天野くんとアイドル
その後、天野は夜遅くまで大学に残り続けた。
時刻は21時を過ぎているが、まだ校舎には明かりが灯っている。夜学部のために夜間講義が開かれているのだ。
夜間講義は単位が足りない学生や、履修の調整に失敗した学生も受講することができる。学生であれば基本的に誰でも参加できる講義だ。
天野は講義室に入ると、お目当ての娘を見つけて隣に座った。
「やぁ、前島さん。遅くまでお疲れ様」
前島は隣に座った男を驚いて見つめた。
白衣を着た長身の男。目つきが鋭いが顔立ちは整っている。少なくとも前島の知人ではない。
だが、一度だけ見たことがあった。いつかどこかで、もう一度、再会して御礼を言わなければならない。そう、考えていた相手だった。
前島は瞬時に表情を切り替えると、
「あなたのこと知ってます。天野さんですよね」
と言って、純真無垢な笑みを浮かべた。
「ほう? 俺のことを知っているのか?」
「友達から聞いたんです。白衣を着た背の高い人は学園の有名人なんだよって、教えてくれたんですよ」
「どうせ野蛮なクソ野郎だとか。大学の問題児だとか。白衣を着た悪魔だとか。ボロクソに言ってたんだろう?」
「えへへ。そんなことありませんよ」
前島は朗らかに純真無垢な笑顔を浮かべている。
天野はじっとその顔を見つめた。
(相変わらず、笑顔だけは上手に作る女だ)
この娘と出会ったのは入学式の時だった。
無愛想で近寄りがたい雰囲気をまとっているのに、いざ営業スマイルに切り替えると、抜群の愛嬌を振りまき周囲を魅了する。
この娘が放つオーラは明らかに違う。愛嬌を振りまく態度そのものが、一般人とは桁違いに優れている。根本的な仕草が洗練されているのだ。
天野は得意の偉そうな言動を引っ込め、できるだけ爽やかに語りかけた。
「ずっと話しかけたいと思っていたんだが、君には取り巻きが多すぎる。1人になるタイミングを伺っていたら、こんな時間になっちまった」
前島は嬉しそうに瞳を輝かせた。
「私が1人の時を待っていたんですか?」
「どうしても話がしたくてね」
「ありがとうございます。お世辞でも嬉しいです」
心から嬉しそうに純真無垢な笑顔を浮かべている。
(……なんだこの女、落ち着かないな)
不思議と居心地の悪さを感じた。
天野が偉そうな言動で場を支配するのであれば、このアイドルは純真無垢な笑顔で場を支配している。得意のペースに持ち込むのが困難だった。
「天野さん、お芝居が上手ですよね。役者さんなんですか?」
「役者? この俺が?」
「はい。背も高いですし、スタイルも良いですし、舞台映えしそうですよねぇ」
「あはは。冗談じゃない。俺は芝居なんて御免だよ」
「そうなんですか? 入学式の時は、お芝居の練習をしてましたよね?」
「芝居の練習? 君は何のことを言ってるんだ?」
前島は純真無垢に微笑んだ。
「襲ってきた男の人を取り押さえて私を救う……。まるでヒーローショーみたいな『お芝居』をしていたじゃないですか」
天野は思わず真顔になった。
前島は嬉しそうに微笑んでいる。満面の笑みだ。
笑顔の周囲に「にっこり」という擬音が踊っているかのようだ。
「あの時は、本当にありがとうございました」
ぺこり、と頭を下げる。
「御礼も言わずに立ち去ってしまい、本当にごめんなさい。お怪我はありませんでしたか?」
「あ、ああ、まぁ……」
「あっ、お怪我はしませんよね。えへへ、お芝居なんですもん」
天野は唖然として前島を見つめた。
――この女はなんだ。
天使のように汚れなき笑顔を浮かべているのに、心の中はまるで違うように感じた。
「……天野さん?」
前島が小首を傾げながら前方を指さしている。いつの間にか講師が入って来ていたようだ。講義が始まっている。
天野はしばし、黙って講義を受け始めた。
(……抜け目ない女だ。俺たちの演技を見破っていたのか)
天野は静かに深呼吸し、気分を切り替えた。
講義の隙を狙って小声で話しかける。
「来週のミスコン、君が優勝するらしいじゃない」
「そんなのわかりませんよ。皆さん綺麗な方ばかりです」
様々なスケジュールが決まっているのに、前島は自然にとぼけた。
一瞬、葛西の言っていたことが嘘なのではないか、と天野は疑った。
そうではない。前島のとぼけ方が巧みなのだ。
「俺は君に投票するよ」
「やった。一票いただきました」
「みんな君に投票するね」
「優勝できますか?」
「きっとね」
「やった。パチパチ」
講義中に話しかけてくる天野に対しても、まったく迷惑な素振りを見せない。純真無垢な笑顔を浮かべて切り返している。
天野はしばらく前島を観察し、ひとつの結論に至った。
(認めるしかないな。想像以上の小娘だ。これがアイドルというものか)
天野は困ってしまった。この娘は格が違いすぎる。
高木と前島が「ただの学生」という土俵で争っても、高木が前島に勝てることはないだろう、と感じた。
(それだけじゃない。この小娘は、腹に何かを隠し持ってやがる)
天野は黙って席を立った。
前島が驚いて天野を見上げる。
「講義を受けないんですか?」
「ああ、この講義は3年前に受けた」
「えっ? じゃあどうして来たんですか?」
「前島さんと友達になりたくてね」
前島は心の底から嬉しそうに微笑んだ。
「やった。友達ゲットです。大学の友達、沢山欲しいんです」
「そう。じゃあまたね」
「はい」
別れを告げ、こっそりと講義室を抜け出した。
(あれは駄目だ。高木があれに勝ってミスになるなんて、あり得ない)
天野ほどの傍若無人なクソ野郎でも、いつもの調子を出すのが難しい。人間、上には上がいるなと、素直に感心していた。
*************
翌日の昼時。
天野はテラスで思案していた。
ミスコンの開催を潰すのは困難。
デキレースによって勝敗は決まっている。
おまけに前島というアイドルが強敵すぎる。
何もかも八方塞がりの状況だ。
(さぁ、これは難問だ。どうすればいい? どうやって、高木をミスコンで優勝させればいいんだ……?)
