天野くんのベビーシッター
天野は実家とは別に、学校の近くにアパートを借りている。
1DKの狭い部屋だが、自分と千恵ならば十分だろう、と判断した。
「さぁ、千恵ちゃん。ここがお兄ちゃんの家だ。狭いけど我慢してね」
「うん。だいじょうぶ」
千恵はかなり聞き分けの良い娘だ。
坂上の教育の賜物だろう。
天野は坂上の苦労を感じた。
「もう夕飯は食べたかい?」
「うん、たべた」
「じゃあ、お風呂入って寝ようか」
「うん」
1DKの部屋とはいえ、天野はかなり設備の整ったアパートに住んでいる。
バストイレ別の駅近物件で角部屋。日当たりだって良好。防音も耐震もバッチリ。さすが医者のボンボンだ。
天野は千恵をお風呂に入れ、体を洗ってやった。
(随分と痣が多いな……)
身体には古い傷跡が残っている。
医学部である天野は、強く掴んだものや、平手によるものだな、と判断した。
坂上の元夫による暴力なのか。
坂上自身によるものなのか。
そこまでは判断できなかった。
風呂から出ると、坂上が用意していた寝間着を着せて、髪をドライヤーで乾かす。まるで自分の娘をあやしているような感覚だった。
「千恵ちゃん、今夜はここに寝るんだよ」
ベッドを指さすが、千恵はふるふると首を横に振った。
「いっしょがいい」
「俺と一緒がいいのかい?」
「うん」
「じゃあ一緒に寝ようか」
「ごほんよんで」
天野は困った。
この部屋には医学書しかない。
「お兄ちゃんがお話してあげよう。それでもいいかな?」
「うん」
天野は昔話を聞かせてやった。
しばらく語っていると、千恵は穏やかな寝息をたてて眠り始めた。
「さて……。問題は明日だ……」
明日の大学をどう乗り切るか。
これが天野にとって大きな問題だった。
*************
「……というワケだ」
天野は涼太の前に千恵を連れていき、子守をすることになったあらましを説明した。
涼太は天野の幼馴染だ。坂上のことも知っている。
「こ、この子が、坂上さんの娘なの? ホントに? マジで?」
「そうだ。千恵ちゃん、涼太くんだ。自己紹介しようか」
千恵はコクンと頷いた。
澄んだ瞳で涼太を見上げる。
「さかがみちえ、です。4さいです」
「よく自己紹介できたね。いい子だ」
「うん」
「これはご丁寧に……。ど、どうも。佐伯涼太と申します……」
涼太は呆然と千恵を見つめている。
「おい涼太、いつまでボケっとしてやがる。だから頼む。俺様の抜けられない時間帯は面倒を見てくれ」
「げっ、マジで?」
涼太はたちまち青ざめた。
涼太はひとりっ子なのだ。
幼子の相手なんて経験がない。
「ぼ、僕……。面倒見れるかなぁ……」
「2~4限目まで一緒にいてくれればいい。昼時はテラスに顔を出す」
「ま、まいったな。僕も4限のゼミは必須だ。他は代返が頼めるけど」
天野は腕を組んで呟いた。
「……弟子、来るかな」
「ちょっと前島さんに電話してみるよ」
涼太は前島に電話した。
事情を説明する。
涼太は安堵して電話を切った。
「時間が空いてたみたい。前島さんも助けてくれるってさ」
「忙しいだろうに、子守を押しつけるのは申し訳ないな。今度アイツの小論かレポートでも書いてやるか」
1限は天野と涼太が千恵の相手をして過ごした。
場所は学生食堂の2階テラス席。
図書館にあった幼児向けの本を読ませたり、スマホで遊ばせたり、お菓子を与えたりして過ごした。
「もう2限の時間か。涼太よ、頼んだぞ」
「う、うん……」
天野は実習に向かった。
「ああああぁぁ……。ど、どうしよう……」
涼太は子供の相手が不慣れな上、なぜか千恵は涼太には懐こうとしない。
