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29 そばにいるから


 エステルは夫婦の寝室のソファに座っていた。


(な、何かしら……クラウド様がわたしなんかに御用事って)


 目の前のテーブルで、アグネスが用意してくれたハーブティーのティーカップが湯気を上げている。そのティーカップを持って、ついさっき、アグネスがエステルの部屋へやってきた。


『クラウド様がお話があるそうで、御夫婦の寝室へお越しくださいとのことですよ』


 すっかり寝る支度も整って、さあベッドに入ろうとしていたときだったので、心臓が飛び出しそうになった。


『だいじょうぶですよ。怒った様子ではなかったから、お叱りとかじゃありませんよ』

 アグネスはそう言って励ましてくれた。

 その心遣いに勇気付けられ、胸が温かくなったエステルだったが、エステルの心配は別のところにあった。


(政略結婚とはいえ、夫婦は夫婦。そして、貴族にとって子孫を残すことは使命でもあるから……)


 初夜のことを思い出すと、怖くなる。

 ここ数日でクラウドとだいぶ打ち解けて温かくなった心が、また凍り付きそうになる。


(で、でもっ、いくら夫婦だからって、わたしのような貧相な娘をクラウド様のような素敵な男性が相手にするなんて、考えられないわ)


 子孫を残すという一点なら、側室を持てばいい。

 エステルの父にも側室がいた。上流貴族の男性なら、側室の一人や二人、当然のように囲っている。


(そうよ……クラウド様も言っていたわ)

『……互いに利益あっての婚姻だ。公爵家はトレンメル領の財産、こちらは公爵家の権威がほしい。おまえとの関係はそれ以上でも以下でもない』


(きっと、クラウド様は側室をお持ちになるわ)

 そう思ったときチクりと胸が痛んだことに驚いたが、すぐに思い直す。

(わたしはクラウド様のお邪魔にならないように、子は成さなくとも公爵家からの嫁として、クラウド様の領地経営に貢献しなくては)


 必要な場では妻としての役割を果たしてくれ、とクラウドは言っていた。領民を気遣う言葉を妻にも伝えるところに、クラウドが領地領民をとても大事に思っていることがうかがえる。


「粗相のないようにしなくては……」

「……なんの話だ」


 声を見上げると、エステルの前に夜着姿のクラウドが立っている。


「ク、ククククラウド様?!」

「すまない、考えごとしているようだったから――声をかけそびれた」

 クラウドは気まずそうにエステルの向かいに座った。


「就寝前にすまない。女性には支度もあるだろうし、明日の予定を早めに伝えた方がいいかと思ってな」

「明日の予定、ですか?」

「明日、俺と一緒にガレアの町へ行かないか」


 予想外の提案に、エステルは目をしばたいた。


「は、はい、それはもちろん……ですが、わたしなどがお供して、クラウド様のお役に立てるのでしょうか?」

「ああ。俺の妻として町を視察してもらう」


 領主の妻として、必要な役割を果たす。

 クラウドから言われたことを思い出し、エステルは背筋を伸ばした。


「は、はいっ、精一杯、役割が果たせるように努めますっ」

 がちがちなエステルを見て、クラウドは、ふ、と顔を和ませた。

「そんなに気負わなくても、俺の横にいるだけでいい。ただ、馬に乗ることになる」

「馬……」

「練習しているのだろう?」

「は、はい」

「なら、乗っていってくれ。町の中では馬を駆けさせないから、貴女にとっては良い練習になると思う」


(練習していると言っても……クラウド様の足を引っ張らないように乗れるかしら)


 どぎまぎしていると、クラウドが立ち上がった。


「話はそれだけだ。では」

「は、はい、おやすみなさいませ」

「おやすみ」


 エステルもティーカップを持って立ち上がったが、勢い余ってハーブティーがこぼれてしまった。


「熱っ」


 手にかかってもティーカップを落とさないのは、使用人同然で暮らしてきた習慣だ。マリアンヌはしょっちゅう熱い紅茶を持っているエステルにわざをぶつかり、手に熱いお茶をこぼさせたものだった。

『あーら、ごめんなさい。カップが割れなくてよかったわねえ、我が家のカップはすべて、お母様のコレクションだもの、割ったらただじゃ済まないわ』

 それがわかっていたからエステルも決してカップを落とさなかった。

 どんなに熱くても耐えて、手が赤くなってひりひりと痛んでもカップを落とさないように運んで――。


「……てる、エステル!」


 ハッと顔を上げると、クラウドがティーカップをエステルの手から引きはがしているところだった。


「ティーカップを離せ! 火傷するではないか!」

「す、すみません」


 エステルの手からからティーカップを取ってテーブルに置くと、クラウドは内扉から夫婦の居間へ行ってすぐに戻ってきた。


「アグネスはもう休んでいる。俺の応急処置で悪いが」

 居間の水場で水に浸したタオルを、クラウドはエステルの手に当てた。


「もうしわけ、ございません」

「問題ない。というか顔色が悪いぞ。座れ」


 エステルがソファに座ると、クラウドもエステルの手にタオルをあてたまま一緒に座った。


(あの頃は、火傷をしても一人で小屋で冷やしていたわ)

 誰もいない深夜の小屋で、冷やしたり薬草を貼ったりした。時間が経った火傷はなかなかひりつく痛みが取れず、一晩中苦しんだ。


 隣に座るクラウドから温かい体温が伝わってくる。

 それがエステルを大きな安心感で包んだ。


 だから、クラウドがそっと立ち上がりかけたとき、思わずその夜着の裾を引いてしまった。

 紫色の美しい双眸が驚いたように見開かれていたが、考えるより先にエステルは言っていた。


「一人にしないで……」


 クラウドはさらに目を見開いたが、何も言わずに座った。

「わかった。一人にしない。そばにいるから安心しろ」

 クラウドの空いている腕がエステルの肩をそっと抱き寄せた。


(ああ、なんて温かい……)


 抱き寄せられてもたれた肩は、逞しく温かい。


(こんなに心が安らいだのは、いつぶりかしら……)

 遠い記憶に思いを馳せているうちに、エステルの意識は心地よいまどろみの中に溶けていった。





 エステルが軽い寝息をたてはじめると、クラウドはその華奢な身体を抱き上げ、そっとベッドに下ろした。


「火傷は……だいじょうぶそうだな」

 もとより、ハーブティーはそこまで熱いものではなく、クラウドがすぐに冷やしたこともあって手の赤みはもう消えていた。


 その小さな掌を、クラウドは自分の手の中でじっと観察する。

 赤みは消えても、あかぎれや火傷らしい跡の残る手。使用人同然の生活を強いられていたことを裏付けるような、とても令嬢の手とは思えない、荒れた手。


「過去の辛いことを思い出したのかもしれないな」

 先刻のエステルの反応は、普通ではなかった。

 少しお茶をこぼしただけで硬直したように動けなくなり、熱いだろうにカップを手から離せなくなっていた。


「いったい、身内からどれだけ酷い仕打ちを受けていたのか」


 この数日間、エステルが見せる心からの笑顔を知った今となっては、あの反応が過去の辛い思い出に起因したものであることは容易に想像がつく。


 心が、痛かった。

 なんとかしてやりたい。そして、辛いことなどすべて忘れさせて、いつもあの笑顔で過ごせるようにしてやりたい。


 荒れた小さな手。クラウドが片手で包めてしまうほどの、小さな手。

 この手を、この傷を癒してやりたい。


「エステルが何者であっても、たとえ隠し事があっても、俺は――」


 クラウドは、小さな手にそっと口付けた。



 


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