天野くんへの依頼
※この物語はフィクションであり、実在の人物及び団体とは一切関係ありません。
とある大学。
学生食堂の2階テラス席。
ここは『天才クソ野郎』こと、天野勇二の根城だ。
「……あの。天野さん、ですか……?」
その日、テラスに現れた『依頼人』は、天野が最も得意とする分野の悩みを持つ娘だった。
「ああ、そうだが……」
突然の訪問者を冷たい瞳で見つめる。
学生のようだが見覚えのない顔。
すぐに偉そうな口調が飛び出した。
「まず、お前は誰なんだ? 幼稚園で習わなかったか? 初対面の相手と話す時は自分から自己紹介しましょう、とな」
嫌みったらしい言葉を吐き出しながら、娘の身体を眺める。
「……うん? お前……」
娘の全身を舐め回すように睨みつける。
靴は平べったいスニーカー。
重心のバランスがどこか不自然。
下腹部の膨らみに違和感がある。
肌は少し荒れており、真新しいニキビが見受けられる。
「チッ……」
舌打ちしながら娘の瞳を見る。
恐ろしいことに、この男は相手の瞳を見るだけである程度の心理を読むことができる。
深刻な悩み事を抱えている瞳。おまけに不自然な体つき。
総合的に判断して言った。
「お前……。『妊娠』しているな。座りやがれ」
娘はおずおずと椅子に腰掛けた。
「そんなことまで、わかるんですか……?」
「わかるさ。俺様は天才医学生。おまけに親父は産婦人科のクリニックを手広く経営している。妊婦なんか見慣れたもんだよ。医者のボンボンである俺様の『コネ』を頼りたいのか?」
娘は恥ずかしそうに顔を落とした。
天野は遠慮なく尋ねる。
「何週目に入った? 俺が見て判断できるということは、手を打つなら早い方がいいぞ」
娘は静かに首を横に振った。
「堕ろしたくないんです。産んで、彼と一緒になりたいんです。でも、彼は許してくれなくて……」
悲しげに顔を伏せる。
「ならば、俺様に中絶ではなく、男への説得を頼みたい、ということか」
「はい……。私は立花美奈といいます。商学部の4年生です。彼はちょっとした有名人で……。あの、澤崎貴紀という人なんですが、ご存知でしょうか……?」
天野の顔に緊張が走った。
澤崎貴紀。
この大学に通う学生ならば、確実に知っている名前のひとつだ。
「澤崎とは……。『王子様』のことか?」
美奈と名乗った娘は恥ずかしそうに頷いた。
「そうなんです……。彼は『堕ろしてほしい』って言うんです。私とのことは『遊び』だって。結婚とか、将来とか、そこまで考えられないって……」
「ほう……」
冷静に美奈の瞳を観察する。
この男は簡単な嘘なら即座に見破ってしまう。
「その話は真実なのか?」
また美奈が頷く。
その顔に嘘は見当たらない。
天野はひとつ息を吐き、少し優しげな口調で語りかけた。
「あまり重く考えないことだ。医者のボンボンに言わせれば、中絶なんて女であれば一度は経験するようなものさ。親父が経営している中でも一番のクリニックを紹介してやる。腕の良い医者も揃えてやろう」
「それは嫌なんです。私は産みたいんです」
美奈は頑なに中絶を拒んだ。
天野が見る限り、中絶するのであれば1日でも早い方がいい。
あえて不快感を煽るような口調を取り出した。
「産んでどうするんだ。学生のくせにガキを育てるのか? シングルマザーなんて苦労するだけだ。君には未来がある。一時の感情に流されて輝かしい未来を捨てるべきじゃない。それに相手は有名人。この大学のスター……。いや、未来の日本のスターだ。君が下手に騒いだところで、狂言としか思われない。良い結果になるとは思えんな。それならば大金をせびった上で縁を切ってしまえ」
「狂言じゃありません。お金もいりません。彼と結婚して、子供を産みたいんです」
天野はため息を吐いた。
そう主張するのも当然だろう。
心を鬼にして言葉を吐く。
「いいか? 君はもう捨てられているんだ。相手には『遊び』だと言われたんだろう? バカじゃないんだからそれで男の度量が理解できたはずだ。君が愛した男は性根の腐ったクズ。このタイプが改心する可能性はゼロに等しい。いつかまた違う形で君を傷つける。そんな男のために腹を痛めるべきじゃない」
美奈は悔しそうに唇を噛み締めた。
少し涙ぐんでいる。
天野は叩きつけるように言葉を振りかざした。
「そもそも君の両親は『王子様』との関係を知っているのか? もう当人だけの問題じゃない。男に責任を取れと騒ぐはずだ」