女子を魅了する得意の笑顔スマイルは通用しない。小粋こいきなトークも空回り。天才的なチャラ男のスキルが一切役に立たない。
千恵は「ぶすっ」として膨れっ面を浮かべている。
今にも泣き出しそうだ。
「………ひっぐ」
「あああああ! な、泣かないでぇ……。ほらぁ絵本だよぉ……。美味しいチョコだってあるんだよぉ……」
涼太は必死に粘った。
それはそれは粘った。
だが、3限の途中で千恵は泣き始めた。
「……ひっぐ…………ひっぐ……………………うぇぇぇぇん! おがあざぁぁぁぁん!!!」
「ひぃぃっ!!! どうしよう……。前島さんまだかなぁ……」
涼太が必死にあやしてもダメ。
絵本を広げても、スマホでアニメを流しても、お菓子を握らせてもダメ。
千恵はまったく泣きやまない。
「そ、そうだ!」
涼太はクマのぬいぐるみを手にした。
「ほ、ほぉらぁ。くまちゃんだよーー! コンニチワーー!!!」
「……!!」
クマを持って喋らせると、千恵は一瞬泣きやんだ。
涼太は「やっとポイントを掴んだ! ここだ!」と信じて、必死にクマのぬいぐるみを操った。
「チエチャーン、イッショニアソボウヨォーー」
千恵は再び泣き出した。
「ぐまちゃんぞんなんじなゃい! びぇぇぇぇん!」
もうお手上げだ。
涼太は完全にオロオロしていた。
いつまでもテラスに千恵の泣き声が響き渡る。
「……涼太さん。何してるんですか?」
「ああ! 前島さん! 待ってたよ!!!!」
前島を千恵の前まで連れていく。
「ほら! 前島さんが来てくれたよ! トップアイドルだよ!」
千恵は「びぇぇん」と泣きやまない。
前島は苦笑しながら話しかけた。
「ほうら、よしよし……。いい子いい子。もう怖くないよー」
千恵を抱き上げ、膝の上に乗せながら椅子に座る。
そして、自慢の「純真無垢スマイル」を浮かべた。
「おねぇちゃん、ゆうこっていうの。千恵ちゃんよろしくね」
「ひっぐ、ひっぐ……。さかがみ、ちえ……。4さい……」
「そうなんだぁ。よろしくねー」
「うん……」
ようやく泣きやんだ。
涼太は安堵してへたり込んだ。
「良かったぁ……。さすが前島さんだよ。子供相手でもアイドルパワーが通じるんだね。僕ちゃんじゃ何を言ってもダメだったよ」
「このぐらいの子は男の人を怖がりますから。しょうがないですよ」
前島があやしていると、実習を終えた天野が帰ってきた。
「ああ、弟子よ。来たのか」
「……ゆうじお兄ちゃん!」
天野がテラスに上がると、千恵は「ぱぁー」と顔を明るくさせて駆け寄った。
「よしよし。いい子にしてたかな?」
「うん!」
「じゃあ、そんないい子にご褒美だ。一緒におうどん食べようね」
「はーい!」
前島は涼太をじろっと睨んだ。
「……師匠には随分と懐いてますね。涼太さん、子供は人の中身を見るっていいますよ」
「そんなこと言わないでよ! 傷つくじゃんか!」
天野たちは千恵を囲み、昼食をとった。
天野は前島に千恵を預かった経緯を説明した。
「そうなんですか……。暴力を振るう男はサイテーですね。千恵ちゃん可哀想……」
「悪いんだが、4限だけ千恵を頼めるか?」
「もちろんです師匠!」
「その代わり、難しい小論やレポートがあれば書いてやろう。講義も90分を10分に短縮して説明してやる」
「わぁ! それ最高に嬉しいです! ありがとうございます!」
天野と涼太は昼食を終えると、必須の授業へ向かった。
前島は代返を依頼して、千恵の遊び相手を務めた。
「千恵ちゃんはクマさんが好きなの?」
「うん! おかあさんがかってくれたの。いつももってなさいって」
