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3 ささやかだけれど温かい見送り


「そろそろ行こうかな」


 立ち上がって部屋を見回す。小さなベッドと机と棚。仕切りの向こうには小さなキッチン。たったそれだけの狭い小屋。

 どんなにお掃除しても蜘蛛の巣が張り、冬には隙間風に凍えてしまうこの部屋とも、これでお別れだと思うと少しさみしい。


 トン、トン、と扉をノックする音がして、わたしは振り向いた。


「エステル様」

 開いた戸口には、元メイド頭のメアリと庭師のベンが立っていた。

 この老夫婦は、この屋敷でわたしに優しくしてくれた数少ない人たちだ。


「まあ! どうしたの二人とも。こんな早い時間に」

「エステル様がもうお発ちになると聞いて」

 メアリはわたしの手を取って、椅子に座らせる。

「なんてことでしょう。お嫁にいくエステル様が、このような格好で……やはり、イザベラ奥様は何も用意してくださらなかったのですね」

「いいのよ。気にしてないわ」

「そんなことおっしゃらずに、せめてこれに着替えてくださいませ」


 メアリがそっと渡してきたのは、淡い若草色のワンピース。


「まあ素敵! あら? なんとなく見覚えのあるような……」

「ええ、ええ。少し前に、旦那様が領地視察のお土産にマリアンヌ様へお渡しした品です」

「ああ、あのときの」


 わたしはちょうど、メイドたちに混じって屋敷の掃除をしていた。するとリビングから、マリアンヌの癇癪と、衣類が破ける音と、お父様がオロオロととりなす声が聞こえたのだ。


「マリアンヌ様はワンピースの色がエステル様の瞳の色ようで嫌だとおっしゃって、その場で破いてしまったのです。ゴミ置き場に持っていかれたそれを私が持ち帰って、繕いました。こんな物しか御用意できず、申しわけありませんが……」

 しょんぼりと肩を落としたメアリに、わたしは心からの笑顔を向ける。

「そんな! とってもうれしいわ! ありがとう!」


 ほんとうに、ほんとうにうれしかった。

 こんなに綺麗な色の服を着るのはお母様が生きていた頃以来だし、なにより、メアリの心遣いが胸に温かかった。

 メアリはかつて、この屋敷のメイド頭だった。けれど、お母様が亡くなってすぐ、イザベラお母様が使用人をほとんど替えてしまったときに、メイド頭を外されてしまった。

 以来、メアリはメイドとして肩身の狭い思いをする生活の中で、時間を見つけてはわたしの話相手になってくれたり、ベンに頼んでお菓子を届けてくれたりした。


「すぐに着てみるわ!」


 普通の公爵令嬢とちがい、わたしはすべて自分のことは自分でできるため、ワンピースに着替えるのもすぐだった。


「よくお似合いです。艶やかな黒髪も、宝石のような御目も。ヒルデ様によく似ていらっしゃいます」

「おお、ほんとうじゃ。ヒルデ奥様によく似てきたな、エステル様は」


 わたしが着替えるまで外で待っていたベンが、部屋の中へ入ってきた。


「トレンメル辺境伯様の所領はアストラス山の麓ですじゃ。寒い土地だで、これを持っていきなされ」


 ベンは乾燥してある薬草の束を渡してくれた。


「まあ! 風邪に効くレッドクローバーとエキナセアね! あと、これは傷薬に効くヤロウね?」

「んだ、んだ」


 ベンはいつだってこんな風にニコニコして、屋敷の森の中で薬草を探すのを手伝ってくれた。


 メアリとベンがいたから、残飯しか食べられないような生活でもわたしは人としての尊厳を守れたのだと思う。


「今までありがとう……メアリ、ベン」

 思わずメアリに抱きつくと、鼻の奥がツンとして目に熱いものがこみあげる。


 虐げられた家に未練はない。目的があるから冷酷辺境伯に嫁ぐのも怖くない。

 でも、この優しい手を失ってしまうのは、とてもとてもさみしい。


「こんなに痩せて……トレンメル辺境伯様がたくさん食べさせてくださるといいのですけど」

 メアリの温かい手がわたしの背中を優しくさすってくれたとき、けたたましい犬の鳴き声が近付いてきた。


「いかん、イザベラ奥様の犬たちじゃ」


 外へ出ると大きなドーベルマンが三頭、小屋に向かって低い呻り声を上げていた。

「エステル様、御出発の時間です」

 肩を寄せ合うわたしたち三人に、無表情な若い執事が告げた。


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