40 領主の花嫁ですから
大きな顎が牙をむき、プルロットに襲い掛かってきた。
——もうだめだ!!
プルロットが絶望したときだった。
『ファイア!』
魔法の詠唱が聞こえたかと思うと、たちまちウッドタイガーを魔炎が包んだ。
巨大な魔物はすさまじい咆哮をあげて地面にどう、と転がる。
「プルロットさん! 早くこちらへ!」
詠唱と同じ声に顔を上げれば、エステルがこちらに手を伸ばしている。
「あ……」
この状況で意地も見栄もなかった。プルロットは籠を背負い直して一目散にエステルの手を取りに走る。
ごう、という地鳴りのような吼え声が迫った。魔炎に包まれた巨躯がもがきながらもせっかく見つけた獲物を逃すまいと長い鉤爪をうなりを上げる!
「ひ、ひゃああ!」
プルロットが悲鳴を上げたと同時。
「うおりゃあああ!!」
大きな怒声共にプルロットの眼前で大剣が一閃。
次の瞬間、地面に重たい音が落ち、縞模様の巨躯がもんどりうって転がった。
「逃がすかよ!」
背を向けて森の奥へ逃げていく魔物をルイスが追った。
「怪我はありませんか!?」
エステルはプルロットに駆け寄った。
♢
——数分前。
「……行っちまったか。こっちは親切で言ってやってんのに、ひねくれた野郎だ」
「追いましょう、ルイス様」
エステルの小さな背中がプルロットの消えた方へずんずん進んでいく。
「お、おいっ、エステル様! ほっときましょう! 奴はこちらの制止を聞かなかった。あとは奴の自己責任ですって」
「でもルイス様も気になっているでしょう?」
「う」
「だって、ぜったいこの先は魔物がいます。見てください」
エステルが示した先には、太い木の幹がある。
その木肌を、鋭い爪痕が大きく深くえぐっていた。
「森の中で一番大きな野生動物は熊ですが、熊の爪痕はこんなに大きくも深くもないです。この爪痕はまだ新しい。近くに大きな魔物がいるサインです」
ルイスは舌を巻く。薬のときと同じように、エステルは饒舌で行動的だ。普段のおとなしく怯えたような様子が嘘のようだった・
「わかりましたよ、追いますって」
ルイスが足並みをそろえて行きかけたとき、エステルの手がルイスの袖を引っぱった。
「あの、ルイスさん、お聞きしたいことが」
「なんです?」
「その……火の魔法で、一番威力の小さい魔法の呪文って、知ってますか?」
「はあ!?」
ルイスは思わず言った。
「なんでオレに聞くんすか!? あんた魔法使いでしょう!」
「わ、わたし……先日、持っていた魔導書の呪文をちょっとだけ使ったら、地面に穴が開いてしまったんです」
「は!? 穴!?」
‘‘ちょっとだけ‘‘使って地面に穴を開けてしまう呪文など、一体どんな威力の呪文だ。
「魔物に遭遇したらわたしもルイス様の援護になれれば、と思うんですが……地面に穴を開けるのはちょっとダメかな、と思いまして……」
「当たり前だっ、地面に穴開ける魔法なんてこっちの身が危ねえっつうの!」
ツッコミながらも、ルイスは魔物討伐の時、隊を組んでいた魔法使いが使っていた呪文を記憶の中から引っぱり出す。
「『ファイヤー』、かな。魔物の群れに先陣を切るときに一番聞いた呪文なんで」
「わ、わかりました!」
エステルはぐっと拳を握りしめて森の奥へと急ぐ。
悲鳴と魔物の咆哮が聞こえたのは、そのすぐ後だった。
♢
エステルは座りこんだプルロットの全身をさっと観察する。
「怪我はなさそうですね……気付け薬があるので飲んでください。あっ、わたしが作って自分で飲んだこともある薬なので安心してどうぞ!」
エステルは携帯袋から小瓶を取り出し、プルロットに渡した。
「な、んで」
「はい?」
「なんでオラを助けたんだ!」
プルロットはエステルを睨みつける。
エステルはきょとん、としていたが、ためらいなく答えた。
「わたしは領主の花嫁ですから」
「え……」
予想外の答えにプルロットは言葉が継げない。
それは単純明快な事実だった。命が大事だから、とか、見捨てられない、とか、感情論を語られるかと思ったのに。
