15 理想の図書室と探していた辞書
「すごい……」
図書室に入った途端、エステルは歓喜の声を上げた。
古い紙の匂い。きちんと手入れされた本の佇まい。
天窓から入る光がホコリに反射して揺れ、その淡い光の中にぎっしりと背表紙が並ぶ。森の木々のように乱立する書架、壁に作りつけの書架。オーク材の大きな閲覧テーブルと書き物机。
エステルが「こんな図書室があったらいいな」と夢に描いてきた図書室がここにある。
「この図書室は、この城を受け継ぐ前の状態がそのまま保存されています」
アベルはエステルのために、昼でも薄暗い図書室の明かりを点けてくれた。
「受け継ぐ?」
「ええ。この城は、元はこのアストラス山麓一帯を治める領主の物でした」
「あの、それは辺境伯様ではなく?」
「違います。元の領主はクラウド様が西の森の竜を退治した一連の戦闘の際、城を放棄して隣国へ逃亡しました。アストラス山を越えれば、隣国オルビオン聖領はすぐですので」
王は元の領主を、非常事態に民と領地を放棄した罪で国外永久追放とし、替わりにこの地の竜を退治したクラウドに伯爵位を与え、この地の領主にしたのだという。
「元の領主ははっきり申し上げましてクズですが、この城は素晴らしい。壮麗な建築様式でありながら、魔物や国境紛争にも耐えうる堅牢な造りです。クラウド様は城内にあった趣味の悪いごてごてとした余計な物はすべて売り払い、戦闘で被害を受けた民に家を建てたり物資を届け続けています。また、城の中で良質な場所は残すよう指示された。その一つがこの図書室というわけです」
「はあ……」
アベルはとても誇らしげに語った。
(そっか、だからお城の中ががらんとしているんだ)
クラウドが余計な物を取り払い、必要な物だけ残しているから、使っている場所とそうでない場所の差が大きいのだろう。
「図書室、お気に召しましたか?」
「ええ、とっても」
アベルは頷き、ゆっくりと片眼鏡をかけた。
「それはよかった。三大公爵家であるリヴィエール家の図書室には見劣りがするだろうと心配していたのですが……」
ゆっくりと、何かを確かめるようにアベルはエステルをじっと見た。
「と、とんでもない!」
精一杯笑顔で答えつつ、エステルは焦る。
(わたしが実家の図書室にロクに出入りもできなかったって知られたら……)
調べ物すら、父たちが留守の間にこっそりやっていたのだ。
(調べ物をするのに、もうこそこそしなくていいんだわ。それに、好きなだけ本を手に取れるなんて、なんて素敵なことかしら)
この図書室にはたくさんの蔵書があり、しかも保存状態がとても良さそうだ。
読書好きなエステルだが、母が亡くなってからは本すら手に取ることもできない生活が続いていたため、活字への渇望が募っていた。
書架から書架へ、あれこれと夢中で本を開いていたエステルだが、そうだ、とここに来た理由を思い出す。
「あの、こちらに古語の辞書はありますか?」
「古語の辞書……ええ、確か数冊あったはずですよ」
アベルはよどみない足どりでいくつもの書架が並ぶ中を歩き、辞書らしき背表紙が並ぶ場所にエステルを連れてきた。
「この書架はほとんどが辞書です。古語の辞書もこの中にあったと思うのですが……」
アベルは古語が読めないのか、どれがエステルの目当ての辞書かを探しあぐねている。
エステルはそびえる書架を上から順に見ていき、
「あった!」
目あての辞書をすぐに見つけた。
そしてパラパラとめくり……記憶の花についての解読言語が集まっている頁を見つけ、目を瞠った。
(あった……これで、魔導書の残りの頁も解読できる!)
「あのっ。これお借りしても大丈夫でしょうか?」
エステルはつい勢いよく言ってしまったことに頬を染めたが、アベルは気にする様子もなくニコニコと応じた。
「もちろんです。あいにくこの城は今、使用人が足りていない状態でして……重いので後で私が届けましょうか?」
「いいえ!とんでもない!だいじょうぶです!」
図書室に案内されただけでもありがたいし、こんなに快く貸してくれるだけでもエステルは感動していた。
だから、アベルが片眼鏡の奥で瞳を光らせていることに気付かなかった。
♢
アベルは早朝、王都にいる調査員に青鳥を飛ばしていた。
(今日中には少し情報が入るだろう)
緊急だと伝えてあった。一部でも情報が手に入れば、アベルが観察したことと合わせて少しでもクラウドの杞憂を取り払えるかもしれない。
エステルはアベルの尾行にまったく気付いていなかった。「図書室はどこかしら」というひとり言に食いついて出ていったものの、さして怪しまれもしなかった。
(警戒心が薄いのか、これも演技なのか)
確かに、クラウドが戸惑うのもわかる気がした。
何かを隠している様子なのに、妙に警戒心が薄いというか、無防備すぎる。
辞書を貸してくれ、と言ってきたときも、明らかに何等かの目的があるけれどそれを隠していることが丸わかりで、正直、アベルは混乱したほどだ。
(古語の辞書か……クラウド様が考えるように、やはりリヴィエール公爵に魔石鉱泉のことを言い含められているのか?)
古語は、魔法に密接に関わっている。
この花嫁が魔法を使えるとは思えないから、やはり実家から何等かの指示をされて、西の森に入れと言われたのかもしれない。
(しかし、古語が読めなくては辞書なんてあっても意味がない)
アベルは苦労して治癒魔法は会得した経験から、古語はある程度読める。
辞書の在り処はわかっていたが、わざと読めないふりをして試してみると、エステルはあっさり辞書を見つけた。
(――古語が読めるのか)
これは見過ごせない、とアベルは目を光らせた。
(何を熱心に探している……?)
目で追っていると、とある頁でエステルは手を止め、感極まった様子で息を呑んだ。
(わかりやすすぎる)
半分呆れて開かれた頁を見れば、
(……記憶の花?)
確か、死者や精霊との交信を可能にする幻の魔草だ。
それが魔石鉱泉と何か関係があるのだろうか。
エステルはアベルの存在など忘れたように、食い入るように頁を繰っている。
(これは、午後も一刻も目が離せないな)
そのアベルの予想通り、事件は午後に起こった。