18 助けてくれたのは
森とはいえ、木々がうっそうと茂る中にも道があった。
石や岩は転がっているけれど、ちゃんと人が歩ける道だ。
「そういえば、この森には薬草やキノコがあるってアグネスさんも言っていたわ」
わたしも、リヴィエール家の敷地の森でよく薬草を探した。
春から秋にかけては特に薬草が育つので、よく通る道には自然と通い道ができる。冬に雪が積もることで、道は固まる。
そうやって、人の通る場所には道ができる。
「この辺りには薬草も多いのかしら」
つい薬草を探そうとしてしまうけれど、今は時間がないので少しでも立ち止まる時間が惜しい。
気になりつつも前に進んだ。
こうしてすっかり震えも収まり、たくさん歩いて汗ばんできた頃、道が二つに分かれた。
わたしは背負った革製の鞄から古びたノートを出す。
魔導書導書の翻訳を書き写してあるノートだ。
「『記憶の花は泉の近くに咲く。その泉は清く澄んだ水を湛える』か」
これだけ広い森なら、泉はいくつかあるだろう。
でも魔導書に記されていた泉は『清く澄んだ泉』、きっとそれは上流にある可能性が高い。
「上流域は、より森の奥。木々が茂って、根が地表に出るほどの大樹がありそうな方向は……こっちね」
より薄暗く木々の茂る方向へ足を進めたときだった。
耳慣れない音に足が止まる。
がさ、がさ、と下草や落ち葉を踏む音。荒い息遣い。
ゆっくりと、振り返る。
昼なお暗い木立の間に、いくつもの黄色く光る眼があった。
「…………っ」
やっとのことで悲鳴を飲みこんだ。
唸り声を上げるのは黒い獣。人が四つん這いになったほどの大きさがある。
異様に長い尻尾、割れた舌先。
実物を見たのは初めてだ。
「ワーウルフ……!」
応えるように上がった遠吠えは赤ん坊の泣き声に似て、森の中に反響する。
西の森にはいまだに魔物が出るとアグネスさんは言った。だから警戒はしていた。
けれど、こんなに早く遭遇するなんて。
「そ、そうだ、魔法、魔法を」
『獣系の魔物には、火魔法が基本』という魔導書の記述を思い出す。
わたしは掌に意識を集中する。じんわり、魔力が掌に集まる。
良い感じ。よし、今だわ。
「えいっ」
ぽす、と情けない音がして、手のひらから小さな火花が散る。
「……え?」
魔法はそれ以上発動しない。
「ど、どうして!?」
さっきはうまくいったのに。
「聖なる火よ、精霊の灯よ、我に魔力の加護を——ってぜんぜん駄目だわ!」
いざというときの聖句を口に出して唱えても、やっぱり情けない音がするだけ。魔物を焼き払う業火は発動しない。
その間にもワーウルフは私にゆっくり迫る。
わたしが魔力を溜めているのがわかるのか、大量に涎を垂らしながらも様子をうかがいながら、じりじりと囲いの輪をせばめてくる。
(このままだと襲われる!)
とっさに結界の呪文を唱えたとき、五匹のワーウルフが競うように躍り上がった。
♢
「……あれは」
城へ上がる坂道で、シュヴァルツを止める。
かすかに聞こえる、聞きなれた泣き声。
旅人を惑わせる赤子に似た咆哮。
それが西の森の方角から風に乗って微かに聞こえてくる。
「まさかな」
西門の錠には、強力な魔法符が貼ってある。
王都の名高い魔法使いに依頼して作らせた魔法符で、魔法使いでも解除には相当な魔力を要するという。ゆえに錠は物理的に壊すことはできないし、そもそもエステル・リヴィエールの細腕で壊すことは無理だろう。
有り得ないと思っても嫌な予感は消えない。
「はっ!」
城の敷地を西へ向かってシュヴァルツを疾駆させる。
やがて眼前に迫る光景に、俺は啞然とした。
「馬鹿な! 門が開いている」
そんなはずない。
だが、確かに門はしっかりと開き、大きな錠が抜け殻のようにその近くに転がっていた。
「信じられん……どうやって中に入ったんだ!」
俺はそのまま門を通過し、西の森へ入る。
ところどころ故意に折られた枝、見覚えのない、木の幹に控えめに付けられた×印。
シュヴァルツを奥へ奥へと走らせるうちに確信する。
エステル・リヴィエールは森の中にいる。
刹那、悲鳴が上がった。
「あちらか!」
二手に分かれた道の、いつもは避ける方角へ行くと――
ワーウルフが三頭、地面に転がって悶えていた。
獣毛の焦げる嫌な臭いが立ち込める。
その先に唸り声を上げる忌まわしい背が二頭、地面を蹴ったと同時に、俺はシュヴァルツから飛び降り剣を抜いていた。
ざしゅ、と肉を断つ音と手応え。
剣を縦横にふるって着地したとき、どう、と倒れた魔物の奥へ俺は足を進めた。
「……エステル・リヴィエール」
木の根に寄り添うように震えるのは、間違いなく花嫁だった。
♢
咄嗟に発動した結界で気絶したのが三頭、残り二頭が襲い掛かってきたとき、
(もうダメだわ!)
目をかたくつぶった。
わたしは記憶の花を見つけられないまま死ぬのか—―。
諦めと焦燥と恐怖で身動きもできない一瞬が過ぎても、予想する衝撃はこない。
「……?」
おそるおそる顔を上げれば、凶暴な魔物は地面にできた血だまりの中で動かなくなっていた。
「エステル・リヴィエール」
底冷えのする声に、心臓が止まりそうになった。
「辺境伯様!」
助けてくれたのだ、という感謝が湧き上がると同時に、背筋を冷たいものが伝う。
近付いてくる辺境伯様の目は、さらに鋭く険しい。
「あの、その」
辺境伯様は魔王のごとき冷気をまとって わたしを睥睨した。
「怪我は」
「だ、だいじょうぶ、です」
「……シュヴァルツ!」
大きな黒い馬が軽く嘶いて、近付いてきた。
刹那。
「きゃあ!?」
辺境伯様はわたしを荷物のように黒い馬に乗せ上げた。
「ぐずぐずするな。早くまたがれ」
「は、はい」
言われて、乗せられた体勢から身体を起こそうとするけれど、ぜんぜんうまくいかない。
「ったく」
辺境伯様は舌打ちして、わたしの後ろに素早く騎乗する。
ふわり、と身体が持ち上がって、一瞬でわたしは辺境伯様の前に座らされていた。
「あ、ありがとうございま——」
「黙れ。動くな。話は城で聞く」
背中に凄まじい冷気を感じてわたしは黙りこんだ。
どうしよう……辺境伯様を怒らせてしまった。