天野くんの初恋
その日の放課後、天野は涼太をテラスまで呼び出した。
涼太とはクソ野郎の相棒であり、幼馴染であり、数少ない友人の1人だ。
涼太はチャラチャラしながらやって来た。
「やっほー! 涼太ちゃん来たよ~! おつかレーシック角膜ペリペリ……って、あれ? あっれぇー? なんかあったの?」
テラスには肩を落とし、顔を曇らせている男がいた。
天野だ。
珍しいことにクソ野郎が落ち込んでいる。
「涼太よ。困ったことが起きた」
世界の終わりでも迎えたかのような表情だ。
顔色は真っ青。瞳もうつろ。唇だって小刻みに震えている。
こんなクソ野郎の姿を見るのは、涼太としても初めてだ。
「どうしたの? 随分と落ちてるね。いつもの偉そうなクソ野郎様はどこに行ったのさ? 性病でも貰ったの?」
首を捻りながら尋ねると、驚くべき言葉が天野の口から飛び出した。
「俺は……。恋に落ちてしまったかもしれん」
衝撃の発言だった。
「……こ? こ、こここっここ恋ぃ? はぁ!? 何を言ってんのよ!?」
涼太は仰天して飛び跳ねた。
「勇二は恋から最も遠い人間じゃん! 酔ってるの!? もしくは変な薬でも打ってラリってるの!?」
「違う、俺はシラフだ」
「じゃあ誰に!? 誰に恋したのよ!?」
「前島悠子だ」
涼太は口をあんぐりと大きく開けて、天野を穴が開くほど見つめた。
「ま、前島悠子?」
天野はコクンと頷いた。
「そ、それって、あの前島悠子?」
「そうだ。あの前島悠子だ」
「うちの大学にいる、あの前島悠子?」
「そうだ」
「僕らが入学式でビックリさせちゃった、国民的アイドルグループのセンターに立つ、トップアイドルの前島悠子?」
「そうだ」
涼太は思わずパチン、と自らの頬を叩いた。
――痛い。
逆側の頬もパチンとやってみる。
――痛い。間違いなく痛い。
夢ではない。これは紛れもない現実だ。
幼馴染で恋を知らなかったクソ野郎な友人が、なんとアイドル様に惚れてしまったようだ。
「……うぷ、うぷぷぷぷっ……」
涼太は腹を抱えて笑い出した。
「ぎゃははははははっ! アイドルに恋、だなんて! 勇二も人間だったんだね……っくっくっ、あはははっ! いや、良かったよ! おめでとう! ぎゃはははは!」
天野はムスっとした表情で涼太を睨みつけた。
「何がおかしい」
「いや、健全な男子なら、アイドルに恋心を抱いて当然だよ。前島悠子ちゃんは可愛いもんね。恋ね、うん、いいと思うよ」
涼太は何度も深呼吸して失笑を抑えこんだ。
肩で息をしながら天野を見つめる。
このクソ野郎とは小学校からの付き合いだ
昔からムカつくほどのイケメンで、異性からの視線を集めまくるような男だった。
とにかくモテた。
顔立ちは整っており、長身で、成績優秀で、運動神経だって抜群。
おまけに医者の息子だ。家柄も良く金持ち。セレブと呼ばれるに相応しい気品を放つ子供だった。
モテないはずがなかった。中学時代にはファンクラブまであった。
「天野に渡してくれ」と頼まれたラブレターやバレンタインチョコをいくつ届けたのか、あまりに多すぎて涼太は覚えていない。
いつか「乙女ゲーからオファーが来るんじゃないかな?」と思っていたものだ。
しかし、これまで天野自身が恋に悩む姿なんて、一度も見たことがない。
初恋の季節さえ訪れなかったと聞いている。
モテたくせに女子に執着しなかったのだ。
そんなクソ野郎が、
『ボクちゃんアイドルに惚れちゃったよテヘペロ』
と告白しているのだ。
笑うな、という方が無理だった。
「はぁー。ガチでビックリした。長生きはするもんだね」
ようやく涼太の思考は平常運転に戻った。
チャラチャラしながら軽薄な笑みを浮かべる。
「わざわざそれを僕ちゃんに報告したかったの? それとも前島悠子ちゃんをナンパしてきやがれ、ってこと? コンパの幹事でもやればいいの?」
