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30 ガレアの町➀


 西の森は古来より、このアストラスト山一帯に住む民の畏怖の対象であり、恩恵をもたらしてくれる場所でもある。

 入ることを禁じてはいるが、領地経営が不安定な今、締め付けばかりはしたくない。


 できれば事を荒立てず、しかし侵入者を特定して、こっそり注意を促したい。


 クラウドがそう言うと、アベルがこう提案した。

『まだ魔物が頻出する西の森に来るのは、おそらく薬草採りの者でしょう。その者はエステル様の姿を見ています。エステル様がガレアの町へ行き、領主の花嫁だと知れれば、何等かの反応があるかもしれません』


 そんな経緯でエステルをガレアの町へ伴うことになった。

 本来なら、公爵家からの花嫁のことは、もう少し信頼を得たあとで領民に紹介しようと思っていたのだが、西の森への侵入禁止を早々に破った領民がいるとなると話は違ってくる。


 言い方は悪いが、エステルをエサに侵入者をおびき寄せるというアベルの提案が、最も得策ではあった。

 しかし、内気なエステルにはさぞ気後れすることだろう。

 昨晩のこともあり、クラウドの心配はそこにあった—―のだが。


「こんにちは。この変わった形の果物は、イチゴなんですか?」

「これは山イチゴさ。食べてみるかい?」

「ありがとうございます!……わあ、甘くて、すっぱくて、すごく美味しい!」


 商店街に着いたとたん、エステルはずっとこんな調子だった。

 商人にはたまらないであろう感想を述べ、味見をすれば白い頬を美味しそうにふくらませて。それが本当に心からの感想だとわかるので、商人たちとあっという間に親しくなっていく。


(城にいるときとは別人のようだな)

 目を輝かせて次から次へと店を見て回るエステルは、本当に楽しそうで。

 フード付きのマントを着ているクラウドは、後ろからエステルについていく恰好になっている。


(こんなはずではなかったが……)

 自分の後ろをついてくるエステルを、要所要所で花嫁だと紹介する予定だったが、これではまるで逆だ。

 クラウドがエステルについていっている。


(誰かの後ろからついていくというのも、またいいものだな)

 これまでクラウドは常に先頭に立って隊を、兵を率いてきた。

 誰かの背中を見ながら歩くというのも悪くない。


 薄いブルーのシンプルなワンピースの背中は、今度はパン屋の前で話しこんでいる。


(俺ですら、この商店街ではほとんど領民と話をしたことがないのだが)

 馬を近くにつないで歩く商店街には、野菜屋からパン屋のような食品を扱う商店、この地方の名産と言われる陶器や、家具を売る店まで多種多様な商店が揃う。アストラス山一帯の中で一番栄えている町だと言われる所以だ。


 そしてもちろん、薬屋もある。


(今のところ薬屋らしい者は見かけないな)


 食品を扱う店と違って、薬屋はオープンな店構えではない。営業しているかどうかもわかりにくいが、看板が出ているということは一応営業はしているのだろう。


 周辺に『西の森に侵入したかもしれない人物』がいないか視線を巡らせていると、朗らかな声が聞こえた。


「あんた、本当に美味しそうに食べるねえ!」


 見れば、エステルは焼きたてのパンを店先に出しているパン屋のおやじと話している。恰幅のいい、口ひげが特徴的なおやじだ。

(あの顔には見覚えがあるな)

 たしか、この商店街を束ねている組合長の一人だ。


「はい! だって本当に美味しいですから! 甘くてシナモンがきいてて……夢のような美味しさです!」

「わははは、大げさだねえ。あんたみたいな可愛い娘さんにそんなに喜んでもらえるとこっちもうれしいよ」

「これ、なんていうパンなんですか?」

「知らんのかい? これはクノーテンというんだ。あんた見かけない顔だし、このパンを知らないとなると遠くから来たんだろう? 見たところ、どこか貴族のお屋敷へ遊びにでもきたのかい?」

「あ……わたしは……」


 一瞬にして我に返ったのか、エステルはおそるおそる後ろを振り返った。


「ク、クラウド様……す、すすすみません、わたしっ、その、つい……」

 今にも泣きそうな顔と今までの無邪気な様子の落差が愛らしく、クラウドはつい頬をゆるめた。

「問題ない。地元食材の味を確かめることは領主としての立派な仕事だ」


 近付いてきたクラウドに、パン屋の主人は目を瞠る。


「あなたは……もしかして新しい領主の」

「クラウド・フォン・トレンメルだ。これは妻のエステル。王都のリヴィエール公爵家から嫁いできたので、この土地のことをほとんど知らない。いろいろと教えてやってほしい」

「それはもう! もちろんでございます! エステル様、領主様の奥方様とは知らず、たいへん失礼いたしました!」

「そ、そんなご主人、わたしなどにそんな……あっ、でもあの、クラウド様、これは、領主の立場を軽んじているわけではなくて……」

「問題ない。貴女の好きなように振舞えばじゅうぶん、役割を果たしてくれている」

「そ、そうでしょうか……? ありがとう、ございます」


 クラウドの穏やかな笑みに、エステルはやっと胸をなでおろしたのだった。





(あの鉄面皮が笑ってるぞ)

 パン屋の主人は内心、目を丸くする。

(少し前に見かけたときは、冷酷辺境伯という噂そのものだったが……)


 前の領主は領地経営もゆるゆるだが財布のヒモもゆるゆるで、この辺りの資源をだいぶ喰い尽くしたと言われている。


 古来より領民を悩ませてきた竜への対策も、乙女の生贄だけ。

 毎年、どの村のどの家から生贄を出すのか戦々恐々としている領民をよそに、王都や隣国で贅沢三昧をしていたらしい。


 そんな領主の代わりにやってきたのが、竜を退治したクラウド・フォン・トレンメルだ。


 凄みのあるほどの綺麗な外見に似合わず、冷酷非道。

 魔物でもヒトでも、意に染まなければ容赦なく斬り捨てるという噂だった。


 そして、少し前に領地入りした際、沿道で出迎えた領民たちは皆、その噂に違わぬ空気をまとったトレンメル辺境伯に恐れおののいたのだ。


(――そうか、わかったぞ。花嫁様のおかげだな)

 純粋無垢を着て歩いているような、この愛らしい娘。

(辺境伯の花嫁様を見つめる目が優しすぎるもんな。なんていうか、デレデレ……とか言ったら殺されそうだが)

 この花嫁様のおかげで辺境伯が変わったのはまちがいない。それなら。


「おおい、エマ! ちょっと出てきてくれ!」


 パン屋の主人は店の中へ向かって呼びかけた。




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