「そうなんだ。良かったねぇ」
「うん!」
前島はしばらくクマのぬいぐるみを操りながら千恵と遊んでいたが、
「……あれ?」
クマの胸ポケットの縫い目がほつれているのを見つけた。
よく見ると、何かを縫いつけたような跡がある。
ポケットの中を探ってみると、小さく固いものが入っている。
何かを縫いつけて隠しているようだ。
「千恵ちゃん、くまちゃん借りてもいい?」
「いいよー」
千恵はスマホでアニメを観ている。
前島は糸を切り、ポケットの中を覗き込んだ。
「ありゃ……。何かやばそうなの出ましたね……」
マイクロカードが出てきた。
カード自体は特別なものではない。
一般的な店で購入できる物だ。
だが、なぜ胸ポケットの中に、隠すようにしまっているのか……。
前島は少々迷ったが、自らのモバイルPCに差し込んでみた。
「おねぇちゃん、それなに?」
「これはね、お仕事で使う機械なんだよ。可愛いでしょ」
「うん。ピンクでかわいい」
マイクロカードを読み取り、中のデータを確かめる。
フォルダがひとつ。
その中には表計算ファイルがひとつ。
何となく開いてみた。
「うーーん……」
無数の会社名や個人名が並んでいる。
隣のセルには住所や連絡先、数字や日付、口座番号と思われる文字。
「こりゃ何でしょう?」
前島では意味のわからない代物だ。
天野だったらわかるかもしれない、と判断していると、ちょうど天野が実習を終えて帰ってきた。
「あ、師匠! ちょうど良い時に!」
「どうした?」
「クマのぬいぐるみの中に、マイクロカードが入ってたんです。それを開いてみたら、こんなファイルが出てきたんですよ」
「ほう。それは面白そうだな」
天野はPCの画面を見て眉をひそめた。
画面をスクロールして中身を確かめる。
「これはどこにあった?」
前島はくまちゃんの胸ポケットを指さした。
「このポケットに縫いつけられていました」
「縫いつけられていた、だと?」
「はい」
天野はアニメを観ている千恵に尋ねた。
「千恵ちゃん。このくまちゃんは、ママがくれたのかな?」
「うん。いつももってなさいって」
「いつも?」
「うん」
天野は再びモバイルPCに向き直った。
注意深くファイルの中身を確かめる。
「……弟子よ、俺様のアドレスにこいつを添付して送れ」
「了解です師匠」
ファイルを添付してメールを送る。
それを確かめると、天野はカードをPCから抜き取った。
「このデータはPCから消せ」
「はい。了解です」
「メールソフトの送信ボックスからも消すんだ」
「はい、削除しましたよ。これは何のファイルなんですか?」
無邪気に天野の顔を見上げる。
天野は恐ろしく険しい顔をしていた。
「し、師匠……? ど、どうしたんですか?」
天野は何も答えない。
千恵から離れた席に座る。
何かを考えこんでいるようだ。
「師匠……。も、もしかして、やばいファイルだったんですか?」
天野はタバコを取り出して火をつけた。
「前島、今見たものは忘れろ」
「そんな弟子じゃないですか。気になります」
「では一度だけ言う。そしてすぐ忘れろ」
タバコの煙を吐き出しながら、口を開いた。
「大物政治家の献金リストだ。しかも『裏』のな」
前島は「ぽかん」として天野を見つめた。
「それってやばいんですか?」
天野はキツイ目線で前島を睨みつけた。
「忘れろと言わなかったか?」
前島は慌てて首を振った。
「は、はい! 忘れました! もう綺麗さっぱり!」
天野は虚空を睨みつけた。
煙を吐きながら呟く。
「坂上のやつ……。とんでもない爆弾を押しつけやがった……」