「違う。そんなことお前に頼む気はない」
「うぷぷ、言うねぇ。そりゃ勇二はイケメンだからね。オレ様にかかれば全ての女をパコれるのだ、とか言いたいんでしょ」
天野はギロリと涼太を睨みつけた。
「本当にお前は軽薄なヤツだな。そんなことじゃない。もっと重要な問題が発生している」
「へぇ、どんなの? やっぱり性病?」
「先日、高木美穂から依頼を受けたんだ」
「高木美穂? それって経済学部4年の高木さんのこと? 高木さんから性病を貰ったの?」
「違ぇよ。性病から離れろ。あの高慢ちきな女子アナ志望の女からの依頼が問題なんだ」
涼太は「うんうん」と頷き、高木の顔とスタイルを思い浮かべた。
この男はチャラい。
高木ほどの美人であれば当然記憶している。
「高木さんね。あの高飛車で庶民を相手にしないカンジがたまんないよねぇ。確かミスコンに出るんだよね。どんな依頼だったのさ?」
「うっかりしていた。アイツから『ミスコンで優勝させてほしい』という依頼を受けてしまったんだ」
「はぁ?」
涼太は驚いて顔をしかめた。
「それマジ? いくら何でも無理でしょ? 優勝は前島悠子ちゃんで決まりじゃないの?」
「ああ、だから俺はミスコンをぶち壊そうと思ったんだ」
とんでもないことを言い出した。
涼太の顔に怯えのような影が走る。
「えっ……。ま、まさか、ミスコンをぶち壊すのを手伝え、とか言わないよね……?」
涼太は涙目で首を横に振った。
「それはいくら何でも無理だよ。ミスコンには『利権』が絡みすぎてる。あれに手を出せば結構な数の人が泣くよ」
「確かにお前の言う通り、ミスコンは『利権』の塊だ。潰せばややこしい話になり、何人かの将来を台無しにしてしまうだろう。これは俺も難しいと判断した」
涼太は安堵して息を吐いた。
「だから俺は優勝候補の前島を、拉致して監禁しようと思ったんだ。前島さえ潰せば、あとは候補者を1人ずつ脅して痛めつけて、ミスコンを辞退させればいいだけの話だ」
また天野はとんでもないことを言い出した。
涼太は青ざめて叫んだ。
「ゆ、勇二! 何を馬鹿なこと言ってるのさ! そんなことには協力できないよ!」
そこで天野は頭を抱えた。
「だがな、困ったことに、困ったことになぁ……。俺は不覚にも、前島に惚れてしまったようなんだ……」
天野は頭をかきむしると、絶望という名の息を吐いた。
「なんだこの感情は……? 胸が苦しく、あの女のことが気になって仕方がない……。怒りや憎しみとも違う。興味があるというワケでもない。それなのに、なぜか、なぜか気になるんだ……」
「うーん。それはね、恋だね。間違いないね」
「やはりそうなのか!」
天野は立ち上がり納得したように頷いた。
「こんな感情、俺様は覚えたこともない。これが恋なのか……。こんな感情を、人は恋と呼んでいるのか。そうか、恋とは、随分と落ち着かないものだな……」
そこで天野はがっくり肩を落とした。
「しかし、それだけじゃない。俺は前島から『ミスコンで優勝させてほしい』という依頼を受けてしまったんだ……」
「はぁ? 何それ? 前島さんに接触したの?」
「そうだ。しかもヤツはテラスにまで訪れやがった。ついうっかり、昼食代として300円を受け取ってしまった」
涼太は心底呆れて言った。
「何をやってんのよ。そんなダブルブッキング、どうしようもないじゃん。高木さんの依頼を無視しなよ」
「それでは天才クソ野郎の名が汚れる。依頼を途中で放棄するなんて御免だ!」
天野はひざまずき、涼太の手を掴み懇願した。
「涼太よ、頼む。教えてくれ」
「えぇ? 僕が天才様に何を教えるのよ」
「前島はミスコンで優勝する。もう既定路線でそうなるように決まっているんだ。それはいい、それはいいんだが、同時に高木美穂をミスコンで優勝させる方法はないか!?」
