31 ガレアの町②
「なんだい、そうぞうしい」
店の中からくるっとした目のふくよかな中年女性が出てきた。
「もうちょっと待ちな! ロールパンはまだ焼きあがらないよ!」
「そうじゃないよエマ」
「ちゃんと仕事しないと新しい領主に斬られるよ! 新しい領主は影であたしらのことを見張ってるっていうじゃないか。ああこわい。冷酷辺境伯とか血みどろ伯爵とかって噂だしさ」
「しっ」
パン屋の主人があわてて止めたが、エステルには聞こえてしまった。
(どどどうしようクラウド様に聞こえちゃったら!)
いつの間にかクラウドの姿が無いが、近くにいるだろう。
時すでに遅しかもしれないが、エステルはあわてて大きな声を出した。
「あ、あのっはじめまして! このクノーテンというパン、とっても美味しいですね!」
「それはありがとう、とっても可愛らしいお嬢さん」
「ばかっ、おまえ、この方はトレンメル辺境伯の奥様なんだっ」
「なんだって!?」
エマはたっぷり一分間エステルを見つめて、それからものすごい勢いで頭を下げた。
「ももも申しわけございませんっ! どうか、どうかこのことは領主様にはご内密に!」
「い、いえ、あの、大丈夫ですよ、領主様はとてもお優しい方ですので」
エステルの言葉にエマはおそるおそる顔を上げる。
「ほ、ほんとうですか? あたし、斬られません?」
「もちろんです! こんなに美味しいパンを焼く方を斬るなんて、領主様はそんなことはぜったいになさいません!」
エステルが強く頷くと、エマは泣きそうな顔で言った。
「うう、ありがとうございます……なんて、なんてお優しい奥様でしょう」
「え、いえ、そんな、わたしは何も」
「いいえ! 前の領主の奥方に比べたら女神様ですよ! 前の領主の奥方はいばりくさって、すぐにヒステリーを起こして、うちの商品に難癖をつけちゃあ全部タダでパンを城に届けさせたりして、本当にひどかったんですから」
「は、はあ……」
事情が今一つよくわからないが、貴族の女性のヒステリーや難癖を浴びる辛さはエステルもよく知っている。だから心から同情した。
思わずそっと女性の手を取る。がっしりとした、よく働く厚い手だ。
「それは大変でしたね。でも、今の領主様は……クラウド様は本当にとても良い方ですから、安心してくださいね」
エマはびっくりして丸い目をさらに丸くし、エステルの手をじっと見つめた。
—―あかぎれだらけの、荒れた手を。
(ああっしまったわ、わたしの手なんてとても公爵令嬢とは思えない手なのに……これではクラウド様に恥をかかせてしまうわ!)
あわてて手を引っこめようとしたが、厚い手がエステルの手をしっかりと握っている。
「あの、その、この手には、訳が」
「決めましたよ! あたしはメイドとして奥様にお仕えします!」
「えっ……」
エステルが驚いていると、パン屋の主人が横から言った。
「そうそう、ちょうどそのことでお前を呼んだんだよ、エマ。奥様は王都から来たそうで、この辺りのことをあまりご存じないそうだから、この土地で生まれ育ったおまえがメイドに行けばお役に立てるんじゃないか?」
「ふん、噂の冷酷辺境伯に仕えるのなんかまっぴらごめんだと思ったけどね、この奥様が嘘を言うとは思えない。もともとお給金はとてもいいんだし、この奥様にならあたしゃ仕えてもいいよ!」
「ほ、ほんとうですか?」
アグネスが人手不足だと嘆いていたことを思い出し、エステルは嬉しくなった。
「それはとても助かります! お城の人手が足りないそうなので……」
「おや、そうだったんですね。だったらこの商店街の女たちにも声をかけてみますよ!」
「あ、ありがとうございます!」
—―その様子を、建物の影からそっと見ていたクラウドは苦笑した。
自分では視察のつもりが、見張っていると領民に思われていたなんて。
エステルが口添えをしてくれなかったら、こんなに和やかに誤解はとけなかっただろう。
しかも、懸案だった城の人手不足も解消しそうだ。
(エステルに助けられたな)
自分もさりげなく出ていくべきか迷っていたとき、クラウドはエステルの背後に鋭く目を留めた。
(なんだ、あの者は)
ひょろりとした、小柄な青年だ。マッシュルームのような髪型が特徴的で、薄汚れたチュニックの腰にはいくつもの袋がぶら下がっている。背には、大きな籠を背負っていた。
青年はエステルを穴のあくほどじっと見つめている。
(まさか……)
通りに目を走らせる。商人たちが行き交っているが、まだ朝市の賑わいにはなっていない。
クラウドはフードを目深に被り直した。
エステルたちを大きく迂回して通りの反対側へ渡り、青年の背後に近付いていく。




