族令嬢を娶ったということに世間的にはなっていた。


「英雄ですわよね。でもお姿を拝見したことがないのは残念ですわ」

「でしょう? ですから、その英雄を皆さまの前にお連れするために、今回はトレンメル辺境伯へも舞踏会の招待状を送ってくださるように、王へお願いしましたの」


 まあ、と取り巻き令嬢たちは喜び合う。


「素敵! それでは英雄を拝見できるのですね!」

「ええ、わたくしもお会いできるのが今から楽しみなんですの」


(筋肉だけが取り柄の無骨でむさくるしい田舎男と、みそぼらしい瘦せこけた女の組み合わせなんて、最高の笑い者になるに違いないもの)


 先日、辺境地への荷馬車に招待状は載せられたらしいので、今頃はもう届いているはずだ。


「ふふふ、本当に楽しみですわねえ」


 マリアンヌは意地悪くほくそ笑んだ。





~二章 おわり~




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