「クラウド様は領地と領民をとても大事に思っていらっしゃるんです!」
エステルは目を輝かせて続ける。
「クラウド、フォン、トレンメル……」
昨日、町で遭った美青年。新しい領主。
プルロットと大して年齢も変わらなさそうなのに、周囲を圧倒する空気をまとっていた。竜を討伐したというのは本当なのだろう、と思った。
「だから花嫁であるわたしも、領地や領民の皆さんを大切にしたいんです! あ、でも……わたしはずっと一人だったので皆さんと仲良くなりたいっていう個人的な理由もあるのですが」
「な、なにを……」
「それに!」
エステルがプルロットの背負っている籠をがっしりとつかんだ。ヨダレを垂らしそうな勢いで中をのぞいている。
「やっぱり思ったとおり! ティトリーにリンデル、ワートにクハマの実に……万能セージまで! こんなにたくさん貴重な薬草があるのにもったいないじゃないですか! ちゃんと持って帰ったらどれだけたくさんの良い薬ができるか!」
大真面目に熱弁する姿に、思わずプルロットは吹きだしてしまった。
「変な奴だな、あんた」
ハッと我に返ったエステルが籠から離れる。
「すすすみません! あのっ、もちろんプルロットさんを助けたくて! その、薬草が目当てとかそういうことでは……」
プルロットは笑って、小瓶の液体を飲み干した。
「……これ、あんたが作ったって?」
「あ、はい」
プルロットは瞠目する。
「じいちゃんが作ってた滋養薬と同じ味だ……」
「あ、あの、誓って毒などではないです! わたしも今まで何度も飲んできたので! 効果は保証しますから!」
——こいつは凄腕の薬師だ。
プルロットが信じ、尊敬していた祖父と同じ味の薬が作れる薬師は、この地域一帯を探してもプルロットしかいなかったのに。
そのとき、繁みをかき分けてルイスが姿を現した。
「ふう、なんとか仕留めましたよ」
「ルイス様! 大丈夫ですか!?」
ルイスは両手両足を広げて見せた。
「見てのとおりぴんぴんしてますよ」
「よ、よかった……」
「でも、ウッドタイガーは少々手強い魔物でね。苦労しましたが」
「少々どころか! ウッドタイガーに遭遇したら死を覚悟しろって薬師の間では言われてるんだぞ! あんた、本当に仕留めたのか!」
驚くプルロットにルイスは胡乱な目を向けた。
「おうおう、竜討伐隊をナメてもらっちゃ困るぜ。ウッドタイガーは大物だがオレの剣にかかれば仕留められるってことだ。ていうか、おめえが友好的な態度を取ってりゃ、電光石火で仕留められたのによ」
ルイスは肩をすくめる。
「だが、エステル様の魔法のおかげであの状況でも仕留められた。クラウドは嫌がるかもしれんが、こりゃ魔物狩りもエステル様の力を借りた方が良さそうっすね」
「そんな、わたしの魔法なんて……」
「いやいや謙遜しなくても! マジで大助かりでしたから!」
プルロットはすくっと立ち上がった。
「オラは、良い薬を作れる人間を信じる」
「え?」
「あんたさっき、一緒に薬を作ろうって言ったよな。流行り風邪にも効く毒消し。リンデルを調合しようって」
「あ、はい。でも、わたしまだリンデルと、ティトリーももっとたくさん採取しないと」
プルロットは背中の籠を叩いた。
「リンデルもティトリーも大量に摂ってある。一緒に作ろう」
「え!? ほんとうですか!?」
「あんたさえよければ、今からでもオラは始められる」
「もちろんです! わたし、クラウド様のために急いで大量の毒消しを作りたいんです!」
「それなら好都合だ」
エステルとプルロットは足を速める。その後ろからルイスがついていった。
「……ま、いっか。これも侵入者を捕らえたってことになるよな?」
前を歩く二人は、熱心に何かを語り合っている。薬草の名前が飛び交っているのはわかるが、内容はルイスにはちんぷんかんぷんだった。
「捕らえたというより、意気投合しているようだが……ま、いっか」