35 願いと治療と魔法
「クラウド様――」
悲鳴に近い声はうまく声にならず、エステルはクラウドに駆け寄る。
(うそ、嘘だわ。クラウド様が死ぬはずは——)
白皙の肌はひどく青ざめていた。母を失ったときの恐怖が喉までせり上がる。
死なないで、という叫びをぐっとこらえた。
(だいじょうぶ。今のわたしは小さかったときと違う。怪我の手当もできるし薬や魔物の傷の知識もある。落ち着いて、できることをするのよ。まずは傷を確認しないと)
アベルが抱きかかえるクラウドの長衣をめくると、左腕からひどく流血していた。
「エステル様、あまり見ないほうが」
「グスタフを呼んでくるんで、このままで待っててください」
「グスタフさんを呼ぶにしても応急処置をしなくては。だいじょうぶですから」
しっかりと返したエステルにアベルもルイスも顔を見合わせて黙った。
「噛み傷だわ」
深く穿った鋭い牙の痕。そこから肉が裂けている部分がある。
エステルは素早く応急処置の道具を持ってきて、クラウドの傷を消毒液で洗った。震えが止まらない。身体も手も震える。それでも必死に自分を奮い立たせ、エステルは消毒液が無くなるまで傷を洗った。
クラウドの額に手を当てると、燃えるように熱い。
「熱がひどい。毒が回っているんだわ」
「エステル様」
アベルがエステルをひたと見つめた。
「この場ではエステル様がいちばん治療に慣れていらっしゃるようだ。従います。指示をください」
「アベル様……」
王都に住んでいたエステルは魔物に襲われたことはない。
しかし、魔導書で魔物の知識は得ていたし、傷の手当ならしょっちゅう、家事労働の擦り傷から切り傷、マリアンヌに負わされた火傷まで、薬草から薬や湿布を作って自分でやってきた。
その経験で役に立てるかわからないが、今は一刻を争う。
「わかりました。アベル様とルイス様はクラウド様をお部屋へ運んでください!」
「わかりました」「お任せください」
エステルはアグネスに、消毒液その他の道具、たくさんの清潔な布と湯をクラウドの部屋へ運んでくれるように頼み、自分の部屋へ急いだ。
(持参した薬瓶の中に、毒消しの薬があったはずだわ!)
持参した革のトランクを開ける。
ほとんど私物の入っていないトランクを埋めつくしているのは、薬瓶と薬草の束だ。
「毒消しは……これと、これね」
エステルは薬瓶を持ってクラウドの部屋へ急いだ。
(ぜったいに、クラウド様を助ける……助けてみせる!)
♢
「やっぱり見どころあんな。オレの見立て通りだ」
クラウドを部屋のベッドに運びながらルイスが言った。
「普通の令嬢ならあの傷を見ただけで卒倒だぜ? それをがしがし消毒してオレたちに指示まで出して。魔法で役に立ちたいとか言ってくれて。オレはちょっと感動したね。ていうかよアベル」
二人はそっとクラウドの身体をベッドに下ろす。
「クラウドの傷、おまえの治癒魔法で治せるんじゃねえの?」
アベルは深刻そうに眉をしかめた。
「私では微妙なところなんだ。傷が深いし、毒が回ってしまっている」
「まじかよ!? おまえも治癒できないってけっこうヤバいじゃねえか!」
「だからここは物理的治療と魔法が両方とも扱えるエステル様に仕切ってもらうのが得策なんだ。それにさっき約束しただろう。魔法を教えると」
「なるほど。実習ってわけか」
「お待たせしました!」
エステルが入ってきた。手には濃い青の薬瓶を二つ、持っている。
「薬ですか?」
「はい。これは、わたしが実家にいたときに作っていた物です。効果は、わたし自身でちゃんと確認できているので大丈夫です」
「自身で確認って……エステル様、御自分で治療を?」
「はい」
アベルもルイスも言葉を失った。
なぜエステルが自分で薬を作り、治療をしていたのかが容易に予想できたからだ。
「まず体内の毒を消します。薬を飲ませるので、クラウド様のお身体を少し起こしてくれますか」
アベルとルイスが両側からクラウドの身体を支えた。
エステルはサイドテーブルにあったコップに薬瓶から液体を少し注ぐ。濃い茶色い液体を、クラウドの口へ流しこむ。
クラウドの端整な顔が少し歪んだが、薬は喉を通ったようだった。
エステルは続けて吸水器で水を飲ませる。
続けて、エステルはクラウドの傷を再び消毒した。
そして、もう一つの薬瓶の中の液体をたっぷりと清潔な布に含ませ、そっと傷にあて、手早く包帯を巻いた。
エステルの処置が終わるのを待って、アベルが言った。
「エステル様。治癒魔法を少し、試してみませんか」
「えっ、わたしが?」
「治癒魔法は、魔力とそのコンロトールさえできれば難しくはないんです。それに今回は物理的な治療がしっかりされているので、うまく魔法が発動しなくてもそれほど問題はありません。まず、クラウド様の傷口に手を近付けてください」
エステルは両手のひらをそっと、包帯の上へかざした。
「こう、ですか?」
「いいです。それから手に魔力を集中させてください。頭の中で傷口がふさがる様子をイメージします。イメージが固まったら『キュア』と詠唱してください」
エステルはクラウドの傷がすっかりふさがるところを想像した。すると、だんだん手のひらに魔力が集中して熱を帯びてくるのを感じた。
『キュア!』
魔力の高まりと同時に呪文が口から飛び出した。
エステルの手のひらから光の帯が流れ出し、クラウドの腕に巻きついていく。
そして、一瞬強く輝いたのち、光は霧散した。
「こ、これでよかったんでしょうか……」
呆然と呟くエステルに、ルイスがニヤッと笑った。
「すごいですよ、エステル様。オレは戦地でたくさん治癒魔法ってのを見てきたが、間違いなく一流の魔法でしたね。明日にはすっかり治ってるな、こりゃ」
「私もそう思います」
アベルも微笑み、クラウドを指す。
滝のような汗をかき苦しそうに浅い息を繰り返していたクラウドだったが、今は穏やかな表情で深い呼吸をしている。
「エステル様、素晴らしい治癒魔法でした。初めてとは思えないくらい」
「わたしの魔法が、効いたんですか……?」
「もちろんです。これからも御一緒に魔法を学びましょう。エステル様の魔法は我らに必要なものです」
「は、はい、がんばります!」
言った後で、エステルはホッとしてベッドの脇に座りこんだ。
「よかった……クラウド様、ほんとうに……」
穏やかな寝息を立てるクラウドの手をいつの間にか握っていた。
温かい。生きている。クラウドの手から伝わる温度が、まるでエステルの全身を包みこむようだった。
アベルとルイスは顔を見合わせて頷くと、そっと部屋から出ていった。