涼太は目をぱちくりさせながら天野を見つめた。
真剣な表情だ。
本気で教えて欲しいと願っている。
あのクソ野郎が救いを求めている。
涼太はため息を吐きながら、優しく問いかけた。
「そんなこと無理って、わかってるでしょ?」
天野は再び立ち上がって叫んだ。
「ああ! そうだ! 無理なんだ! 前島の優勝は覆せない! 俺は高木美穂をミスコンで優勝させなければならない! だが、俺は前島をミスコンで優勝させたい! こんな矛盾があるか!? いったいどうすればいいんだ!」
天野は腕組みをしながら、テラスをブツブツと独り言を呟きながら歩き始めた。
恐らく思考が不可能という壁にぶち当たり、脳内で不規則に回転し、派手な音をたてて破裂しているのだろう。
何度も頭をかきむしり、奇声をあげている。
あまりの展開に涼太は苦笑するしかなかった。
「大体さぁ、前島悠子ちゃんには会ったことがあるんだからさ、高木さんが勝てる相手じゃないって理解できるでしょ?」
天野は素直に頷いた。
「同感だ。高木が勝てる相手じゃない。格が違いすぎる」
「高木さんも美人だけどさぁ、国民的アイドルと比べたら鼻クソみたいなもんだよ」
「そもそも他の候補者にしても、ミス、もしくは準ミスの経験者。どう考えても高木はぶっちぎりの最下位…………いや、そうだ!」
天野は何かを閃き手を叩いた。
涼太は嫌な予感がしてきた。
「前島以外の候補者4人、これを全員潰せばいいじゃないか! そうすれば必然的に高木が準ミスだ! いや、そうだ、そうだった……」
天野はがっくりと肩を落とした。
「今年の準ミスはナシ、で決まっているんだった……」
「えっ、そうなの? なんで知ってるの?」
「メディ研の部長である葛西から聞き出したんだ。今年は前島が『準ミスなしの最強女王』として君臨する。そんなシナリオが完成しているらしい」
涼太は大げさに両手を広げた。
降伏を示すジェスチャーだ。
「それじゃ、マジでどうしようもないじゃん。高木さんに泣いてもらうしかないね」
「それでは天才クソ野郎の名が……」
「いくら天才クソ野郎でも、無理なものは無理」
「くそっ!」
天野はイライラして椅子を蹴り飛ばした。
何の罪もない椅子がテラスを転がる。
「この俺様にかかれば、全てが、全てがうまくいくんだ! たかがミスコン如きに、この天才クソ野郎が負けるというのか!」
涼太はヘラヘラ笑いながら言った。
「高木さんの依頼を受けるからいけないんだよ。女子アナになれるかどうかは知らないけど、ミスコンの優勝は無理だね」
「女子アナ!?」
天野はまた手を叩いて何かを閃いた。
「そうだ……。高木の目的は、女子アナだ……」
天野はテラスを歩き回り、ブツブツと独り言を呟き始めた。
実はこの男、考え事をする際には独り言を呟きながら、その場を歩き回る癖がある。
「目的は女子アナ……。そのためにミスの座が欲しい……。女子アナになるための『肩書き』が欲しいんだ……。それならば、そうだ……。こうしてやればいいじゃないか……。クックック……」
天野の顔が徐々に悪くなる。
やがてピタリと立ち止まり、満足気に頷いた。
「……よし、これでいこう」
涼太は不安気に尋ねた。
「今度はどんな悪いことを思いついたのさ? 女の子に暴力なんて嫌だよ」
「そんな馬鹿なことはしないさ。さすが俺は天才クソ野郎だ。今、矛盾を超えたぞ。俺様はまた一歩、神に近づいた! 涼太よ、いつものことで悪いが、お前にも協力してもらうぞ!」
涼太は不安だった。
ついに天野は壊れてしまった、とすら思った。
「アーーーーッハッハッハ! 見ていろ! 何がミスコンだ! 天才クソ野郎の作戦が火を吹くぞ!」
狂ったように笑う天野を見つめ、涼太は深くため息を吐いた。