思案しながらコーヒーを飲んでいると、1人の娘がテラスに上がって来た。
「天野さーん! こんにちは! 私のこと覚えてますか?」
天野は仰天して来訪者を見つめた。
アイドルの前島悠子だ。
うどんをお盆に乗せて、純真無垢な笑顔を浮かべている。
天野は驚きながらも、いつもの偉そうな口調を引っ張り出した。
「お、覚えているさ。アイドルが俺様の根城に入って来るとは、珍しいこともあるものだ」
「今日はお昼に来れたんです。ご一緒してもいいですか?」
「まぁ、そりゃ、構わないが……」
「じゃあ、一緒に食べましょう」
平然とテーブルにお盆を置き、嬉しそうにうどんをすすり始めた。
「このテラスには野蛮なクソ野郎がいるから近づくなって、友達に言われなかったのか?」
「はい、白衣を着た悪魔しがいるから、ここには行っちゃダメだと教わりました」
「それなら、どうして来たんだ?」
「天野さんとお友達になりましたから」
澄んだ瞳を輝かせながら天野を見上げた。
「お友達と一緒にお昼を食べるのは、普通のことじゃないですか?」
天野は本当に困ってしまった。
これは強敵だ。
クソ野郎の凶暴な噂を知り、それでも近づく娘と会うのは初めてだった。
「大丈夫か? 俺の周囲は敵だらけなんだぜ」
無理やり大げさなジェスチャーを振り回し、前島に語りかけた。
「近づくと、君も危険かもしれないなぁ。実はな、俺様は事件屋みたいな趣味を持っているんだ」
前島はうどんをすする手を止め、どこか嬉しそうに頷いた。
「それも聞いてます。天野さんにお昼を奢ると、依頼することができるんですよね」
「そんなことも知っているのか?」
「友達が教えてくれました。評判は悪かったですけど」
前島は天野の顔を覗きこみ、にんまりと無垢な笑顔を浮かべた。
「でも、良い噂も聞いてます。女の子につきまとうストーカーを退治したり、困っている女の子に病院を紹介した、って。天野さんって凄いんですね」
「まぁな、その程度であれば、天才クソ野郎にかかれば全てうまくいくのさ」
前島は嬉しそうに手を叩いた。
「ああぁっ! 友達が言ってた通りです! 天野さんって『天才クソ野郎』というあだ名なんですよね! それにキザったらしい台詞をよく喋るって!」
両手を広げ、天野の仕草を真似している。
「天才クソ野郎にかかれば全てうまくいくのさ……って! あはは! やったぁ! 生で見れました!」
天野はギリギリと歯ぎしりをしながら、腹を抱えて笑っている前島を睨みつけた。
(おい、なんだ。この女はなんだ。変わった女だ。チッ、やりにくい……)
心の中で何度も舌打ちを繰り返す。
自分のペースに乗せることが難しい。
無理やり話題を切り替えた。
「だがな、変わった依頼もあるんだぜ。この間は1人の女から、こんなことをお願いされたよ」
「へぇ、どんなお願いですか?」
「来週のミスコンで優勝したい、とな。笑ってしまうだろう? 君がエントリーしているのに、無謀なことを願う女がいるものだよ」
前島はしょんぼりと肩を落とした。
「それは困りました。私ミスコンで優勝したいのに、天野さんに邪魔されてしまいます。どうしましょう。……あっ、そうだ!」
何かを閃いたように呟くと、前島は自らの鞄を漁り始めた。
中から財布を取り出す。
そして、数枚の小銭を差し出した。
「はいどうぞ」
「これはなんだ?」
「300円です」
「それは見ればわかるぜ」
「これで、うどんにかき揚げをトッピングできますよ」
「そうだな」
「だから、お願いです」
前島は胸の前で両手を組み、潤んだ瞳で天野を見上げた。
「天野さん、私をミスコンで優勝させてください!」
天野は呆然と目の前のアイドルを見つめた。