美奈は悲しげに首を横に振った。
「言ってないんです。彼がこのことは内緒にしろって……。誰にも言わず、子供を、処理してほしいって……」
「ふざけてやがるな。相手はどうやって責任を取るつもりだ。いくら金を出すと言ってるんだ?」
美奈は困ったように黙りこんだ。
天野はその姿を見て察してしまった。
この娘はかなり手酷く捨てられたのだ。
今後の話、金の話、どうやって責任を取るのかという話。
全て拒絶されてしまった。
だからこそ藁にもすがる思いで、天野のもとを訪れたのだ。
「……ならば、行くしかない」
椅子から立ち上がる。
美奈にも立ち上がるよう顎で促した。
「ど、どこに行くんですか?」
「決まっている。『野球場』だ。行くぞ」
天野は堂々と歩き出した。
その背中を美奈が怯えながら追いかける。
キャンパスを通り過ぎ、併設されている野球場へ向かう。
天野が通う一流私大は、野球でも『名門』と呼ばれる中のひとつだ。
バックネット裏には大学関係者、プロのスカウト、単純な見学者まで、沢山の人々が集まり練習を眺めている。
天野はそこに混ざらず、一塁側からグラウンドに入り込んだ。
美奈も怯えながら続く。
天野は基本的にいつも白衣を着ている。
野球場にはそぐわない異形の服装。
私服姿の美奈も、この場所では明らかに浮いていた。
「あれだな」
目当ての姿は外野にあった。
キャッチボールをしているようだ。
「おい! 何をやってる! 部外者は立ち入り禁止だ!」
野球部のコーチが飛んできた。
「医学部の天野というものだ。『王子様』に用がある」
コーチは天野という名を聞き、驚いて尋ねた。
「い、医学部の天野……? それって、まさか、あの『クソ野郎』か……?」
「俺様の名は野球部にまで届いているのか。光栄なことだ。そうだ。俺が『天才クソ野郎』こと、天野勇二だ」
「お、お前がうちの学生でも、野球部の関係者以外は立ち入り禁止だ! ……おい! ちょっと待て!」
天野は無視して歩き出した。
コーチが慌てて天野の腕を掴む。
「……チッ。汚い手で触るなよ」
天野が舌打ちした瞬間、コーチの手首が折り曲げられた。
重心を傾け、足を刈り、地面に叩きつける。
「うがっ……!」
一呼吸で投げられたコーチの姿を見て、野球部の関係者たちは色めき立った。
慌てて天野のもとへ駆ける。
澤崎もこの光景を呆然と眺めている。
その前に天野が立ち、偉そうに睨みつけた。
「医学部の天野というものだ。君が澤崎貴紀だな」
「そ、そうですけど……」
「この女は知り合いか?」
美奈の背中を押す。
「あっ……」
澤崎は美奈を見ると気まずそうな表情を浮かべた。
首を横に振る姿を見て、美奈が叫んだ。
「なんで!? たかくん、私だよ! 美奈だよ! どうして知らないフリするの!?」
どれだけ呼びかけても、澤崎は視線を逸らすだけ。
美奈の顔を見ようともしない。
「たかくん! どうして!? どうして無視するの!?」
澤崎の側にいた野球部員が、恐る恐る天野に声をかけた。
「あ、あ、あの……。すみません……。今は練習中なんで、部外者の方は……」
「ああ、もう十分だ。この反応だけで理解できた」
天野は苦しげにため息を吐いた。
後方を眺めれば、野球部の関係者たちが鬼の形相を浮かべて走ってくる。
「おい澤崎よ。貴様は今、自分が置かれている立場を理解しているな」
澤崎の顔は真っ青だ。
偉そうに言葉を叩きつける。
「これが最悪の事態に変わりたくなければ、明日、昼に学生食堂のテラスまで来い。来なければ、貴様のスキャンダルをぶちまける。俺様を甘く見るなよ。貴様の輝かしい未来、全て潰してやるからな」
澤崎の反応はない。
美奈はまだ「たかくん! たかくんってば!」と叫んでいる。
「天野! 早くグラウンドから出て行け!」
野球部の関係者たちが大勢やって来た。
中にはバットを持った男もいる。
天野はニタリと悪い笑みを浮かべた。
「そんなに興奮するなよ。俺様は学生だぜ。ムキになるなっての」
嫌みったらしく指先を振る。
「俺様は貴様ら野球部の『スキャンダラスなネタ』を拾い、それを確かめに来ただけだ。もう失礼させてもらうよ。だがこのネタは実に面白い。天才クソ野郎は興味を持った、と言っておこう」
美奈の腕を掴む。
野球場から去って行く。
「たかくん! たかくんってば! ねぇ! 無視しないで!」
美奈はいつまでも叫んでいた。
澤崎はもう天野たちを見ようともしなかった。




